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zoom RSS 2011, Back To Black III - i

<<   作成日時 : 2011/06/25 04:00   >>

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2011, Back To Black

III - i

大きな時代の変化とともに、いつしか薄れていってしまった80年代に感じていたもの、それを鮮やかに思い起こさせてくれる音楽作品を、猛烈な勢いで聴き返したものの中に幾つか見つけることができた。また、3月11日以降の世界で聴き返すことに、何らかの意味が見出せそうな80年代の音楽作品も、幾つか見つかった。そのうちの重要な鍵を秘めていそうな作品を、ここで少しだけ紹介しておきたい。

画像まずは、78年に発表されたニューヨークのアンダーグラウンド・ミュージック・シーンの生々しい息吹を伝えてくれるオムニバス・アルバム“No New York”である。
いきなり70年代後半の作品であるが、個人的にこの作品を初めて聴いたのは80年代に入ってからであり、感覚としては80年代に最も強く衝撃を受けた一作という位置づけになっている。だが、その当時にはもう、すでに半ば忘れられたような作品となっており、友人とレコードを探し出しすまでに少し苦労した記憶がある。
70年代後半のニューヨークのリアルなアヴァンギャルド・ミュージックであり、商業的な成功をおさめつつあったニュー・ウェイヴとは一線と画す、アーティスティックな表現に真っ向から取り組む、いわゆるノー・ウェイヴ系の全4組のアーティストの楽曲を収録した“No New York”。これは、ハッキリ言って、あまりわかりやすい万人向けの音楽(いや、どちらかというと非音楽であろうか)を収めた作品ではない。
それゆえにか、発表から数年が経った80年代にこれを聴こうとするのは、まさに一部の物好きのみであったのだろう。実際に、この作品が正当な再評価を受けて再発されるのは、発表から25年以上を経た00年代に入ってからのことである。

現在ではロック史上に残る名盤のひとつに数え上げられている“No New York”であるが、そもそもこの作品を企画し制作したのは、元ロキシー・ミュージック(Roxy Music)の名プロデューサー、ブライアン・イーノ(Brian Eno)であった。偶然、ニューヨーク滞在中にノー・ウェイヴ系のアーティストのライヴ演奏に遭遇したイーノは、その斬新極まりない音楽性の煌めきに衝撃を受け、それらの地下シーンの無名アクトたちに対し自らレコーディングの話を持ちかけたという。
そして、ジェイムズ・チャンス(James Chance)率いるザ・コントーションズ(The Contortions)、リディア・ランチ(Lydia Lunch)率いるティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークス(Teenage Jesus And The Jerks)、マーク・カニンガム(Mark Cunningham)やルーシー・ハミルトン(Lucy Hamilton)が在籍していたマーズ(Mars)、アート・リンゼイ(Arto Lindsay)とイクエ・モリ(Ikue Mori)が在籍していたD.N.A.の全4組が、そのレコーディング・セッションに参加することとなった。
録音は、殆どがスタジオ・ライヴ形式で行われ、独特の空間的な音作りを手がけることに定評のあるイーノにしては珍しく、そこにプロデューサーとしての意匠や手心を加えるようなことは(ほぼ)行っていない。ニューヨークのアンダーグラウンド・サウンドのありのままを、音源として記録することに極力つとめているのである。まさに、“No New York”とは、イーノが衝撃を受けた70年代後半のノー・ウェイヴ・シーンの生々しいドキュメントなのだ。

この歴史的なアルバムには、後のオルタナティヴ・ミュージックや実験音楽に大きな影響を及ぼすことになる、ロフト・ジャズの流れを汲むアヴァンギャルド・ミュージック・シーン、CBGBなどを中心とするニューヨークのパンク・シーンにおいて活躍していた、切れ者アーティストや気鋭の若手バンドが、こぞって参加をしていた。中でも、アルバムの冒頭に登場するコントーションズのバンド・マスターにしてヴォーカルとサックスを担当するジェイムズ・チャンスの、完全に比類なき才気のほとばしりには、初めて聴いた瞬間に雷に打たれたような衝撃が走った。
ノイズ混じりのコントーションズの捩じれて引き攣ったファンク・サウンドと、今にも引きちぎれそうなサックスのヒステリックな咆哮。チャンスの変名であるジェイムズ・ホワイト(James White)とは、ファンクの生みの親にしてキング・オブ・ソウルであるジェイムズ・ブラウン(James Brown)を大いに意識した名前であることは明白である。
このアルバムでもコントーションズは、ブラウンの代表曲のひとつ“I Can't Stand Myself (When You Touch Me)”を、かなり壊れたホワイト・ファンクなアレンジで披露している。そこには、チャンスのブラウンとファンク・ミュージックに対する深い愛情と、ホワイト・ファンカーとしての独自の立地から湧き出てくるノー・ウェイヴなファンク観が、綯い交ぜになって表されているようでもある。
そして、いつしかチャンスの捩じれた歌声とサックスは耳にこびりついて離れなくなっていた。今度は、暫くコントーションズのレコードを手に入れるために、あちこちの中古レコード店を巡る日々が続いた。当時は、“No New York”以上に入手が困難な盤ばかりであったが。

