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<<   作成日時 : 2010/03/02 04:00   >>

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Saffron Slumber/Specta Ciera/Carl Sagan's Ghost: Myth Of The Near Future Split EP
Circlesandlines Recordings candl15

画像 ロシア西部の旧都、サンクト・ペテルブルクに拠点を置く、アンビエント・ミュージック専門のネットレーベル/マイクロ・レーベル、Circlesandlines Recordingsからの新作。これは、08年1月に誕生した、このレーベルからの15番目のリリース作品となる。リリース日は、10年2月20日。
 作品のフォーマットとしては、3組のアーティストが参加したスプリットEPとされている本作。だが、それぞれの参加アーティストが、別々にスプリットな形で作品・楽曲を、ここに持ち寄ってきているという感じは、ほとんどない。全体的な雰囲気としては、コンセプチュアルなコラボレーションEPと称したほうが、実際の作品のムードに近いのではないだろうか。厳密に言って、この作品の内容は、全くスプリットではないのである。そこには、明らかに、全体的な統一感がある。頭から爪先まで、ビシッと一貫したコンセプトの下で、ひとつの流れが繰り広げられるのだ。その証拠に、収録されている各楽曲には、明確な曲名は付与されていない。参加した3組のアーティストが、パート・1からパート・3までの、それぞれの持ち場となるパートを、分担して制作している。よって、これは、作品全体で一曲を構成するような、統一的なコンセプトをもつ作品なのである。一作/一曲のうちの、第一部から第三部までを、それぞれのアーティストが、交代で展開させてゆく。つまり、参加した3組のアーティストによる、共同プロデュース作品ということでもあるのだ。ひとつのテーマ/コンセプトの下で、それぞれのアーティストが、相互にコミュニケートしながら、統一感のあるサウンドを紡ぎだしてゆく。そして、その完成態として、ひとつの音の世界が表出される。
 この作品、“Myth Of The Near Future”のテーマとなっているのは、やはり、神話なのであろう。タイトルそのままの、近未来の神話である。近未来とは、近い未来のこと。気が遠くなるほど遥か遠くの未来ではないが、それは、絶対に現在とは交錯しない。その間に挟まっているのは、たった少しの時間的断絶でしかないのだろうが、近未来とは、多かれ少なかれ「いま」とはかけ離れてしまっている。そして、未来とは、基本的に過去とは完全に無縁なのだ。
 過去の時間が、その影を投げかけるのは、現在のこの瞬間まででしかない。未来は、過去から完全に切り離されているがために、未来としてそこにある。全ての過去の時間から解き放たれ、あらゆる方向に開かれていなければ、それはもう未来ではない。未来は、過ぎ去った時間を振り返らず、決して過去を参照することもない。どこかに固定され定着してしまうような、しっかりした根を持たずに、徹底的に頼りなく、ぶらぶらと宙づりになっているもの、それが未来である。未来は、いかなる断定も頑なに拒む。たとえ、近しい未来である近未来であろうとも、それは、現在の時間からの遠いあこがれの眼差しで眺められることを欲する。
 また、神話とは、厳密には、架空の作り話のことである。ヒトは、現在とは隔絶された未来を、ひとつの時間軸に串刺しにするために、気が遠くなるほど遥か遠くの過去を始源とする伝説を捏造する。そうした伝説は、均質で空虚な時間に浸透してゆき、そこから聖なる神話的な至高性を「いま」の外部へと吐き出させるのだ。そして、その聖なる至高性を固定し定着させるのが、架空の伝説(伝説群)に依拠する神話(集合的)だ。神話は、ひとつの時間軸の中で刻々と書き継がれてゆく。そこには、いかなる根拠もない。作り話に、あり得そうな俗説を積み重ねてゆくだけである。
 過ぎ去った時間のなかで積み上げられた、歴史という瓦礫の山は、現在に対しては未到来の時間である未来を、遥か遠くから照射する。未来は、伝説や神話のいい加減さとも完全に隔絶している。近未来の神話は、現在の遥か遠く先である近未来の伝説であり、未だに到来していない時間のなかで書き継がれてゆくものである。それゆえに、「いま」ここで眺めることができるのは、そんな神話的伝説の根の先端の幻影だけでしかない(のかも知れない)。
