溝!

アクセスカウンタ

zoom RSS Simon Whetham: Night Of The Owl

<<   作成日時 : 2009/03/04 21:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

Simon Whetham: Night Of The Owl
Compost And Height

画像 先頃、設立一周年を迎えたばかりの、UKのエクスぺリメンタル・ミュージック専門レーベル、Compost And Heightより発表された作品。リリース日は、09年2月8日。本作は、サイモン・ウェタム(Simon Whetham)によるリヴァプールの多目的アート・スペース〈A Foundation〉でのライヴ・パフォーマンスの模様を記録した、ライヴ・レコーディング作品である。サイモン・ウェタムは、ブリストルを拠点に活動する、サウンド・アーティスト兼モデル制作やWebデザインを手がけるデザイナー。ただし、ブリストルが拠点であるのは、あくまでもデザイナーとしてのウェタムのみである。サウンド・アーティストとしてのウェタムは、主にフィールド・レコーディングによって音の素材を拾い集めるために、常にマランツ(Marantz)のポータブル・レコーダー(PMD660)やロード(RODE)のコンデンサー・マイク(NTG2)、C-Ducerのコンタクト・マイクなどの機材を携えて、あちこち神出鬼没に世界各地を慌ただしく飛び回っている。この“Night Of The Owl”と題されたパフォーマンスにおいても、そんな世界各地で採集された、物音やノイズなどの自然音/具体音が、ふんだんに使用されている。まさに、驚くべき生のサウンドを記録した、21分22秒のライヴ音源なのである。それは、「フクロウの夜」というテーマのもとにデザインされた、立体的なサウンド・アートと形容することもできるかも知れない。そう、ウェタムの創出する音響には、かなりサウンド・スカルプチャー的な感触が感じ取れる。
 このライヴ・パフォーマンスの模様が録音されたのは、08年11月15日のこと。この日の〈A Foundation〉は、毎年開催されている国際エキシビジョン「Liverpool Biennial Of Contemporary Art」の真っ最中であった。ウェタムのライヴは、この国際エキシビジョン期間中のイヴェントにおいて披露されたものである。実際には、この11月15日に行われたイヴェントのタイトルそのものが、“Night Of The Owl”であったということは、ここでまず明らかにしておいたほうがよいであろう。ウェタムのライヴ・パフォーマンス自体には、おそらく、特にタイトルはついていなかったのではなかろうか。ただ、その場の空気感の中で、ほぼ即興で素材となるサウンド・ソースを組み合わせ、音世界を構築していっただけであろうから。よって、この作品タイトルとは、Compost And Heightのパトリック・ファーマー(Patrick Farmer)やセイラ・ヒューズ(Sarah Hughes)により、そのパフォーマンスが披露されたイヴェントの名称にちなんで、便宜的につけられたものなのだと思われる。本来なら、即興のライヴ・パフォーマンスであれば、シンプルに“Untitled”とでもするのが、最もそれらしいのだろうが。しかし、ここでは、Compost And Heightによる気の利いた提案を、素直に受け入れておきたい。これは、実際のところ、なかなかに雰囲気のあるよいタイトルであるし、ウェタムの側としても少なからず“Night Of The Owl”と題されたイヴェントのテーマやコンセプトからインスパイアされ、ライヴ・サウンドをパフォームしたものであろうと推察ができるから。
 まずは、このイヴェントとしての“Night Of The Owl”について、もう少しばかり詳細に触れておきたい。この日のイヴェントは、マンチェスターのアート工作集団、オウル・プロジェクト(Owl Project)によって催されたものであった。オウル・プロジェクトは、サイモン・ブラックモア(Simon Blackmore)、アンソニー・ホール(Antony Hall)、スティーヴ・サイモンズ(Steve Symons)からなる、非常にエクストリームかつラディカルなアーティスト集団である。その活動は、丸太から切り出してきたばかりのようなゴツゴツした木材を使用した、木製インストゥルメンツ(主に、小型ノイズ・ジェネレーターのiLogとソフトウェア・シンセなどを操作するためのUSBコントローラであるm-Log)の制作と、それらを実際に使用したライヴ・パフォーマンスによって知られている。