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zoom RSS Lindstrom: Where You Go I Go Too

<<   作成日時 : 2008/10/10 21:29   >>

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Lindstrom: Where You Go I Go Too
P-Vine PCD-93163

画像 君が行くところ、どこにだってついてゆくよ。そんな気なんて更々ないくせに、軽くにやけた表情でうそぶいてみせる。もしも、本気でそんなことを言っているのだとしたら、そいつはきっととんでもない眉唾ものに違いない。実に皮肉なものである。本当は、君が行くところ以外だったらどこでもいい、ぐらいのことを、軽くにやけた表情の裏で間違いなく思っているはずなのだから。
 これは、ノルウェイが生んだヨーロピアン・プログレッシヴ・ディスコ・リヴァイヴァルの巨星、リンドストロム(Lindstrom)によるソロ名義での待望のファースト・アルバムである。ここ数年来、リンドストロムは、イタロ・ディスコ〜ユーロ・ディスコの大復活や、バレアリック・サウンドのリヴァイヴァルから派生したスペース・ディスコ/コズミック・サウンドの大ブームといった、アンダーグランド・ダンス・ミュージックの一連の動きの中心で常に注目の的となり、数々のクオリティの高いプロデュース作品やリミックス作品を次々と放ち、多くの人々を魅了してきた。だが、これまでにリンドストロムが本人名義もしくはソロ・アーティストとしてアルバムを発表したことは、実は一度たりともなかったのである。ちょっと、驚くべきことに。
 おそらく、特異な質感をもつクッキリと際立ったグルーヴ感が目眩く展開をみせる、厚みと深みをたたえたリンドストロムが制作する音楽と、一番最初に世界中のアンダーグラウンドのダンスフロアの住人たちが遭遇したのは、00年にノルウェイのJazidより発表されたスロー・シュプリーム(Slow Supreme)名義でのシングル“Flesh/Granada”ではなかっただろうか。このシングルは、元々は北欧の無名なインディ・レーベルより10インチ盤として、ひっそりと人知れずリリースされた一枚の作品にすぎなかった。だが、世界中の嗅覚の鋭いアンダーグラウンドDJたちに見いだされ、彼らに頻繁にターンテーブルに載せられたことにより話題が話題を呼んで、新たに12インチ盤として再リリースされることとなったのだ。そんな紆余曲折な経緯をもつ、ちょっとした曰く付きのシングル作品でのセンセーショナルな登場から、早くも約8年の月日が流れようとしている。そして、その後の常に時代と時流の最先端を駆け続ける華々しい活躍ぶりを考えれば、いまだにリンドストロムがソロ・アーティストとしてのアルバム・デビューを果たしていなかったという事実には、にわかには信じがたいものがあったりもするのである。確かに、05年にはベルギーのEskimoより盟友のプリンス・トーマス(Prins Thomas)とのコンビで傑作アルバム『Lindstrom & Prins Thomas』を発表していたり、翌06年には自ら主宰するレーベルであるFeedelityよりシングルとして発表してきた楽曲を一枚にまとめたレーベル・コンピレーション的な編集盤『It's A Feedelity Affair』が、ノルウェイはオスロのSmalltown Supersoundより発表されていたりと、これまでにリンドストロムが制作に直接関わったアルバムは、少なからず存在した。また、07年には、リンドストロムがコンパイルを担当した『LateNightTales』が、名門のAzuliよりリリースされていた。そういった意味では、このところほぼ毎年のようにリンドストロム絡みのアルバムが、何かしら市場に出回っていたことになる。これだけ立て続けにリリースが続いていると、飽和状態になってしまう恐れが全くないとも限らない。しかし、そこはさすがに手を替え品を替え七色の変化球でかわす投球を得意とするリンドストロムであるから、実に巧みに裏をかきながら常にフレッシュな存在であり続けることに見事に成功をしているのである。つまり、リンドストロムの行くところに、いつだって君や私がただただひたすらにどこまでもついてゆかざるを得ない状態が、ほぼ恒常的に続いているということ。待望のソロ・デビュー・アルバムである本作のタイトルに関して、何ともアイロニカルなものを感じずにいられないのは、実はそうした部分に由来していたりもするのだ。