 ここでは、そうした眺めやることしかできない近未来の神話をテーマとした、三部構成のエクスペリメンタルなサウンドスケープが展開される。それは、まさしく約20分のフューチャー・サウンド・エクスペリエンスである。このプロジェクトに参加した3組のアーティストたちは、次々と現在と未来の間の真空地帯で紡がれる、隔絶した架空の物語を音にしてゆく。全てから解き放たれた、至高なる地平を目指して、意識を「いま」の外側へと跳躍させながら。
 さらにもうひとつ、本作には、とても興味深い点がある。それは、これがロシアのサンクト・ペテルブルクのネットレーベルからのリリース作品でありながら、参加している3組のアーティストが、全て米国で活躍するエクスペリメンタル系のサウンド・アーティストであるということ。地元ロシアのではない、完全なる米国の実験的エレクトロニック・サウンドのショーケース的な作品となっているのである。
 これこそ、もはや過ぎ去った時代の遺物となりつつある国境や国籍の概念にとらわれない、ネットレーベルのシーンが先導し押し進めていっている、真にボーダーレスな方向へと向かう音楽文化の醍醐味のひとつの表れであるだろう。また、ディジタル・ネットワーク・システムを通じたグローバルな音とヒトの交流から生み出される、新たな時代の高低差のない文化の潮流のダイナミズムは、こうした動きが活性化してゆくことによって、さらに加速度を増してゆくに違いない。
 米国のサウンド・アーティストによる音のテクスチャーは、やはり欧州的なウェット感とは、どこか無縁である。ややサッパリしすぎているくらいに、あっけらかんとドライなのだ。ネットレーベルの時代においては、こうした音の地域的な傾向や民族的な部分からくる差異すらも、容赦なく越境してゆくことになるだろう。潮流は、地球の全土で均質に流れ始める。そして、いたるところで混ざり合い、交錯し、衝突し、予想だにしていなかったような渦を形成してゆく。その渦こそが、新しい時代の新しい形の文化の堅固な土台となる。
 ここで、3名の米国人のサウンド・アーティストたちは、非常に冷静に、近未来に対して、その眼差しを向けている。ヴィジョンとして捉える未来に、表面的には、空虚さはない。だが、それを楽観視できるほど、おめでたい時代でもない。そこには、もはや、絵に描いた餅のようなチェンジすらないのだ。大文字のチェンジは、すでに過ぎ去ってしまった時間の廃墟のひとつでしかない。
 近未来の神話の第一部の制作を担当しているのは、サフロン・スランバー(Saffron Slumber)。サフロン・スランバーは、オレゴン州セイラムを拠点に活動するケヴィン・ステファンズ(Kevin Stephens)によるソロ・プロジェクトである。08年のデビュー以来、これまでにサフロン・スランバーは、Pocket Change Records、Skrow!Media、Zenapolaeといったネットレーベルより、コツコツと作品をリリースしてきている。
 パシフィック・ノースウェストの深い緑の森の奥から響いてくるような、荘厳なアンビエント・サウンド。そして、そこにネオ・クラシカル・スタイルの幽玄なるピアノの演奏を融合させ、極めてディープなサウンドスケープを創出する。また、そのサウンドには、どこかミスティックでマジカルな雰囲気が色濃く漂ってもいる。まさに、見えないものが見えてきそうな音なのである。サフロン・スランバーには、とても不思議で、妖しい魅力がある。
 サフロン・スランバーによる“Part 1”は、7分23秒に渡る、静けさの中から立ち上ってくるエレクトロニック・ノイズのざわめきである。呻くベース音が、無数の細かな触手の蠢きを思わせる電子音に、かき消されてゆく。深みのある弦音にも似たドローンが、ゆるやかに隆起してくる。すり切れそうなノイズ。すると、そこにリズミカルに絡み始める電子音の反復も登場し、静かなざわめきは、一気ににぎやかさを増してゆく。昂るドローンが、ノイズの切れ間から差し込む。しかし、しばらくすると、全ては潮が引くように、沈静化してゆく。ゆるやかに残響する微かな轟きだけが、ひっそりとこだまする。気づけば、再び、ベース音がのたうっている。最終盤には、清らかなエコーの深みから、よじれるように電子音が、噴出してくる。これは、第二部の新たな展開への予兆であろうか。