木という素材の風合いを十二分に活かした、御丁寧にツマミやボタンまで木材で出来ている、見るからにウッディな電子楽器は、はっきり言って相当にストレンジである。これは、次々と新たな技術が開発され、しばしば使い捨てのような状態になりつつある、過剰なまでに行き過ぎたテクノロジーというものを、もう一度人間と自然の側へ取り戻そうとする姿勢を、アートな感覚で表現したもののようである。だがまあ、それを発想し、無理矢理にでも実践してしまうところが、とてつもなく過激なのだ。オウル・プロジェクトとは、アーティストの集団であると同時に、ヒューマン・コンピュータ・インターフェイス・デザインの分野で奇抜な提案を行うアクティヴィストの集団でもある。ちなみに、リヴァプールの総合アート・センター〈FACT〉において08年12月から09年2月にかけて開催されていたエキシビジョン“DING>>D0NG”にも、オウル・プロジェクトは、トール・マグナッソン(Thor Magnusson)によって開発されたソフトウェア・シンセ、IXIの操作に対応した最新型のm-Logを披露するパフォーマンスを行うために参加していた。この“DING>>D0NG”には、OMDのアンディ・マクラスキー(Andy McCluskey)や、Factoryのジャケット・デザイン等を数多く手がけたピーター・ザヴィル(Peter Saville)、そして80年代初頭にはハンビ&ザ・ダンスを(Hambi & The Dance)率い、その後は〈Pink Museum Studio〉の運営に携わり、現在はヴィデオ・アーティストとしても活躍しているハンビ・ハラランボウ(Hambi Haralambous)といった、実に多彩な顔ぶれのアーティストたちが参加をしていたようである。そして、その中には、日本から招待された、接触型入力システムであるフレクトリック・プロジェクト(Freqtric Project)の開発を進めている馬場哲晃も含まれていた。首都大学東京の助教授、馬場哲晃は、人体に高感度・高精度のセンサーを装着し、人間の肌と肌の触れ合い、つまり接触のコミュニケーションをサウンド化させ、人体・皮膚を楽器化させる、フレクトリック・ドラムス(Freqtric Drums)の展示を“DING>>D0NG”において展開したようである。血の通ったドラム・キットと化した人体の様々な部位に触れ、手と手を叩き、全く新しい自由な演奏形態を提示してみせるフレクトリック・ドラムス。人間と人間の接触から音が生ずる。これは、実に楽しげなエクスペリエンスである。それを使う主体である人間が楽しみを享受できる技術でなくては、開発する意味はない。オウル・プロジェクトや馬場哲晃が果敢におもしろおかしく挑んでいる新たなテクノロジーのカタチとは、そういった類いのものである。それは、表層的には、実にユーモラスで人懐っこく、底抜けに楽しげであるが、その内側には、とんでもなく過激な志向・思考やエクストリームなイデアが込められてもいる。21世紀の技術改革・技術革新とは、そうした方向性をもって、きっと満面の笑顔とともに激しく吹き荒れるに違いない。そう予感することは、何やらとても楽しい。
 オウル・プロジェクトが主催したイヴェント“Night Of The Owl”には、IXIの開発者であるトール・マグナッソン、iLog Rustleとターンテーブルを同期させて演奏を行うターンテーブリストのフィリップ・ジェック(Philip Jeck)、イヴェントに協賛するサウンドネットワーク(SoundNetwork)の理事も務めるティム・ランバート(Tim Lambert)なども出演者として名を連ねていた。サイモン・ウェタムは、そこにゲスト・パフォーマーとして招待されていたのである。ほぼ木をそのままの形で使用しユニークな電子インストゥルメンツを制作しているオウル・プロジェクトと、フィールド・レコーディングした大自然のありのままの声をサウンド・ソースとして使用しユニークな実験音響を表出させているウェタムには、やはり何かしら根底に流れるコンセプト的な部分で、しっかりと通じ合うものがあるということなのであろう。そうした意味合いにおいては、ウェタムの“Night Of The Owl”でのパフォーマンスには、先鋭的なサウンド・アーティスト集団であるオウル・プロジェクトの活動に対するオマージュといった要素が、多分に含まれていたようにも感じられる。