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zoom RSS 2011, Back To Black VI

<<   作成日時 : 2011/08/05 03:00   >>

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2011, Back To Black

VI

80年代半ばの世界を覆っていた終末観には、緊迫した国際情勢や地球規模の環境問題の悪化などからの影響が色濃く影を落としていた。だがしかし、そこに、とある予言が少なからず関連していたことは、忘れてはならないところであろう。
その予言とは、いわゆるノストラダムス(Nostradamus)の大予言である。真偽のほどは全く定かではない、かなり眉唾ものの大予言ではあるが、これが当時の世界に与えた影響は、決して小さなものではなかった。
それは、16世紀にノストラダムスが記した散文詩形式の予言の書に、1999年の7月に空から恐怖の大王がやって来て人類を滅亡させるという意味に解釈できる文言があるというもの。
70年代に、この予言をわかりやすく噛み砕いて再解釈・再構成した五島勉の『ノストラダムスの大予言』が祥伝社から発行され、大ベストセラーとなった。これにより、このノストラダムスの名前と予言の内容の大方のあらましが、日本においても爆発的に知られるようになる。その後、『ノストラダムスの大予言』はシリーズ化され、80年代半ばまでに五冊が発刊されている。日本におけるノストラダムスの大予言の大ブームは、この時期に一番の盛り上がりを迎えたといってよい。
東西冷戦構造からくる異常な政治的社会的緊張状態は、米ソの軍拡競争を引き起こし、地球上に大量の核兵器を溢れかえらせた。そして、いつでも使用可能な状態にある、それらの核弾頭が頭上を飛び交う全面核戦争が、ほんの数分後にまで迫ってきているという現実は、そうした終末の予言を、真しやかに信じさせる大きな要因ともなったのだ。決して取り除くことの出来ない不安や恐怖ばかりが募る世相と、20世紀末的なノストラダムス解釈が、絶妙にリンクしたのである。
やはり、空から降ってくるものが人類を滅亡させるとしたら、どうしても核兵器の投下を真っ先に思い浮かべてしまうはず。それが、あの当時の紛れもない全世界に共通した時代の空気であった。まさに、あの“Two Tribes”のMVのラスト・カットそのものである。また、それに伴う放射性物質の飛散や死の灰/黒い雨の降下といった事柄も、その終末のイメージに間違いなく結びついていた。
当時、20世紀末の1999年で人類の歴史が終わることを、心のどこかで真剣に覚悟していた人は、決して少なくはなかったであろう。しかし、実際には、大抵の予言と同様に、その時になっても何も起こることはなく、人類の歴史は2000年以降も当たり前のように続いた。
だが、今わたしたちはまた、あの頃よりももっとリアルに、歴史の終末に思いを馳せるようになりつつある。3月11日に起きたことは、これまでに飽きるほど論じられてきた、どんな恐怖の大王の到来よりも強烈な衝撃をもって、突然何の前触れもなく平和な日常に降りかかってきたのだから。

ただし、どんなにノストラダムスが大ブームとなろうとも、80年代が時間的に深まり、ゆっくりとその時代性が熟してゆくにつれて、80年代の前半から半ばまでに感じられていたモヤモヤや終末観が、少しずつだが確実に縁遠いものになってゆくような雰囲気は何となくあった。
かなり偏ってはいたが、様々な音楽を通じて時代を見ていても、80年代初期〜中期だからこそ感じられた時代感覚というものは、確かにそこに存在していた。音楽を作る側、歌う側、演奏する側、送り出す側、そして聴く側においても。しかし、そこに聴き取れていたはずの問題意識のようなものは、その後、明らかに薄れていってしまったのである。
変わったのは、それを聴き取る耳だろうか。聴き取られる音楽そのものだろうか。いや、それを再生するソフトのフォーマットの問題か。それとも、人々の時代を捉える感覚、それ自体が、ガラリと変わったのだろうか。
そんな中で、ゆっくりと音楽を取り巻く大きな舞台装置のようなものが様変わりしてゆくのを、何となくだがボンヤリと感覚していたことを覚えている。当時、何らかの動きがあり、古臭くなったものが新しい画期的なものに置き換えられてゆくことは、とにもかくにも何の深い考えもないままに歓迎すべきものだと感じられていた部分も少なからずあったのだ。
そこかしこにワクワクするような変化があり、周囲の景色や自分を取り巻く世界が、見慣れてくすんだものから、真新しいものに次々と移り変わってゆく。全ては、終わることなく上昇し続ける、果てしない発展に向けた動きの一部であると、実に単純に浅はかに理解をしていたのである。