 続く、神話の第二部を担当するのは、スペクタ・シエラ(Specta Ciera)である。スペクタ・シエラは、マサチューセッツ州ケンブリッジを拠点に活動する、サウンド/ヴィジュアル・アーティストのデヴィン・アンダーウッド(Devin Underwood)によるソロ・プロジェクト。かつては、ジャレッド・シーハン(Jared Sheehan)とのユニット、ドレクソン・フィールド(Drexon Field)での作品をメインに制作していたが、ここ数年は、このソロ・プロジェクトでのプロダクションにも力を注いできている。スペクタ・シエラとしては、これまでに、Distance Recordings、Secret Station、Project 168といったネットレーベルからのリリース作品がある。
 アンダーウッドが描き出すスペクタ・シエラの音の世界は、とても緻密で精巧なアンビエント・エレクトロニカである。やわらかにふんわりと漂うメロディと、マイクロスコピックに研ぎすまされた電子音。何気ない日常の中で、思わずハッとしてしまう瞬間に出くわした際の、細やかな情感の動きを、その中にフリージングさせたかのようなサウンドスケープである。そして、そのプロダクション・スタイルは、アンビエントとエレクトロの狭間で大きな振り幅をもって、つかみどころなく揺れ動く。そうした、決して一箇所に留まらずに、常にゆらりふわりと動き続けているところもまた、スペクタ・シエラの音がもつ得難い魅力のひとつである。
 “Part 2”は、4分45秒とややコンパクトにまとめられた、ゆらゆらと澄み切った電子音が飛び交う、繊細なエレクトロニカである。波のように打ち寄せられる、エレクトロニック・ノイズとソフトに持続するドローン。その周囲で、電子音は、突風のように吹き荒れ、ベルのように高らかに鳴る。深い液状の空間に、緩やかに沈み込んでゆくような雰囲気。音の小さな粒子が、まるでスロー・モーションを見ているかのようなスピードで、延々と降り続く。時間の感覚は麻痺し、出口も入口もわからなくなる。沈んでゆくのか、浮かんでいるのか。全くわからない。深い音の海の底で、無音の世界にいるような錯覚に陥る。神話は、この断章において、静かにひっそりと動きのある展開をみせる。どこかメランコリックな響きを、どっぷりとたたえながら。このまま、迷宮の奥深くにまで入り込み、もう二度と戻ってこれないような予感にとらわれる。
 そして、最後のパートとなる第三部を担当しているのは、カール・セーガンズ・ゴースト(Carl Sagan's Ghost)だ。このカール・セーガンの幽霊という、妙に大それたプロジェクト・ネームを掲げて音楽活動を行っているのは、ワシントン州シアトルを拠点として活動する、ダニエル・デイヴィス(Daniel Davis)である。カール・セーガンズ・ゴーストは、これまでに、Luxus-Arctica Records International、Earth Mantra、Soft Phaseといったネットレーベルから作品をリリースしてきている。
 また、複数のアーティストによって持ち寄られたドローンやループやノイズなどの音素材を基に、様々なアーティストがサウンドをミックスして、それぞれの作品をクリエイトしてゆく、ザ・マルチプル・アーティスト・アンビエント・プロジェクト(The Multiple Artist Ambient Project、訳してMAAP)という、無限に増殖してゆく(予定の)サウンド・プロジェクトの活動の中心となっているのも、デイヴィスである。このプロジェクトの壮大な目論みは、かつてのTilnなどが構想し実行していた、ネットワークを利用した音/音楽の実験の延長線上にあるもののようで、実に興味深い。
 カール・セーガンズ・ゴーストのサウンドは、端正なアンビエント・エレクトロニカである。計算し尽くされた、バランスのよい、安定感のある音世界が、極めて美しく展開される。メロディ、リズム、ドローン、電子雑音。いずれの音要素も、そこで同時に空間を共有している、他の音要素の響きの邪魔をすることはない。とても穏やかで、その音空間自体は、どこまでも満ち足りている。そのような意味において、カール・セーガンズ・ゴーストの音は、かなり完成度の高いアンビエント・サウンドだといえる。
 ラストを飾る“Part 3”は、何事にも動ぜず、静かに横たわる大海原のような7分43秒のアンビエント・エレクトロニカである。小さなさざ波の集合。潮風が、水面を愛撫してゆく。蜜のようにとろけだす、甘くやわらかなメロディが、そっと空気を震わせる。自由に空間を飛び交っていたサウンドは、中盤を過ぎたあたりから、ゆったりと流れを変える。全てが、内側へと凝縮し始めるのだ。緩やかにうねる大海が、次々と、小さく豊かなメロディを、そのうねりの下に飲み込んでゆく。その自由で細やかな動きを、全て我がものにしようとするかのように。そして、長い壮麗なるドローンの残響の中で、ゆっくりと神話のサウンドスケープは、降下してゆく。周期的におとずれる、澄んだ電子音の、まろやかな響きとともに。