この“No New York”というアルバムのタイトルは、「No Nukes」という核兵器や原子力エネルギーに反対する運動のスローガンを捩ったものであるといわれる。普通に、誰が読んでも、このふたつのフレーズは、非常に近い発音となるであろう。
78年といえば、まだまだ世界的には、ロンドン発のパンク・ロック・ムーヴメントが真っ盛りであった時期にあたる。よって、この作品のタイトルに、そうした社会的な主張が込められていたとしても、何ら不思議ではない。ただ、チャンスやランチが、このアルバム中で、そうした内容の歌を正面切って歌っている訳では決してない。
だが、本作の発表の翌年である79年の3月28日に、ペンシルヴァニア州ハリスバーグのスリー・マイル島原子力発電所において、原子炉の炉心冷却の失敗による炉心溶融が引き起こされる大きな事故が発生した。実に嫌な方向への皮肉な巡り合わせではある。すぐ隣りの州で起きた、多くの周辺住民が区域外に避難することになるような大事態に、おそらくニューヨークでも瞬く間に不安が広がったに違いない。
そして、同年の9月には、ジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)、ジョン・ホール(John Hall)、クロスビー、スティルス&ナッシュ(Crosby, Stills & Nash)、ザ・ドゥービー・ブラザーズ(The Doobie Brothers)、ジェイムズ・テイラー(James Taylor)、カーリー・サイモン(Carly Simon)、ライ・クーダー(Ry Cooder)、チャカ・カーン(Chaka Khan)、ギル・スコット・ヘロン(Gil Scott-Heron)(合掌)、ボニー・レイット(Bonnie Raitt)、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ(Tom Petty And The Heartbreakers)、ブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリート・バンド(Bruce Springsteen & The E Street Band)などの、アメリカン・ロックやジャズ〜ソウル〜ブルース〜R&B系の多くの著名アーティストが集結した、反原子力エネルギーを提唱するMUSE(Musicians United For Safe Energy)主催の「No Nukes」と題されたコンサートが、Madison Square Gardenにおいて盛大に開催されている。
このコンサートの模様は録音されており、早くも二ヶ月後の11月に三枚組のライヴ・アルバム“No Nukes: The Muse Concerts For a Non-Nuclear Future”としてリリースされた。そして、翌80年には、このコンサートの模様をカメラが追ったドキュメンタリー映画『No Nukes』も公開されている。

しかし、こうしたスリー・マイル島の事故に端を発する反原発運動や反核への世論の高まりとともに、そのスローガンを駄洒落のように捩ったタイトルの“No New York”は、シヴィアで現実的な社会問題を前にして、その存在感が限りなく薄くなってきてしまう。
だが、この両作品を聴き比べてみると、メジャーなアーティストによる“No Nukes”が、伝統的なフォークやカントリーやブルースなどを基盤とする(いわば普通の)アメリカン・ロックを中心とした安心して聴ける内容であるのに対し、思いきりラディカルなスタイルのジャズやファンクやロックが展開される“No New York”は、新しい時代の得体の知れない核の恐怖のサウンド・トラックとして、これ以上に相応しいものはないようにも思えたりする。
その反音楽的・反ポップ的なサウンドは、決して安心して心穏やかに聴けるようなものではなく、身近に原発事故の存在を感じながら生きる不安な時代のシリアスさを、生の情感を剥き出しにした音で表しているようにも感じられるのだ。ただ、そうした音の過激な性質ゆえに、全く万人受けしなかったことも確かなのだが。

画像次は、80年に発表されたザ・ポップ・グループ(The Pop Group)の二作目のアルバム“For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”を取り上げたい。
ポップ・グループは、78年にブリストルで結成された、ポスト・パンク期の最重要バンドのひとつである。偶然にも“No New York”のリリースと同じ年に誕生した、この若いバンドは、まるでニューヨークのノー・ウェイヴ系の動向に大西洋を挟んで呼応するかのように、ファンクやアヴァンギャルドなジャズ、ルーディなレゲエ・ダブのスタイルを混ぜ合わせ、独特の若くパンキッシュな感覚でリアレンジした、極めてアグレッシヴで実験的なサウンドを表出させていた。
不条理で不平等な社会に対する苛立ちや憤りの感情を、生々しい無骨なグリーヴとともに吐き出していたポップ・グループのヒリつくような音楽性は、大きな衝撃とともに瞬く間に話題となり、これを受けて当時のインディペンデント・シーンの総本山であったRough Tradeとの契約が交わされた。そして、そこからリリースされたポップ・グループとしての二作目にして最後のアルバムが、この“For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”であった。