その素晴らしく濃密な21分22秒の音響工作パフォーマンスは、とても静かに、まるで夜の森を思わせる静寂の中からスタートする。やがて、様々な物音が、暗闇でざわめきはじめる。風の音。エンジン音。そこに、巨大な鉱物を打ち鳴らすような、深い打撃音が響くと、空間に厳かで厳粛な気配が満ちてゆく。儀式めいた、小さな木製の器具を打ち鳴らすせわしない物音。足元にいくつもの電子ノイズがひたひたと忍び寄り、鳴き喚く鳥の大群がゆっくりと迫ってくる。再び、静寂。かすかな物音。川のせせらぎ。突然、思いきりシャッターを引き下ろすような耳をつんざく金属音が響く。強い風が吹いている。川の流れは非常に激しい。嵐のごとき激流は、その轟きとともに流れ去ってゆく。再び、完全なる静寂。またしても様々な物音が、静かにざわめきはじめる。遠くの街の音。機械的な連続する打撃音。エンジンの音。とても低い、唸るような分厚い低音が、空間を圧迫するように轟く。再び、静寂。そのまま水の中へと沈み込んでゆく。閉じ込められている場所は、どうやら舟底のようだ。かすかな水音。深みから液状になって湧きあがってくる、引き摺るようなノイズ。やがて、虫たちの鳴き声が聞こえてくる。気がつくと、そこは暗い夜の森の真っただ中。騒がしい蛙たち。エンジン音や電子ノイズが、闇の挟間から這い入ろうともがいている。喚きちらしているのは、蝉だろうか。唐突な場面転換。鳥の鳴き声。迫りくる巨大な低い唸りは、攻撃的な蜂の羽音であろう。再び、静寂。持続する電子音のノイズが、幾重にも折り重なる。深い打撃音が、天上から落ちてくる。乾いた物音が、冷たい空間の底でカラカラと転がっている。苛立ちと諦めが入り交じったような荒い息づかいが、目の前を行き交う。そこに、電子ノイズと渾然一体になった、最後の巨大な轟音が、容赦なく襲いかかってくる。空が落ち、地表は波打ち、風が吹き荒れる。これは、全てが終わりを迎える瞬間の音響なのだろうか。轟音の中で、あらゆるものが粉々に打ち砕かれてゆく。そんな大いなるノイズの響きとともに、ウェタムの圧倒的なまでの演奏は、ゆっくりと幕を降ろすのだ。一瞬の静寂があって、オーディエンスの拍手。その暫しの間こそが、空間を覆いつくしたラストの轟音の凄まじさを、まざまざと物語っているようでもある。まさに茫然自失な状態から我に帰るまでの一瞬のタイムラグである。拍手の音が聞こえるということは、これは、会場に置かれたマイクで録音されたものなのであろう。録音状態は、良好である。おそらく、フィールド・レコーディストであるウェタム本人のセッティングによる録音なのではなかろうか。非常に生々しくダイナミックに、パフォーマンスの一部始終を一瞬の静寂にいたるまで、つぶさに記録することに成功している。これは、実に素晴らしい記録音源だ。この即興によるものであろう21分22秒の演奏は、もう二度と同じカタチで繰り返されることはない。その場で、その瞬間に、音として、音楽として、空間に、鳴り、響いたことに、大きな意味がある。そして、その記録もまた、とても貴重な素材となる。一度きりの瞬間をとらえた記録によって、ウェタムによる美しくも強烈な音響表現を、何度でも現行の時間の中で再生させ反芻し味わうことができる。また、その素材を活用することによって、記録を記憶に変換し、何度でも反芻して味わうために半永久的にフォルダ内に保存しておくことさえできるだろう。ウェタムがフィールド・レコーディングで記録しているのは、言わば、大自然や日常的な空間の中にあふれかえる、ざわめきや鳴き声、物音やノイズの記憶である。それらは全て、たった一瞬に、たった一度きりしか、響くことはない。そうした貴重な瞬間をとらえることで、それらは記録され、記憶としても保存されることになる。ウェタムは記録された記憶の集積であるサウンド・ソース群を、ライヴ・パフォーマンスの中で瞬間的に直感的に再構築させてゆくことにより、聴く者の記憶の奥底から何かを呼び覚まそうとしているかのようでもある。いくつもの記憶と直結する、記憶の記録。ウェタムが、かすかな物音や嵐のようなノイズで克明に描き出そうといるヴィジュアルのイメージとは、まさしくそれなのであろう。記憶の音響と、音響の記憶。そこでは、実際には目に見えていないものまでが、確かに見えてくる。音の響きとともに、一瞬のうちに消え去ってしまうイメージが。この音源は、そうしたライヴ/生の音の記憶を再生させ、確認するためにもあるのだ。だが、目を開かずに聴くことだけにあまりにも集中しすぎると、ラストの凄まじい轟音で吹き飛ばされてしまう恐れがあるので、その点は、あらかじめ注意しておいたほうがいい。何度も反芻して繰り返し見ることにより、見えてくるものは確実に増加してゆくはずである。ただし、夜の森の暗闇の奥深くに分け入ってゆくためには、多少の訓練や鍛錬も必要とされる。まずは、何よりも闇と森に目を慣らさなくてはならない。そして、感覚を研ぎ澄まし、注意深く耳で聴き入るのだ。