 作品全体の流れとしては、なだらかな起伏をもってうねるサウンドスケープは、細やかで、緩やかな動きに終始する。時に、ドローンは、轟音となって轟くが、全体の流れを妨げることはない。全ては、波のように、寄せては返す。自由に飛び交っているように思える電子音も、ゆったりとした音の海原から完全に解き放たれて、無軌道に交錯するようなことはない。大きく揺れ動く、激動のストーリーなどというものは、そこでは、もう語られず、書き継がれることもないということなのだろうか。ここでの伝説は、渦巻き波立つ海から生じている。もはや、神話とは、海のような形態をもつものにしか根を張ることはできない。過ぎ去ったものたちの廃墟がそびえる地表から、近未来の音の海原を眺めやる。そして、その海原の奥底に隠されている物語が、隔絶しきった近未来の神話として、蜃気楼のように立ち上るのである。
 3組の米国のサウンド・アーティストたちは、そんな物語を形づくる原子をえぐり出し、うねる海原のアンビエント・エレクトロニカの音世界を描き出してみせる。約20分間の近未来神話三部作。これは、そこそこに聴き応えのある一作である。そしてまた、妙に考えさせられる一作でもある。神話とは、これほどまでに、徹底的に穏やかなものであっただろうか。そこには、もはや、にべもなく吹き荒れる大いなるものの力の、萌芽すら見当たらない。伝説的な神の存在を欠いた神話。やはり、未来とは、どこまでも空虚な場でしかないのか。いつまでも未到来のままであり続ける未来。近未来の神話は、ただただ波のように、いつまでも寄せては返すのみだ。
 過ぎ去った時間の廃墟から跳躍し、大海原に深く深く潜り込んで、本物の伝説を探索する。近未来の神話を紡ぎだしてゆくために。未来は、やはり、すさまじく空虚なのだろう。だとしても、神話の本質とは、根本的に根拠のない作り話でしかないのだから、いざとなれば、いくらでも伝説をでっち上げてしまえばよい。それを補完する物語の枝葉は、いやというほど後からついてくる。そう、未来に丸投げだって、一向に構わないのだ。そうやって、ゆったりと緩やかに神話は神話たらしめられてゆく。ずっとずっと、これまでも、これからも。
 はたして、いまや本物の幽霊となっているであろうカリスマ天文学者、カール・セーガンは、近未来の神話に、何を見るのだろうか。進化する知的生命体が、遥か遠くに眺めている未来とは、いかなるものか。そして、この宇宙とは、どれくらいまで神話でしかないのだろう。
 この作品のアート・ワークは、ヴィジュアル・アーティストとしても活動しているスペクタ・シエラのデヴィン・アンダーウッドが手がけている。そこには、静かに冷たくそびえる高い建物の壁面を、真下から見上げた画像が使われている。じっと見ていると、どちらが上で、どちらが下だか、わからなくなってくるような構図である。いや、上下左右の感覚が怪しくなるだけではない。建物の一方の壁面が鏡状になっていて、そこにもう一方の壁面が映っていることが、次第にわかってくると、事物の奥行きをとらえる感覚までもが、混乱しはじめる。灰色の建物と薄曇りの白い空。しまいには、どこに何があるのかさえ、さっぱり確信がもてなくなってくる。ここまでくると、ようやく作品のコンセプトと絶妙にマッチしたアート・ワークであることが、くっきりと見えてくるのだ。何も見えていない目に、ぼんやりと見えてくるもの。それこそが、近未来の神話でもある。知覚も感覚も役に立たなくなる瞬間。そこが、裂け目なのだ。そこは、入口でもあり、出口でもある。そのまま、一気に、廃墟を抜け出してみるのも悪くはない。そして、外側へと跳び去ろう。(10年)

追記 米国は、(かつて)人類が遥か彼方に眺めていた近未来のヴィジョンの具現化(の実験)であった。だが、その超動物性的生活様式は、もはや動かしがたいほどに神話と化してしまっている。そして、現在の中国は、そうした近未来のヴィジョンとの距離を、超動物性的な速度で縮めてゆこうとしているようにも見える。もしや、人類とは、自ら率先して(自殺的に)、この近未来の神話に飲み込まれることを欲しているのであろうか。アレクサンドル・コジェーヴによれば、自殺とは、日本的スノビズムに特徴的な傾向であるはずなのだが。近未来の神話が、そのまま人類の未来にすり替わる。それもまた、神話的な未来の在り方だというほかはない。

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