溝!

アクセスカウンタ

zoom RSS 2011, Back To Black PS III

<<   作成日時 : 2011/09/05 04:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

2011, Back To Black

追記(三)

日本のTVの世界の一部に吹き荒れている新韓流のブームが引き金になり、様々なところで非常に熱い論争を巻き起こしている。
TVドラマなどにも出演していた俳優の高岡蒼甫は、韓国産のドラマばかり放映しているTV局の編成方法を真っ向から批判し、「8は今マジで見ない」とツイッターで呟いた。どうやら、TV局という大きな影響力をもつメディアが、積極的にブームをけしかけ後押ししていることが鼻についてしまったらしい。また、TVのヴァラエティ番組で活躍してきたお笑いタレントのふかわりょうは、TV局と系列音楽出版会社が結託した腹黒い売り込み戦略を、「公共の電波を使って私腹を肥やすようなやり方」と揶揄するような発言を、自らのFMラジオ番組内でやんわりと行っている。
すると、こうした意見に対する賛意や様々な角度からの反発の声も、あちこちから挙がってくる。今回の件は、ツイッターでの高岡発言が火元であったこともあり、その論争の場も主にネット上となっているようである。
そうした反論の中でも特に印象深かったのが、脳科学者の茂木健一郎によるツイッターでの発言である。まず、茂木は自らの反応が、TV局へのボイコット運動などとは別の次元の話だとあえて前置きをする。その上で、現在の日本のメディアを席巻している新韓流ブームに関し、「韓流のどこが悪い。グローバリズムの時代だぜ」と、これが健全な経済原則に則った流れなのだとして容認し受け入れる姿勢を表明している。そして、そうした発言に続いて、これは盲目的な韓流批判に対しての発言と思われるが、「幼稚な自国文化主義は(中略)日本をますます弱体化させるだけ」と自らの意見を言い放っている。

まず、自国文化主義というものに、幼稚なものや高尚なものがあるのかどうかは、よく分からない。おそらくは、邦楽、文楽、歌舞伎、浄瑠璃、能、狂言、などの歴史ある伝統芸能は、まあ高尚な部類に属するものだと考えてもよさそうだ。では、今現在、韓流ドラマが放送されている時間帯に、TV局が劇場からの中継で決して幼稚ではない日本の伝統文化・伝統芸能をゴリ押しする番組ばかりを流し始めたら、日本の弱体化は阻止できるのだろうか。新韓流ブームに嫌気がさしてTVを消してしまった人々も、自国の高尚な文化を堪能させてくれる番組ばかりであったら、喜んで再び以前のようなTVっ子に戻るのであろうか。だがしかし、そこでキッチリとグンちゃん並みに視聴率を取れる千両役者といったら、灰皿テキーラ騒動から復活を果たしパパにもなった市川海老蔵ぐらいのものであろう。
そもそも自国文化主義というものに依拠した考え方自体が、かなり幼稚なものとなりつつあるのかも知れない。茂木も言うように、もはや後戻りできないほどに「グローバリズムの時代」なのである。伝統文化は、そうした原理主義的なイデオロギーから切り離され、しっかりと共同体の内部において温存されてゆく方向へ向かわなくては、遅かれ早かれグローバリズムの波にさらわれて、過ぎ去った時代の泡沫として跡形もなく消え去ってしまうことになるだろう。伝統的な国家や民族の文化などというものは、実はただの枠組みだけの幻想にすぎぬものである。グローバリズムの時代の流れにも押し流されない、しっかりと地に根付いたローカルな共同体内部で代々継承されてゆく文化のみが、これからは真に伝統文化と呼ぶに相応しいものとなる。
また、今現在、自国文化主義的に伝統的な文化と目されているものも、そのルーツを辿ってゆけば殆どが大陸や朝鮮半島から伝来した文化を、こちらの感覚でアレンジして発展させてきたものばかりである。そのような伝統文化や伝統芸能が、純粋なる自国文化主義の確固たる拠り所となるものなのかは、少しばかり疑わしい。もしかすると、韓流ドラマを毛嫌いする一部の現代人などよりもずっと、渡来人によってもたらされた大陸や半島の文化を吟味して共同体内の生き方や考え方に受け入れた、縄文時代から古墳時代にかけての日本人の方が、よっぽど「グローバリズムの時代」に適合した開かれた思考をもっていたといえるのかも知れない。この図式を少しばかり角度を変えて眺めると、そうしたかつてこの東アジア地域にあった盛んに文化的・技術的な交流を行う(前近代的)グローバリズムの動きが、この21世紀に新たな形で蘇りつつあるということのようにも思えてくる。

はたして、この様々な物議を醸している新韓流の波に乗らないことは、グローバリズムの時代の動きに反することなのであろうか。21世紀初頭、アンチ・グローバリズムの運動は、ポスト・モダンの時代に枯れ野と化していった大地に広がる野火の如く、激しく一気に燃え上がった。これは、古い時代が終わり新時代へと以降してゆく時期に生ずる様々な軋轢や葛藤や不安が、ひとつの大きな動きとなって噴出したものといえる。そこにある社会的/経済的/政治的/国際的な数々の問題は、それぞれに非常に根深い。そして、そのような様々なイデオロギーや考え方の衝突の中で、9.11という前代未聞の凄惨なテロ行為までもが起きた。
しかし、このアンチ・グローバリズムの運動は、個別には経済や農業や貿易や自然環境など様々な方向性をもつものであり、その問題の核心へのアプローチの仕方も、実際には、かなりまちまちであったりする。また、かなり過激なアンチ・グローバリズムの主張も、一皮むけば、単なるアンチ・アメリカナイズでしかなかったりするのが実状だ。
もはやグローバリズムは誰にも食い止めようのないひとつの時代の動きできであり、それに反対の声を挙げるよりも、そこでどれだけ住みよい理想的な世界を作り上げてゆけるかが真剣に話し合われ議論されるべきなのである。21世紀、近代の西欧型資本主義の破綻とともに、社会のシステムそのものが根本から見直されることとなるだろう。わたしたちが本当に立ち向かわなくてはならない大きな敵は、おそらくグローバリズムのような実体無きものではないはずだ。

新韓流とグローバリズム。このふたつの動きの関連性は、深く見てゆけば見てゆくほどに不明瞭なものになってゆく。新韓流の波も世界各地でうねるグローバリスムの波の一部と見ることもできるし、それは単なる流行でしかなく、エンターテインメントの世界の一過性の動きと見ることもできる。ただ、それよりもさらに局所的な動きとなるTVというメディアの内側で云々というのは、相当にグローバリズムの余波からも遠いものだというしかないだろう。
面白くないからという理由で誰も8を見なくなったとしても、それでも新韓流はブームになる。決してひとつのチャンネルだけが、その(グローバルな)動きの全てを背負っているわけではないのだから。もし、自国文化主義的な見解に則して、日本的なものがTV局の番組編成の中で肩身の狭い思いをしているように見えたとしても、そこで新韓流だけを目の敵にして非難するというのも、全くのお門違いだ。平たくいえば、古いトレンディ・ドラマやキムタク主演作を擦り切れるほど再放送していても、もはや誰の得にもならないということ。おそらく、問題があるとすれば、昨今の韓流ドラマを越えるエンターテインメントを生み出すことができぬ、どうでもいい俳優やタレントたちのポテンシャルの低さを指摘する方が先であるだろう。
また、グローバリズムの波というものが、直接にTV局の番組編成の傾向に如実に表れるということもないはずだ。そこにあるのは、後期資本主義の原理に則して会社組織が「私腹を肥やす」ためのカラクリだけである。それが、まずは何よりも優先される。おそらく、グローバリズム的な大きな動きが最も反映されにくい部分をもつのが、TV局という名の伏魔殿であるのかも知れない。