今振り返ってみて、まず身近なところで急激に様変わりしていったものとしては、85年の一瞬の煌めくような盛り上がりの後の、純粋にインディーズ的な動きの無惨なまでの衰退がある。
普通に一般のメディアで取り上げられる程に、当時のインディーズは、ひとつの音楽ムーヴメントとして脚光を浴び、文字通りにブームとなっていた。表面的には、ずっと盛り上がり続けてはいたのである。
しかし、それでも、そのブームに簡単に乗じてはゆけない根っからのアンダーグラウンドなものは、そのままアンダーグラウンドに取り残され、見事にマイナー音楽として置き去りにされていた。インディーズ・ブームの内側での二極化の動きが、次第にあからさまになってゆく。やがて、巷の大ブームの中心となっているのが、80年代前半のインディーズとは全く別物のインディーズ(的なもの)であることが、はっきりと見えてくる。
どんなものにも光と影の部分はある。そこでは、ビート・パンクとカテゴライズされる普通に売れそうな普通のロック・バンドにばかり光が当たっていた。そして、そのような動きは、あっさりとインディーズとも呼ばれなくなってゆくのである。もはや、インディペンデントなレーベルを拠点に活動するアーティストは、メジャーなレコード会社との契約を勝ち取れない、ひとつ格が下の存在でしかなかった。いつの間にか時代は、より分かりやすく、より実体の掴みづらいバンド・ブームとして動き出していたのだ。
それは、商品として売れそうな若手バンドを手軽に一括りにした、音楽産業全体が主導し後押しするブームでもあった。結局は、独立系の集団が地道に開拓した新たな領域の新たな動きを、大きな資本が、その商品価値が最も高まる実りの時期を待って摘み取り、一気にそれを生産と消費のサイクルに飲み込んでしまったという形に落ち着いたということなのであろう。
80年代の後半とは、社会と経済の隅々にまで浸透しきった大きく肥大した資本の力によって、あらゆるものが商品となり貪欲に消費されてゆく時代へ、もんどりうって突入してゆく時期でもあった。そんな移り変わり行く時代であったがために、ある種の境界線上にある(境界線上を自由に行き来する両義性や曖昧さこそが魅力であった)インディーズのようなものに関しては、余計に光と影の部分がクッキリと浮き彫りになる結果となってしまったのかも知れない。

80年代後半、街の景色は、俄にバブル景気に沸き立ち始めていた。その最初の予兆は、見慣れた古くくすんだものが、凄まじい勢いで視界から消えてゆくという形で現れた。
家の近くの砂利道が次々と舗装道路となり、道ばたの水路にコンクリートの蓋がつき、幼年時代の遊び場であったどぶ川が暗渠化され、そこに自動車が走れる道路が出現した。床が板張りになっていた強烈な油の匂いのする古めかしい電車の車両が消えたのも、確か、この頃であったはずである。狭くゴミゴミとしていた駅前の街並は、再開発で跡形もなく消え、百貨店のビルとバス・ターミナルに姿を変えた。
今では、あの古ぼけた小さな駅舎の前に広がっていた、こじんまりとした商店や飲食店がひしめき合う田舎の街の風景を、正確に頭の中に思い描くことさえできない。ただ、全てが、狭く、暗く、薄汚れて、やや湿っぽかったことだけは、何となく感覚的に覚えている。
その変化とは、バブルの気配に社会全体が浮き立ち、勢いを増してゆく市場経済至上主義が、ありとあらゆる所に蔓延してゆく過程そのものでもあった。大量消費を宿命づけられた経済と社会は、まず街の景色から底なしの消費を促すものへと日夜更新を行ってゆく。
古ぼけた見映えのしない景色から、どの街も大差のない代わり映えのしない景色へ。生活形態そのものの刷新を有無を言わせずに突きつけてくるグローバリゼーションの波が押し寄せ、昔ながらの日本の社会の姿が土台から崩れ去るようにして様変わりしていった。
そんな、止めようない根源的な変化を、誰もがただ、なす術もなく見守っていた。いや、見守っていたというよりも、その急激な変化の動きから振り落とされないように、必死にそこにしがみついていたといったほうが正しいかも知れない。
確かに、次々に何もかもが新しくなってゆく時代とは、ある意味では刺激的な日々ではあった。ただ、そこで次々と消滅してゆく古いものに対して、何の感情も抱くことがなかったということは、やはりあの時代の激しい動きの中で、何か感覚的なものが完全に麻痺してしまっていたとしか思えない。
そんな、全てが少しずつ狂ってゆく、地域社会の発展や生活水準の向上といったものに化けた(すり替えられた)不気味な大きな時代の変化が、そこでは泡沫の如く展開されていたのである。

80年代が終わりを迎えようとしていた89年12月29日、日経平均株価は38957.44円という史上最高値を記録する。国民一人当たりに換算した国内総生産(GDP)も、87年には米国を抜いて世界第一位になっている。50年代後半からの高度経済成長期という長い長い助走を経て、当時の日本は、遂に世界で最も豊かな国になっていたのである。
国民ひとりひとりが、この豊かさの恩恵に少なからず与ったに違いない。明らかに、この時期に街の景観や生活様式は、明るく利便性に満ちたものへと大きく変化した。このバブルの時代に、社会の構造そのものが根こそぎ変わっていったのである。
しかし、本質的な意味でバブル景気は、日本人の生活に何の豊かさももたらさなかったという意見もある。一人当たりのGDPが世界一で、どこかの株の取引所で最高値がついたとしても、実際の生活の中で、それを実感できるような場面は、なかなかなかったからだ。そして、そんな薄っぺらな実感よりも、バブル崩壊後の景気失速による弊害のほうが、格段に大きかったのだ。
だが、あの当時の日本人が手にしたものは、決して(見せかけの)豊かさだけではなかったのである。何かとても大切なものをあっさりと手放し、合理性や利便性を最優先したことで、昔ながらの日本人の生活の豊かさの尺度そのものが、完全に見失われてしまった。どこまでも曖昧になり、平均化されてゆく日本人らしさ。そして、気づいてみれば、日本人の手の中には、失われた10年とも失われた20年ともいわれる、大きな負の社会的・経済的な遺産だけが残ったのである。
(今回の3月11日の大震災と大災害、そして深刻な原発事故により、この出口の見えない不況が、さらに失われた30年、失われた40年と、ダラダラ長引いてゆく可能性は極めて大きい。)

87年10月19日、ニューヨークの株式市場は歴史的な株価の大暴落に見舞われる。いわゆるブラック・マンデイである。これに伴う世界同時株安によって、世界経済は大打撃を受けた。
しかし、バブル景気に沸き立ち始めていた日本の経済にとって、史上最悪の暴落であろうとも、それほどに大きな影響が及ぶようなことではなかった。一瞬の下降など、すぐに目立たぬものになる程に、日本の経済全体が力強く上昇を続けていたのだから。(リーマン・ショック後の中国経済のように。)
目の前にある終わりの見えない成長の(幻影の)上り坂に浮き足立つ日本にとっては、チェルノブイリの原発事故と同様に、世界経済を突如襲ったブラック・マンデイですらも、ニュースや新聞で報じられる、遠い海の向こうの出来事でしかなかったのだ。
そして、記録的な財政赤字や失業率の増大などに喘ぐ米国とは全く違う角を曲がって、日本は、徹底した新自由主義に貫かれたポスト冷戦期のグローバリゼーションの大きな渦へと飲み込まれゆくことになる。そこで大口を開けて待ち構えるポスト・モダンな社会に、崖上から深い滝壺へと勢いよく飛び込んでゆくような形で。

