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zoom RSS New Pants: Sex Drugs Internet

<<   作成日時 : 2012/03/15 03:00   >>

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New Pants: Sex Drugs Internet
摩登天空 M060

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2011年11月18日にリリースされた新裤子(New Pants)の通算七作目のアルバム。リリース元は、彼らがデビュー時から拠点としている北京のインディ・レーベル、Modern Sky(摩登天空)である。
New Pantsは、96年から活動を続ける北京のインディ・ロック・シーンにおける古株中の古株バンドだ。この新作アルバム“Sex Drugs Internet”は、そんな彼の地のシーンの重鎮バンドである彼らのデビュー15周年記念盤となる作品でもある。この作品のリリースに合わせて、本作を含むこれまでの七枚のアルバムを全てパッケージしたスペシャル・ボックス・セットも発表されている。

ギター&ヴォーカルのパン・レイ(彭磊)を中心にスリー・ピースのパンク・バンドとして結成されたNew Pants。結成当初からシンプルでポップなパンク・ロックを演奏する若い世代を代表するバンドとしてライヴハウス・シーンで人気を博し、メキメキと頭角を現していった。
そのサウンドは、明らかにニューヨーク・パンクの雄にして永遠のパンク・キング、ラモーンズ(Ramones)からの影響を大いに受けているものであった。だが、そのカラリと抜けるように明るい等身大の若者の日常を歌ったパンク・ロックは、鬱屈した空気が充満する北京の街のアンダーグラウンドに棲息するパンクスからの絶大なる支持を得たのである。90年代という時代が、北京にもラモーンズのようなシンプルなサウンドで息苦しさの元凶である壁を突き破るようなロックを歌う存在を求めていたということなのであろう。
しかし、バンドのデビューから15年が経った今では、彼らを90年代と変わらずにポップ・パンク・バンドだと認識している北京のロック・オーディエンスは、おそらくひとりもいないのかも知れない。生真面目なパンクスにとっては、今やNew Pantsというバンドは(パンクスにとっての基準で)厳密にいうパンク・バンドという範疇に収まる存在では、最早ないのではなかろうか。それだけ、この15年の間にNew Pantsは、バンドとしても、その音楽性の面でも刻々と変化を遂げてきた。
長い時間をかけて活動を継続していれば、どんなバンドであっても演る側がそれだけ年齢を重ねてゆくのだから音楽的にも深まり成長してゆくのが、至極当たり前のことだと考えるのが普通であるのかも知れない。だが、音楽というものは、そう簡単に深まるものではない。俗にいう、音楽性の進化や成長というものは、極めて表面的で表層的な音楽スタイルの微かな変化でしかないことが実はほとんどであったりする。

現在のNew Pantsに結成時のオリジナル・メンバーは、グループの中心人物であるギター&ヴォーカル担当のパン・レイしか残ってはいない。彼らは、ラモーンズ直系のシンプルなポップ・パンクからスタートし、これまでにどこにもなかったようなオリジナルなロック音楽の形成を目指して、そのバンドのメンバーや形態そのものを少しずつ変化させながら、着実に歩みを進めてきた。文化的・音楽的な立脚点をしっかりと見つめ直し、ポップ・パンクのその先へと進み始めたNew Pantsが志していたのは、北京のインディ・シーンにおける史上初の真の意味でのオルタナティヴ・ロックの確立であったのではなかろうか。
パンク/ロックのスタイルに中国の伝統音楽や民謡から引っ張ってきた旋律や庶民的な歌謡曲のノリを盛り込むなど、次第にNew Pantsは予測不能でかなりヘンテコリンな音楽性を剥き出しにしてリスナーをアトラクトするバンドへと変身していった。面白そうなアイディアであれば、どんなことにも果敢にチャレンジしてゆく姿勢が、結果としてNew Pantsというバンドの音楽性をパンク/ロックの領域だけに決して収まりきらぬ幅の(振り幅の)広いものにしていったことは間違いない。
ただし、本来的な意味からすれば、こうした常に存在として革新的であり続ける姿勢は、実にパンクらしいパンクであるともいえるだろう。ひとつところに安寧として、ひたすらに停滞し続けるパンクとは、もはやパンクと呼べるものではない。そんなところにも、このNew Pantsが、いまだに多くのメディアにおいては北京のパンク・バンドとして(もしくは、ディスコ・パンク・バンド、シンセ・パンク・バンドとして)紹介される、ひとつの大きな要因があるように思われる。きっと、このバンドが、その根幹の部分にもっているアティチュードの部分が強く作用して、そうした印象をかき立てずにはいられなくさせるのであろう。

バンドにとって、ひとつの大きな転機となったのが、当初はサポート・メンバーとしてNew Pantsの活動に関わっていた鍵盤奏者のパン・クアン(龐ェ)が正式にメンバーとしてバンドに加入した編成の変化(99年)であった。この三人組から四人組への動きによって、彼らはスリー・ピースの形態でのポップ・パンクという音楽的な拘束からも解放されることになる。また、強烈にエキセントリックなキャラクターの持ち主であり、音楽的にも非常に才能豊かなパン・クアンを迎え入れて、結成当初/デビュー当初から染みついていたポップ・パンクのイメージを徐々にだが払拭してゆくことは、このバンドが停滞(固定化)を振り切り前へ進むための強力な推進力ともなった。
さらに、その後の音楽性の変化の中でNew Pantsの活動形態が実質的にパン・レイとパン・クアンの双頭体制となってゆくに従って、このバンドがもつ真のポテンシャルがジワジワとあぶり出されてきたという部分もある。電子楽器をシンプルなバンド・サウンドへ導入することによって、打ち込みの四つ打ちビートによるディスコ・パンクや、よりエレクトロニックな方向へ音楽性を押し進めたシンセ・ポップなど、旧来型のパンク一辺倒なだけではない多彩な音楽スタイルを獲得することでバンドの表現そのものの幅も大きく広がっていったのだ。
オリジナルのパンクからポスト・パンク〜ニュー・ウェイヴへ。ある意味では、こうした音の変遷は歴史的な事象と照らし合わせてみても宿命といえる流れであるのかも知れない。そして、この間違いなくシーンを象徴するバンドのひとつであるNew Pantsが、決して止まることなく動き続けることは、北京のアンダーグラウンドのロック音楽が、(ひとつの時代的・歴史的な反抗運動や反骨精神の象徴でもある)ラモーンズ型の原パンクのスタイルから脱却し、新たな時代の(新たな形のプロテストに対応した)新たな音楽へと突入してゆくために必要不可欠な変化であったとも考えられる。より自由に音楽のスタイルが模索されてゆくことで、そこに清廉な空気が流れ込み、閉じたシーンの壁は突き破られ外側へと広がりのあるものとなってゆくはずだ。

00年代の半ばからは、ほぼパーマネントなドラマーとしてダーハン(徳恆)がライヴ活動などに参加し、さらに09年には、オリジナル・メンバーの脱退以来しばらく空席となっていたベースのパートに女性メンバーのチャオ・モン(趙夢)が正式に加入して、現在の四人組のライン・アップへと至る。New Pantsは、このパン・レイとパン・クアンを中心とする四人の編成によって、これまでの15年の歴史を振り返ってみても最も安定感のあるバンド形態へ到達していると見ることもできるかも知れない。
ただし、現在のNew Pantsは、確かにひとつのバンドという形にはなっているが、より自由度の高い多様なフォーメーションでの展開が可能な音楽/芸術集団というようなものともなりつつある。もはや昔ながらのロック・バンド然としたバンドではなく、ロック音楽というアート・フォームにおける実験を試みるためのひとつの場・サークルのようなプロジェクト/ユニットとなってきているのだ。楽曲によっては、パン・レイとパン・クアンがリード・ヴォーカルの役割を交代して分け合い、時にはメンバー以外のゲストがメインを務めることもある。そこでは、ロック・バンドとしての活動/演奏形態における定型というものが徐々に希薄になってきている。そうした意味でも、彼らは、北京のインディ・シーンにおいて、最も特異で、かなり掴み所のない軟体動物的な楽団となりつつあるといえるであろう。

このNew Pantsにとって通算七作目となるアルバムには、“Sex Drugs Internet”というタイトルが冠されている。おそらく、ほとんどの人が、これがある種の不良性に基づきそれを助長・増長させるロック音楽の世界におけるクリシェ、“Sex & Drugs & Rock & Roll”というフレーズを、彼らなりの感覚で捩ったものであることに気がつくであろう。
この元々のフレーズが、ロックの世界で大きな注目を集めるようになったのは、ロンドンのパンク・ロックの直接的なルーツのひとつであるパブ・ロックの雄、イアン・デューリー(Ian Dury)が77年に同名のタイトルの楽曲を発表し、センセーショナルなイメージを振りまいたことに由来するとされている。“Sex & Drugs & Rock & Roll”は、近代末期の都市において極限まで加速したオルタナティヴな日常を生きる若者像と倦怠を打ち破るロンドン・パンクの精神性を(図らずも)結びつける重要な役割を果たした歴史的な楽曲であった。
そして、デューリーの楽曲から約35年後の現代の世界(ネット社会)において、New Pantsは“Sex Drugs Internet”という少々ベタなフレーズを、この新たな時代(ネット時代)を生きる者たちのためのスローガンとして高々と掲げてみせる。この言葉は、現代を生きる精神的に空虚な世代に属する全ての人々に捧げられている。一見すると駄洒落かギャグのようなタイトルであるが、そこに込められている意味は非常に辛辣で深い。
今や全世界を、エンターテインメントを含め、あらゆる面で覆い尽くしているのは、間違いなくインターネットである。かつて目も眩むほどに性急なビート感を伴って若者文化の中心に位置していたロック音楽は、光速のインターネット回線のネットワークを駆け巡る情報とデータの量に完全に凌駕されている。いや、それはもはや、その情報とデータのほんの一部でしかない。また、中国という国においては、これまで歴史的に一度も本物の生きたロックが文化や娯楽として存在していたことはなく、そうした青臭い反抗と反骨の精神を根底にもつ若者文化が開花することのないままに、そのまま全世界的な動きに巻き込まれるようにネット時代に突入してしまった(中国政府は非常に執念深く新時代の自由の名の下に民衆の本音の言論が溢れかえるネット世界の動きを規制しようとしているが)という(全く異なる)経緯がある。
インターネットが万能神の如く君臨する世界・社会に生きる、現代の若者の生とは何と空虚なものなのであろうか。たとえセックスとドラッグにまみれていたとしても、まだ反骨と不良性に満ちたロック音楽/文化というものが明確に存在していた時代の若者の生は、極めて刹那的ではあったが実にキラキラと人間的で強烈な輝きを(極めて人間的な臭みとともに)放ってはいた。
しかし、今やセックスもドラッグも全てがインターネット経由という時代である。情報とデータの移動だけが全てという世界・社会は非常に空虚であるが、そうした現状をNew Pantsは全否定しているわけではない。このアルバムのタイトルとなっている“Sex Drugs Internet”という言葉は、今という時代を深い洞察でとらえたスローガンであり、現代の若者の生を(ややシニカルに)称揚し讃えるフレーズでもある。もはやインターネットなしには何も始まらないような、ネット世界/ネット社会を、そしてこの空虚さを、極限まで生ききるのが21世紀的な生の在り方ということなのであろう。

アルバムを再生すると、1曲目の“戲劇開始的時候”と2曲目の“你還記得那個電影演員嗎?”が、いきなりあまりにもジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)やニュー・オーダー(New Order)を思わせるサウンドとなっており、ちょっと度肝を抜かれる。しかし、ここまできっちりと細かいツボを押さえてやってくれると、こうした音に対する強い思いがヒシヒシと伝わってきて何か無条件に共感できるような部分も生じてきたりするから不思議だ。やはり、あの音を心から愛していたら、ここまでやってみたくなるのは当然のことだとも思われる。
そして、この微妙に余白を残しつつ巧妙に模倣してみせるプロダクションの質には、アジア的な香りを嗅ぎ出さずにはいられないものもある。日本も韓国も中国も、やはり皆やることは同じで、それぞれに全く同じ道を歩んでいることがよくわかる。アジアは兄弟だとはよくいったものだ。どうしたって血は争えない。元来、我々は外来の文化を(良くも悪くも)次々と丸呑みしてしまえる民族なのである。そして、反芻と咀嚼を繰り返し、独特の風合いをもつ排泄物を生み落としてゆく。そのようにして我々は近代の世界の遠い東の果てで遅ればせながら(目覚ましい)発展を遂げてきた。(そして、今そのアジアが近代最末期/ポスト近代期の世界の中心になろうとしている。)
ここにあるNew Pantsのサウンドもまた、極めてアジア的なニュー・ウェイヴ・リヴァイヴァルといえるであろうか。また、そのシンセ・ポップやディスコ・パンクな音として噴き出すこととなった明らかなポスト・パンクのテイストには、90年代にパンク的な初期衝動とともに産声を挙げた中国・北京のアンダーグラウンドなインディ・シーンが、00年代以降に(インターネット時代の)フレッシュな空気感を取り込み、一部で(やや歪ながらも)極端な形をとって活性化つつあることを感じさせてくれるものがある。そうした意味では、本作でのNew Pantsのサウンドや表現は、実にストレートに今という時代を浮き彫りにさせているといえる。

また、2曲目の“你還記得那個電影演員嗎?”は、そのタイトルを直訳すると「あの映画女優のことまだ覚えてる?」となる。これには、元ザ・スミス(The Smiths)のモリッシー(Morrissey)が、今では世間から完全に忘れ去られてしまった往年の子役スターの悲哀を皮肉と愛を込めて歌った楽曲“Little Man, What Now?”(88年に発表されたファースト・ソロ・アルバム“Viva Hate”に収録)を、どこか思い起こさせるものがある。曲の主題としては、ほぼ同じだと考えてよいのだろう。ジョイ・ディヴィジョンにニュー・オーダーときて、さらにマンチェスターつながりでザ・スミスのモリッシーということであろうか。そう考えると、実に洒落ているように思えてくる。これは、形式とモティーフと地域性や系統までをも引いてきた本歌取りという手法だといえるであろうか。
ただし、New Pantsの楽曲には、どこまでがネタで、どこからが大真面目なのかが、全く判断つかない部分は多分にある。こうした傾向は、このアルバムのほとんど全ての楽曲に該当するといってよい。大真面目なのか、ふざけているのか、確固たる確信をもってどちら側にも色分けすることはできない。それは常に両極の間をふわふわと曖昧な色で漂い続けている。おそらく、そこにこそ、New Pantsの楽曲の面白さはあるのだ。それは本気の歌として聴くこともできれば、何かの冗談のように聴くこともでき、そこに妙な裏があるのではないかと勘繰りながら聴くこともできる。アルバムのタイトルの“Sex Drugs Internet”だって、ただこのフレーズだけをポンと差し出されたら、きっと誰もが異様なまでに安っぽいシャレか語呂合わせだとしか思わないであろう。

3曲目の“不放開”(Never Let Go)では、打って変わってギター中心のストレートでアグレッシヴなパンク・ロックが展開される。この楽曲のMVには、北京のライヴハウス「MAO」のステージに立つ若い三人組のバンドのラフな演奏シーンがフィーチュアされている。
薄暗い「MAO」の店内に人影はまばらだ。そのステージを見つめているのは、メンバーのガールフレンドとその友人など数名のみ。ステージ上の人数とフロアにいる人数に、そう大差はない。ただただパンクな演奏に徹するスリー・ピース・バンドの青臭いまでの若さだけが無謀なまでにほとばしっている。闇雲にステージの上から解き放たれた煮えたぎるような感情は、ヒンヤリとしたライヴハウスの閑散たる空間に行き場もなく響くだけだ。そして、楽曲の演奏が終わると、横縞のカーディガンを羽織ったギター&ヴォーカルのメンバーは、在りし日のカート・コバーン(Kurt Cobain)よろしく後方のドラム・キットに走り寄り不格好にダイヴを決めてみせる。そのまま情けないほどにグダグダの状態となって、MVは終わる。
このMVの映像は、一心不乱にパンクだった頃の初期のNew Pantsの日常やライヴ演奏を再現しているものなのであろう。ただ、そこに今はもう遥か遠くに過ぎ去ってしまった時代へのノスタルジーは、微塵も感じられない。カメラは、まさに出口なしな状況の中で悶々とパンクする若者の姿だけをとらえている。全く救いようのない若きロックする魂だからこそ、眩く輝くのだ。デビュー15周年を迎えたNew Pantsは、そんな決して取り戻すことも八方塞がりでドコにも行き着くこともない、どうしようもない若さというものを、やや冷ややかに突き放した地点からとらえて演ずるように歌ってみせる。そういう意味でも、この楽曲のMVは、かなり秀逸な一本だといえよう。

また、7曲目の“After Party”のMVでは、“不放開”のMVに登場していたバンドのメンバーのガールフレンドをメインに据えて、この女の子の視点から見られ感じられた北京のアンダーグラウンドなロック・シーンの空気感や何の変哲もない退屈と気晴らしの繰り返しの日々を送る若者たちの日常が、実に淡々と描き出されてゆく。
ここで少女は、ボーイフレンドのスリー・ピース・バンドに参加し、ヴォーカルを担当して少し舌足らずな可愛らしいヴォーカルを披露している。撮影が行われているのは、やはりライヴハウス「MAO」である。先ほどまで観客であったガールフレンドまでもがステージに上がってしまったら、もはやフロアにはほとんど誰もいない状態となる。ここでの彼らは、そんな些細なことはお構いなしに、ただただ自分たちの音楽を純粋に楽しんでいるように見える。ステージの向こう側に広がる空間は、全く底が見えないくらいに真っ暗だ。だが、彼らは眩いライトに照らし出されたこの場所と自分たちの音楽が鳴っているこの一瞬だけが全てだと、それぞれがそれぞれに全身で味わっているかのようですらある。ただし、そんな少女の表情/笑顔からは、いつも少しばかりの悲しみと憂いの色が垣間見れるのだ。一緒に「MAO」にライヴを観に行った友人と、ふたりカラオケをしている時も、だらだらとボーイフレンドとともに過ごす時間も、そして目の前でボーイフレンドが友人にちょっかいを出す瞬間を目撃してしまうときも。それでも、少女とバンドマンの付かず離れずの曖昧な関係は続く。ややこわばったような表情で、北京の土色の裏道や引っ切りなしに自動車が行き交う夜の高架橋をひとり黙々と歩く少女。人知れずひっそりと咲く可憐な花のようだが、その芯にはしっかりとした強さと覚悟が備わっていることがわかる。仲間内のバンドで歌っていても、友人と遊んでいても、ボーイフレンドと一緒にいても、彼女はいつだってひとりぼっちだ。人間は、誰だってひとりで歩いてゆかなくてはならない。ラスト近くのシーンでの、少女とボーイフレンド以外には誰も乗客の乗っていないガランとした路線バスの最後部座席で、ともに肩を寄せ合い互いの頭にもたれ掛かりながら、つかの間の眠りに落ち、つかの間の(それぞれの孤独な)幸福に包まれている姿が、とても印象的だ。走るバスの車窓の向こう側を夜の北京の街の灯りが、ゆるやかにゆるやかに後方へと流れてゆく。
この“After Party”で展開されているサウンドは、シンプルなシンセポップ・スタイルのニュー・ウェイヴ系ロックである。そして、やはりその音がもつ雰囲気には、初期のニュー・オーダーとの近さを決して否定できないものがある。ただ、ここではヴォーカルを担当しているのがキュートな歌声の女性であるためか、他の楽曲よりも少しばかり甘いポップ感覚が割り増しされているようにも感じられる。

また、このNew Pantsの“After Party”を、K-POPの人気アイドル・ガールズ・グループ、2NE1の“Let's Go Party”と聴き比べてみるのも面白い。“Let's Go Party”は、2NE1が09年に発表したファースト・ミニ・アルバム“2NE1”に収録されていた楽曲である。そのサウンドは、エレクトロニックなヒップホップ〜R&Bスタイルであり、ややNew Pantsの“After Party”とは系統的に異なる。しかし、この両曲には、コーラスのメロディなどに非常に近いものがあるのだ。同じパーティという言葉を同じようなタイミングでビートに乗せているため、ただ単に譜割り的にもどうしても近くなってしまうという部分はあるのだろう。だが、片方はすでにパーティが終わった後の歌であり、もう片方はこれからパーティに出かけようとしている歌となっている。主題的には、全く正反対なものである。ゆえに、これらの相似と相違が入り混じる楽曲を対比させて聴くことには、なかなかに面白いものがあるような気もしてしまう。
2NE1の“Let's Go Party”は、いざこれから遊びに出かけようという歌であるにも拘らず、そのメロディ・ラインはややメロウで決してイケイケなムードではない。ここには、もはやパーティに行って気心の知れた仲間たちとともに騒ぎ楽しいひとときを共有することが、そのライフ・スタイルの一部として当たり前のこととなっているような雰囲気がある。2NE1が歌う世界では、パーティに出かけること(パーティがあること)自体が、決して特別ではないのである。
一方、New Pantsの“After Party”においては、すでにパーティは終わっているにも拘らず、何かその熱のようなものがまだハッキリとそこに残っている。どこか“Blue Monday”風の打ち込みのビートを導入したシンセポップな曲調は、やや祭りの後のような寂寥感をたたえている(サビのコーラスでは「It's too late」と連呼される)が、全体的にはどちらかというと(パラドキシカルに)アッパーな響きをもつものでもある。
ここでは、パーティとはいつまでも続いていてもらいたいものであり、パーティが終わった後には、その対極にある味気なく退屈な日常が大きく口を開けて待ち構えているのである。何もかもを忘れて楽しむことのできるパーティは日常とはかけ離れた場所にあり、その特別な時間を生きることは一種の都市のオルタナティヴなライフ・スタイルに他ならない。まさにライヴハウス「MAO」のステージ上に存在した、あの一瞬のようなものこそが、彼らにとっての最上のパーティであり、眩いライティングの電源が落ちれば、そこは一瞬にして底知れぬ深い暗闇に変わってしまうのだ。そして、パーティの後の静けさの最中では、耳鳴りのような打ち込みのビートの残響だけが頭の中に残り続ける。
ここでNew Pantsが、K-POPのアイドル・グループである2NE1の楽曲を実際に意識しているのかいないのかは、全くもって判然としない。おそらく、ほぼ意識しているようなことはないのであろう。だが、これらの両曲をならべて対比させて聴いた時に、そこに何か関連があるように聴くことができるというのは、実に興味深い事実であったりする。

そして、9曲目には“I’m Not Gay”という楽曲が収録されている。何とも直球というか身も蓋もないというか、それでいて何かその裏にあるのではないかと頭を捻りたくなってしまうタイトルの楽曲である。そのサウンドは、やや珍しく硬質な質感をもったエレクトロニック調のロックとなっている。そこには、どこかキャバレー・ヴォルテール(Cabaret Voltaire)やザ・ヒューマン・リーグ(The Human League)を輩出したポスト・パンク期のシェフィールドのエレクトロ・ポップ〜エレクトロ・パンクを思わせる部分もある。
ちなみに、ミニストリー(Ministry)のアル・ジョーゲンセン(Al Jourgensen)が手がけるハードコア・エレクトロニック・ボディ・ミュージック・バンド、リヴォルティング・コックス(Revolting Cocks)が、09年に発表したアルバム“Sex-O Olympic-O”にも、これと全く同名の楽曲が収録されている。おそらく、これも偶然の一致だとは思われる。それでも、このNew Pantsの“I’m Not Gay”においても、まるでリヴォルティング・コックスの楽曲に通ずるかのような、かなり辛辣なメッセージ性を含んでいると思われる歌詞が歌われているのである。
この楽曲では、「俺はシンセポップが嫌いだ、俺はK-POPが嫌いだ、俺は軟派男じゃない、俺はゲイじゃない」という、どこか両義的な響きももちそうな独白が何度も吐き捨てるように繰り返される。そして、サビのコーラスは「I’m Not Gay! Gay, Gay, Gay, Gay, Gay!」の連呼となる。ある意味では、相当にムチャクチャな歌である。逆にいえば、完全に深い意味を放棄している(身振りの)歌と受け止めることもできるであろうか。
また、この楽曲は、レイド・バック(Laid Back)によるエレクトロ・ディスコの古典的名曲“White Horse”(83年)を連想させるような雰囲気ももっている。この“White Horse”という楽曲では、「もしお前がリッチになりたいのなら、まずはビッチになれ」という印象的なフレーズが実に淡々と諭すかのように何度となく歌われる。このフレーズ、どうしようもない駄洒落のようでいて、妙な含蓄をもっていそうな物言いではなかろうか。今風に言い換えれば、世の中の富の約80%以上を独占しているたった1%の富裕層と呼ばれる金持ち野郎共なんて、みんな糞ビッチじゃねえか、といった感じになるだろうか。まあ、言い得て妙ではある。
こうした、ある種のナンセンスさを前面に押し出した歌詞というものには、これが万人向けに商品化された型にはまったポップ・ミュージックでは決してなく、徹底してエスタブリッシュメントに反するロックする精神性や意思を明確に表明したものと見ることができる部分が含まれている。ロックであるためには、時には全く思ってもみないような突飛なことを口走ることも必要なのだ。たとえ、それが単なる強がりや虚勢であったとしても、それもロックするためには必要不可欠な要素であったりする。