では、続々と日本デビューするK-POPアイドルたちは、グローバリスムの波の急先鋒なのであろうか。では、なぜ彼ら/彼女たちは日本で活動する際にローカルな日本語で歌うのだろう。所属するレコード会社の意向なのだろうか。元々、そのようにすることが契約の段階で決まっているのだろうか。日本では日本語で歌わなくてはいけないという、何か暗黙の了解のようなものが存在するのだろうか。
その裏側には、K-POPアイドルたちやレコード会社の思惑が云々という以前に、それを受け入れる側である日本人独特の体質からの影響が、色濃く存在しているような気もする。
この国には、外国語の音楽に対し、半ばアレルギーともいえそうなほどにしっかりと線引きを行う伝統・風習が、非常に古くからある。これは、長い鎖国時代の末に突然開国し、文明開化の猛烈な勢いにのって流入してきた外来の文化に対する、原初的な恐怖感や拒絶反応をある種引きずった反応と考えるのが妥当なのであろうか。そこには、どこか外のものに対する閉鎖的な性質すら窺える。こうした自国内の文化と外国の文化に接する際の傾向は、ほぼ単一民族国家であり、ほぼ単一言語国家である、日本ならではの特殊性を表したものといえるのかも知れない。
しかし、こうした旧来からの体質が抜けきらない限り、中途半端で薄っぺらなグローバリズム的なものに上っ面だけを攪乱される状態は、いつまでも続くことになるであろう。時代の流れであるグローバリズムの波を巧みに乗りこなさなくては、溺れて深い海の底に沈んでしまうことにもなりかねない。そうした日本人の特殊な体質を懸念する茂木は、「日本は、このままだと、三流国になるよ」という警句を呟いてもいる。
一度、自らの土俵のうちに引き込んでからでないと受容しないということは、自ずからは一歩も外へと踏み出すことがないということでもある。これは、もはや自国文化主義というより、日本的なものや日本語へのいささか強すぎる固執や執着である。もしくは、かなりいびつな愛国精神の表れだろうか。それが、外の文化や言語に対する排他的な感覚へとすり替わってしまう、あまりにも盲目的な愛であっては、何の意味もないし、それを精神と呼ぶのも忍びない気もするけれど。

東アジア〜東南アジアの各国での活動で、K-POPアイドルたちが、特にその現地の言葉で歌うようなことはない。上海や台湾での単独コンサートも普通に韓国語のまま行い、普通に大盛況となる。香港や台湾、タイなどでは、各国版のCDが発売されているが、それがわざわざ現地の言葉で新たに歌い直されているなんてこともない。日本を除く地域では、韓国語で歌われるポップスが、一般にK-POPと呼ばれて親しまれている。日本語のK-POPと韓国語のK-POPが混在する、今現在の日本の状況は、かなり特殊なものだというしかないだろう。
毎年7月に、フランスのパリで開催されている日本のポップ・カルチャーを海外で発信するエキシビション、ジャパン・エキスポ(Japan Expo)では、日本からの招待されたアーティストは、会場で普通に日本語で歌い、そのまま普通に盛り上がる。そういったことが、なぜ日本では普通のことにならないだろう。いや、これに関しては、K-POPアイドルたちが、なぜそれをすることが許されないのかと問うた方が正確であるのかも知れない。ボブ・ディラン(Bob Dylan)もレディ・ガガ(Lady Gaga)も、日本人のためだけに日本語で歌ったCDを特別にリリースし、日本に来たら日本語で歌ってコンサートをするなどということは、決してしないのだから。
80年代初頭、五人の姉妹からなるイギリスのアイドル・グループ、ザ・ノーランズ(The Nolans)が、日本でも大ブレイクした。当時、ノーランズは「ダンシング・シスター」や「恋のハッピー・デート」といったシングルを次々と大ヒットさせ、日本のTV番組などにも頻繁に出演するなど、まさにお茶の間の人気者であった。特に、「ダンシング・シスター」は、11年4月にカラ(KARA)の「ジェットコースターラブ」がヒット・チャートの一位を獲得するまで、約30年以上に渡り海外の女性グループによる唯一のチャート一位獲得曲という記録を保持していたほどである。それだけ大ヒットしたにも拘らず、ノーランズのシングルは日本語で歌われたものではなかったのである。つまり、本国での英語での録音が、そのままの形で受け入れられてヒットしたのだ。こうした前例もあるのだから、K-POPアイドルたちだって、やってやれないはずはないと思うのだが。今現在の、凄まじいまでのその人気の浸透ぶりを思えば。

そういった深い根をもつ不思議な捩じれた状況がある反面、一部の若い世代の言葉や文化に対する感覚は、驚くほどに時代の先を行っていたりする。特に、K-POPアイドルの音楽にのめり込み、新大久保の街に押し寄せる少女たちの韓国語の精通度などは、かなり生半可ではないものがある。また、そういった少女たちのツイッターの呟きは、普通に日本語と韓国語のチャンポンになっていたりもする。新韓流の動きが活発化する以前からK-POPアイドルの音楽を聴いていた層に、日本語で歌うK-POPアイドルの音楽をキッカケにして韓国語版も聴くようになった、日本語版が窓口の新たな層が加わり、普通に韓国語を耳で聞いて理解し、さらにはハングルの読み書きまでこなしてしまう若年層は、近年爆発的に増加してきている。
この少女たちの大多数は、90年代以降に生まれた、グローバリズムが進行するポスト・モダンな社会というものに、幼い頃から晒されてきた世代である。ある意味では、日本の経済や社会に蔓延る伝統的な古い体質に塗れた世代とは、感覚的に大きな距離をもつ全く新たな世代といえるであろう。物心がついた頃には、伝統的な共同体がほぼ崩壊した徹底的にドライな社会が出現していたことで、湿っぽい自国文化主義的なものには、あまり深く根差すことなく、異文化や異言語に対する垣根を変に構えることもなかったのかも知れない。
こうした世代間の大きな差異は、なかなか簡単には乗り越えることができないものであるだろう。きっと、そんなK-POPアイドルの音楽を通じて普通に韓国語に親しんでいる世代の感覚は、古臭い(文字通りに)大人たちの体質では、全くついてゆけないものであるに違いない。彼女たちの動きは極めて俊敏で、その呟きもまるで暗号めいている。これこそが、まさにグローバリズムの波なのである。全ては、その首根っこを捕まえようとする側の手が、追いつけない場所、追いつかない場所で、猛烈な勢いで進行してゆくのである。

また、それとは逆に、若いK-POPアイドルたちも、非常に早い段階から日本語の勉強に熱心に取り組んでいたりする。それこそ、日本でのデビューなんて全く話題に上っていないような時期から。下手すると、韓国でもデビュー前の事務所の練習生の時期から、そうした語学のレッスンがあったりするのではなかろうか。K-POPの人気が世界的な広がりを見せている状況の中で、外国語を習得することへの意欲が高まってきているという面も多分にあるのだろう。さらに、その根底には、朝鮮半島の民族の歴史や元々の民族性が影響を及ぼしていることも決して見落としてはならない。ただ、やはりそうした韓国の若年層もまた、異文化や異言語に対する垣根が元々低い世代だということもあるのであろう。もしかすると、このような世代こそが、かつてダグラス・クープランド(Douglas Coupland)が、グローバル・ジェネレーションと名づけた世界的に繋がっている世代であるのかも知れない。
東京でいうと新大久保に代表されるような韓国人街は、新旧様々な形態で世界各地の都市の内部やその周縁部に存在している。そうした異文化の中に溶け込んだコリアン・コミュニティを拠点・中継点として、韓国の食文化/生活文化などとともに芸能や娯楽の文化もまた広まり浸透し、国境や言語の壁を越えて受容されてゆくようになる。
今やK-POPの大旋風は、アジアのみならず、欧州、北米、南米にまで隈無く拡大しつつある。つまり、その人気は、そうしたコミュニティをベースにした全世界的規模のグラスルーツの文化的な交流や繋がりによって、しっかりと下支えされたものなのだ。そこが、K-POPや新韓流の動きの最大の強みだといえる。その動きの根幹の部分を探ってゆけばゆくほどに、決して上っ面だけの流行などではないディープな構造が見えてくる。好調な経済発展の力を後ろ盾にした大々的な国家的文化戦略という側面もあるにはあるのだろうが、それだけのものを支えるコミュニティやネットワークがグローバルに存在しているという事実が、実際の動きの中で非常に大きく作用していることも見落としてはならないだろう。

ふかわりょうは、前述の自らの番組「Rocketman Show!!」の中で、現在の堕落しきった状況を鑑みてTVというものが「完全に終わったなと思いました」と発言している。これは、本当なのだろうか。おそらく、まだ完全には終わってはいない。たぶんきっと、現時点では、半ば終わっているといったところではなかろうか。
緊急時を除けば、情報を伝達するスピードが極めて遅く、伝える側の都合によって情報の伝え方に大きく偏りが生じ、視聴する側はそれを自由に選択することができない。時代の流れとともに、TVというメディアが抱える根深い業や問題は、次々と露になってきている。インターネットの世界でも、情報の流れの迅速性に関しては、ツイッターやフェイスブックなどのユーザー相互のネットワークが発達したSNSにおいては驚異的に速く、既存のメディアと連動したニュース・サイトに大きく水をあけているのが現状である。求める情報のあるところへ、人々は自然に流れてゆく。そのように次第に受け手側に選択が委ねられる形態へと変化してきたことによって、情報を収得する質量の格差の問題も浮き彫りになってきた。そこで、与えられる情報だけでは満足を得られなくなった層が、急激にTV離れしていっているのが現状なのではないだろうか。また、今やTV以外の娯楽だって山ほどある。それに、現在でも積極的なTV視聴者で地上波の放送ばかりを観ている層というのは、逆に珍しかったりもするのではなかろうか。受け手側が選択できるチャンネルは数限りなく多い。インターネットや携帯電話などが出現する以前の時代とは、今や全く様相が異なってきているのである。

では、なぜ今この問題で騒いでいる人たちは、今頃になってTVというものが流行を積極的に作り出すことに対して過剰なまでの反応を示しているのだろう。これまでも、ずっとそうだったというのに。TVとは、(資本主義の経済原理と会社としての経営姿勢に準じて)極度に偏った情報を垂れ流し、視聴者をかどわかし続けるものという側面を、常に少なからずもつものであった。多くの人は、それを承知した上でTVを視聴していたのだと思うけれど、実際はそうではなかったのだろうか。
ここにきて、生まれて初めてTVというものに対して不信感を抱いたかのような初々しくも激しい反応がちらほら見受けられるのが、かなり気になるところではある。しかし、今回の件で、そうした人々が、簡単にTVの垂れ流す情報に毒されてしまう傾向から抜け出すことができたということは、ある意味喜ばしいことであるのかも知れない。

また、これまでのTVの世界には、TV俳優やTVタレントが、あまりにも無駄に多すぎたという面も多分にある。TVという強力で巨大なメディアが分泌する甘い汁に、沢山のどうでもいい俳優やタレントが大挙して群がっていたのだ。それが、出口の見えない不況でTV番組の制作費が切り詰められ、みるみるうちにギャランティが減り、つまらない番組は容赦なく打ち切りになって仕事の量も激減していった。すると、延々と放送枠を占拠している韓流ドラマに八つ当たりをしたくなる気分にもなってくるのだろう。すでにコンテンツとして完成している海外ドラマを、新たに番組を制作するだけの制作費を回せない時間帯に放送することは、TV局としても苦肉の策というか生き残るために当然選択しなくてはならない道であったというのに。どうでもいい俳優やタレントを使ったドラマやヴァラエティ番組を放送して、連日赤字の山を築いてゆくよりも、版権を押さえた、さらなる展開が見込める韓流ドラマを垂れ流している方が、予算的にも気分的にも数倍も安全・安心ということなのだ。だから、そんな在りし日の力を失ってしまった、すでに終わりかけているメディアに、いつまでもしがみついていることは、自らの首を絞めるだけかも知れないのである。自らの足許を撃つような見当外れな批判をするよりも、新たな俳優やタレントとしての才能や芸の腕を活かせる道を模索したほうがいいに決まっている。

近代資本主義社会が情報化社会として発展してゆく過程で、極度に怪物化していったTVは、おそらくこれまで以上に「私腹を肥やす」人たちによって牛耳られるものとなってゆくだろう。絶滅寸前の恐竜が必要以上に巨大化していったように。最終的に、それは自由に身動き取れぬところまで行き着くに違いない。そして、既存のメディアが機能不全に陥ってゆくことで、本当の情報の在り処は、それを本気で探し出そうとする人の前にしか顕現しない時代が、本格的に訪れる。

また、どう足掻いても甘い汁を搾り取れないとなると、どうでもいい俳優やタレントも、蜘蛛の子を散らすようにTVの世界を去ってゆかざるを得なくなる。そして、TV局を中心に回っていた、ひとつのメディアのシステムは、致命的な減速を余儀なくされる。ずっとずっと、多くのどうでもよいものたちや無駄なものたち(余剰)によって支えられていたシステムであったのだから。
全ての既存のシステムが機能しなくなってゆくとともに、放送メディアの中心にTVがあった時代は、完全に終わるのである。すると、それまでTV局と結託して「私腹を肥や」していた者たちも、必然的に銭の泉の枯渇とともに萎びてゆくか、新たな甘い汁を求めて新時代のメディアの懐に潜り込んでゆくことになるだろう。まさに、ふかわの言う通り、「自分の世界を突き進むのが正解」ということなのだ。

K-POPアイドルたちが、日本での活動で普通に韓国語の歌を歌って普通にヒットするとき、この日本においても本当のグローバリズムの時代の到来を実際に実感することができるであろう。その一方で、近代以降の世界の基底をなしていたモダンなローカリズムに固執し続ける層も、いつまでも生き残り続けるに違いない。おそらくは、そうした反グローバリズム的な抵抗ほど、そう簡単に拭い去られぬもはないのである。それは、それだけ過去四百年間の人類の歴史の中で積み上げられてきたモダンな感覚が、現代を生きる人間の生き方や考え方にも深く根付いているということの証しでもある。
本当は、それぐらいこの日本においても外国語のヒット曲が当たり前のことになった頃に発せられるべきであったのが、茂木が勇み足的に言い放ってしまった「韓流のどこが悪い」という発言である。下手な開き直りは、それこそ自らの首を絞めるだけである。要するに、茂木の「どこが悪い」発言とは、まだかなり時期尚早であったのではなかろうか。韓流というものに、どこかの誰かが「私腹を肥やす」ために仕組んだかのようなブーム的な部分や、様々な前時代的なルサンチマンやイデオロギーなどの余計なものが、びっしりとこびりついている段階では、一方的に開き直ったとしても何の意味もない。