 いくつもの全世界のアンダーグラウンドなダンスフロアで愛される優れた楽曲をプロデュースしているにもかかわらず、リンドストロムは、ほんの数年前まで同時代のダンス・ミュージックやDJミュージック/クラブ・ミュージックに対し全く興味がもてなかったという、衝撃の告白をしている人物でもある。ノルウェイ西海岸の小さな田舎街で育ったリンドストロムが、少年時代から好んで聴いていたのは、ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)などの硬派なルーツ系カントリー・ミュージックや米国や英国の古いフォーク・ミュージックといった、かなり渋めの音楽ばかりであったらしい。そして、主にロック系のアマチュア・バンドにいくつも加入し、趣味のレヴェルでの演奏活動を大いに楽しむ青年時代を過ごしていた。そんなリンドストロムにとって、単調で機械的な四つ打ちリズムが延々と続くだけのハウス・ミュージックは、メロディにもコード感にも乏しい到底理解し難いサウンドであった。フォークやカントリーに始まり、Motownやフィル・スペクター(Phil Spector)などの黄金の60年代ポップス、そして70年代のアート・ロック〜プログレッシヴ・ロック、ニュー・ソウル、ファンクといった様々な豊潤なる音楽性をもつサウンドに深く親しんでいたバンド青年には、80年代前半に登場したドラム・マシーンやシーケンサー、サンプラー、シンセサイザーなどの新しい時代の電子楽器や機材を使って作られた音楽は、全くライヴ・フィーリングや生気の感じられない無機質で味気ないものでしかなかったのであろう。当時のリンドストロムの感覚では、音楽とは70年代までに生み出されたものが全てであった。それ以降の音楽には、それほど大した関心が抱けなかったようなのである。だが、ここで、フォークやクラシック・ロックを心の底から愛する基本的にデジタル革命以前のアナログな音楽だけしか聴かない、ただの偏屈な変わり者であったならば、一生涯をアマチュア・バンドのメンバーとしてディープ・パープル(Deep Purple)やザ・ラヴィン・スプーンフル(The Lovin' Spoonful)のカヴァーを演奏し続けて終わったかも知れない。しかしながら、リンドストロムは、そこにさらに輪をかけて相当に変わった習性をもつ人物であった。全く興味も関心も抱けない理解不能な音楽であるハウス・ミュージックなどの同時代のダンス/クラブ・ミュージックに対し、どこが嫌いでどこが駄目なのかを具体的に把握するために、そのサウンドの構造を詳細に研究/探究することを開始したのである。ところが、調べれば調べるほどにハウス・ミュージックの大半は、どこまでも味気ないものでしかなかったようだ。そこでリンドスロトムは、サンプラーなどの機材を買い込んで、自らの手でハウス・ミュージックの制作に取り組むようになった。独自の研究/探究の成果を元に、自らの嗜好を満たす自分で聴くことのできるダンス・ミュージックを生み出す試みに乗り出したのである。そして、ハウス・ミュージック〜ディスコ・ミュージックのグルーヴの構造を、リンドストロムの完全なる我流なスタイルで組み立て直した、やや実験的なスタイルの奇抜なダンス・ミュージックが、ゆっくりとそこに姿を現しはじめた。あふれんばかりに盛り込まれたメロディがいくつもの山や谷などの起伏を形成し、大胆に予想を裏切るコード・チェンジが淀みなく流れる旋律にクッキリと後味を残すスパイスとアクセントとなる、気が遠くなるほどドラマティックでエモーショナルな非常に長い尺の実験ダンス作品。リンドストロムは、知らず知らずのうちに極めて独自色の強い斬新にして無二なハウス・ミュージックの地平を開拓してしまっていた。その独創性にあふれる優れた音楽性の作品は、北欧の小さなインディ・レーベルから発表されるとともに世界的に高く評価され、リンドストロムは、数年前まで完全に理解不能で自分とは関係ないタイプの音楽だと思っていたダンス/クラブ・ミュージックの世界において、才能豊かな新進プロデューサー兼リミキサーとしてメキメキと頭角を現してゆくこととなったのである。運命とは、実に皮肉なものだ。ただ自分の聴きたいものを思いきり自分の好きなように作っただけなのに、それが世界中のアンダーグラウンドなダンスフロアで受け入れられ、見ず知らずの大勢の人々がそのサウンドに純粋に熱狂しダンスしているという事実は、ノルウェイの元バンド青年にとって、非常に大きな驚きだったのではなかろうか。ただ、それと同時に、間違いなく爽快な優越感を伴うこの上ない喜びも感じていたに違いない。数年前まで耐えがたいクズばかりであった面白味のないハウス・ミュージックの世界に、自らの生み出したレトロ・フューチャー的なディスコ・サウンドで清々しい新風を吹き込むことができたのだから。
 瞬く間に時代の寵児となったリンドストロムは、次第に自らのメロディの展開や変調が頻繁にあり多くの起伏をもつ入り組んだ構成の長めな楽曲は、少しばかりダンスフロアの住人たちにとって音楽的な面で難解で複雑すぎるのではないかと考えるようになる。もっとシンプルで短く簡潔にまとまった楽曲のほうが、自分のやろうとしている音楽を、より多くの人々に直感的に理解してもらえるのではないかと。ダンスフロアは、常に直接的な刺激を求めている。ダンサーは、基本的に快楽主義者である。そして、作品を重ねるごとにリンドストロムは、合理性と機能性を追求するダンス/クラブ・ミュージックの本来の流れを追従するようになっていった。それからの歩みは、ジョルジオ・モロダー(Giorgio Moroder)に代表される70年代のユーロ・ディスコ・サウンドに、シアトリカルな仕掛けに満ちたヨーロピアン・プログレッシヴ・ロックのスタイルや世界観を色濃く投影させた、ある種の物語性をもって重層的に(複雑に)展開してゆく楽曲を、徐々に噛み砕き、そこから難解さをひとつずつ取り除いてゆくような過程を辿ってゆく。ここ最近のリンドストロムは、短く簡潔でシンプルなわかりやすい歌モノ曲を、つとめて制作することを心がけていたようである。しかしながら、そうした長き道のりの果てに満を持して制作された初のソロ・アルバム『Where You Go I Go Too』では、全ての複雑さや難解さを細かく噛み砕いて吐き出そうとするサーヴィス精神を思いきりうっちゃって、一気に自己流なダンス・ミュージックの独創的な音楽性の原点に立ち返った、とんでもなくアクの強いサウンドが展開されてしまうこととなった。おそらくこれは、これまでのあまりにも親切心にあふれた音楽的な歩みに対する反動であり、つとめてシンプルでポップな歌モノをプロデュースしていた自分と本当の自分との間に無意識のうちに生じていた葛藤をゴッソリと取り除いた結果でもあったのだろう。ここでのリンドストロムは、まるで鬱屈していた精神状態から解き放たれたかのように、どこまでも自由に自らの趣味嗜好に則した音楽性をぶちまけることに徹している。まるで、これこそがリンドストロムの本性なのだと、高らかに宣言しているかのようでもある。
 『Where You Go I Go Too』の収録曲は、たった3曲のみだ。約55分のアルバムに全3曲。単純に計算したとしても、一曲の長さは平均18分以上ということになる。ここで聴けるのは、シンプルでポップな歌モノとは完全に正反対の楽曲群である。リンドストロムに好き勝手にやらせると、アルバムの冒頭に、いきなり約30分にも及ぼうかという超大作が収録されてしまうことになる。これは間違いでも手違いでも何でもない。全てのリスナーは、再生ボタンを押すと同時に、このバカみたいに長い楽曲を、頭から浴びせかけられることになるのである。この音楽による果てしない時間的拘束に、集中力を途切れさせることなくついてゆくことができるかが、まず第一の関門だ。そこでは、次々と現れる幾筋ものささやかな音の流れが寄り集まって流麗なる旋律を導き展開させてゆく行方を、どこまでもどこまでも追ってゆかなくてはならない。ここが次の運命の分かれ道。全てを解き放ち自由奔放に暴走するリンドストロムの濃密なサウンドの世界に、どこまでついてゆくことができるか。全てのリスナーの耳と感覚は、いきなりその忍耐力の度合いをしたたかに試されることになる。逆に翻れば、これはリンドストロムによる果敢な挑戦と見ることもできよう。どこまでも自由な暴走行為に、どれだけ多くのリスナーを深く引きずり込むことができるか。リンドストロムは、自らの手で自らの音楽性の強度を試しているのかも知れない。これまで躊躇して抑え込んでしまっていた部分を、このまたとない機会に存分に試みているようにも感じられる。また、挑戦という点においては、このアルバムの在り方そのものも、音楽配信市場の急激な拡大により明確に浸透しつつある楽曲ごとの切り売りの流通形態や、アルバム全体を通じての総合的な芸術表現の軽々しい取り扱われ方に対する、一種の果敢なチャレンジとなっているようなのである。リンドストロムは、このバカみたいに長い楽曲を3曲だけ収録したアルバムで、音楽配信によってもたらされた悪しき傾向に、ひとりで反旗を掲げ立ち向かおうとしている。しかも、アルバムの各楽曲は個々に分かれて独立しておらず、前曲のエンディングは全て次の曲に途切れることなく繋がっているのだ。これによって、アルバム収録曲の一曲だけをダウンロードして聴いたり、シャッフルやスキップの機能を利用してアルバム中の一曲だけを抜粋したり曲順をバラバラにして聴いたりすることの意味は、極端に低下する。そんな細部にいたるまで強い意志と反骨精神によって貫かれたリンドストロムのやり口は、実に徹底している。この『Where You Go I Go Too』は、最初から最後までの約55分を通して聴かないと意味がない、実にアルバムらしいアルバムなのである。巷に氾濫するシングル曲の寄せ集めのようなアルバムであるならば、音楽配信によって手軽に流通させるという形でも別に大した問題はないのであろう。いや、今や巨大な怪物になりつつある音楽配信市場で流通させるために、お手軽なアルバムばかりが軽薄に制作されているといったほうが正しいだろうか。しかしながら、本作は、あらゆる面において、ことごとく音楽配信向きではない。これは、決して安っぽいアルバムでもなければ、お手軽なアルバムでもないからである。こうした面倒臭いアルバムなら、音楽配信の場においても楽曲単位ではなくアルバム全体のダウンロードをせざるを得なくなるに違いないと、制作者本人も不敵な自信をのぞかせる発言を行っている。はたして、この果敢な挑戦は、高速大容量で世界を駆け巡り続ける音楽配信市場の情勢に一石を投じるものとなりうるのであろうか。非常に興味深いところではある。
 本作の幕開けを飾るのは、アルバムのタイトル曲“Where You Go I Go Too”である。いきなり28分58秒の超大作だ。広大な宇宙空間の遥か彼方から漂着したかのような浮遊するささやかなフレーズたちが寄り集まって、次第に一筋のメロディを形成してゆく。そのメロディは、段々と枝分かれを繰り返し、重層的に折り重なる音の束の中から、豊かで奥行きと厚みのあるゆったりとしたグルーヴが生じてくる。大らかで独特のあたたかみのある北欧スタイルのディスコ・ビートが大きく弧を描くように滑り出すと、ようやくそこに、ぼんやりと朧げにだが楽曲の輪郭が見えはじめるのだ。この地点に到達するまでに、もうすでに約7分近くが経過している。ここでのリンドストロムは、半ば呆れ返るほどにゆっくりと時間をかけて、丹念にじっくりと少しも手間暇を惜しむ事なく、自らの音楽を感性の赴くままに展開させてゆく。