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<<   作成日時 : 2008/05/20 21:36   >>

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溝!だより

 こんにちは。晴れると暑くなったり、曇ればヒンヤリ肌寒かったり、台風の影響を受けてすぐに天候が崩れて下り坂になったりと、なんともおかしな天気の日々が続いていますね。普通、5月といったら、もっと気持ちのいい気候だったと思うのですけど。さて、どうだったでしょうか。少し、おかしいですよね。調子が狂います。
 サザンオールスターズが今年いっぱいで無期限活動停止だそうです。特に深い思い入れはないので、これといった感慨も湧いてはこないわけなのですが、なんだかちょっぴりさみしいですね。あの伝説のTBS「ザ・ベストテン」での新宿ロフトからの生中継(78年8月31日)は、とりあえず観たような記憶があります。当時、小学生の子供は夜の9時には布団に入って寝てなくてはいけないという家庭内の決まりがありました。でも、「ザ・ベストテン」のある木曜日だけは、特別に夜の9時以降もテレビを観るために起きていてよいことになっていたのです。本当に木曜だけは特別でした。その時に幼気な小学生の目と耳に飛び込んできたサザンは、今でいったら小島よしおのオッパッピーと同じというかほぼ似たような感じであったような気がします。学校の教室内や登下校の最中に、誰かが「今何時?」と叫べば、誰もが嬉々として「そうね大体ね」とか「まだ早い」と、キチンと節つきで応対したものでした。今の小学生が、馬鹿の一つ覚えのようにアクションつきで「そんなの関係ねぇ」をやるのと、たぶん同じ感覚です。でも、小学校で「今何時?」が流行しだしたのが、あの「ザ・ベストテン」の放送日の翌日(つまり二学期の始業式の日!)からであったかは、記憶が定かではありません。個人的には、これまでにサザンのレコードやCDは一枚も買ったことがないですし、ましてやライヴを観た経験もありません。しかし、たった一度だけ、サザンのライヴ演奏の模様を生で聴いたことがあるのです。別にすごく聴きたくて聴いたわけではないのですが、なんとなく聴こえてきちゃったのでタダで聴いたというだけのことです。それが、82年8月29日に初雁球場で行われた、「Sound Festival In Kawagoe」でのサザンのライヴでした。球場での野外ライヴです。相当にバカでかい音でやっていたのでしょうか、もう近隣中にガンガン響き渡っていました。ちょうど夏休みが大詰めを迎えていた頃だったのですね、当時は冷房のある部屋なんて一階の居間ぐらいでしたから、二階の自分の部屋などは窓は開け放しにして蚊が入ってこないように網戸ですよ、すると聴こえてくるわけです、野外ライヴの音がガンガンと。フェスティヴァルには、近田春夫&ビブラトーンやジューシィ・フルーツなども出演していたようですね。でも、ほとんど記憶に残っていません。まだ夕方の早い時間にヒット曲の「ジェニーはご機嫌ななめ」が聴こえてきていたような気もするのですけど。なんとなくトリのサザンの出番から急に音がバカでかくなったような記憶があります。最後のサザンだから近隣からの騒音の苦情も気にせずに思いきりお祭り騒ぎ的に弾けちゃおうという感じだったのでしょうか。二階の窓辺で聴いていたサザンのライヴで、なぜか一番印象に残っているのは、異様に鮮明に聴こえてきていた原坊のコーラスです。特徴のある声質な上に、マイクのミキシングの具合がちょっとおかしかったのですかね、原坊のコーラスが、とんでもなく目立っていました。気になりだすと、人間の耳は、そこばかり聴いてしまうものなのですよね。よって、コーラスの部分ばかりを重点的に聴いてしまった記憶があります。ガンガンに盛り上がっていた野外ライヴが終わると、いつもと変わらぬ虫や蛙の鳴き声の大合唱だけが網戸の向こうから聞こえてくる夏休みの夜が、そこに戻ってきていました。まるで何事もなかったかのように。例の「今何時?」は、その野外ライヴでもセットの最後の方で演奏されていた記憶があります。そこでも問いかけのコーラスでの原坊の声は、バカでかく聴こえてきていました。しかし、なんで初雁球場で野外ライヴをやることになったのでしょう。実に謎です。
 今回の溝!だよりは、最近のリリース作品の中からチョイスした面白かったものや興味深かったもののリポートを中心にお送りしたいと考えております。大急ぎでリポートの作成を行ってみたのですが、実はまだ全く手をつけられぬまま順番待ちをしている状態のものもあったりします。それに関しては、次回に必ずということで。勝手に後回しにしてしまって誠に申し訳ないです。なにとぞお許しください。

溝!リポート

VA: Intimate Ambiance Live Recordings
Moment Sound

 シカゴのネットレーベル、Moment Soundより発表されたライヴ・レコーディング作品。内容は、08年4月26日にシカゴのEl Dorado Loungeで開催されたイヴェント、Intimate Ambianceの模様の実況録音である。このイヴェントは、アンビエント・サウンド〜エクスペリメンタル系のエレクトロニック・ミュージックを中心としたDJプレイとライヴ演奏を、約12時間に渡って延々と繰り広げるという壮大なマラソン的コンセプトのもとに催された。非常に長丁場のライヴ・パフォーマンスに対応するため、会場には、あらかじめいくつもの枕と毛布が用意されていた。疲れたオーディエンスは、その場に座り込むだけでなく、毛布にくるまり枕に頭を横たえた完全なる休息の体勢をとりながら、会場を満たすやわらかなアンビエント・サウンドを心ゆくまで楽しむことができたのだ。また、通常のライヴ・イヴェントとは異なり、よりリラックスした状態で音と親しむことを目的として、会場には動物のぬぐるみやキャンドル、パズルやゲームなどが多数持ち込まれ、まるで誰か知り合いの家の居間で演奏会をやっているかのような、親密な空気感を演出するための細やかな演出もなされていたようだ。実際、多くのオーディエンスは、あたたかな毛布にくるまって降り注ぐアンビエント・サウンドを子守唄代わりに、グッスリと眠ってしまったものと思われる。睡眠しながら満喫できる、究極に親密でリラックスしたイヴェント、それがIntimate Ambianceだったのである。
 このようなスタイルのアンビエント系イヴェントの元祖として、やはり真っ先に思い浮かべなくてはならないのが、ロバート・リッチ(Robert Rich)によって考案/実践されたSleep Concertであろう。80年代初頭、スタンフォード大学の大学生であったリッチは、実験的に眠っている人間(の脳波)に向けて長時間に渡りエレクトリックなドローン・サウンドを演奏し浴びせかけ、それが睡眠の状態にいかなる影響を及ぼすことになるのかを確かめようと、カリフォルニア州オークランドにおいて眠ったオーディエンスを相手にしたコンサートを度々開催した。それが、世に名高いSleep Concertである。ライヴ会場の床一面に広げられた大量の寝袋に入って横たわった多くのオーディエンスは、9時間以上に及ぶリッチの美しいアンビエント・ミュージックの演奏を、グッスリと眠りながら堪能したのである。睡眠のために照明を落とした薄暗い会場で、夜半にスタートしたコンサートは、すっかり陽が昇った午前7時頃に終演となる。長時間の演奏を終えたリッチは、寝袋からゴソゴソと這い出してきたオーディエンスに対して寝起きのお茶をサーヴしたという。これぞ、まさくし親密な空気感。間違いなく、これが、シカゴのIntimate Ambianceのルーツである。
 “Intimate Ambiance Live Recordings”は、残念ながら(?)約12時間に及んだイヴェント、Intimate Ambianceの模様を全て収録したものではない。今回、ライヴ音源としてリリースされたのは、そのほんの一部。約3時間分の抜粋ヴァージョンである。そして、その音源そのものは、ほぼ半分ずつの1時間半程度の2つのパートにわけて発表されている。まず最初のパート1に収録されているのは、ママ・ソニック(Mama Sonic)によるDJプレイとドリームロジック(Dreamlogicc)によるライヴ演奏である。Mama SonicのDJは、電子雑音やノイズ、古い歌唱曲やスポークン・ワードなどの様々な音の断片を次々とサウンド・コラージュ的に張り合わせてゆくという、かなりエクスペリメンタルなスタイルのものである。走馬灯のように現れては消えてゆく、なんの脈絡もなく寄せ集められた雑多な音響たちに、脳内を緩急をつけて掻き回されているような気分にさせられる。実に不思議な感覚のDJプレイだ。ドリームロジックのライヴは、無邪気なエレクトロニカからスタートし、そこからどんどんとディープな方向へ潜行してゆく展開をみせる。途中で感傷的な流れに傾きすぎる部分も見受けられるが、完全にバランスを崩してしまうまでにはいたっていない。そして、終盤に再び邪気のないサウンドが戻ってくる。おそらく、このパート1は、イヴェントの早い時間の模様を収めたものなのであろう。まだズッポリとアンビエントではなく、サウンド自体に動的な要素が多分に残されている。しかし、これが、やはりパート2に足を踏み入れると、様子はガラリと変わってくる。きっと、こちらは枕と毛布が大活躍している深い時間帯の音源なのであろう。収録されているのは、0A03とマイルス・ティルマン(Miles Tilmann)、そしてポリフューズ(Polyfuse)という3組によるライヴ演奏である。まず0A03(ドノヴァン・コーリー・リオン(Donovan Corey Lyons)のソロ・ユニット)のライヴは、細切れになった電子雑音や弦やアコーディオンなどの楽音がグルグルとループ状になって幾重にも折り重なり、トランシーで催眠的な音響の渦が形成されてゆくという、なかなかに素晴らしいものである。このセクションにひと段落がつくと、澄みきった瑞々しい音世界に、憂いに満ちたトーンの静謐なるギターのソロ演奏が訥々と響くという、実に儚くも美しいサウンドが展開されるパートが立ち現れてくる。個人的には、今回発表された音源の中で、最も気に入っているパートのひとつが、この部分だ。このセクションの直後に続く、無闇に長ったらしいアウトロも、思わせぶりな感じが濃厚に漂っていて妙にナイスだったりする。続く、マイルス・ティルマンのライヴは、浮世離れしたエクスペリメンタルなエレクトリック・ノイズ・サウンドをベースに、物音がリズミカルに転がっていたり、ジャジーなブラッシュ・ワークが薄ぼんやりと出現してきたり、ストーンと深い音の空洞へ投げ込まれて、どこまでもどこまでも落下してゆく感覚を味わわされたりと、なかなかに強烈な音響を投げかけてくるものとなっている。ありきたりなチル・アウト系のアンビエントでは決してないが、ティルマンの創出するサウンドは、間違いなく相当にディープなところまで行けるものである。周辺に漂ういくつもの電子雑音の群れに導かれるように、緻密に電子処理された音響が微かに揺らめくインナー・スペースを突き抜けて、ドローンと具体音が入り混じる光に満ちあふれた夢幻の境地へといたる。そして、そのまた先には、真の解放を感覚できる音世界が待ち構えているのだ。最初は、大いなる祝福に包まれていた解放の音空間であったが、それは次第に暗い不吉な影にスッポリと飲み込まれていってしまうことになる。いやはや、なんとも凄まじい音響の旅路である。ラストを飾るのは、ポリフューズ。エクスペリメンタルなエレクトリック・サウンドを軸とした、ドリーミーで奥行きのあるアンビエントが展開される。どこまでも深く眠りに落ちてゆけそうなリッチなサウンドである。だが、編集の都合によるものと思われるが、このポリフューズのライヴの模様は、残念ながら約10分程度しか収録されていないのだ。これは、非常に惜しい。
 これらの2つのパートを合わせて、約3時間分の音源がイヴェント全体のライヴ演奏から抜粋され、今回この“Intimate Ambiance Live Recordings”という形で発表されたわけである。パート1は純粋に聴くものとして、パート2はなかば夢うつつの状態もしくは完全に眠りながら堪能するものとして、それぞれがそれぞれのスタイルで十二分に楽しむことができるものとなっている。まあ、イヴェント全体の一部のみを抜粋したものとはいっても、いずれも、かなり長時間のリスニングが要求されるものであることに違いはない。つまりそれは、それなりの覚悟を決めて、そこそこは腰を据えて耳を傾ける必要があるということである。それぞれの音源は、多少毛色の異なったものとなっているので、用途や気分に合わせて、シックリきそうな方をチョイスするという手もアリであろう。完全にリラックスした状態で、親密な雰囲気のライヴ音源をドップリとお楽しみください。おそらく、パート2の終盤あたりで、まぶたの重みに耐えきれなくなって、ストーンと眠りに落ちてしまうくらいが、最高の聴き方なのではないかと思われる。(08年)