古くから常套句のように、音楽は世界共通だとか世界共通の言語だといったことが、まるで真理であるかのように唱えられ続けている。おそらく、近代以前には実際にそうであったのかも知れない。しかし、そこに一度ある民族や特定の国の言葉で歌われる歌がのると、その言語を理解しない人々にとっては、その音楽は誰しもが共通して全て理解できるものではなくなってしまうだろう。そのような意味では、現代では、音楽が世界共通語だという考え方は、かなり観念的なものとなってしまった観はある。ただし、このままグローバリズムの時代の波が進行してゆくと、本当に音楽に国境がなくなるときが(再び)訪れるのかも知れない。そもそも、国と国を分け隔てる国境という概念そのものが、どこまでも希薄になってゆくのだから。
そこでは、今でいう国民的歌手や国民的アイドルといった存在も、すでに遠い過去のものとなってしまっているであろう。また、名実共に音楽チャートにおいて、ドメスティックなナショナル・チャートというものも存在しなくなるのではなかろうか。純粋にチャートを制作しようとするならば、それは必然的にインターナショナルなものにならざるを得ないであろうから。形式的には、東アジア、アフリカ、北米、南米、欧州、アラブ、などの大局的なエリア・チャートがあり、その下部に独立した無数のローカル・コミュニティ・チャートが夥しく点在するという感じであろうか。
YouTubeなどの動画ストリーミング・サイトを通じて、全世界の音楽のMVやライヴ演奏をいつ何時でも視聴することが可能であり、iTMSなどのMP3ストアや配信サイトでは国内盤の出ていないアーティストの楽曲であっても簡単かつスピーディに購入が可能である。これまでのような、単純にCDの売り上げ枚数やエア・プレイ回数だけを反映させたチャートが、実際の大衆の趣向や興味を全て反映した信用に足るチャートだとは決して言いきれない時代となりつつある。それが、この時代の現在進行形の動きを反映した、紛うことなき現状なのである。
そんな音楽が文字通りにグローバルに聴かれ楽しまれる時代が、現実ものとして世界の隅々にまで行き渡ったとき、おそらく初めて日本の音楽や娯楽の文化が弱体化しているのか、より逞しくなっているのかが、はっきりと見えてくるのではなかろうか。きっと、そこでは、現在なぜか多くの人が深刻に危惧しているような、そこら中がK-POPや韓流ドラマだらけということには決してなっていないであろうし、あれこれと特典をつけてまで必死にCDを売ろうとする変てこな商売も、そのうちに物凄い勢いで廃れてゆくであろう。どうでもよいものは呆気なく淘汰され、本当の意味でのエンターテインメント性のある優れた音楽だけが生き残ってゆく。そこには、より健全な21世紀の大衆文化が立ち現れてきているはずである。激動の10年代は、まだ幕を開けたばかりだ。今の段階ではまだ、あれこれと自らの考えをぶつけ合って論争するのも悪くないだろう。だが、その全ての答えは、やはり時代の流れによって用意されるものなのである。

間違いなく、ふかわりょうの「(もはや)テレビは時代を映す物ではない」という発言は、圧倒的に正しい。ただ、現在のTVが何をしようとも、つまらなくなってしまった人々がTVを観るのをやめようとも、グローバリズムの時代の波は、全くそういったこととは関係なく進行する。時代を映すものではなくなったTVの前を、来るべき時代はただただ光速で通り過ぎてゆくだけであろう。そして、そうした時代の流れに決定的に対応できなくなった時、TVという最先端のメディアが絶対神の如く存在した時代そのものも終わりを迎えるのである。きっと、その時になってやっと、TVは、TVというメディアにしか映し出せないものが、すぐそこにあることに気づくことになるのかも知れない。そして、最終的には、やはり真実を映し出すリアルなメディアだけが生き残ってゆくことになるのであろう。(11年8月)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
2011, Back To Black PS III 溝!/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる