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zoom RSS VA: Up Our Legs Now

<<   作成日時 : 2010/07/30 03:00   >>

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VA: Up Our Legs Now
Up Your Legs Forever uylf001

画像 驚くべきことに、ビルボード(Billboard)誌のヒット・チャート、Hot 100をザッと眺めてみても、全く何の感慨も湧いてこない。100曲の内に、興味をそそられるようなものは、殆どないのだ(100曲もあるというのに!)。全く知らないアーティストたちによる楽曲ばかりのせいか、何の驚きもなければ、特にこれといった大きな発見もない。10年7月17日付けのチャートで、何やら妙な異彩を放つ点があったとすれば、それは、いまだに13位にランク・インしているラ・ルー(La Roux)の“Bulletproof”ぐらいなものであろうか。しかし、これにしても本国UKでの大ヒットからは、約一年近いタイム・ラグがあってのブレイクなのである。よって、ちょっとした反応の鈍さのようなものを、まず最初に感じずにはいられない(自国のアーティストでない外部からやってくる者の楽曲に対するUSチャートの反応というのは、常にビックリするほど鈍重なものではあるのだが…)。
 この100曲は、世界的権威である(はずの)ビルボードが発表しているヒット・チャートにランキングされているのだから、きっと大ヒットし成功を収めている楽曲ばかりであるに違いない。では、一体どこで大ヒットしているのであろう。一応のところは、アメリカ全土で、となるのだろうか。しかし、どんなにアメリカ全土で大受けであったとしても、その気配らしきものは、あまりこちら側に伝わってきてはいない(もしくは、伝わってきているのを見過ごしてしまっているだけなのだろうか?)。海を隔てた、太平洋のこちら側には、大受けの噂すら流れてこないのである(膨大な量の情報を取捨選択するうえで、バッサリと切り捨てられてしまっている可能性は大いにあるが…)。いまだビルボードに明らかに目に見える形で権威があった時代には、ヒット・チャートに載っている楽曲は、実際に本当の世界的な大ヒット曲ばかりであった。アメリカ全土で大受けしている楽曲は、海のあちら側でもこちら側でも、そのまま所構わずにそこら中で大受けしていた。ビルボードのHot 100は、まさに世界レヴェルでのポップ・ミュージックの現在を映し出す、紛れもない指標となっていたのだ。そして、そうした指標の機能をスピーディかつ即効性をもって果たすために、毎週のヒット・チャートは算出され弾き出されているのだと、暗黙のうちに思い込んでもいた。そう、実に多くの人々が、ただひたすらにそれを甘受して無邪気に楽しんでいた(まさに、踊らされていた)のである。
 だが、いつの頃からか、その世界的な権威にも翳りが見え始めてきていた。音楽(作品)が大量消費のための商品として成立するようになって以来、いつの時代にも多くの人々に無条件に甘受されるポップ・ミュージックは存在したし、そこに付随するように人気のヒット曲をリスト・アップしたヒット・チャートも20世紀の中頃より必然的に作成され続けてきた。もはや、その形式的にも消費文化的にも確立されきった権威は、決して揺らぐことなどありえないと思えたのだが、やはり、それも単なる思い込みでしかなかったようだ。傾いた陽は、アッという間に沈んでしまうものなのである。
 90年代後半のアメリカは、唐突にやって来たインターネット・バブルに沸いていた。まだ長引く不況の出口すら見出せていなかった海のこちら側では、それは何の確証もないままに盛り上がる、浮ついた大騒ぎのようにしか思えなかった。ギラギラゴテゴテしたアメリカは、明らかにこちら側の世界の流れとは全く異なる方法へと向かっていた。その束になったドル札こそが全てであるかのようなパーティ三昧の感覚は、世界の現実とは、遥かに遠くかけ離れたものになっていたのだ。ヒット・チャートを賑わせていたバカバカしいヒップホップ曲は、仲間内の意味のない諍いや、クルマやオンナやアホ臭い成金趣味について歌うことに明け暮れていた。
 その浮かれた勢いのままに21世紀に突入すると、ふたつの世界(アメリカと非アメリカ)の間に漫然と広がっていた遊離は、いきなり決定的にして明らかなものとして忽然と姿を現してくる。そして、ポッカリと開いた大きな裂け目からは、様々なおぞましきものが次々と吹き出した。ひとつであるかのように見えていた世界(そんなの激しい錯覚でしかないが…)は、粉々に砕け散ってしまったのである。全てが見え透いたものでしかなかったことが発覚してしまった後では、もはやアメリカのヒット・チャートは、何の意味も持たなかった。悪化の一途をたどる状況の中で立ち止まって振り返ってみた時には、アメリカ全土の外側では、それを構成しているアメリカ的な様式や語り口は、すでに全く通用することも共感を得ることも不可能になっていたのである。そのポップの文化としての輝きは、まさに崩れ落ちるように失われてしまった。残されたのは後味の悪い幻滅だけ。ただ、それでも、後の祭りらしきものは、限りなく無意味に続いた。全ては、もう後戻りできないところまで行き着いてしまっている。そして、そのまま、かつての輝かしい権威を取り戻せぬままに、今に至っているのである。
 おそらく、もう二度とビルボードのHot 100が、世界的なヒット・チャートとなることはないだろう。現在の100曲をザッと眺めてみただけでも、そのことを痛感させられる。間違いなく、この10年近い年月の間に、アメリカ全土も、激しく内向きになってしまった。いや、実際には、アメリカという国は、一皮むけば、ずっと内向きであったのだともいえる。ただ、外部に位置する取り巻きたちにチヤホヤされ、うざいまでに追従されていただけなのだ(輝かしいアメリカ的な魅力を商品として巧みに押し売りしたせいで…)。現在のヒット・チャートには、アメリカ的な場でしか通じないような楽曲だけが並んでいる。それらは、外側の世界への訴求力にも波及力にも、極めて乏しい。どれもこれも感覚的に大きくズレきってしまっているような部分がある。世界は、もっと緊張感に満ち、切羽詰まっているのであるが。
 少しばかり話は逸れるが、内向きの問題について軽く突っ込んで触れておこうと思う。つい先日、韓国の人気シンガー(兼モデル/女優)のソン・ダムビ(Son Dam Bi)が発表した新曲“Queen”が、ケシャ(Ke$ha)のヒット曲“Tik Tok”に酷似していることが話題となった。盗作の疑惑が色濃いとして、様々な批判の声が挙げられた。実際に、このふたつの楽曲には、非常に似た部分があり、そのサウンドもメロディも、とても近いといえば近い(しかも、この問題以前にも“Queen”のプロモーション・ヴィデオの幾つかのカットに盗作の疑いがあり、急遽当該箇所を差し替えた別ヴァージョンが作成されてもいる)。なぜ、このような極端にあからさまな引用/盗用が、こんなにも堂々となされてしまうのであろう。ひとつの要因として考えられるのは、視線が完全に内向きなせいだからではなかろうか。おそらく、そこに起因している可能性は、かなり大きいはずである。内向きの視点で制作されたものは、悲しいかな決して外側へ向けて発信されることを第一の前提にはしていない。だが、実際には、全ては、急速なテクノロジーの進歩と発展によって、ほぼオートマティックに外側へと開かれたものとしてあるのである。また、同時に、ネットワーク上の個々の点から、外側にばら撒かれる情報に対してアクセスすることも、極めて容易になってきている。一昔前であれば、一部の鋭い人々の間のみで知られ、外側へ流れ出すことのなかった貴重な情報が、瞬時にして、世界中の人々が知るところのものになり、有意義に共有され活用されていたりもする。しかし、そうした情報の重要さは、現実には諸刃の剣でもある。その禁断の木の実の味を知ってしまったことにより、そこら中に溢れかえっている情報の大洪水にジッと目を光らせている人々も、今や非常に多い。そうした奇妙な衆人監視状況の中で、やはり目敏く、今回の盗作に関する事案も、見事に摘まみ上げられたというわけだ。水も漏らさぬような網の目が、細かな情報網に沿って張り巡らされていたとしても、完全に内向きにしか世界を見ていない者には、その幾重にも折り重なった網の存在は全く見えてこない。自らが外側に向けて無防備に情報を発信していることに対して、全く自覚的ではないのである。極度に内向きであるがゆえに、そこまで意識が及ばないのだ。よって、全ての問題は、最初のスタート地点から始まって、雪だるま式に巨大化していってしまう。そして、気づいた時には、もう取り返しのつかないところまで転がり落ちてしまっている。ただ、内向きであることで、据わりがよくなり安定感が得られやすくなるという利点は確かにある。視線が及ぶ世界や相手にすべき世界が、極めて限定された狭いものとなるはずであるから。そこでは、何事もやりやすく、物事もスムーズに進めやすくはなるだろう。だが、それは内側のみでの話でしかない。内向きにしか見ていない者は、その内側のみが世界の全てだと錯覚してしまいがちなのだ。そこでの了解など、片手落ちで、外側の世界では、全く通用しないものであることは、自明であるにも拘らず。独善的に世界を区切る行為は、極めて危険である。そもそも世界に区切りらしきものなど、どこにもなかったではないか。
 現代は、何がポップであるのか、とても見極めにくい時代となっている。もはや、誰にとっても一律にポップだと感じられるものなど、存在しなくなってしまったのだろうか。それぞれにポップの基準が、まちまちに不安定に設定されている。現在のポップを追い求めてゆくと、そこには必ず何らかの合意と一致に関する曖昧さがつきまとうであろう。かつては権威あるヒット・チャートを軸に、どこかで折り合いがつき何らかの了解を得られるものであったのが、今やその基準らしきものは散り散りになりバラバラに拡散してしまっているのだ。あの頃のマイケル・ジャクソン(Michael Jackson)やマドンナ(Madonna)の存在は、現在の萎みきった状況から眺めると、まるで絶滅してしまった巨大恐竜のようにも思えてくる。凄まじいほどに全世界的に大ヒットするポップミュージックを中心に、映像やファッションや笑いにいたるまでのポップ文化全体が轟々と音を立てて動いていた時代。あれは、一体何だったのだろう。何もかもが騒然とした大騒ぎであったような気もする。ちょっと冷静になって考えてみると、とんでもない時代であった。
 84年に発表されたマイケル・ジャクソンのシングル“Thriller”。この楽曲のプロモーション・ヴィデオに、何と13分34秒にも及ぶホラー映画仕立てのロング・ヴァージョンが存在することは、当時すでに微かに伝わってきていた情報で知ってはいた。ただ、当時の日本のTV番組が、それをフル・ヴァージョンで放映するような気配は、全くなかった(アメリカのヒット・チャートを紹介する情報コーナーなどで、短くプロモーション・ヴィデオが流れることはあったが…)。さだまさし(Masashi Sada)の“親父の一番長い日”の12分30秒ですら、フル・コーラスで放送されることは、殆どなかったのである。CM無しで13分34秒というのは、TV放送の限界を越えていたのだろう。よって、その本編を実際に初めて観たのは、とある電器店の二階のレーザー・ディスク売り場であった。そこにあったテレビで、噂のプロモーション・ヴィデオが、延々とリピート再生されていたのだ。テレビを中心とした半円状に何人もの人々が、そこを取り囲んで、最先端のエンターテインメントであった衝撃の映像に、微動だにせずジッと見入っていた光景を思い出す。それは、まさに魔法の13分34秒であった。今の世界で、そんな老若男女を問わずに釘付けにしてしまうような魔法が現実に存在することを、素直に信じられるだろうか。
 はたして、ポップ・ミュージックは、どこに行ってしまったのだろう。跡形もなく消えてなくなってしまったのだろうか。巨大恐竜であったのならば、化石のような明らかな痕跡ぐらいは残しそうなものだが。そして、ポップなものが開く夢の世界を信ずる人々は、どこかで今も、その魔法の痕跡を真剣に探し求めてもいる。だが、TVにもラジオにも、それらしきものをなかなか見出すことはできない。一瞬にして世界の景色を変えてしまうようなポップ・ミュージックは、もはやどこからも流れ出してきそうもないのである。すると、そうした状況の中に出現してくるのが、ただあてもなく漂流を続けることになる、膨大なポップ・ミュージック難民だ。TVやラジオなどのメディアに溢れかえるポップ文化を(おそらく自分と同じようにTVやラジオの前にいるであろう不特定多数の人々と)共有することを通じて、世界の一部に属していることを実感していた多くの人々は、知らぬ間に舫綱を解かれてしまった筏のように、時化て荒れる大海に放り出されて彷徨い続けているのである。崩れ落ち砕け散った世界に、どこにも見つかることのない魔法の痕跡を追い求めて。そして、その難民の一部は、巡り巡ってネットレーベルの世界に辿り着くことになる。そこは、いまだにフロンティア精神が、その文字通りの意味をもちうる場所でもある。未開拓の辺境にポップ・ミュージックの原石を求めて、倦み疲れた難民たちの一部が分け入ってゆく。そこに待ち構えているのは、奇跡のゴールド・ラッシュであろうか。はたまた、野垂れ死にの荒野なのか。ただ、もしかすると、ここに足を踏み入れた猛者たちは、追い求めていた何かの手がかりめいたものに、思わぬ形で出くわすことになるかも知れないのである。それは、化石でも痕跡でもない。全くの新しい形の鉱脈。
 そんな可能性を秘めた場所とは、カナダの中南部に位置するウィニペグに拠点を置くネットレーベル、Up Your Legs Foreverが発表した、このコンピレーション・アルバム“Up Our Legs Now”のことである。Up Your Legs Foreverは、今年設立されたばかりの新しいネットレーベルであり、細かな音楽ジャンルのテリトリズムには捕われずに、ひたすらにポップな歌モノを追求したリリース作品を精力的に送り出してゆくことを第一の目標としている。どうやら、このUp Your Legs Foreverは、極めて出来のよいポップな歌が、多くの人々を強く惹き付けてやまない魔法をもつことを、非常によく心得ているようだ。ポップ・ミュージックは、北方に国境を越えて、落ち延びたカナダの地で復権しようとしているのだろうか。ただし、Up Your Legs Foreverは、リリースしてゆく作品の音楽ジャンルに拘泥しないのと同様に、アーティストの国籍にも全く頓着しないことを宣言してもいる。ここで復権しようとしているのは、どうも、かつてのような強力にアメリカ文化的な匂いのするポップ・ミュージックというわけではなさそうだ。このあたりのワイドにオープンな感覚には、実にネットレーベルらしいところがある。地球上に隈無く網の目のように張り巡らされた、巨大にして広大なるネットワークの中でレーベルとして活動するということは、最初からその存在は、外に向けて大きく開かれたものとしてあるということでもあるのである。
 “Up Our Legs Now”は、Up Your Legs Foreverからの第一弾リリース作品である。リリース日は、10年6月1日。ドッサリと全34組のアーティストによる全34曲を収録した、ヴォリューム感満点のコンピレーション・アルバムとなっている。形式としては、歌モノのポップな楽曲ばかりを集めた、CD2枚組の作品集ということになるようだ。それぞれのディスクに各17曲ずつを収録した形を、レーベルとしては想定しているらしい。かつてのCDで音楽作品が発表されていた時代のレトロなフォーマットを、過ぎ去りしものとして(ネタとして)懐かしんでいる感じであろうか。いきなり、その第一作目から、世界中から選りすぐった34のポップな歌モノ曲をコンパイルして、ガツンと超大作で挑んでくるあたり、Up Your Legs Foreverも、これには、かなりの気合いを込めているのではなかろうか。ある意味において、この作品は、レーベルとしてのマニフェストなのである。Up Your Legs Foreverは、Up Your Legs Foreverなりのポップ・ミュージックの世界を、全34曲の収録曲を通じて大いにアピールしてみせる。初っ端からUp Your Legs Foreverのネットレーベルとしての命運を賭けるぐらいの勢いで。そこには、世界初のポップな歌モノをメインのメニューとしたネットレーベルを自負するプライドが、間違いなくある。
 ここで、この作品に収録されている全34曲を、ひとつずつ詳細に紹介してゆくのは、ちょっとした大仕事になってしまいそうなので、ひとまずは、いくつかの印象的な楽曲をピック・アップするだけにとどめておこうと思う。ただ、ひとつだけ言えることは、このコンピレーション・アルバムの収録曲は、いずれも歌モノのポップスとしてのレヴェルは非常に高い、ということ。よって、この場で取り上げているものだけが素晴らしいということでは決してない。ちょっとした個人的な嗜好や、それを聴いた瞬間の印象のみによって、そうなっているということでしかない。とりあえず、そのあたりは御了承いただきたい。
 まずは、冒頭を飾るマイク・デベナム(Mike Debenham)の“We Value Your Input”から。デベナムは、オーストラリア在住のシンガー・ソングライターである。オーストラリアというと、どうしても太陽が燦々と照って、カラッと明るいイメージがあるのだが、デベナムの歌は、そうしたイメージを思い切り裏切るものである。それは、ややジメッとしていて薄暗く、密室でひとり独白でもするかのように歌を紡いでいる雰囲気だ。ただし、その筋金入りの孤独感がヒシヒシと伝わってくる歌は、ネクラなアコースティック曲としては絶品と呼べる域にまで達しているともいえるだろう。どうしても世間との折り合いが、なかなかつかなそうな感じが、朴訥とした音の端々によく表れている。
 続いては、伝統あるインディ・ポップの聖地のひとつ、マサチューセッツ州ボストンを拠点に活動するキャット・ナインテイルズ(Kato Ninetails)の“Be Somebody”。エレクトロニックなサウンドを基調に、微かにディスコのフィーリングをまぶして、爽やかな青春ポップスを展開している。だが、これが決してイケイケな青春にはなっていないところがミソだ。若者とは、いつの時代にも悩み多きものなのである。大きな不安や焦りも、目一杯に胸の内に溜め込んでもいる。甘めのコーラスを配しながらも、どこかウダウダとしているメロディを尻目に、皮肉にも瑞々しい電子音のフレーズだけがグングンと駆け上がってゆく。いつまでも、いつまでも、無邪気に能天気なままでいたい。グダグダなまま、うんざりするほどウダウダと終わらない青春。
 エレクトロニック系のサウンドの楽曲としては、トゥー・バッド・ノー・ロボッツ(Too Bad No Robots)の“Frankly, I Don't Mind”も、なかなかに気持ちよく、ピコピコの電子音を盛大にフィーチュアしていて素晴らしい。トゥー・バッド・ノー・ロボッツは、リッチモンドを拠点に活動するグループのようである。ただし、リッチモンドという街は、殆どのアメリカの州に存在する。それは、どこにでもあるアメリカの郊外の街を象徴するような街の名前なのだ。トゥー・バッド・ノー・ロボッツは、東部のヴァージニア州と北部のウィスコンシン州の間(いずれの州にもリッチモンドは存在する)をとって、中部のインディアナ州のリッチモンドあたりが、最も平均的なリッチモンドであろうとしている。このリッチモンドにまつわる事柄は、今やロボットがアメリカの社会の至る所に浸透しているということと、何か関連があったりもするのであろうか。ちょっと興味深い。だがしかし、そのサウンドは、あまり明確なまでにアメリカ的なものではないのである。かなりモロに80年代初頭あたりの極めてシンプルなシンセポップを意識したものなのだ。感情の曇った憂いのあるヴォーカルと、ハンド・クラップやポコポコのパーカッションを多用した緩めのビートの絡みは、マンチェスターやシェフィールドから登場した電子ポップ黎明期のグループのそれをハッキリと思い起こさせるものがある。ある意味、その系統としては、バリバリに王道感のある音だといえるのかも知れないが。
 80年代初頭といえば、ここにはなぜか往年のラフ・トレード系のアーティストのサウンドに近い雰囲気をもつ楽曲が、いくつか収録されており、その独特な音の質感で目立つ存在となっている。まずは、ミネソタ州のミネアポリスとセント・ポールを拠点とするオートクランプ(Autoclamp)の“Love In Space (Pts. I and II)”。オートクランプは、スコット(Scott Martin)とブライアン(Brian Martin)のマーティン兄弟からなるアコースティック・デュオである。微妙にスケール感のある歌を、たったふたりの歌と演奏で構築してゆく、切ないほどの手作り感覚が何ともいえない。いい感じに効いたエコーが、漆黒の宇宙の闇にフワフワと浮かぶサイケデリックな雰囲気と、侘しさや寒々しさを、全てない交ぜにして運んでくる。基本的に素朴なフォーク・ポップであるマーティン兄弟の歌には、何やら実に染みるものがある。お次は、ロンドンの男女デュオ、ヘルシャンク(hellshank)の“Analogue Girl”。極度にシンプルなドラム・マシーンによるビートに、全く派手さのないギターが必要最低限のコード感を付け、今にも裏返りそうな上ずった女性ヴォーカルが、半ば語りスタイルの素人臭い歌唱をのせてゆく。そのサウンドは、いやがおうにもヤング・マーブル・ジャイアンツ(Young Marble Giants)やザ・レインコーツ(The Raincoats)あたりを思い浮かべてしまうものである。後奏では、実に眠た気な音色のシンセが、ムニョムニョとしたソロを展開し、そっと華を添えている。そして、ニューヨーク出身で現在は東京在住というリチャード・ストルゼンタラー(Richard Stolzenthaler)によるプロジェクト、ロンビクルス(Rombiculus)の“Mind Control”。コロコロと転がるようなピアノとチャカポコなパーカッションの演奏を軸とした、エキゾティックさと密室感が入り交じった独特なサウンドの空気感。これには、初期のスクリッティ・ポリッティ(Scritti Politti)やザ・モノクローム・セット(The Monochrome Set)を思い起こさせるものが濃厚にある。シンプルにピュアなポップスを演ろうとしているのだけれど、どうしても知性が邪魔して、頭でっかちな変テコなものになってしまうみたいな部分を、それぞれの共通点として挙げることができるだろうか。決して意図したものではないと思われる捻くれ感が、妙にマインド・コントロール的でクセになるのだ。これらが、ちょっと気になったラフ・トレード的な楽曲群である。いずれも素朴でシンプルなサウンド・プロダクションの家内制手工業的なポップスを作り出してゆく過程で、80年代初頭のピュアなDIYスタイルのサウンドに図らずもリンクしてしまった、という感じなのであろう。インディ・ポップ路線を真っ直ぐに突き進んでゆくと、いまだにラフ・トレードな音にブチ当たることになるという、この紛れもない事実。80年代初頭に湧き起こった革新的なクリエイティヴィティの爆発の凄まじさを、まざまざと実感させられるようでもある。ズブの素人たちこそが、ポップ文化の未来を切り拓いてゆく。常に容赦なく虚飾を削ぎ落としてゆくところから、何かが始まるのだ。
 素朴な美しいメロディをフィーチュアした歌モノとしては、ジョシュ・ベルヴィル(Josh Belville)による“Saturday”にも際立ったものがある。ベルヴィルは、オレゴン州ポートランド(出身はアイダホ州)を拠点に、俳優としても活動しているシンガー・ソングライター。歪んだエレクトリック・ギターに、ノタノタと歩き回るようなビート。柔らかな歌声が、淡々と輝かしき土曜日の喧噪や悲哀を歌い上げてゆく。それでもきっと、毎日が土曜日だったら、きっと人生は今の何万倍も喜ばしきものになるに違いない。恐ろしいほどにピュアで素朴な、決して力づくで何かを成し遂げようとはしなさそうなパワー・ポップ。全てが淡々と進んでゆく中で、キャッチーなメロディだけが妙に浮き立ってくる。だけど、土曜日は一週間のうちで、たったの一日だけ。輝かしい瞬間というのは、常にほんの一瞬のみなのである。
 楽曲の面白さという点で光っているのは、アイザック・カトルズ(Isaac Quatorze)の“Ban Ban Ban”である。カトルズは、ウィニペグを拠点に活動するアーティストであり、実は、このUp Your Legs Foreverの運営にも携わっている人物であるようだ。さすがは、この作品の制作に企画段階から拘っているだけのことはある、実に質の高い歌モノのポップスを披露してくれている。エレクトロニックなサウンドを導入しつつ、どこか靄がかかったモヤモヤとした密閉されたサウンドで、性急なニュー・ウェイヴ調のポップ・ロックが展開される。そこに多少上ずった浮遊感のあるヴォーカルがのると、それはまさにザ・キュアー(The Cure)そのものであったりするから最高である。しかし、そんな疑似キュアー的な音だけではないところに、この楽曲のもつ大きな魅力がひそんでいたりもするのだ。どういうわけか、間奏に入ると、いきなりペンタトニックなモードが全開となり、摩訶不思議なモヤモヤをさらに渦巻かせるような展開を表出させてくる。ただ、そのまま行ったきりにならず、きっちりと間奏の終了とともにキュアーの路線に舞い戻ってくるのが、またナイスなのだ。極上のポップな歌モノのようで、その本性は、かなりのエクスペリメンタル・ロック。隠し味程度どころではなく、思い切り顔を出している、この完全なる二面性の妙こそが、新たな時代のポップ・ミュージックに繋がるサムシングであるということなのだろうか。思えば、これまでのポップ・ミュージックというものは、斬新なアイディアを姑息に盗み取ってゆき、こっそりとサウンドにしのばせるような芸当を繰り返してばかりいたような気もする。
 特に何の小細工もなくストレートに歌と楽曲のパワーで迫ってくるのは、ステファン・ピッツェル(Steffan Pitzel)の“Luck”だ。ピッツェルは、シカゴ出身でルイジアナ州ニュー・オーリンズを拠点に活動するシンガー・ソングライター。ムンムンとブルースの匂いのする出自をもつピッツェルであるが、やはり、その音楽性は、期待に違わずダウン・トゥ・アースでブルージーなものとなっている。乾ききった簡素なドラムに壊れたリード・オルガンの音色のようなループ、そこに嗄れたヴォーカルがポツポツと言葉を零してゆく。後半は、運に見放され続けるブルースな人々の嘆きを、やるせないギターのソロが、代弁をするかのように捩れながら歌い上げてゆく。どこまでもシンプルで、限りなく渋い。これは、なかなかの名曲である。
 そして、個人的に本作品中で最も気に入っているのが、ディーディー&ザ・ディックス(Deedee & The Dikks)の“Riding A Penis Into Battle”である。ディーディー&ザ・ディックスは、カナダの男根型のタワーのある街を拠点に活動しているバンドであるらしい(カナダで天を衝くような高い塔といえば、トロントのCNタワーが真っ先に思い浮かぶが…)。彼女ら/彼らについての詳しいプロフィールは、全く明らかにされていない。おそらくは、女性ヴォーカリストのディーディーと、複数の男性のバンド・メンバー(ザ・ディックス)からなるバンド的な集団なのであろう。ただ、それぐらいのことしか、その歌とコーラスからは推察できない。サウンドは、純粋にアコースティックなフォーク・スタイルである。楽曲は、歌とコーラスとギターと手拍子だけからなる、極めてシンプルなものである。しかし、男根型のタワーのある街で生み出された楽曲だからなのか、その歌とコーラスの内容は、凄まじく荒唐無稽だ。ペニス/ファロスを軸にしたファックについての歌を、女性側と男性側のコール&レスポンス形式や主体の目線の入れ替えなどを行いながら、面白おかしく実に赤裸々に展開してゆく。ある意味、歌そのものは、とんでもなくハードコアでパンキッシュなのである。性行為というヒトにとって非常に本質的なことであるにも拘らず、一向に通じ合うことのない男と女の意見。その絶えることない食い違いは、ジェンダー間の終わることなき闘争関係を如実に示しているようでもある(しかも、一致団結してコーラスを行うザ・ディックスの面々は、極めてホモソーシャル的な色合いが強い)。両者は決して完全に理解し合えないからこそ、この楽曲の内容は、最高に面白おかしいものとなるのだろうか。本当に、物凄い楽曲だ。ドクター・ディメント(Dr. Demento)のラジオ・ショーのFunny Fiveにランク・インしていても、全然おかしくはない完成度の高さである。事実、ノヴェルティ・ソング的なものもまたポップ・ミュージックの歴史にとって、決して外すことのできない重要な部分を成してきた。笑いとポップ感覚には、とても近しいものがある。しかも、貴族趣味には程遠い下卑た笑いは、庶民の歌が生まれた時から、そこにハッキリと存在していたに違いない。そして、ここでディーディー&ザ・ディックスが歌っているようなテーマの楽曲も、これまでのヒトの歴史の中で何度となく歌われてきたはずである。ただ、それら中でも、この楽曲は、名曲中の名曲の部類に入るのではなかろうか。きっと、間違いなく。え、そんなこと分かりはしないと仰るのですか。じゃあ、どこに入れるのがイイっていうのさ。
 この“Up Our Legs Now”では、多種多様なポップ・ミュージックが色とりどりに展開されている。ただし、この作品は、決して生易しいタイプのポップ・ミュージックのアルバムにはなっていない。それは、いきなり生真面目で暗めなマイク・デベナムの歌からスタートする部分などからも、何となく感覚的に窺い知ることができるだろう。まあ、通常であれば、立ち上げたばかりのレーベルの第一弾リリースの、その第1曲目となれば、それなりの意気込みもあるであろうし、大抵は明るい極上のポップ・ソングで元気に弾けて飛び出してゆきたいと考えるところだ。だが、決してそうした予定調和的な流れには収まりきらないところに、このUp Your Legs Foreverが目指す、ひと味異なるポップ観がにじみ出しているようにも思える。このレーベルが思い描いている、真のポップ・ミュージックの世界の奥深さや幅広さを、ひとつの作品の中で出来る限り仔細に描ききるために、CD2枚組の分量となる34もの楽曲が必要になったということなのだろう。Up Your Legs Foreverは、今一度、ポップ・ミュージックというものの概念を根底から問い直し、より広く深いものとして再提示しようとしている。その険しき道行きの最初の道先案内となるのが、この“Up Our Legs Now”だ。タイトルには、これまでの異様に狭まってしまった立ち位置から、今こそ果敢に脚を上げて、新たなポップ道へと大きく踏み出してゆこうという決意が込められているのではなかろうか。きっと、Up Your Legs Foreverは、これからの様々な現代のポップ・ミュージックの在り方を、リリース作品を通じて示していってくれることであろう。まずは、ここで、34通りのポップ・ミュージックが提示された。しかし、その数字は、すぐに倍増するはず。どうやら、目標としては、コンスタントに一ヶ月に一作品から二作品のペースでリリースを行ってゆくことになっているらしいので。Up Our Legs Nowの、今後の精力的なリリース活動に期待がかかる。
 だがしかし、この“Up Our Legs Now”に収録されている全34曲のポップ・ミュージックと、現在のビルボードのHot 100にリスティングされている100曲のポップ・ミュージックには、明らかに相容れぬような差異がある。多分、ディーディー&ザ・ディックスの楽曲は、ドクター・ディメントのプログラムにリクエストが殺到することはあっても、アメリカ全土の主要なラジオ局でプレイされまくり、ビルボードのヒット・チャートで上位を獲得するようなことは、まずないであろう。しかし、これは、逆にひっくり返して言えば、Up Your Legs Foreverとしては、現在のビルボードのヒット・チャートにランク・インしているような類いのものは、決してリリースすることがないということでもあるだろう。ビルボードのヒット・チャートが象徴していたポップ・ミュージックのグローバルな規模での成功は、今やネットレーベルを舞台とした新しいスタイルのポップ・ミュージックの、グローバルな規模での(広域にして不可視な)成功に取って代わられようとしているのかも知れない。その動きの最前線が、このUp Your Legs Foreverであり、“Up Our Legs Now”の全34曲なのだ。
 元々、ビルボードのヒット・チャートが生み出していた世界的なヒット曲の集合体である、それぞれの時代のポップ・ミュージック/ポップ文化とは、ある種の幻想のようなものであったのだ。それは、アメリカ的な文化の影響力が強く及び地域における、共同の幻想。そこでは、その大きな傘の下こそが、世界そのものであった。ただし、実際には、その傘のサイズは、決して本当の世界とイコールではなかったのである。幻想の世界は、まやかしでしかなかった。アメリカ的なる文化圏こそが世界の中心を形成していると、真剣に思い込み、共同の幻想の共有の反復によって、それが正当なる世界なのだと強く思い込まされていた時代。そうした文化的・政治的・経済的なイデオロギーによる操作が、その圏内では、これ以上ないほどに有効に機能していた。だが、21世紀に入り、そこでいきなり、9.11という象徴的な惨事が起こった。この世界が大きく揺れ動いた大事件を境に、その幻想の全ては、一気に覆っていってしまったようだ。幻想とは、すぐに跡形もなく消え去ってしまうからこそ幻想なのである。無限なる連続性をもつ幻想などは、決して有り得ない。
 21世紀の世界とは、もはや尤もらしいイデオロギーや幻想といったものが、全く成り立たなくなってしまった世界である。そこでは、かつてはフワフワとした幻想の断片を切り売りすることを専売特許としていたようなポップ・ミュージックも、そんなまやかしの世界を描き出しているだけでは、時代を反映するポップ文化の一部としては機能し得なくなってしまう。目の前に巨大な不安の塊が迫り、現実に破滅への危機に瀕している世界に、まやかしの話法を駆使して語りかけたとしても、そんなものは白々しいだけだ。これだけの雑多な現実的/非現実的な情報に溢れかえっている世界である。何らかの形で、その世界とリンクした語りとなっていないと有効な説得力を、そこに含ませてゆくことはできないだろう。現実の世界とのギャップが、とてもつもなく大きくても浮世離れしすぎてしまうし、だからといって、リアルな現実を克明に歌うだけでは、そこに描き出されるのは極端に狭小なものになってしまう。そのあたりの微妙な匙加減が、非常に重要になってくるはず。おとぎ話の世界すぎても、痛いほどにピリピリしすぎていても、ちょっとばかし具合が悪いのである。さて、この“Up Our Legs Now”の全34曲の中に、理想的な現在のポップ・ミュージックの形(もしくは、そこに繋がるヒントらしきもの)を見いだすことが出来たであろうか。
 ビルボードのヒット・チャートが、かつてのような揺るぎなき絶対性を、全く堅持できなくなってしまったことは、決して悪いことではない。それは、ポップ・ミュージックというものが、ひとつの大きな傘の下で均質に甘受されるべきものだという、幻想や暗黙の前提が取り払われたことを意味してもいるのだから。そのこと自体は、大変に喜ばしきことなのではなかろうか。共同の幻想であった基準がなくなったことで、そこでは、それぞれがそれぞれのヒット・チャートを構築してゆかざるを得なくなる。そして、ポップ・ミュージックそのものの概念的な枠組みも、究極的には完全に個別に規定されてゆくことになるのであろう。
 新たに再構築される世界のポップ・ミュージックとは、どこまでも外に向かって開かれたものとなる。様々な呪術・呪縛・神話から解放され、その前に広がる大いなる可能性と直面する。もはや旧来の形のものが存在することはない。恐竜は、絶滅してしまったのだ。新しい時代の新しいポップ・ミュージックの、限りなく創造的にして脱領域的な発展が期待される。
 21世紀に生きる現代人は、世界の隣人たちが、実は全く異なるポップ・ミュージックを、テンでバラバラに聴いていることに、はじめて気がついた(つまり、発見した、いや、そのことをやっと思い出したのである)。この世界に、ポップ・ミュージックは、隣人たちの数だけある。そして、それは、決して固定化されず、常に流動してゆくのだ。本質的なる根源的に開かれたポップ・ミュージックの時代が、遂に幕を開けたのである。それは、もう何らかの統一や一致の幻想を生み出すための道具となることはないだろう。ポップ・ミュージックは、もう立ち止まらない。脚を高々とかかげて道行きの先を急ぐ者には、もはや後戻りの意識などは微塵もありはしないのだ。(10年)

追記:

All Hail The Queen

 上記の文において、ソン・ダムビの新曲にまつわる盗作疑惑の騒動について、少しばかり触れている。だがしかし、個人的には、この一件のみを取り立てて特別視して突くというのも、こうした問題への取り組み方としては、ややズレているような気がしてならない。ましてや、この手のインシデントというものは、ただひとりソン・ダムビ(以下、SDB)本人だけに非があるわけでもないのだから。なので、今さら本人に様々な非難を浴びせてみたところで、何がどうなるわけでもないのである。生来的に女優として演じる資質も多分にもっているSDBは、制作者側から与えられた役割や役柄を可能な限り完璧にこなそうという意識が、とても強いアーティストなのだろう。本来であれば、アーティストとしてダントツに長けたで部分であるはずの、そうした器用さが、今回の問題に関しては、逆に災いしてしまったのかも知れない。おそらく、本人が、その鋭い感性で、どこかで違和感を覚えるようなことがあれば、途中で何らかの防護策を講じることも出来たのかも知れない。同様に、周囲のスタッフや関係者にも、何か不自然さを感じた人間は、誰ひとりとしていなかったのだろうか。ただ、こうした大物アーティストの新曲や新作を世に送り出すための、様々なメディア戦略を絡めて展開されるプロモーション活動の巨大プロジェクトは、一度ガラガラと転がるように動き出してしまうと、誰かひとりの小さな声だけでは、そう簡単にストップをかけられるようなものではなくなってしまうのであろう。そうした種々の要素が重なったところに、この盗作疑惑騒動の一番の悲劇性が、もしかするとあるのではなかろうか。要因が重層的に絡み合っているだけに、どこに本源的な非があったのか見極めづらくもなる。往々にして不幸とは連鎖するものなのである。
 あれこれ疑惑や騒動(プロモーション・ヴィデオの映像の急遽差し替え)などがあったものの、今回のSDBの新作を、個人的にはとても気に入っている。特に新作のメインの楽曲である“Queen”は、とりあえず、今のところ何度聴いても聴き飽きることはない。この楽曲がビシビシと発散している清々しさや爽快感には、とんでもなく凄まじいものがある。特に、アジアの女性たち(いや、全世界のだろうか)に向けて、今こそ目覚めの時であると高らかに呼びかけるようなサビの印象的なパートは、実にフレッシュで瑞々しい感覚に満ちあふれている。おそらく、現時点で世界で最もエキサイティングでハイ・レヴェルな切磋琢磨が繰り広げられているであろう、韓国のポップ・ミュージック(人気歌謡)の世界の並々ならぬ勢いのようなものも、そこには感じ取れる。その飽和状態を遥かに越えた世界では、新人から大物までの多くのよきライヴァル関係にあるアーティスト群がひしめき合い、互いに互いを乗り越え合うような容赦のない鎬の削り合いが、恒常的に継続されている。そんな異常なまでの緊迫によってもたらされる白熱の中で、面白味のある刺激的なポップ・ミュージックが次々と登場する。韓国の人気歌謡は、今や東アジア世界(さらには汎太平洋世界)の新たなポップ文化の文脈すらをも創出し、その世界全体を力強く牽引しつつもあるのである。この“Queen”という楽曲は、いまここで何かが目覚めつつあることを宣言するセレブレーションのようにも聴こえる。
 また、息を飲むほどに美しく舞う女王の艶姿が演じられるSDBの“Queen”でのパフォーマンスも、決して生半可なものではない。そこでは、高いレヴェルでの完成度を誇るコンセプチュアルな表現が、徹底的に華麗に披露されている。SDBの女王は、もはや芸術の域にまで達しているといってもよいだろう。女性としてのセンシュアルな躍動と気高き聖性の両面を垣間見せる、そのパフォーマンスは、全盛期のケイト・ブッシュ(Kate Bush)のそれを思い起こさせてくれたりもする。ただ、そうした表現者/パフォーマーとしての完璧主義的な部分をもつ、一点の曇りもなく美しいSDBだけに、今回のようなゴタゴタした騒動は、非常に残念でならないような気もするのだが。
 だが、度重なる騒動によって巻き起こった、決して穏やかではない逆風の最中、些かの気品も失うことなく連日のTV出演によるプロモーション活動は滞りなく続けられ、この新作が韓国のヒット・チャート上で、ひとまずの成功を収めたことは、せめてもの救いとなったのではなかろうか。女王の称号は、今もまだしっかりと、SDBの手中に握られている。(10年)

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