 しかしながら、ここで聴くことのできる美しくも壮絶なサウンドスケープは、そのまま額面通りに音響による芸術表現と捉えてしまって、はたして本当によいものなのであろうか。つまり、ただそれだけのものでしかないのか、ということ。裏返して考えれば、もしかすると、これは、ただ物音とノイズを直感的に羅列させた、石ころや木切れ同然の音塊でしかないのかも知れない。この21分22秒のライヴ・パフォーマンスの、一体どのあたりに音楽らしきものが聴き取れるであろう。物音と自然音とノイズだけで、音楽は成立するのだろうか。旋律は、どこだ。和音は、どこだ。芸術とは、表現とは、何だ。ウェタムが創出するサウンドとは、実に特異かつ過激なものである。そして、それは、極めて反音楽的であり、と同時に、唖然とするほど野蛮で純粋な音楽を突きつけてくるものでもある。自らの手でフィールド・レコーディングし採集した音源のみをサウンド・ソースとして使用する、即興演奏のライヴ・パフォーマンス。そこでは、たった一度きりしか現出することのない音の世界が構築され、それが空間に目一杯に響き渡る。自然界から人間の手で摘み取られた音が、解放され、再び自然環境の懐へと戻ってゆこうとするかのように。この形式/形態は、木そのものの風合いを活かした電子インストゥルメンツを制作しているオウル・プロジェクトの活動と、とてもよく似通っている。ウェタムのサウンド・アートとオウル・プロジェクトの木の楽器。それらは、大量生産を原則とする文化/音楽文化=ポップスとは、完全なる対極に位置づけられるものである。しかも、かなりエクストリームに突出してもいる。そのプロダクションに、同じものはひとつとしてない。この地球上に、ただひとつだけ/ただ一度きり、同じものは、どこにも存在しないのだ。その起源を、変化/変動/変量/変種そのものであるところの自然環境から求めているという点においては、それらはシミュラークルな記憶の再生行為の一種として捉えることもできそうである。ウェタムも、オウル・プロジェクトも、そうした作業を果てしなく繰り返してゆくことで、さらに過激な先鋭化へと意識的/無意識的に突き進んでゆくのだ。
 ウェタムは、17歳で音楽に目覚めて以来、約20年近くに渡って地元ブリストルで音楽活動を続けてきたという。そこでは、ドラマー、ギター・プレイヤー、ヴォーカリストとして、いくつものバンドを渡り歩く、華々しい経歴を築き上げてもいたようだ。そう、かつては、かなり真っ当なミュージシャンであったのである。いや、今も真っ当といえば真っ当であろうか。しかし、90年代の末頃から、バンドに籍を置く音楽活動から、ソロでのサウンドトラックの制作などへと、徐々に方向性を転換させはじめる。その後、自然の中に音とリズムを発見し、フィールド・レコーディングに本格的に傾倒。そして、器楽の世界を遠く離れて、コンクレートな音の世界へと、ディープにのめり込んでいってしまった。ブリストルでの音楽経験と、現在のサウンド・アーティストとしての活動は、一見したところ、完全に隔絶してしまっているようにも感じられる。おそらく、実際に、ウェタムの中でも相当にかけ離れているのだろう。今の作品から、かつてどのようなタイプのバンドで演奏をしていたのかを推し量ることは、非常に困難である。そこには、ブリストルでのバンド時代の痕跡らしきものは、いっぺんの欠片も残されてはいない。00年あたりを境に、ウェタムの音楽地図には、大きな断層が形成されてしまったようだ。バンドからフィールド・レコーディングへ。しかし、こうした変遷は、それほど珍しいものではない。これは、キャバレー・ヴォルテール(Cabaret Voltaire)からザ・ハフラー・トリオ(The Hafler Trio)を経て、現在ではソロのサウンド・アーチストとして活躍しているクリス・ワトソン(Chris Watson)という、とんでもない大家が辿ったものと、同じ道筋でもあるから。ちなみに、ウェタムは、ローレンス・イングリッシュ(Lawrence English)などとともに、このワトソン先生に対しても、非常に強い音楽的なシンパシーを感じているという。自然音や物音の世界にハードコアに没入してゆけば、伝統的なバンドの音楽の流れから断ち切られた地平に到達することになるのは、ある意味、自明の理。そして、そんな自然界の音とは、その伝統的な音楽の流れが誕生する遥か以前から、すでに存在していたものでもある。よって、バンド活動を卒業した隠遁者たちがフィールド・レコーディングへの道に歩み入るといった図式は、あまり正確ではないのかも知れない。物音やノイズの音響やリズムから音楽が生じ、その延長線上に合奏という演奏形態が考案されたとするならば、ワトソンやウェタムが移行していった道筋は、一種の先祖帰りか、もしくは遥かなる原点回帰だと把握するのが妥当なのではなかろうか。しかるに、フィールド・レコーディングによるコンポジションに、バンド・サウンドの痕跡を残すことは、物理的にも原理的にも不可能なことなのである。では、ウェタムが辿った移行の行程は、バンド形態での器楽による音楽創作の限界を超越した、その最果てへの道行きというべきものであったのだろうか。バンド・アンサンブルとは、複数種の楽器のパーマネントな編成を基盤とした、パート分けされた分業制的な同時演奏を完璧にこなして、はじめて成立する。そこでは、そう簡単に、未知なるものが発生することはない。また、20世紀末の時点で、バンドという形態での音楽的な実験や冒険は、ほぼやりつくされてしまっていたといってもよいだろう。その先を必死に見極めようとしていた者たちが、窮屈な閉塞感に苛まれていたとしても、全く不思議ではない。おそらく、その中には当時のウェタムも含まれていたはず。先が見えないゆえに、自然と、視線は足元に広がる広大な大地へと向かった。限界というよりも、袋小路に迷い込む道を回避して迂回をしていたら、大自然の物音やノイズが、有史以前から、勇敢な探求者たちを待ち構えていたという感じであろうか。要するに、音楽や音というものの見方を、いかに絶妙にシフトさせてゆくか、ということである。少し視点を変えれば、今まで目に見えていなかったものが、いやというほど視界に飛び込んでくる。それが、ウェタムの目には、自然界の物音やノイズであったのだ。そうした物音やノイズの発見から、それを主たる音源とした実験的コンポジションが派生する。これが、はたして、限界の超越なのか。そこに見えていたのは、ただの音楽以前の物音やノイズという、極めてオリジナルな音だけであったはずである。川のせせらぎは、まるで音楽のように奏でられ、鳥や蛙の鳴き声は、まるで歌声のようであり、風や波は、反復するビートのように鳴る。だが、それらを意図的に芸術表現の形態の内部に組み込むことは、物音やノイズを自然から切り離し、窮屈で狭い枠の中に封じ込める作業へとつながってしまう。それは、すなわち、音楽の限界を極限まで引き寄せることでもある/それは、すなわち、反音楽の極限に限界まで接近することでもある。このウェタムによる即興演奏の記録とは、そんな限界や極限の周囲を、細心の注意を払ってギリギリのところで回避したり迂回したりする、その実践の結果/成果を明示したものでもあるのである。
 この素晴らしいライヴ音源から、純粋なる音楽表現というものの理念やポスト・モダンなコンポジションの可能性を考察してみるのも悪くはないだろう。ウェタムの創出する音響とは、それを聴く者の感覚や思考を、どこまでもエクスパンドするかのように強烈に作用する。自然音の微細な響きや反響や共鳴を、ダイレクトに受け止めることで、個々の聴覚器官は、広大な広がりをもつ無限の空間そのものと化してしまうのだ。無限の余白とは、まさしく、限界の外側にだけではなく、その内側にも、間違いなく存在する。自然界の物音やノイズは、その余白に、最初に書き込みされた音の響きだ。そうしたオリジナルな音を、純粋に音楽的な響きとして聴き取ることは、本当は、とても難しいことなのかも知れない。音楽であれば、耳を塞ぐことで、一時的にでも、それを拒むことができる。だがしかし、常に存在/顕在するオリジナルな物音やノイズの響きは、そうした安易な排除の手段を、決して許さない。この21分22秒の作品は、純粋なる音楽や純粋なる音の響きへの架け橋であり、フクロウの森と夜の闇への入口でもある。そこから、夜の森に迷い込んだ闖入者たちは、完全に両端が開かれた音楽/反音楽の、その向こう側の余白と、その最初の書き込み以前へと、一気に突き抜ける。本物の音を見つけ出すための目を、しっかりと見開いたままの状態で。(09年)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
Simon Whetham: Night Of The Owl 溝!/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる