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<<   作成日時 : 2008/09/08 21:15   >>

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Seetyca & Etheocles Stevens: Sulphur III. Golden Pollen
Otium OTR046

画像 ドイツのシーティカ(Seetyca)とカナダのエテオクルス・スティーヴンス(Etheocles Stevens)によるコラボレーション作品の第3弾。これまでのサルファー・シリーズの2作品は、Seetycaが主宰するレーベル、Mbiraより発表されていたのだが、今回はなぜかロシアのネットレーベル、Otiumからのリリースとなっている(リリース日は、08年7月16日)。この突然の変化には、いかなる意味があるのであろうか。MbiraからCDRというフォーマットで限定的なリリースをするよりも、ネットレーベルを通じてMP3ファイルというフォーマットで発表をしたほうが、より広域に限度を設けることなく音源を流布/配布させることができる、といった点を考慮したうえでの変化なのか。その場合、これまでのCDRの制作枚数とネットレーベルからのダウンロード数では、どれくらいの数値の差が出るものなのだろう。このあたりも大変に気になるところではある。いずれにせよ、Seetycaもスティーヴンスも極めてアンダーグラウンドな存在であることに変わりはないので、もしかすると数的には、それほどの大差は生じないのかも知れない。いや、無料でダウンロードして即座に聴くことができる手頃さや手軽さという部分が非常に大きく作用するならば、この第3弾は、これまでの値を一桁も二桁も上回るということもありえるのではなかろうか。もしも、実際に二桁も上回るのであれば、正規にCDをプレスしてリリースしたほうがいい。しかしながら、CDにすると、それほどは売れないのである。これが現実であり、音楽作品の流通形態の現在を取り巻く切実な問題の根本となっている。実に悩ましい話だ。アーティストもレーベルも、作品の最善なる流通方法に関して、大いに頭を悩ませている。今回、この『Sulphur III. Golden Pollen』が、ネットレーベルよりリリースされたということも、間違いなくそうした問題と決して無縁ではないはず。本作のリリース元にロシアのネットレーベルが選択されたのは、Seetycaとスティーヴンスによる模索や試行錯誤の動きの一環であるということなのであろう(おそらく)。
 『Sulphur III. Golden Pollen』は、全5曲を収録したディープなアンビエント作品である。クラシカルなスタイルのクワイアをサンプリングした朗々たる清らかな歌声が、暗く深い洞窟の奥底から反響しながら響いてくる。その圧倒的なる音の世界には、ある意味とんでもない荘厳さがたたえられており、独特の宗教臭さも色濃く漂っている。だがしかし、その臭みは、どちらかというと中世以降のシステマティックに整備され統制のきいた宗教のそれではなく、有象無象の神話や伝説/伝承がまかり通っていた原始から古代にかけての時代の得体の知れない土着的で野蛮な宗教の香りに限りなく近い。また、ある種のオカルティックな危険性をはらんだ魔術的で魅惑的な匂いなども微かに混じっているようだ。やわらかに揺らめきながら確実に空間を満たしてゆく、繊細な絹のごときシンセのトーンが折り重なり形成する気が遠くなるようなドローン。Seetycaとスティーヴンスが描き出してゆくアンビエント・サウンドは、とても美しい。だが、その美には、底を覗き込むのが怖くなるような凄まじい深遠さが備わっている。それはまるで、遠浅の海水浴場のすぐ目と鼻の先に深さ数千メートルの海底谷や海溝の暗黒がポッカリと口を開けているかのようでもある。そこには、危険だとわかっていてもついつい吸い寄せられ、とんでもない深さにまで引きずり込まれていってしまいそうな、えもいわれぬ魅惑に満ちた空恐ろしさが存在する。『Sulphur III. Golden Pollen』のアンビエント・サウンドの得体の知れなさには、そうした聴く者の耳を惹き付けてやまない魔的な魅力が、たっぷりと含まれているのだ。堕落し退廃の限りを尽くし神の怒りに触れた罪深き古代都市ソドムとゴモラを、一瞬にして焼き払ったのは、天から降り注いだ火と硫黄(Sulphur)であったと旧約聖書は伝えている。硫黄とは、古代より人智の域を越えた神の領域に属する畏怖すべき存在であったのだろう。火と硫黄で焼き払われることは、得体の知れぬ神の手によって焼かれるのことに等しい。また、おそらく現在よりも数倍は活発であったと思われる山々の火山活動も、少なからぬ関連性があるようにも思われる。古代人にとって信仰の対象であった山が、近隣に居住する者たちにむけて唐突に怒りを爆発させるように噴火する際、地面から噴き出す真っ赤に燃えたマグマと強烈な臭気を発する硫黄は、どこか神の隠されていた裏側の顔とでもいうべき魔的な恐るべき状態/状況として、恐怖におののきつつ惨劇から逃げまどう人々の目には映ったのではなかろうか。このコラボレーション・シリーズにおいて、Seetycaとスティーヴンスが表現することを試みている硫黄というものも、そんな太古の時代の得体の知れない魔的な力を宿していた神話の世界の硫黄に近いものであったのかも知れない。『Sulphur III. Golden Pollen』で触れることのできる、とてつもないサウンドの深遠さと壮麗さを耳にしていると、ついついそんなことをあれこれと考えてしまったりもする。
 本作を細かな音楽ジャンルに区分する際に、おそらく頻繁に使用されるであろう言葉が「ダーク・アンビエント」というものである。リリース元のOtiumも作品の概要を説明するテキストの中で、サウンド・スタイルの欄にダーク・アンビエントと明記している。これは、Seetycaとスティーヴンスも、本作がダーク・アンビエント作品と紹介されることに対して、全く拒絶反応を示していないということの表れでもあるのだろう。しかしながら、個人的には、このダーク・アンビエントという言葉は少々鼻についてしかたがない。何をもってしてアンビエント・ミュージックにおけるダークさを規定することができるのだろう。そこに何らかの明確な基準でも存在するというのか。いや、そんなものはどこにも存在しない。そもそも、アンビエント音楽/アンビエント音響において、暗さや明るさとは大きな問題となるファクターであっただろうか。度を越えてバカみたいに躁状態のサウンドや救いようのないほど隠滅なサウンドをもったアンビエント・ミュージックがあるだろうか。もしも、そんなものが存在した場合、それらを厳密な意味でのアンビエントとして認識することは果たして可能であろうか。基本的に、アンビエントには感情の表現はできない。アンビエントに許されているのは、環境に溶け込み雰囲気を演出することのみである。そのような意味においては、この『Sulphur III. Golden Pollen』という作品もまた、実際のところダークでもアンビエントでもないのかも知れない。創世神話などに登場するミステリアスな硫黄という存在にインスパイアされた、ディープで美しい静かに流れ漂い移ろってゆく、重厚なる室内楽的電子音楽作品、といったところが近しい感じであろうか。きっと、簡単にダーク・アンビエントという一言で片付けてしまったほうが、送り手の側も受け手の側も、楽といえば楽だろう。手軽さや楽さを追求するあまり、物事の本質が、いとも簡単に歪められていってしまうという事例は、驚くほど多い。『Sulphur III. Golden Pollen』は、実際にダーク・アンビエント作品なのであろうか。多くのリスナーの耳が、そう判断するのであれば、この手の音楽スタイルがそうした属性の内側へと流動してゆくということもあるのだろう。言葉の本質とは、そのように実に危うく移ろいやすい。多くの人々の手垢にまみれたダーク・アンビエントという言葉は、もうすでに完全に歪みきってしまっている(ということか)。さて、あなたの耳には、この作品がダークなアンビエント・ミュージックに聴こえたであろうか。(08年)

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