Entia Non: Lilt
Test Tube tube122

 たぶん、いま地球上で最も良質な音楽をクリエイトしているアーティストのひとりであろうエンティア・ノン(Entia Non)の新作が、Test Tubeより登場した(リリース日は、08年5月6日)。Entia Nonは、オーストラリア在住のジェームス・マクドゥーガル(James McDougall)によるソロ・プロジェクトである。08年のEntia Nonは、Resting Bellからの“Sub Routine”に始まり、DataObscuraより『Fold』と“Remora”といった姉妹作品を立て続けに発表したりと、ハイ・クオリティなリリースを連発し、とどまるところを知らぬ快進撃を続けている。そして、そこにトドメをささんと言わんばかりに老舗のTest Tubeが、絶妙なタイミングで送り出してきたのが、この“Lilt”というわけである。07年11月に発表された“Distal”に続く、Entia NonにとってはTest Tubeからの2作目となる本作。絶対の信頼を置くことが可能な両者の取り合わせ。これが悪かろうはずがない。というか、ちょっと言葉を失ってしまうくらいに素晴らしい出来映えとなっているのである。
 “Lilt”は、全5曲を収録した約40分程度の作品集である。ヴォリュームからすると、一般的にはEPやミニ・アルバムと呼べる形態の作品となるであろうか。そのサウンドは、Entia Nonらしい繊細にして美しい電子音による奥行きのあるサウンドスケープに、フィールド・レコーディングされた音素材を巧みに絡めつつ、丁寧に丹精込めて紡ぎだされてゆく。今回、マクドゥーガルは“Lilt”で使用する素材を採集しに、ブリスベンの東に位置する巨大な砂の島であるストラッドブローク島でのフィールド・レコーディングを行っている。どこまでも続く真っ白な砂浜の波打ち際の水音や野生の鳥や動物の鳴き声など、マクドゥーガルの手によって録音されたオーストラリアの豊かな自然の具体音が、“Lilt”のプロダクションには最大限に活かされている。絹のケープのように薄く漂い、優しく降り注いでくるアンビエントのトーンやドローンと、美しいストラッドブローク島の大自然の風景が、無理なく調和し作品のサウンドの中で溶け合っているのだ。Entia Nonの音楽とは、人間と地球環境との共存の最良の形を示すものであるかのようでもある。これは、いずれ破壊され失われてしまう自然の音を記録した音楽ではない。ここで聴けるのは、常に地球上にあるべき、ごく自然な音にほかならない。人類の誕生以来、人間は地球上の大自然と格闘し折り合いをつけ共存しながら歩みを続けてきた。そのことは、これからも、決して変わることはない。“Lilt”に収められている音楽は、全人類にとっての最も理想的な未来の方向性を提示してくれている。かくも美しき、地球の未来。おい、類人猿なめんな。地球に生まれてよかった。
 驚異的に高いレヴェルで疾走を続けているEntia Nonのサウンド面でのピークは、もうしばらくの間は失速することなく継続してゆきそうな勢いである。今後さらに今回の“Lilt”を越える美しい作品が登場してくることになるのかと思うと、想像するだけで軽く胸が高鳴ってくる。実に楽しみだ。まあ、現時点では、この“Lilt”を越えるほどに美しい音響などは、そう簡単には想像がつかないのだが。(08年)

Bosques de mi Mente: Ruido Blanco
Clinical Archives ca128

 これは、とんでもなくメランコリックでセンチメンタルな作品である。ここまで感傷的で悲嘆にくれきった音楽を耳にしたのは、本当に久しぶりだ。そんな気がする。安易に自己を苛み追いつめて絶望のふちに立つわけではなく、ジメッとした孤独感の中心で日がな一日堂々巡りを繰り返し鬱々とした思考を巡らし続けているような感じが、なんとも情けなく惨めで物悲しい。どこにも吐き出す捌け口のないメランコリックな感情が、ただただ内面に渦巻き、ひたすらに肥大してゆくだけの暗澹たる惨状。そこには、もはや希望の光も救いの手も届くことはない。
 ボスケス・デ・ミ・メンテ(Bosques de mi Mente。以下、BDMM。直訳すると、私の心の中の森)の『Ruido Blanco』は、08年5月8日にClinical Archivesの128番目の作品としてリリースされた。BDMMは、スペイン在住のマルチ・インストゥルメンタリスト、ナチョ(Nacho)によるソロ・プロジェクトである。Nachoが、このBDMMの名義を使って創作活動を開始したのは、約1年前の07年の半ばから。そして、活動の開始とともに制作に着手した最初のアルバム『Toy Trains』は、早くも07年7月に完成し、その3ヶ月後には2枚目のアルバム『LO-FI』の制作までもが完了してしまっていた。当初のBDMMは、凄まじい勢いで音楽制作に邁進していたのである。これらのアルバムは、いずれも08年2月にClinical Archivesより相次いで発表されている。しかしながら、『LO-FI』が仕上がった直後に、Nachoは生まれ故郷を離れマドリッドへと転居をしたようだ。この住環境の大きな変化が、湯水のごとく音楽が湧き出してくるように多作であったBDMMの創作のペースを完全に狂わせてしまった。家族や親しい友人たちのもとを遠く離れて、コンクリートとアスファルトと鉄筋に囲まれた大都会で新たな生活をスタートさせたNachoは、そこで大いなる孤独感や疎外感と直面することとなった。人間と物質で溢れかえる賑やかな大都会で、ひとりだけポツンと蚊帳の外側に取り残されてしまっているかのような感覚。そんな孤独と疎外感の真っただ中で指の赴くままに爪弾いていた感傷的なムードのピアノの演奏を基盤として制作が進められたのが、このBDMMにとっての3枚目のアルバムとなる『Ruido Blanco』なのである。息詰るような苦しい内面と向き合い、それを少しずつ包み隠さず吐露してゆくことで進行していった『Ruido Blanco』の制作作業は、これまでのアルバムとは全く異なり非常に厳しいものであったはずだ。だからこそ、どこもかしこも痛々しいまでに項垂れしなだれた音で満たされている『Ruido Blanco』は、ひどく胸に響き染みるのである。常にそこにある苦難や苦悩。『Ruido Blanco』は、そんな苦難や苦悩を存在をありありと思い起こさせてくれる。どんなに振り払っても、それは暗く重く我々の上にのしかかってくるのだ。
 『Ruido Blanco』は、14の楽曲によって構成されるコンセプト・アルバムである。そのサウンドの基本となり大部分を占めているのは、Nachoによるメランコリックなピアノの独奏(一部、トイ・ピアノやエレクトリック・ギターの使用も見受けられる)である。そこに冷徹な大都会の喧噪を思わせるドローン系の電子音によるサウンドスケープや、郷愁を誘う子供たちの遊ぶ声や古いラジオの音声などのファウンド・サウンドがひそやかに絡みつき、モノクロームやセピア色の彩りを添えてゆく。また、数曲にはヴァイオリン奏者のマルタ・ゴンザレス(Marta Gonzalez)がゲストとして参加し、非常に落ち着いた、ゆったりと沈鬱に沈み込んでゆくネオ・クラシカル調の格調のあるサウンドを表出させることに大きく貢献している。作品の序盤では、深い孤独感の中で内面に噴き出してくるやり場のないフラストレーションを表現したものと思われる、BDMMの作品にしては珍しいハーシュなエレクトリック・ノイズが押し寄せる、理性を失ってのたうちまわるような荒々しい音響世界が垣間みれたりもする。作品の全体的なサウンドは、Nachoの内面に渦巻いている様々な感情のヒダを極めてストレートに表現したものである。それは、どこまでもどこまでも侘しく孤独で切ない。ラストの実に美しいサウンドが展開されるタイトル曲“Ruido Blanco”が流れ出す頃には、その感傷は最高潮に達する。そこで切々と鳴っている全ての音にたっぷりと込められた深い憂いに、ただただひたすらに圧倒されてしまうのだ。
 08年4月に『Ruido Blanco』の制作作業が完了した時点をもって、Nachoは、BDMMとしての音楽活動にひと区切りをつけることを決定したという。どうやら、この内面の感情を完全にさらけ出した壮絶なアルバム『Ruido Blanco』の制作を通じて、Nachoは一種のバーンアウトした精神状態へと陥ってしまったようなのだ。まさしく、彼はここで全てを出し切ってしまったのであろう。よって、暫しの休息をとった後に、今後はBDMMとはまた違った形での音楽活動を考えているようなのである。つまり、この『Ruido Blanco』は、BDMMにとっての3作目にして最後のアルバムとなりそうなのだ。これは、おそらくほぼ決定的であろう。こんなにも寂しげな作品が、ラスト・アルバムとは。そんなことなどをふまえながらあらためて聴き返してみると、『Ruido Blanco』のサウンドは、さらに重みと深みが増してくるようだ。BDMMによる入魂の一作である『Ruido Blanco』は、痛々しくも切ない強烈な孤独と疎外感に打ちひしがれた経験をもつ、全ての人に是非とも耳にしてもらいたいアルバムである。(08年)

Sylvie Walder und Siegmar Fricke: Nahtod
Clinical Archives ca131

 猛烈な勢いでリリースを重ねているClinical Archivesの131番は、シルヴィ・ワルダー(Sylvie Walder)とジークマル・フリッケ(Siegmar Fricke)によるコラボレーション作品(リリース日は、08年5月15日)。これが、驚くほどに退廃的で美しいドローン系のアンビエント作品となっている。この壮絶なまでに静やかにして完成度の高い音響は、かなりのものである。
 『Nahtod』は、生命の木であるユグドラシル(北欧神話では、世界はこの一本の巨木の幹によって下から支えられているということになっている)とともにある世界が、急激な自然破壊などにより、凄まじい勢いで枯れ、朽ち果ててゆく様を表現したアルバムであるという。そこには、無惨にも滅び死にゆく世界の中で、今こそ全人類がもう一度おのれの内なる生命の木(ユグドラシル)に対して目を向ける時なのではないか、という強いメッセージもこめられていたりする。地球規模の環境問題、自然保護の第一歩は、全ての人間が内面に自らの生命の木=ユグドラシルの存在を感じ、それを豊かに再生させてゆくところから始まるということなのであろう。はたして、坂道を転がり落ちるように崩壊への一途をたどる世界を、人類の知性と叡智は、このユグドラシル再認識運動を通じて救うことができるのだろうか。WalderとFrickeが、本作で示している見解は、やや悲観的なものである。人々が内なるユグドラシルを見つめなおすことに、一縷の望みは託しているのだが。それでも、それによって今すぐ自然破壊や環境破壊に歯止めがかかるわけでは決してないし、地球温暖化も着実に進行し、大自然(=ユグドラシル)を蝕んでゆく。『Nahtod』において聴くことができるのは、世界の象徴であるユグドラシルが枯れ果て、ゆっくりと死へといたる過程である。そこには、もはやなんの救いも希望ももたらされることはない。実に淡々と枯れて朽ちてゆくのみなのだ。イッツ・ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド・アズ・ウイ・ノウ・イット。だけど、『Nahtod』は、それほどファインな気分になれる作品にはなっていない。そう、これを聴いていると、まるで自らの内なる生命の木が急速に萎びてゆくような感覚にとらわれてしまうのである。
 WalderとFrickeのコラボレーションは、まず作品の基本となるドローンのパターン群をWalderが制作し、そこに内包されている滅びゆく世界への危機感や恐怖や痛みなどの要素を増幅させてゆく形で、Frickeが最終的な作品の世界観を表現するアンビエンスへと音響を整えてゆくという流れで進められていった。8つのパートからなる、約50分。枯れゆく生命の木の悲嘆にくれた力なき咆哮がドローン状になってこだまし、中盤からはネオ・クラシカル的な展開が静かに葬送曲か鎮魂歌を奏でるかのように顔を出したりもする。ユグドラシルは、非常に大きく、全てをありのままに受け入れ、まるで自らの死すらをも進んで受け入れているかのように思える。世界は、もうすでに最終段階に突入しているのだ。『Nahtod』は、そのことを我々の目の前にまざまざと突きつけてくる。死にゆくユグドラシルを、我々はただ傍観していることしかできないのであろうか。滅びゆく世界を、我々はただ傍観していることしかできないのであろうか。(08年)

溝!後記

 とりあえず、今回の溝!だよりは以上です。次回はもっとヴァラエティ豊かにお送りできればと考えておりますが、まだほぼ白紙の状態なので、どうなることやら皆目見当はつきません。そんなわけで、それではまた。

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