パン・レイは、本作に関するインターヴューにおいて、以下のような主旨のことを語っている。
中国には、もともとロック音楽が育つ土壌もなければ、それを若い世代が音楽的なルーツにする環境も存在しなかった。そして、ロック音楽にエレクトロニックなサウンドを取り入れ、打ち込みのビートでダンス・ミュージックやディスコ・ミュージックを演奏するにしても、わたしたちは残念ながら同性愛者ではないのです。それゆえ、その音楽の本質を本当に理解して演奏することはできないのかも知れない。欧米で誕生した文化の概念が、そのまま中国人の生活や文化にあてはまるとは思えない。東洋と西洋には確実に隔たりがある。それならば、まずはストレートな中国人としての自分というものを、とことんまで見つめ直して、己に正直に音楽をやらなくてはならないのではないか。そうした音楽活動の指針や指向性に従って前進してゆくことで、New Pantsのバンド・サウンドもこの15年の間にゆるやかに大きく変化してきた。個人的には、海外で流行しているサウンドをただ模倣しただけの多くの中国のロック・バンド群と現在のNew Pantsの音楽性は、完全に一線を画すものだと確信している。と。
どうやら、こうしたやや複雑な思いが“I’m Not Gay”という楽曲の裏にはあるようなのだ。そんな様々な感情や思考が交錯して、入り組み絡みもつれた果てに噴出したものが、サビでの「I’m Not Gay! Gay, Gay, Gay, Gay, Gay!」というぶっ壊れたコーラスのリフレインであったのかも知れない。

ただ、この楽曲の歌詞の中で、わざわざシンセポップと並んでK-POPについて触れられていることは、それなりに注目に値するのではなかろうか。同じ中国語圏の歌謡曲やポップスであるカント・ポップやマンダ・ポップではなく、韓国のポップ・ミュージックを槍玉に挙げている点には、やはり何らかの意味があると考えざるを得ない。
こうした形で真正面からそれについて言及するということは、それすなわちその存在を認めているということでもある。もはやアジアの大衆音楽/大衆歌謡の世界において、ここ最近の全世界を巻き込んだK-POPの異様なまでの隆盛は誰もが無視できないものとなりつつある。インターネット時代に絶対的な強みを発揮するのが、完全無欠の視聴型プロダクトとしてのアイドルであることは疑い様のない事実である。動画共有サイトのYouTubeを介してインターナショナルな人気を獲得した、ジャスティン・ビーバー(Justin Bieber)やきゃりーぱみゅぱみゅ(Kyary Pamyu Pamyu)などのティーン・アイドルが活躍する、現在の欧米やアジアのポップ音楽の状況を見れば、それは火を見るよりも明らかであろう。
21世紀には、インターネット時代のアイドル歌謡がロック音楽を完全に凌駕する。パン・レイは、そうした時代の流れを直感的に確信しているはずである。そして、それに対する肯定と批判が入り混じった反応が、非常に捩じれた形で表れたものが、この楽曲“I’m Not Gay”であり、そこで象徴的に槍玉に挙げられなくてはならない存在がK-POPであったのだ。さらには、パンクからポスト・パンクへと向かってきたNew Pantsの音楽性を、よりその先へと突き抜けてゆこうとする動きへと突き動かしているのも、そうした冷静で鋭敏な時代考察に対する反応に基づくものであるに違いない。