80年代後半の日本の社会は、暗く沈んでいた世界全体の動きとは、かなりズレまくった空気に包まれていた。そして、多くの日本人は、それが世界で日本のみに限られた、普通ではない状況であることを、全く理解してはいなかった。いや、そのことを正視し真剣に理解しようとすらしていなかったといったほうが正しいかも知れない。終わることなく延々と続いてゆくような経済成長は、人々の感覚を完全に麻痺させてしまうに充分なものであった。
ギラギラとした明るさを増してゆく街の景色。そこにはもう、80年代前半までの日本の社会を覆っていた、くすんだ薄暗さは、もうこれっぽっちもなかった。ネオンは、けたたましく瞬き、街灯は、街の隅々までを明るく照らし出した。日本人は、電力を大量に消費しながら、いつまでも実感できない豊かさの在りかを追い求めて、どこまでもひた向きに走り続けていたのである。
その根っからの真面目さや勤勉さは、折からのバブル景気を、さらに後押しした。そして、異様な熱気に煽り立てられた街は、より騒々しいまでのお節介な明るさに包まれてゆくことになる。麻痺した感覚は、目新しさと明るさだけに反応し、どこかで決定的に豊かさと無駄の垂れ流しをはき違え始めてさえいたのである。
ただ、そんな劇的に明るくなった一億総中流的な日本人の新たな生活様式を可能なものとした、大量の電力供給の裏には、強力な原子力発電の割合の増大という現実があったことも、間違いのないところではあった。実に皮肉な話ではある。
80年代後半、日本人は様々な無駄なものや我欲に塗れながら、必死で本当の豊かさを求める空しい努力に明け暮れ、来たりくるバブル経済の崩壊の日に向けて全力で駆けていたのである。

あの頃の、原子力発電所から首都圏に大量に送電されていた電力による明かりは、それまでの時代のどこか頼りなく弱々しかったものとは、全く明かりの質として異なったものであったようにも感じられる。80年代後半の街灯や電灯の明かりには、何ともいえないギラギラした強さがあった。
ただし、それが原子力に由来していたものなのかは、実際には定かではない。だがしかし、福島の原発事故に起因する計画停電や徹底した節電によって、再びあの頃のような薄暗さが戻ってきた街を見ていると、豊かさの追求という潜在的強迫観念に取り憑かれていた、ここ25年間の日本人の生活様式が、いかに原子力による電力とベッタリであったかを、つとに思い知らされるような気がしてならなかったりもするのである。
だが、そうした強烈な明るさが、少しずつ何か日本人の感覚の根本的な部分を変えていったことは、間違いないところなのではなかろうか。眩い光に麻痺してゆく感覚。至るところに無駄な明かりを溢れさせ、電力を大量に消費することで、充足と渇望のサイクルを極限まで加速させ、刹那の豊かさに満足感を得る。それは、もしかすると、明るい電気の光で、(戦前派から団塊の世代までの)日本人の心に巣食っていた敗戦の暗い影が、少しだけ払拭されたにすぎぬことであったのかも知れない。そして、白々しいほどの過剰な明るさの、その先に、再びモヤモヤとした不安が顔を出す。
禁断の力によって作られた明るさには、常に深い漆黒の闇が、背中合わせに張りついている。遠い未来に噴出することになる途轍もなく暗い時代への伏線は、そのギラギラとしたバブルの喧噪の裏で、すでに着実に日本人の生活様式の奥底にまで張り巡らされていたのである。

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