ぐるぐると旋回し反復を繰り返すいくつものフレーズたちが、まるでダイヤモンド・ダストのようにキラキラと光を乱反射させながら、悠然と進んでゆくブギーなディスコ・グルーヴの上空で美しく舞い踊る。太くひねり出された年代物のシンセの唸るような嘶きが、そこにハッとするようなスペイシーな色合いをねじ込むように轟くと、ゆったりと夢想空間を滑空していた楽曲に、少しずつ調和を掻き乱す動きが見え隠れするようになる。しかし、およそ15分を経過したあたりで突然、全ての楽曲の動きを根底で牽引してきたビートが立ち止まるようにストップしてしまう。軸となる支えを失ったダンサブルなサウンドは瞬時にして霧散し、光を失った空間は静なる空洞へと音もなく沈み込んでゆく。静寂の中で走馬灯のように様々なイメージが駆け巡り、遠い過去から現在までの記憶が一気にフラッシュバックする。すると、再び遥か彼方からゆっくりと浮遊するフレーズたちの群れが戻ってくる。空虚な空洞の出口は近い。約5分にも及ぶ長いブレイクを挟んで、大らかなグルーヴを運んでゆくディスコ・ビートが復活し、危うく脱線しかけた流れは無事に元のレールの上に戻り、もう一度ゆったりと走りはじめる。だが、それはブレイクの前のサウンドとは、決して同一ではない。目まぐるしくフレーズ群が暴れ回る、非常に動的なサウンドへと変貌しているのがわかる。前半の夢想的な展開からは完全に覚醒しきってしまったような雰囲気だ。その間にも楽曲の流れは、大団円へと向かって、グングンと高みへと上り詰めている。激しくフレーズを展開させ、反復するグルーヴからはマッタリとした熱を発散させる。そして、なだらかな丘を駆け上るようにして見晴らしのよい頂に到達すると、今度はそのまま斜面を駆け下りるようにジリジリと流れは緩く狭まり収束をしてゆくのである。大らかで朗らかさに満ちていた滑り出しとは一変して、大きな起伏をいくつも乗り越えてゆく波乱ぶくみの展開をみせる後半。約30分間に渡って繰り広げられる、とてつもなく長々としたドラマティックな北欧ディスコ・スタイルの音楽旅行の行程に、はたして、どこまでもついてゆくことができたであろうか。ひとたび走り出してしまったら、リンドストロムはもう止まらない。流れについてゆけなかった落伍者のことを気遣う偽善的な優しさなどは全く持ち合わせていないに等しい。もし、こぼれ落ちてしまったら、後はもう自力で追いすがって、流れに追いつくしか手はないのだ。“Where You Go I Go Too”が終わると同時に、すぐに次の曲が始まる。止めどなく動き続ける流れは、決して待っていてはくれない。置いてけぼりにならないように、くれぐれも気をつけて。
 2曲目の“Grand Ideas”は、実際には前曲の終盤の段階で、もうすでに微かに始まっている。ここでは曲と曲は相互に重なりあい、そこに曲間というものが存在することはない。微細な予兆に導かれた錐揉み状の粗い電子音は、短い周期で反復する瑞々しいフレーズ群とともに、緊迫感を漂わせる四つ打ちビートにビリビリと痺れるように絡みついてゆく。この曲の序盤に充満している、爆発しそうな感情を必死に押し殺す不穏な雰囲気には、どこかジ・インモータルズ(The Immortals)の名曲“The Ultimate Warlord”の曲調に近いものが感じられたりもする。理性的に自己を抑制し、沸々と煮えたぎる内面をつとめてコントロールしようとするのだが、楽曲が進行するに従って次第に妖しい小爆発を繰り返すようになる反復フレーズ群は、殻を突き破り、垣根を乗り越えて、外側の世界へとほとばしりはじめる。同時多発的に噴き出し勢いよくあふれ出てしまうと、もうこれを食い止めておく術はない。グルグルと旋回するヒプノティックなフレーズは、いくつも渦を巻きながら外側へ向けて炸裂してゆく。そして、淡々と刻まれる四つ打ちのビートの周囲で、豪快に打ち鳴らされる太いパーカッションの弾けた響きが、そのサウンドのカラフルな拡散をどこまでも煽り立ててゆくのだ。楽曲が終盤に差し掛かる頃には、序盤に漂っていた抑制のきいた緊迫感は完全に打ち消され、内側と外側が逆さまに裏返ってしまったかのような印象すら受ける。ふと見渡すと、あちらこちらで色鮮やかな電子音の渦が瞬いている。まるで宇宙空間に咲く、たくさんの花火のようだ。“Grand Ideas”は、10分10秒と本作中では最も短い楽曲である。また、サウンドのスタイルの面においても、最もハウス・ミュージック的な要素の強い楽曲だといえる。これ以外の楽曲は、どちらかというとダンス系のサウンド・スタイルというよりも、イタリアン・プログレッシヴ・ロックやジャーマン・エクスペリメンタル・ロック/クラウトロックなどに比較的近い。四つ打ちビートとパーカッションによる情感を叩きつけるような激情グルーヴが止むと、再び空間にポッカリと口をあけた、異様な静けさに満ちた大きな空洞が出現する。そこに微かに漂ってくる電子音のフレーズの揺らめきは、紛うことなき次曲のプロローグである。
 アルバムのラストを飾る3曲目の“The Long Way Home”では、揺らめきながら舞い落ちる電子音のフレーズの粉雪たちが、楽曲の序盤を鮮やかに彩ることになる。細やかな反復フレーズの結晶は、延々と約6分半近くに渡って軽やかに降り続くのだ。そこにしっとりと寄り添っているのは、何ともいえない感傷的なムードが色濃く漂う旋律である。長きに及ぶ音楽旅行の旅路の果てに、ひしひしと胸に迫る郷愁の想い。その根底には、刻一刻と終着点へと近づく旅路が、少しずつ残り少ないものになってゆくことからくる、一抹の寂しさのようなものも流れているであろうか。そして、ようやく、大らかで懐の深いミッドテンポのビートが浮かび上がるようにして出現し、降り注ぐ反復フレーズ群の中を滑り出す。これを合図に、最早はち切れんばかりに膨れ上がっていた胸中の郷愁の念は、一気に家路へと殺到し急いで駆け出してゆくのである。そんな感情の昂りとともに、さらに感傷の度合いを深めて展開してゆく切ない旋律の幾筋もの流れ。淡々と歩を進めてゆくビートは、極めて冷静に来るべき終末の地点へと近づいてゆく。どんな旅にも終わりはあり、全ては帰るべき場所に帰り戻るべき場所に戻ってゆく宿命にある。15分58秒にも及ぶ大作である“The Long Way Home”の終盤には、感情を動かし揺さぶるメランコリックなメロディがグルグルと渦巻く、とんでもなくエモーショナルな様相を呈する濃厚な展開が待ち構えている。これは、強烈にして、強迫的なまでにメロドラマ的な楽曲である。ここでは、クドいほどに執拗に畳み掛けてくる感傷性に満ちたサウンドの大洪水を、目一杯に浴びることができる。しかし、最終的には、そんな猛烈な展開によって目眩がするほどにクラクラとさせられてしまい、この音の旅路がどんな終着点に到達したのかさえハッキリと感覚することができなくなってしまっていたりもする。催眠的な反復フレーズ群による酩酊感も相まって、意識は途切れ途切れになりながら、ゆらゆらと揺らぎ、スーッと薄らいでゆく。全てを優しく包み込むキラキラした電子音の渦の懐にスッポリと抱かれたまま、長い旅路を先導してきた大らかなビートが、次第に少しずつ遠のいてゆくのを感じ取る。ラストはもう、完全に夢現の状態なのである。気がつけば、満ち満ちていた潮は、静かに気配も立てずに引いてしまっている。微かな余韻を漂わせつつ、約55分の壮大なる音楽旅行は、跡形もなく消え去った。まるで全ては幻影であったかのように。そして、何ともいえない深い喪失感と、いくつもの楽しかった旅の思い出の断片だけが後に残るのだ。これは、聴取体験後に、そういった何かしらの感慨や感情が胸の中にクッキリと残るタイプのアルバムである。だが、その境地へといたるためには、延々と約55分間に渡って、暴走するリンドストロムの行くところにどこまでも食らいついてゆき、長い旅路を常に能動的に楽しまなくてはならない。これを約55分間の音楽的苦行と感じるであろうか。しかし、特に難しいことなんて何もない。極めて単純で簡単なことだ。音楽という名の乗り物に乗り込んで、振り落とされないように、シッカリとつり革や手すりにしがみついていればいい。ただ、それだけの話なのである。
 たった3曲で約55分、しかも片時たりとも耳を離すことは許されない。『Where You Go I Go Too』とは、まさしく相当な聴き応えのあるアルバムだといえる。ただし、それはリンドストロムが描き出したエモーショナルにして深遠なる音の宇宙の旅路に、どっぷりとハマることができた場合のみに限られるのかも知れないが。いずれにせよ、近年これほどまでにアクも自己主張も強く、それでいて決して無視することのできない高い音楽的なクオリティを併せ持ったアルバム作品が、どれほど存在したであろうか。いきなり1曲目から約30分の超大作で幕を開けるなんて、呆れるほどに挑戦的で刺激的ではないか。それが、ただの面白半分の生半可な姿勢で取り組まれたのだとしたら、おそらくそんなものは全く聴くに堪えない散々な代物となったに違いない。だが、リンドストロムは、約30分間のまっさらなスペースを丸々と有効使用して、独特の悠久なる北欧系ディスコ・リヴァイヴァルのサウンド・スタイルを最大限に拡張させた、非常にドラマティックで濃密な音世界を見事に展開してみせる。この驚くほどの創造力の豊かさと、プロデューサー兼ミュージシャンとしての創造性の高さには、ただただもう脱帽するしかない。個人的な感想としては、このファースト・アルバムでの突然のたがが外れたような暴発ぶり自体は、素直に大歓迎したいところではある。実は、ここ最近のリンドストロムのソロ作品には、底の浅い薄っぺらさや味気なさを味わわされることが多々あった。思えば、06年にFeedelityより発表されたシングル“Another Station”(確か、ホワイト・レーベルのプロモ盤は、05年の段階で出ていたような記憶がある)以降では、07年の“Breakfast In Heaven”だけが唯一例外的にギリギリ許せたくらいだっただろうか。プリンス・トーマスとのコンビでのプロデュース作品やリミックス作品では、常に良質で内容の面でも非常に充実したものが生み出されていただけに、余計にそう感じてしまった部分もあったのかも知れないが。ソロでのリンドストロムは、難解さや複雑さを極力排し、誰にでも直感的に受け入れることのできるわかりやすさを優先したがために、どちらかというと少し抑制が利きすぎてしまっていたきらいがある。しかし、一旦そのリミッターを外してしまうと、この『Where You Go I Go Too』のような、たった3曲で約55分間ずっと音の流れが途切れることなく続いてゆく、かつてのヨーロピアン・プログレッシヴ・ロックのアルバム様式を極端な形で継承してみせた風な、とんでもなくエクスペリメンタルなダンス・ミュージック作品が飛び出してきてしまうことになる。初めてのソロ・アルバムだから、好き放題に目一杯やるのも悪くはないだろう。変にバランスをとろうとして、プロダクションを一歩も二歩も引いた客観的な視点で捉え、いまいち薄味で味気ない作品を送り出してしまうリンドストロムは、制作者としてはクールで一端の大人であるのかも知れない。だが、暴発気味な時の凶暴なまでに強烈な音楽性に愛着を感じるものとしては、それでは、やや面白味に欠ける。リンドストロムは、その北欧の凍てつく空のもとカントリーとフォークと70年代サウンドで培った独特の感性を、どこまでも野放しにしている時のほうが断然面白い。この初のソロ・アルバム『Where You Go I Go Too』で聴けるサウンドは、そんなリンドストロムの強烈にアクの強い音楽性の端緒を、きっとまだまだ、ほんの少しだけ垣間見せたものにしかすぎないはず。ジャケット写真の軽くにやけた表情は、見れば見るほどに、こんなのまだまだ序の口だよ、とでも言いたげではないか。こういう表情の時のリンドストロムには要注意だ。にやにやしながら、こちらの想像を絶する強烈な一発をお見舞いしてくるから。誰も気を抜いてはならぬ。心して聴け。これは、かなり危険な一枚である。(08年)

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