8曲目には、本作のハイライトとなるであろう重要曲“我不想模仿你”が収録されている。英文でのタイトルは“I Don't Want To Follow You”であり、翻訳するとすれば「あんたの真似なんかしたくない」といったところか。ここでは、前述のインタヴューでパン・レイが語っていた中国のロック音楽や模造品についての激しい思いが、より鋭利でストレートな歌詞となって歌われている。しかしながら、そんなやや棘のある辛辣な言葉たちが吐き出されるにも拘らず、この楽曲におけるサウンドは、どこか奥深い優しさをたたえているかのような清廉にしてソフトなシンセポップとなっており、ここにあるものが決して一筋縄ではゆかぬものであることを目に見える形で示唆しているようでもある。
この楽曲の歌詞は、まるで静かにステイトメントを読み上げているかのような柔らかで淡々としたメロディにのせて繰り返される。その序の部分となるセンテンスでは、「わたしたちは、ラモーンズではない/わたしたちは、ジョイ・ディヴィジョンではない/わたしたちは、ポップ・ミュージックを聴かない/わたしたちは、カラオケなんてしない/わたしたちは、アーティストではない/わたしたちは、インターネット上にはいない」とキッパリと宣告している。ここで、わざわざまたラモーンズとジョイ・ディヴィジョンに言及しているところが、かなり痛く自虐的な言い様になっているような気もする。しかし、そこがまたNew Pantsらしさでもあるのだ。その鋭い歌詞の矛先は、自と他に分け隔てなく向けられているのである。そして、これに続くコーラス部では、「わたしは、あなたの真似をしたくない/わたしは、あなたになりたくない/わたしは、あなたの後を追いかけたくはない/わたしは、あなたになりたくない」と繰り返される。
安易な物真似をして満足する西欧の音楽文化の盲目的な追従では、まるでダメなのである。そこにあるものは、アジア圏に生きる中国人を形作っているものとは、もともとの土台からしてあらゆる部分で大きく異なっているものなのだから。文化的にも、社会環境的にも、政治体制的にも、経済システム的にも。ゆえに、この“我不想模仿你”においてパン・レイは、穏やかな表情を装いつつも(MVの中では巨大な四角いロボットの頭部をすっぽりと被り顔を覆っている)、キレ味の鋭い言葉を振りかざして熱く熱く吠え続けるのである。
本物っぽくコピーして悦に入るのではなく、どんなに歪な仕上がりだとしてもオリジナリティを誇ること。それこそが、最も重要なのである。ゆえに、常に変わったこと(変化・変態)をするのが、このバンドの活動における最も重視されるコンセプトのひとつとなっていった。ただし、そんな道であっても、常に何々風と揶揄されることを避けられない部分も間違いなくあるであろう。本当に新しいものなど滅多にないのだから(また、本当に新しいものというのは往々にして尖りすぎていて娯楽性にも乏しい)。そこでは、多少の開き直りと決して折れない覚悟が必要となる。おそらくは、それがロックというものの本質でもあるはずなのだ。ロックとは、そのようにしてブルースやカントリー音楽の中から発生し、常に変化と進化を遂げながら歴史を刻んできたのだから。
過去の欧米のロック音楽の名作カタログを参照し、それをただなぞっているだけでは中国でロックをやっていることには決してならない。そんな後ろ向きになっている物真似(コピーキャット)の姿勢を180度転回するに至って、中国のロックは初めて動き始めることになる。この15年間に渡り北京のアンダーグランドなライヴ・シーンで活動を続けてきたNew Pantsは、まだ中国のロックは始まってさえいないと感じている。分厚い壁を突き破る戦いの道のりは、まだまだ長いものとなりそうだ。中国でロックすることの根幹を掴み、それを強く揺さぶり続けること、それがNew Pantsの15年間に及ぶ戦いの歴史であった。そんな彼らが仕掛けた七つめの大きな戦こそが、このアルバム“Sex Drugs Internet”なのである。

さらにもう少しだけ突っ込んでみると、この楽曲の“我不想模仿你”/“I Don't Want To Follow You”というタイトルには、またしても2NE1の楽曲との妙な相関関係のようなものを見出すことができるのである。10年に2NE1が発表したシングル・ヒット曲に“날 따라 해봐요”/“Try To Copy Me”という楽曲がある。常に新しい流行を作り出し続けるイケてる私たちのスタイルを遠慮せずに真似してごらんよと、完全に上から目線で多くのフォロワーやワナビーたちに向けて歌いかける、かなり攻撃的なエレクトロ・ヒップホップ曲である。
この“我不想模仿你”においては「わたしたちは、ポップ・ミュージックを聴かない」と歌い、この次に収録されている“I’m Not Gay”では「俺はK-POPが嫌いだ」と歌うNew Pantsであるから、やはり何かしら意識しているものがあるのではないかと深読みもしたくなってきてしまう。聴き様によっては、“I Don't Want To Follow You”は、“Try To Copy Me”へのアンサー・ソングのように聴くこともできそうだ。このあたりのNew Pantsと2NE1の関係性には、何とも興味深いものがあるような気がしてならない。たぶん、そこを探ってみても何もないのであろうが。

最後に、9曲目の“別再問我什麼是迪斯科”について、軽く触れておきたい。この楽曲の英文のタイトルは“No Question Of Disco”となっており、これらを翻訳すると「もう二度とディスコに関する質問はしないでくれ」となる。何ともアイロニックな香りのするタイトルではないか。そして、実に真っ直ぐな意思表明だ。これは、ポップ・パンク・バンドとしてキャリアをスタートし、その後次第にシンセポップなどのエレクトロニックなサウンドへと接近してゆき、打ち込みビートによるダンサブルなディスコ・ミュージック的なプロダクションへと向かっていったNew Pantsが、長年に渡りインタヴュワーたちに浴びせかけられてきた質問への返答でもあるのだろう。
バンド・サウンドの表層的な部分の変化だけを見ていると、なぜディスコ音楽をやるのか、そもそもディスコ音楽とは何なのかなど、根底の部分からして噛み合わないズレた質問を投げかけてしまうことになる。そんな問いの数々が、常に変化するNew Pantsに降りかかり続けた15年間であったのだ。ディスコについて知ろうとする質問では、何も詳らかにすることはできない。まずは、彼らがどうして変わり続けるのかという部分を、徹底的に掘り下げてみるところから始めなくてはならないということなのであろう。

その活動姿勢や、歌詞に込められている意図やメッセージ、投げかける言葉の裏にあるものなど、パン・レイという男の存在からは、深いインテリジェンスと豊かな才能を色濃く感じ取れる。そのことを証明するかのように、今やその活動範囲は音楽の世界の外にまで飛び出しつつある。パン・レイは、北京のインディペンデント映画界において注目を集める新進の映画監督でもあるのだ。その監督作品は、ロンドンのレインダンス映画祭(Raindance Film Festival)において招待作品として上映されている。また、由緒ある北京展覧館劇場において公開されたロック・ミュージカル公演の監督総指揮を務めた経歴ももつ。間違いなく、パン・レイは、中国インディ・ロック界の巨人である。
そして、その傍らで常に捩じれたキレキレのキャラクターを炸裂させているパン・クアンもまた、相当な知性派であることは疑いようのない事実だ。こちらは、中国インディ・ロック界の裏の最重要人物といったところであろうか。
こうした音楽表現に対して非常に意識的なバンドが存在する限り、中国のロック音楽はきっと大丈夫だろうと思えるものがある。それくらいに、New Pantsの既成概念にとらわれぬ強烈な音楽の力を生み出し続けるふたりの類い稀なる才能には、とても頼もしいものがある。

目まぐるしく大量の情報が動き続けるインターネット時代。次々と立ち現れる最新の流行のトレンドや、過去数十年のポップ文化の歴史のアーカイヴに蓄積されてきた膨大なカタログが、全て綯い交ぜになって止まることなく各端末に押し寄せる。そうした情報を処理・解析し切れなくなり、全てが安易な欧米の文化の再生産となってしまうとき、文化のグローバリズムは完結するということなのかもしれない。おそらく、その動きの最後にして最大の標的が、中国を始めとする巨大な中華圏なのである。こうしている間にも中国の地では、まるでドミノを倒すように肥沃な大地に育まれた文化が根こそぎにされる動きが猛烈なスピードで進行している。その顕著な例が、パン・レイが指摘していた若い世代に頻出している欧米のロックの安直なコピーキャットたちである。しかし、こうした時代の流れを食い止めようとし、さらにはそれを乗り越えて行こうとしているバンドも、確かに存在しているのである。その一群の先頭にずっと立ち続けているのが、パン・レイたちなのだ。欧米からブリックス(BRICS)へと押し寄せる猛烈な勢いのグローバリゼーションの流れに果敢に逆らい、New Pantsは中国から世界へと力強く立ち向かってゆく、逆のグローバリズム運動の急先鋒とならんとさえしている。しかも、実に飄々と、高度なシニシズムとアイロニーを抱え切れぬほどに小脇に携えながら。

これまでにNew Pantsは、国内のライヴ・ツアーだけでなく、海外でのライヴ活動にも可能な限り前向きに取り組んできている。シンガポールやオーストラリアなどのアジア・オセアニア地域や、イギリスを始めとする欧州などにおいてライヴ演奏を行い、現地のオーディエンスに熱狂的な反応をもって迎えられた。そして、11年にはカリフォルニア州インディオのエンパイア・ポロ・クラブにおいて毎年4月に開催されている、現在では全米屈指の著名なフェスティヴァルとなったCoachella Festivalに中国を代表するバンドとして招待され、ゴビ・テントのステージに立っている。この時のライヴの模様はYouTubeにアップされた映像などで確認することができる。
こうした海外での高い評価は、かなり妙な枝ぶりで奔放に伸び続けたNew Pantsの音楽性が、中国のオリジナルなスタイルのオルタナティヴ・ロックとして、認められ、認知されていることの、確かな証拠であるともいえる。変わり続けること、変化し続けることで、ロック・バンドとしては世界的にも在り来たりさの全くない変てこな形態や様式へと向かうことになってしまったが、そのクリエイティヴィティは確実に世界レヴェルへと突き抜けていたということだろうか。
ふたりの思慮深き意識的なアーティスト、パン・レイとパン・クアンによって率いられるNew Pantsが、これからどこへどのように向かってゆくのかも楽しみである。大いに期待したいところだ。ニューヨークにはニューヨークの、そしてロンドンにはロンドンのものがあったように、中国には中国ならではのパンク・アティチュードというものがある。それを初めて北京のインディ・シーンにおいて生み出し、弛まず発展させ続けてきたのが、このバンド、新裤子/New Pantsなのである。(12年)

追記
ここに本文への関連記事として、中国のインディ・ロックの注目アルバムの紹介文を一本併録しておきたい。これは、もともと『ミュージック・マガジン』誌(12年4月号)の輸入盤レヴュー用に準備していたものである。

Duck Fight Goose: Sports
Maybe Mars Maybe 36.1

画像


 上海を拠点に活動する四人組バンドのファースト・アルバム。メンバーは、ドラムのダーメンとベースの33からなる女性リズム隊に、ハン・ハンとパンダの男性陣がギター&エレクトロニクス担当という構成。結成は09年。独特のキッチュなセンスが閃くポストロック〜マス・ロック的アンサンブルで、彼の地のインディ界ではすでに高い評価を獲得している。
 これは世界を驚かせるに十二分な内容の堂々たる一枚だ。全11曲を収録。朴訥としつつも太く据わったドラムとベースが轟き、キレのよいギターと捩れる電子音が色鮮やかな線を自在に走らせる。そして、巨木の如くそびえるハン・ハンのチングリッシュな歌声が、そこにリリシズムの雨霰を降らせる。時にサイケデリックで、時に痺れるほどに醒めた音。その、これまでに誰も聴いたことのないロックを追求しようとする音楽性には、往年のエコー&ザ・バニーメンあたりと相通ずる手触りがある。

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