ポップ・グループは、パンク・ムーヴメントを通過してきた若い世代のバンドらしく、その活動形態においても完全にインディペンデントな姿勢を貫いていた。その強く社会性や政治性を打ち出した活動を、ポリシーを曲げずに自由に行ってゆくためにも、その決して長くはなかった活動期間を、徹底してインディペンデントな姿勢で貫き通したのである。
そしてまた、こうした社会派のバンドにとって、そのラディカルなサウンドや歌詞とともに、作品のジャケットを飾るアート・ワークも、外部に対して訴えかけるメディアとして重要な機能を果たしていたことは見逃せない。
ポップ・グループも新しい作品が発表され、Rough Tradeなどのレコード店の店頭にディスプレイされることを想定し、その作品のタイトルとジャケットを通じて強烈なメッセージ性を打ち出す戦略を採用している。それは、そのレコードを直接購入して聴かない人にも、店頭で見かけただけで二度と忘れられなくなるようなインパクトを与え、社会的な注意を喚起するという、ひとつのゲリラ的方法論でもあったのだ。

アルバム“For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”のジャケットでは、そうした強いインパクトのあるメッセージ性が、これ以上なく視覚的に、そしてストレートに表現されている。
タイトルは、「いつまで我々は大量虐殺を容認し続けるのか?」という意味の、平和な日常の中で権力に飼い馴らされ安寧に暮らす全ての市民に対して投げかけられた辛辣な問いかけである。
ジャケットのスリーヴには、世界各地で絶え間なく起きている地域紛争、南北格差による飢餓、プロテスト活動や核戦争の恐怖などについてを伝える報道写真や新聞記事が、所狭しとコラージュされている。
そこに大きく載せられている、思わず目を背けたくなる程に痩せ細った少女たちの姿をとらえた写真は、まさに当時の世界情勢(30年以上が経過した現在も殆ど変わっていない)を有りのままに伝えるものである。そして、それは、現実のリアルな世界の姿そのものを、見るもの全てにダイレクトに突き付ける。
ポップ・グループは、その作品のタイトルとジャケットで、既存のメディアでは体よく隠蔽され、公正に伝えられることのない真実や真の世界の姿を、暴き出し、商品のパッケージとして流通させることを試みる。
これは、やはり、徹底してインディペンデントに活動する(一定の影響力のある)アーティストであるからこそ可能となった、極めてラディカルに既成のシステムに対抗する戦略であったといえるであろう。

個人的に、このジャケットのアート・ワークで、最も印象に残ったのは、右の上部にコラージュされている新聞の記事であった。そこには、ふたつの時計のグラフィックが大きく載せられている。
これは、時計の長針が大きく進んだことを告げる記事である。しかし、ただの時計の針の動きの話ではない。世界終末時計(Doomsday Clock)についての記事なのである。
その見出しには、「戦争まであと6分」とある。つまり、時計の針は、世界が全面核戦争開始のほんの6分前という、非常に危険な状態にあることを示している。そして、世界終末時計の長針が大きく進んだということは、世界を包む緊張関係が一気に悪化したということでもある。
東西の冷戦構造が大きな緊張を孕んだものとなった80年代に、この世界終末時計の針は大きく進み続けた。そして、この時計の針が進んだことを知るたびに、地球が存亡の危機に瀕し、人類の滅亡が間近に迫っていることを強く意識させられたのだ。世界終末時計については、学校で社会科の時間に学んだ記憶がある。
80年代半ばに、この時計の針は冷戦初期の50年代以降で最も進行し、終末まで3分前というところまで突き進んだ。これは、お湯を注いでインスタント・ラーメンが出来上がる頃には、世界は全面的な核戦争に突入していたとしても、決しておかしくはないということである。一度、核のボタンが押されてしまったら最後である。わたしたちの頭上を、ちっぽけな地球を何個も吹き飛ばしてしまえる程の核弾頭が、西へ東へと飛び交うことになる。
80年代とは、まさにそういった、すぐそこにある危機を肌で感じながら生き抜かなければならぬ時代だったのである。このポップ・グループの“For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”のジャケットを見るたびに、そんな記憶がまざまざと蘇ってくる。

世界終末時計の長針は、90年代に入り冷戦が終結するとともに大きく巻き戻され、最高で終末まで17分前という状態にまで改善されることになる。当時は、不安と恐怖に満ちていた80年代が遂に去り、核戦争や終末を暫し忘れていられる平和で明るい時代が、ようやく訪れたのだと心底感じられたものである。
未来は、数分後の終末などではなく、本当の意味で明るく見通せるものとなり始めた。それが、眩いばかりの90年代の幕開けであった。80年代半ばから、ほんの5年という年月で、世界終末時計の長針の動きが象徴するように、世界は大きく様変わりしたのである。

そんな90年代も早くも遠い過去のものとなり、世界終末時計の長針は再び滅亡の時へと着々と進み始めている。10年の時点での終末までの時間は、僅か6分。奇しくも、80年に発表された“For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”のジャケットに載せられている時計の針の位置と全く同じである。
ただし、今回の福島での深刻な原発事故と、それに対する対処や処置の適切さ如何によっては、時計の針は、さらに進行することも予想される。いつまで原子力エネルギーを容認し続けるのだろうか。そこに絶対の安全は存在するのか。我々は、再び、あの80年代と同じ、終末へと近づく道を歩み続けているのかも知れない。

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