誰が孤独を歌うのか(二)

誰が孤独を歌うのか



2012年12月22日、五人組のガールズ・グループ、東京女子流は、日本武道館での初の単独公演を行った。このコンサートは、グループのメンバーの平均年齢が15歳であったことから、史上最年少での日本武道館での単独公演の開催という記録を打ち立てたことでも話題となった。
この若きアイドル・グループは、10年5月5日にシングル“キラリ☆”でデビューしている。そして、それからほぼ一年後の11年5月4日にファースト・アルバム“鼓動の秘密”をリリースした。当初のアルバムのリリース予定日は4月19日であったが、3月11日に起きた東日本大震災とその後の福島第一原子力発電所事故の影響で、発売日は約二週間ほど延期され、ちょうどデビュー一周年というタイミングでのアルバム・リリースという形となった。
また、五人のメンバーのうち宮城出身の新井ひとみと山形出身の庄司芽生の二名は、震災後の混乱で地元の東北地方と活動の拠点である東京を結ぶ交通機関が通常の状態ではなかったこともあり、東京から自宅に戻ることができず首都圏に足止めされ、しばらくの間は親許を離れて東京の合宿所に滞在することを余儀なくされてもいる。そして、11年の春に予定されていた公演は自粛という形で中止/延期となるなど、大震災の影響は、こうしたアイドル・グループの活動にも様々な暗い陰を落とすこととなった。
震災と原発事故から受けた精神的な衝撃には、極めて大きなものがあった。それに、加えて毎日のように鳴り響く緊急地震速報の警告音と大きな余震に怯え、さらには計画停電や原発事故によって飛散した放射線量のニュースにも振り回された。そんな、大小の混乱がまだ多くの人々の日常の大部分を占めていた時期に発表されたのが、東京女子流のアルバム“鼓動の秘密”であったのだ。関東にも甚大なる被害と影響をもたらした大地震と大事故から約二ヶ月、まだまだ世の中はショックから立ち直れず暗く沈み込んだままであった。若い五人組ガールズ・グループのファースト・アルバムは、それほど大きな話題になることはなかった。本来であれば、アルバムを発表して、全国のCDショップやイヴェント会場をプロモーションで周り、コンサート・ツアーを行い、ブレイクへ向けての足がかりとしたいところであったが、突如襲った自然の猛威の前に全ての計画は変更を余儀なくされてしまった。
しかし、このアルバム“鼓動の秘密”は、作品としての質はなかなかに高く、アイドル・ガールズ・グループのデビュー・アルバムとしては極めて高い完成度を誇る作品に仕上げられていたことは間違いないところである。当時はまだ中学生であった五人のメンバーも、記念すべき初のアルバムということで、少女らしい幼さを多分に残しながらも、かなり意気込んだ溌剌とした歌唱を披露している。そして、その気合いの入った迫真の歌唱を受け止める各楽曲のプロダクションも実に多彩でヴァラエティに富んでおり、しっかりと作り込まれたサウンドでアルバム全体に華やかさと格調を添えている。東京女子流の“鼓動の秘密”は、どこか安っぽい即席のサウンドでお手軽に歌うようなアイドル・グループの作品とは、明らかに一線を画すアルバムであった。ある意味では、五人の中学生のグループのアルバムとして想像されるようなアイドル・ポップスの域を、すでに少しばかり越え出た作品であったともいえる。これは、当時の彼女たちの年齢を考えると、全体として相当に大人っぽい仕上がりのデビュー・アルバムでもあった。

アルバム“鼓動の秘密”の10曲目には、“孤独の果て~月が泣いている~”という楽曲が収録されている。この楽曲は、ビッグバンド・ジャズ的なサウンドによるブギウギ調のアレンジがなされた、どこか往年の昭和歌謡やキャバレー・ソングを思わせる賑やかさや華やかさを漂わせる、アルバム中でも少しばかり異色な曲調の一曲となっている。そして、その賑やかさや華やかさの裏に一抹の物悲しさが滲んでいるあたりからは、若さで突っ走ったり楽しく弾けるだけでは決してない東京女子流というグループの年齢に似合わぬ表現力の幅の広さの一端をまざまざと見せつけられるのである。
“孤独の果て~月が泣いている~”は、そのタイトルからも窺い知ることのできる通り孤独を歌った楽曲である。ただ、ここで歌われている孤独は、あの“上を向いて歩こう”において「一人ぽっちの夜」と歌われた、誰にも気づかれず/誰にも気づかれないように、深い悲しみに打ち震えながら涙を流す孤独感の表れとは、かなり趣きを異にしている。それは、月明かりだけが差し込み空には星が瞬く暗い夜道においてではなく、きらびやかにネオンが瞬く都会の夜の「右左行き交う人の群れ」の中で噛みしめるタイプの孤独なのである。決して一人ぽっちではなく、目の前を多くの人々がただただ行き交っている。そんな、人と人が近づいたり離れたりを繰り返す単純であり複雑な人間の関係のただ中において、ひとりだけぽつんと孤立している。猛烈に孤独でありながらも、誰かが近くにいることを目で見て気配で感覚できる状況が、そこにはある。
夜の都会の雑踏の中に足を踏み入れれば、そこでは多くの人々が自らの目的の場所に向かって移動している姿を目にすることができる。しかし、ほとんどの場合は、そこにいる人々の中に誰ひとりとして知っている顔はないし、それぞれの人がどこに向かって急ぎ足で歩いているのかも分からない。家に帰る途中だろうか、職場に向かっているのだろうか、待ち合わせの時間に遅れそうなのか、ただあてもなく歩き回っているだけなのか。そして、そこで行き交っている人々もまた、誰もこちらのことを何も知ってはいないのである。あの足早に通り過ぎてゆく人たちの目には、こちらのことは見えているのだろうか。自分が向かっている目的の場所のことやこれからしなくてはならないことについて、あれこれ考えている人の目には、その人の群れの中にいる誰の顔も全く見えてはいないのではなかろうか。人間たちが群れになって、その中でバラバラに右に左に行き交ってはいるが、そこにいる見ず知らずの者に対しては特別の注意が払われることはない。
そんな状況が“孤独の果て~月が泣いている~”では、「誰にも見えないこのワタシ/捕まえる事は出来ないよ」と歌われている。ひとたび都会の雑踏に紛れてしまえば、瞬くネオンの海の底で人の群れの中でその一部となることで、打ち拉がれそうになる孤独感を少しだけ和らげることができる。自分のことを知らない人間/自分に対して特別な注意を払わない人間たちで溢れかえる、賑やかな夜の街で、「誰にも見えない」存在になることで、孤独の果てへと逃避することが可能になるのである。
この楽曲における語り手である少女は、誰にも見られることなく、しばらくはひとりきりの時間を過ごしたいと思っている。その原因は、やはり失恋にある。「花の命は儚くて/散り急ぐ淡い夢」という冒頭の歌詞が、少女が恋に破れた状況にあることを暗に示している。花のように儚く散った恋。それを振り切るように、少女は夜の街の雑踏を歩き出す。胸の内の痛みを誰にも覗き込まれることのない、ただただ人の群れが行き交っているだけの夜の街へ。密な人間関係の中でもたらされた喪失感や虚無感は、逆に無関係な人間ばかりの人ごみの中に紛れることで緩和されるということか。ただし、今はそんな現実の雑踏に紛れなくとも、インターネットやSNSの世界に飛び込むことで、ある種の気晴らしや気散じをすることもできる。今やネットの世界でも空虚で希薄な人間関係からなる雑踏に紛れることは可能であるのだ。
恋に破れた少女は、ネオンサインと雑踏のただ中で、ちょっとだけ背伸びをしてみせる。自ら進んで思いを断ち切ろうとするように「ありふれた気休めの恋なんて/永遠にいらない」「馴れきって冷めきった恋なんて/迷わずさよなら」と、まるで大人の女性を思わせる捨て台詞を、ひとり繰り返し呟いている。だが、夜の街の人の群れの中では、その言葉は誰にも聞き届けられることはない。また、それがSNSという場であれば、投稿のプライバシー設定を全体公開にせずに思いきり吐き捨てられているだけである。
ひとつの恋が終わってしまった後の寂しさや侘しさといった感情が、61年の“上を向いて歩こう”では、「にじんだ星をかぞえ」ながら暗い夜道を「一人ぽっち」で「涙がこぼれないように/泣きながら歩く」情景を描き出すことで巧みに表現されていた。そして、この“孤独の果て~月が泣いている~”でも、胸を締め付けるような寂しさに溢れ出てくる涙を堪えて雑踏の中で夜空を見上げる、全く同じような情景が歌われている。そこでは、止めどなく涙が溢れてきてしまうのは、「星の明りが切なくて/溢れ出すこの涙」と星の瞬きのあまりの切なさのせいにされている。だが、これが精一杯の虚勢であることは、「零れ落ちそうな満月が/溶けて消えた」という一節からも察せられる。ここでは、「にじんだ星」ならぬ「溶けて消えた」満月という表現で少女の瞳に溢れる涙が歌われているのである。
また、「傷跡のような三日月が/笑っていた」という一節は、夜空にぽっかりと浮かんでいる笑っているようにも見える三日月を、それを眺める角度を強引に捩じ曲げて、失恋によって心に受けた傷の深さを見上げた夜空にそのまま投影しているようでもある。その「笑って」いながらも「傷跡のよう」であるものが、少女の心情や心中に去来しているものを、そのまま窺い知らせるような暗喩となっているのだ。その「溶けて消え」そうな三日月は、どこか冷たい悲しみをたたえた微妙な笑顔で微笑んでいるようにも、少女の潤んだ瞳には見えたのであろう。胸の内の三日月のような「傷跡」は、夜の街の雑踏の中では誰にも気づかれることはない(目的地へと急ぐ人々は誰も三日月を見上げてはいない)。しかし、どこか寂しく笑いながら夜空の月だけが、少女のことを見ている。どんなに賑やかな雑踏の中にいても、人の群れは少女の孤独を紛らわせつつも少女をさらに孤独にさせる。涙が溢れる瞳で夜空の月を、ネオンの海の底でひとり見上げるとき、「一人ぽっち」の少女の孤独はさらに深まってゆく。
しかしながら、その孤独とは、本当の孤独が存在するはずの暗い奈落の底とはほど遠いところにある孤独の感覚でもある。失恋して、突然それまで常に近くにいた誰かを失って一人ぽっちになり、全てのものから見離されて孤立無援の状態になってしまったように感じてはいるが、それは非常に一面的で一時的な喪失の感覚であり、本当の深く暗い孤独の淵に立たされているわけでは決してない。夜の街の雑踏の人の群れのような、誰も自分のことを見てくれない周囲の人間がいるからこそ成り立つ孤独でもある。「右左行き交う人の群れ」は名前も顔も知らない自分とは無関係な人間ばかりであるが、その雑踏の中で孤立しているような感覚を与えてくれるという部分でわたしと密接に関係してもいる。この少女の孤独は、孤独の果てではなく、実際には本当の孤独の遥か手前にある孤独なのである。

シンガー・ソングライターの植村花菜は、現在では10年に発表した“トイレの神様”が社会現象を巻き起こすほどの大ヒットとなったことによってその名が知られている。元々は弾き語りのストリート・ミュージシャンであり、インディーズでの地道なライヴ活動を経て、05年にシングル“大切な人”でメジャー・デビューを果たした苦労人でもある。
そんな植村花菜が07年11月7日にリリースしたのが、通算三作目となるアルバム“愛と太陽”である。このアルバムは、あの“トイレの神様”でブレイクする以前の鳴かず飛ばずであった時期に植村が発表した最後のアルバムとなる。おそらく、このアルバムもあまり芳しいセールスには結びつかなかったのであろう。三作目の“愛と太陽”以降の植村は、散発的にシングルやミニ・アルバムをリリースするだけの本格的な低迷の時期に突入することになる。四作目のオリジナル・アルバム“手と手”がリリースされたのは、“愛と太陽”のリリースから四年以上が経過した12年1月7日にことであった。しかし、そんなアルバムの発表予定の全くない不遇の時代の真っただ中である10年3月10日に発表されたミニ・アルバム“わたしのかけらたち”から、あの“トイレの神様”という起死回生の大ヒット曲が飛び出すことになるのである。
アルバム“愛と太陽”は、念願のメジャー・デビューを果たし幼い頃からの歌手になるという夢を叶えた植村が、コツコツと地道に活動しひとりでも多くの人に自分の歌を聴いてもらおうと努力をいくら重ねても、なかなか作品のセールスや知名度の向上、そして楽曲のヒットという目に見える結果に結びつかぬ状況を前にして、苦悩する内面を楽曲の所々でストレートに吐露したような作品となっている。おそらく、植村の音楽キャリアにおいて最も思い悩み迷っていた時期のアルバムであったのだろう。
そうした植村の内面を象徴するかのように、アルバムは一曲目の“太陽さえ孤独”という楽曲でスタートする。この楽曲の作詞を担当しているのは、元ゴーバンスの森若香織である。この時期の植村に“太陽さえ孤独”という楽曲を歌わせた森若のセンスには、かなりただならぬものを感じ取れる。実際に、なかなか思う通りにならない音楽活動に関して、植村がひとり思い悩む姿を間近に見てそれを知りながら、森若はこの楽曲の作詞を行ったのであろうか。そのあたり、少し気になるところではある。ただし、アルバム全体としては、これは苦悩や孤独のことばかりが歌われる湿っぽい作品では決してなく、そうした絶望の淵から自らを奮い立たせて飛翔しようとする前向きな気持ちを歌った楽曲が中心のアルバムにはなっている。
この“太陽さえ孤独”という楽曲のサウンドの雰囲気も、非常に明るくさっぱりとしていて朗らかである。つまり、孤独な太陽ほど愛に満ちた存在はないことを思い知り、「ひとりの寂しさを/言い訳にしないで」どこまでも「笑って行こう」というポジティヴに生きる姿勢が歌われるのが、“太陽さえ孤独”でありアルバム“愛と太陽”なのだ。そして、“太陽さえ孤独”で森若が書いた「必要な力はいつも/涙を流した/そのあとで/生まれた」という歌詞は、それを歌う植村本人とアルバムを聴くもの全てを勇気づける言葉でもある。

アルバムの四曲目には、植村本人が作詞作曲を手がけた“孤独なソルジャー”という楽曲が収録されている。こちらも基本的には孤独をテーマにした人生の応援歌的な楽曲となっている。しかし、その滔々と言葉を吐き出してゆくスタイルの歌は、より植村の内面の奥底からの心情の吐露に近いものであると思われる。それは、どこかとても重々しい感触をもつものでもある。歌詞には、非常に実直で率直な表現がなされている言葉が並ぶ。とても印象的な「汚れかけた/夢が叫んでる」「今日も一人/嘘に抱かれ眠る」といった歌詞は、そのまま当時の植村の胸中にあった思いを歌っているものなのだろう。ひとり思い悩み、孤独に打ち拉がれ、今にも引きちぎれそうになってしまっている心持ちが、ヒシヒシと伝わってくる歌詞である。
だが、その孤独の闇の奥底でいつまでもうじうじと踏み止まっていてはいけないという思いが、不遇時代のただ中にあった時期にも植村の基本姿勢には確固としてある。大きな夢に向かって、どんなに傷ついても(「冷たい視線のナイフが私を/刺しても」)自ら選んだ道を前に進むしかない。いや、叶えたい大きな夢があるからこそ、いつまでも踏み止まってばかりいてはいけないのだ。いつか必ず夢は叶うと植村は信じている。だから、その信念を心から信じきれなくなる瞬間の「自分の弱さが何より怖いと/知ったよ」という感情を、ストレートに告白するのだ。自分にとって一番怖いと感じられるのは、道の半ばで歩みを止め、来た道を引き返してしまうような自分の弱さである。決して夢を諦めてはいけない。そして、この楽曲のハイライトとなるパートでは、「逃げ出さずに/死ぬ気で立ち向かえ」と自らを力強く鼓舞し、ハートに火を点すような痛切な叫びをぶちまけてみせる。

だがしかし、“孤独なソルジャー”たちは、次々と降り掛かってくる様々な困難に本当に打ち勝てるのであろうか。暗い孤独の淵に沈み込みながらも、決して弱気にならずに諦めずに歩き続けることは、なかなか容易なことではないだろう。いくら勇敢で強い信念をもったソルジャーといえども、たったひとりの力だけでは、日々押し寄せてくる難題や困難や障壁の全てに打ち勝てるとは思えない。植村は、「嵐の中で戦い続ける/人はみな孤独なソルジャー」と歌っている。それぞれのソルジャーは孤独で、ひとりひとりで戦っているのだとしても、そうした自分にとっての戦場でひとり戦い続けているソルジャーは、この世界に無数にいるのだ。そして、それぞれがそれぞれの夢に向かって絶えず歩み続けているのである。「嵐の中で戦い続ける」ソルジャーは、決してひとりきりで戦っているのではない。孤独なソルジャーの戦いとは、夢は必ず叶うと信じる全ての者にとっての連帯での戦いでもあるのである。その戦場には一緒に戦っている仲間がいる。だから戦い続けられる/歩き続けられる。だから戦いに勝てる/いつか必ず夢は叶うと心から信じられるのである。
ただし、いくらソルジャーが周囲を隈無く見回してみても、そこにひとりも仲間らしきものが見当たらないこともあるだろう。ともに同じ場所で戦っているという思いを共有できる仲間がひとりもいない、本当に孤独な戦いを血が滲むような痛みの中で続ける、本物の「孤独なソルジャー」に勝利の日は訪れるのであろうか。植村は「逃げ出さずに/死ぬ気で立ち向かえ」と歌っているが、本当の深い孤独の淵に沈み込んでいるものを、ただその心持ちを言葉で鼓舞することぐらいで、次々と降り掛かる困難や苦悩の毎日を無事に切り抜けさせることができるのだろうか。生来的に心持ちの強いものは「死ぬ気で立ち向かえ」と簡単にいうことができるのかも知れない。しかし、そうやって死というものと立ち向かわずに逃げ出すことを繋ぎ合わせて並列に語られてしまっては、本当に逃げ出したいほど辛くなった時に、もはや死を選ぶ道しか戦場から退く道はなくなってしまうことも考えられる。
おそらく、本当の「孤独なソルジャー」にとっては、その孤独な戦場での自らの無惨な敗戦は初めから目に見えている。だからこそ、その戦いの日々は、余計に痛々しいものとなる。生来的に心持ちの強いものであっても、一緒に戦う仲間の存在を身近に感じ、その存在に勇気づけられなければ戦い続けられないような戦いであるのだから。本当に孤独なものにとっては、その戦いは全く勝つ見込みのない本当に「一人ぽっち」の侘しく惨めな戦いとなるだろう。孤独に戦い続ける辛さや孤独に死を選ばなくてはならない辛さが、孤独者の上に日々のしかかる。どんなに「傷つきながら/自分が目指す場所まで/行こう行こう行こう/行けるさ」と歌いかけられたとしても、それは戦場という死だけが待ち構えている燃え盛る炎の中へ足を踏み入れろと嗾けられているようにしか聴こえない
ひとりの“孤独なソルジャー”として、なかなか日の目を見ることのできない不遇の時代を決して諦めることなく戦い抜いた植村は、アルバム“愛と太陽”から数えて約二年四ヶ月後にリリースしたミニ・アルバム“わたしのかけらたち”の収録曲“トイレの神様”で大きな注目を浴びることになる。まず有線放送やラジオ番組で紹介され大きな話題となった“トイレの神様”は、植村の今は亡き祖母との思い出を綴った楽曲であり、その心温まる祖母と孫の心と心の結びつきを歌う歌詞が多くの人々の共感を呼び、空前の大ヒットへと繋がっていった。そして、この年の12月31日、紅白歌合戦に出場した植村は、オリジナルのレコーディング・ヴァージョンは約10分という長さがある“トイレの神様”をほぼフルサイズで歌いきった。まさしく、この“トイレの神様”という楽曲を生み出したことで、植村は「自分が目指す場所まで」辿り着くことができたのであろう。自らの手で自らのために書き下ろした“孤独なソルジャー”で歌ったように、信じ続けることで大きな夢が叶えられたのである。

Radiomaniac: Antenna Theory

Mizou mini netlabel proudly presents

Radiomaniac: Antenna Theory
レディオマニアック「アンテナ理論」

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Artist: Radiomaniac
Title: Antenna Theory
Genre: Post-Rock/Experimental/Electronic/Noise

Tracklist:
01. Radiomaniac
02. Gulliver: Side Effects Of Modern Psychotropic Substances
03. Human3D
04. It
05. It: Another Touch
06. Hollywood
07. PS: Hallelujah
08. Spear Of Mars And Belt Of Venus
09. Birds

Cover Image

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Album Description:
"Antenna theory" is a formal first album for the Radiomaniac. The album has all nine songs, which consisted of five new songs and four previously released songs (including re-recording version of the band's theme song "Radiomaniac"). Finally, Radiomaniac give a light to the whole musical picture. The neigh of electric guitars and the heavy rhythms are echoing from the subterranean of Sakhalin. Tune in to the radio noises.

Produced by Radiomaniac
Mix & Mastering by Radiomaniac
Artwork by Radiomaniac

Band members:
Andrey R - Bass Guitar, Guitar
Yuri Che - Guitar, Bass Guitar
DevilDetails - Guitar, Kaossilator
Andrey Tryastsin - Drums, Samples
Danil Khazhainov - Guitar, MIDI-controller

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«In our time, it is difficult to be astonished by a combination of aggressive distorted guitars and elements of club electronics. Some artists have live component as a dominating foundation and combine it with synthetic sounds. However, they are a sort of rockers who use electronics. Others have electronic beats and melodies as basis, and try to give some liveliness to their music by using guitars, bass, even bagpipe sounds. But they are electronics in fact. And it is close to impossible to determine the basis of some others. Radiomaniac might be labeled as these "others". Sometimes it is not clear whether it is a guitar or not - so unusual sounds it was made to emit. High technologies are connected with slightly underground quality. Was it done intentionally or not - doesn't matter - everything sounds organically. Some unique madness is woven into all four tracks - as a protest against the music canons, and at the same time using them.» © “Lestnica” Sakhalin journal.

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Creative Commons License


Radiomaniac: Antenna Theory
Mizou MZ009

Radiomaniac, live transmission. Listen to the silence, let it ring on.

Radiomaniac advocates "Antenna theory" for the first full length album. This nine songs album has four new songs. And, the remaining five songs are which have been previously released. But, it includes the newly studio rerecording version of the band's theme song "Radiomaniac" for the commemorable album opener.
The characteristic hard edge and melodious sound get more shine. The tension of the musical performance generally high, the ensemble playing by five members is condensed to one point, and it expand. With the full of the feeling of freaky and the noisy groove, "Human3D" has become a song that show off the height of the musical concentration of the band, in particular. "It: Another Touch" is a mutated different version of the song "It" that are included on their debut EP "1st Transmission". Twisted rushing sound of the original song are increased in the groove with more complexed phrases. The atmosphere of "Hollywood" with lyrically and poetic, is subducting to the ocean of distorted noise so gently. They has declared that they do not do the redundant song more than six minutes (really?), and then the five and a half minutes of the massive sound eruption "Spear Of Mars And Belt Of Venus" is going to be their nearly longest repertoire. Such as the big wild bird is shaking off the gravity and emits a queer voice and fly away spread its wings widely, the last song "Bird" is a very dramatic post-rock performance.
Finally, Radiomaniac take off the mysterious veil. The neigh of electric guitars and the rumble of heavy rhythms are roaring from the subterranean of Sakhalin. This dynamic sounds update the power map of 21st century alternative rock music.

No language, just sound, that's all we need know, to synchronize. And we could dance. Dance, dance, dance, dance, dance, to the Radiomaniac.


レディオマニアックのファースト・アルバム“Antenna Theory”(邦題「アンテナ理論」)を、ここに紹介します。まずは、このアルバムをMizouよりリリースできることを光栄に思います。これは、とても素晴らしいアルバムです。レディオマニアックの音楽は、溢れかえるようなインスピレーションと鋭いセンスのきらめきに満ちている。彼らは本気で何か全く新しい他の誰とも違った話法を編み出して、レディオマニアックならではの(ポスト)ロックを奏でようとしているようにも見える。
レディオマニアックは、サハリンのユジノサハリンスクを拠点に活動するポストロック・バンドである。メタリックな硬質さとフリーキーかつフリーフォームな柔軟さを併せもち縦横無尽に駆け回るギターと機械の如くタイトにヘヴィなビートを打ち出しウネるようなグルーヴを生み出すベースとドラムスが、このバンドのサウンドの大きな特徴である。ハードでありながら緻密でもあり、繊細なメロディからのたうち回るような拉げたノイズまで、レディオマニアックのサウンドは様々な表情を見せながら変化し、目まぐるしく展開してゆく。そして、くどくどと同じことを何度も繰り返すことなく、アッサリとピークにまで上り詰め、まさに目にも止まらぬほどの勢いで通り過ぎてゆくのである。
12年8月、レディオマニアックは5曲を収録したEP作品“1st Transmission EP”でデビューを果たしている。そして、その年の12月には3曲を収録したシングル“2nd Transmission (Single)”をリリースしている。さらに、13年3月にはロシアのネットレーベル、Flowers Blossom In The Spaceよりアルバム“Antenna Theory”をリリースし、デビュー以来とても順調にリリースを重ねている。これは、このバンドが常態的にリハーサルと曲作りを行っており、非常に旺盛な創作意欲をもっていることの表れでもあるだろう。そして、そのバンドそのものもまた止まることなく前進を続ける意欲に満ちあふれた、非常によい状態あることが分かる。
このアルバム“Antenna Theory”の制作段階から、レディオマニアックには新たなメンバーが加わっている。それがギターとMIDIコントロールなどのエレクトロニクスを担当するダニル・カザイノフ(Danil Khazhainov)である。この新メンバーの加入により、これまではギターとキーボードの演奏を兼任していたユーリ・チェ(Yuri Che)が、主としてギターの演奏のみに専念できるようになった。そしてまた、バンドのサウンドにシャープな切れ味を加えるエレクトロニクスの導入も、それを担当する準専属のメンバーを迎えたことにより、これまで以上にスムーズに行われるようになった。四人組から五人組となったことで、レディオマニアックは、さらにバンドとしての完成形に近づいたといえるであろう。
また、レディオマニアックは13年9月にモスクワとサンクトペテルブルクにて開催されたヨーロッパ各地のポストロック系バンドを招聘したFlowers Blossom In The Space主催のフェスティヴァル、Astral Festivalに参加するなど、極東の辺境の島であるサハリンを飛び出して精力的にライヴ活動を行うようになってきてもいる。バンドの創作のペースが順調であれば、その音楽的に非常によい状態をステージでのパフォーマンスを通じて多くの人々の前で披露したいと思うようになるのも至極当然のことであろう。
そんな思いきり上り調子で勢いに満ち満ちているレディオマニアックは今、日本の地においてライヴを行うことを熱望している。それもそのはずである。サハリンからモスクワに行くには、同じロシア国内とはいえ約七千キロもの道のりを移動して広大なユーラシア大陸を横断しなくてはならないのである。だがしかし、ユジノサハリンスクから東京までの距離は約千キロちょっとなのだ。彼らにとって最も身近に感じられる大都市は、宗谷海峡を挟んで隣り合う日本という国の東京や大阪や名古屋であり、そして札幌なのである。ファースト・アルバム“Antenna Theory”をリリースし、その活動にも本格的にエンジンがかかってきたレディオマニアックが、近い将来に日本を訪れてライヴ・パフォーマンスを行うことは、それほどハードルの高い夢のまた夢のようなことではないのではなかろうか。今はまだ九分九厘以上の人々はレディオマニアックの音楽について何も知らないであろうし、聴いたこともないという人が殆どであるだろう。このアルバム“Antenna Theory”からでもレディオマニアックについて知り、その音楽を聴き、このバンドに興味をもってくれる人々が一人でも多く増えることを願ってやまない。そんな人々の中からレディオマニアックのライヴを実際に見てみたいという声が高まってくれば、彼らの夢でもある日本公演が実現する可能性も大きく膨らんでくるはずである。Mizouは、レディオマニアックの日本公演の実現のための最大限のサポートを行うことを約束している。もしも、この五人組バンドの音楽を聴いて気に入ったら、彼らの夢が叶うように応援してもらえるとありがたいです。そのために、まずは北海道よりもほんの少し北に位置するサハリンに、こんなにもノイジーでハードなオルタナティヴ・ロック・サウンドを奏でる強烈なバンドが存在することを、ひとりでも多くの人に知ってもらえるように努力したい。サハリンの音楽は、決して遥か遠い国のものではない。それは韓国や台湾や中国の音楽と同じくらいに近いものなのである。レディオマニアックとわたしたちが追いかけている夢は、東アジアの音楽の豊かな未来への大いなる希望そのものでもあるといえる。

“Radiomaniac”
デビュー作“1st Transmission EP”にボーナス・トラックとして収録されていた楽曲。レディオマニアックのバンド名をそのままタイトルに冠した、このバンドのテーマ曲ともいえる一曲である。“1st Transmission EP”ではボーナス・トラックということもあり、最後の最後にオマケとしてスタジオでのライヴを一発録音したような荒々しくも臨場感溢れる音質で収録されていたのだが、ここでは新たにスタジオ録音されたヴァージョンで聴くことができる。ささやかなノイズから始まり最終的には天地に響き渡るかのような壮大な広がりのある演奏へと一気に駆け上がってゆく、凄まじいまでに一点集中したサウンドが、実にレディオマニアックらしい。

“Gulliver: Side Effects Of Modern Psychotropic Substances”
こちらも“1st Transmission EP”に収録されていた楽曲。疾走感のあるビートとうねりながら天まで突き抜けんばかりにグングンと上昇してゆくギターのフレーズ、そしてそこに絡み付くエレクトロニック・ノイズといった、レディオマニアックというバンドのもつポスト・ハードコア/ポスト・インダストリアル的なサウンドの特徴を顕著に聴き取ることのできる一曲である。間違いなくレディオマニアックの代表曲といえる一曲である。

“Human3D”
新曲。躍動感のあるドラムスによるビートがワイルドなグルーヴを叩き出し転げ回る横で、地を這いずるようなベースが唸りをあげる。ギターのフレーズは終始哀感をたたえており、泣き咽びノイジーかつフリーキーに高らかに嗚咽しながら堂々巡りを繰り返して反復される。終盤の全ての楽音を凝縮してゆく猛烈な熱量が充満したバンド・アンサンブルは、この五人組の音楽的な集中力の高さを如実に示している。

“It”
こちらも“1st Transmission EP”に収録されていた楽曲。猛然とラッシュし立ち止まり再び駆け出す緩急を繰り返すビートに、ソニック・ユースやニルヴァーナ、ナイン・インチ・ネイルズあたりの血を引くある意味でポップな質感をもつ多彩なメロディとフレーズが重層的に散りばめられる。非常に鮮烈なキレのあるメロディアスなサウンドは、レディオマニアックのもつ独特の歌心を前面に押し出したものといえる。

“It: Another Touch”
新曲。これは前曲の“It”から派生した、その続編というか、そこからより前進し進化を遂げた改作曲である。そのサウンドは、さらに緻密になり、大味なポップさすら醸し出していた伝統的なクリシェを排し、よりレディオマニアックの独自の話法に近づいているといえる。切り貼りされていたメロディとフレーズはさらに細切れにされ、うねりを増したビートのスピード感と同調して、次々と投げかけられては過ぎ去ってゆく。執拗な反復により、突進力が増大しており、そしてそこには分厚い壁の外に突き抜けようとする意思が渦巻いている。

“Hollywood”
新曲。ノイズと混沌の下地はしっかりと残っているものの、レディオマニアックの楽曲としては珍しく叙情的な部分が大きく前に出てきている一曲である。スピーディな勢いや瞬発的な熱の放出ではない、ジワジワと浸食してくるような展開が、新鮮で衝撃度も高い。聖なる巨木が穏やかに細かな粒子状になったノイズの海原に足許から飲み込まれてゆく。

“PS: Hallelujah”
こちらも“1st Transmission EP”に収録されていた楽曲。低く重くゆったりと前進するドラムスとベースの上空に、ノイズ混じりのギターのフレーズが拉げながら天高く駆け上がってゆく。四方八方にエレクトロニック・ノイズが飛び交い、レディオマニアックならではの縦方向にエクスパンドする壮大なサウンドが独特の緊迫感の中に展開される。

“Spear Of Mars And Belt Of Venus”
新曲。全編に渡りメロディアスに展開される進歩的なロックの構成を取り入れた実験的な楽曲。イントロと導入部があり、どっしりと据わったビートを軸にジワジワと展開しながら、ひとつの流れが作り出され、そこにひと捻りが加えられ、前段とは裏返しの流れが作り出される。そして、捻れを抱え込んだままの状態で、その流れはもんどり打つように変則的なカタルシスへと強引に持ち込まれる。完全には燃焼し切らず、何の解決も出口も示されないままに、静かに楽曲はフィニッシュを迎える。6分以上の冗長な曲はやらないと宣言しているレディオマニアックにとって、この5分26秒の一曲は現時点では最長のレパートリー曲となる。

“Birds”
新曲。こちらも前曲に続きメロディアスなパートからなるプログレッシヴ・ロック的な組曲構成のサウンドが展開される一曲である。ゆったりと羽を広げ飛び立つ準備を始める序盤。そして、重力を撥ね付けるように飛び上がり、大きく奇声を発して勇壮に羽ばたきながら野生の鳥は飛行を開始する。その宙空でのたうつように怪鳥が歪んだノイズにまみれながら飛び去ってゆく、実にフリーキーな飛行姿勢は、とてもレディオマニアックらしいものである。アルバムのラストを飾るに相応しい非常に劇的なポストロック曲となっている。

もしかするとすでにお気づきの方がいるかも知れないが、このアルバムには“1st Transmission EP”からの楽曲は四曲も収録されているが、レディオマニアックの第二弾リリースであった“2nd Transmission (Single)”からの楽曲は一曲も収録されていない。これが、どういった意図によるものなのかは定かではない。しかし、おそらくはこのファースト・アルバムを、これまでのレディオマニアックの歩みを総括し、そこに新たに録音した楽曲を付け加えただけのよくありがちな体裁の作品にはしたくなかったのであろう。楽曲集のコンセプトとして“2nd Transmission (Single)”に収録されている三曲は、“1st Transmission EP”から“Antenna Theory”へと流れる系譜とは少し異なる場所に位置しているものであるのかも知れない。もしも、このアルバム“Antenna Theory”を聴いて、ここでは聴けなかった“2nd Transmission (Single)”の楽曲の存在も気になってくるようなことがあったら、迷わずに作品をダウンロードして耳にしてもらいたい。“2nd Transmission (Single)”は、12年12月にMizouよりリリースされている。

レディオマニアックは、早くも次のアルバムのレコーディングに取りかかろうとしている。これは、それだけ五人組の新体制となりバンドとしての輪郭や方向性がより明確となり精力的に創作活動に励んでいるということの表れでもあるのだろう。彼らは次々と湧いて出てくるアイディアや曲想を基に様々な音楽的実験を行い、猛烈なペースで曲作りの作業に打ち込んでいる。今年すでにアルバムを一枚発表していながらも、それから約半年で次のアルバムの制作に取りかかれるほどに新たな曲の素材が手許にストックされつつあるのである。もしかすると早ければ来年の初頭あたりには、レディオマニアックのセカンド・アルバムを聴くことができるのではなかろうか。
そして、その新しいアルバムのリリースの前か後あたりに、Mizouではレディオマニアックの独自企画作品のリリースを計画している。これは、アルバムの音源だけでなく、さらにレディオマニアックのダイナミックなサウンドに親しんでもらうための作品となる予定である。詳細は追々発表します。

本作を含む今後の全ての作品のリリースは、レディオマニアックの日本公演を現実のものとするための重要なプロモーション活動としてなされるものでもある。もしも、このアルバムを聴いて、このサハリンのバンドの音楽を気に入ってくれたならば、是非とも手厚いサポートをお願いしたいところであります。

Liner notes by Masaru Ando

誰が孤独を歌うのか(一)

誰が孤独を歌うのか



2012年7月15日、韓国のラッパー兼シンガー、PSYが通算六作目のアルバム“PSY 6, Part 1”をリリースした。このアルバムのリード曲としてプロモーション用トラックとなっていたのが、アルバムの三曲目に収録されている“Gangnam Style”という楽曲であった。
“Gangnam Style”は、ミニマルでトランシーなダンス・ビートとシンプルで覚えやすいサビのパートの歌詞の繰り返しからなる非常にノリのよい楽曲である。そして、手綱をもつように両手を体の前で交差させリズムに合わせて体全体を上下に跳ね上げながら少しガニ股気味に肩幅ほどに広さに開いた両脚で交互にステップを踏む、通称「馬ダンス」に代表されるコミカルなダンスと、お世辞にもスマートとはいえないスタイルのPSYが間違った方向にソウルのアップタウン=江南地区のオシャレを解釈して繰り広げるコミカルなシーンを満載したMVの内容の楽しさの相乗効果で、インターネットの動画サイト、YouTubeを中心に、その人気が一気に爆発することになる。こうしてコンテンツのおもしろさそのもので話題が話題を呼び、高速で大容量のデータ情報が行き交うインターネットの網の目のように張り巡らされた繋がりの上に成り立つソーシャル・ネットワーク時代の21世紀初頭を象徴する全世界的なヒット曲となった“Gangnam Style”は、リリースから約半年の時点ですでにYouTubeで12億回を越える再生がなされた。現時点では、この楽曲が、人類とインターネットの歴史上で、最も多く再生され視聴されたMVということになっている。
インターネットを通じて大きな話題となり猛烈な勢いで燃え上がった“Gangnam Style”の人気は、世界各国のヒット・チャートやダンス・チャート、ラジオのエア・プレイ・チャートを席巻するという形で、次第に目に見えて現れてくるようになる。楽曲単位では、音楽配信サイトからのダウンロードのみのリリースであったが、オーストラリアやニュー・ジーランド、オランダ、イギリス、ロシア、ベルギー、ドイツなどの多くの国々で、軒並み12年を代表する大ヒット曲のひとつとなった。そして、全世界の最新ヒットと流行音楽の指標となる、アメリカのビルボード(Billboard)社が発表する歴史と由緒あるヒット・チャート、Hot 100では、10月から11月にかけて七週間に渡って第二位の座に居坐るロング・ヒットを記録している。その後、遂に一度も首位に立つことなく緩やかにチャートを下降してゆくことになったが、お世辞にもルックスは見栄えのよい方だとはいえない韓国人のラッパーが放った一曲が、世界で最も注目されるビルボードのヒット・チャートで第一位に肉薄するような特大ヒットとなったということは、まさに偉業というしかない。おそらく、誰も予想だにしていなかったような事態が、実際に地球規模で起きてしまったのである。
PSYの“Gangnam Style”は、韓国語で歌われるオリジナルのヴァージョンのままで、全米ならびに全世界で聴かれる大ヒット曲となった。地図上では世界の端っこである極東の東アジアから言葉と文化の壁を超越して、ワールド・ワイドなセンセーションを巻き起こしたのである。このことは、特筆に値する。
全米で吹き荒れる驚異的な「馬ダンス」人気の嵐の中で、ビルボードのヒット・チャートにおいて二位の座に食らいつき続ける“Gangnam Style”が、いつ史上初の全米チャートで首位に立つKポップのヒット曲になるのかが話題になっている頃、約50年前に世界的な大ヒット曲となった、ある日本の歌謡曲にも再び脚光があたることとなった。その“Gangnam Style”の大ヒットによって、遠い半世紀も前の過去のヒット・チャートから掘り返されて再び注目を浴びることとなった楽曲が、坂本九の“上を向いて歩こう”である。

坂本九の“上を向いて歩こう”は、1961年10月15日に東芝レコードよりリリースされている。シングル盤のレコードが発売される以前から、NHKで放映されていた坂本九が出演する人気ヴァラエティ番組「夢であいましょう」において、毎回紹介されていたこともあり、楽曲の評判はすでに人々の間で大変に高いものとなっていた。そして、その前評判通りにレコードがリリースされるとともに、即座に空前の大ヒット曲となったのである。
第一回の日本レコード大賞(59年)を受賞した水原弘の“黒い花びら”などの作品を世に送り出してきた、作詞家の永六輔と作曲家の中村八大のヒット・メイカー・コンビが手がけた“上を向いて歩こう”は、その優しく流れるようなメロディや円やかな歌詞の語感などの美しさと親しみやすさから爆発的な反響を呼び、大人から子供まで幅広い年代の人々に受け入れられた。当時まだ19歳であった少年時代の面影を残す人気者の坂本九が歌う“上を向いて歩こう”は、どこか昔ながらの日本の雰囲気を漂わせる童謡や童歌のような懐かしさや郷愁の念をかき立てる部分を持ち合わせながらも、その反面それまでの日本の歌謡曲にはなかったような新しいタイプのヒット・ソングという印象を与える側面をももつ、実に多彩な魅力に溢れた楽曲であった。
その楽曲のサウンドは、非常にシンプルな編成のバックのバンドの演奏によるムーディなスタンダード調ポップス的な形式となっており、細かなミスト状の夜霧が立ちこめる情景を思い起こさせるひんやりとしていながらもスウィートなエコーが全体的にきいた録音が特徴的である。そして、若き坂本九の歌も、40年代や50年代に一世を風靡したビング・クロスビーやフランク・シナトラを意識したような、まったりとしたクルーナー調の歌唱で、日本の大衆歌謡的な湿っぽさを排したサクッと軽く淡々と歌い上げてゆくスタイルで貫かれている。61年当時は、この坂本九の歌唱は、極めてモダンでお洒落で若々しく、60年代という新しい時代の日本の歌・歌謡曲の到来を告げるようなものであったはずである。
“上を向いて歩こう”という楽曲は、バックのシンプルな楽音を注意深く聴いてみればすぐにわかることであるが、ジャズのスウィング感とは少し異なるシンコペートするリズム&ブルース的なサウンドの要素を強く感じ取ることができる曲調となっている。ゆったりと落ち着いていながらも、どこか跳ねるように微かに動き、縦方向の揺らぎをもつメロディ・ラインは、日本の伝統的な謡や歌謡のスタイルにはないモダンな響きと抑揚をもっているようにも聴こえる。そして、サビのパートでヴォーカルのメロディに微かに被さりながら並走するストリングスは、まるでドゥーワップ調のコーラスを思わせるアレンジメントがなされていることにも気づかされる。こうした細部や骨格の部分においても、実に洒落た、どこか日本人離れした感覚をもつサウンドが、しっかりと構築されているのが見えてくる。
日本において大ヒット曲となっていた62年、この“上を向いて歩こう”は、58年に創設されたばかりのイギリスのポップス専門のレコード・レーベル、Pye Recordsを通じて、早くも海外の音楽シーンに紹介されることになる。まずは、ケニー・ボール&ヒズ・ジャズメン(Kenny Ball and his Jazzmen)によってインストゥルメンタル・ジャズに編曲/リメイクされたカヴァー・ヴァージョンがリリースされ、たちまち大きな話題を集めて全英チャートを駆け上がるスマッシュ・ヒットとなる。Pye Recordsは、坂本九の歌う日本語の歌はイギリスでは意味が通じず、全く理解されないと考え、代わりにケニー・ボールの演奏するトランペットに旋律を歌わせるインストゥルメンタル曲とし、その楽曲のタイトルも“上を向いて歩こう”では日本語に馴染みのないイギリス人には覚えてもらえない恐れがあるために、全く楽曲の内容とは関係ない日本食の名前である「すき焼き」をそのままタイトルに冠した“Sukiyaki”と改めてリリースしている。このPye Recordsの独断によってなされた措置で、ひとつだけよかった点を挙げるとすれば、海外のマーケットにおいては先ずはインストゥルメンタル曲としてヒットを記録したことで、中村八大が書いた楽曲が世界で通用する良質なポップスとしての普遍性をもったメロディの名曲であることが、第一に証明されたことぐらいであろうか。
イギリスにおいてインストゥルメンタル版の“Sukiyaki”が、チャートの上位に食い込むヒット作となると、その楽曲にオリジナルのヴァージョンが存在し、それが遠く離れた日本の地で誕生したヒット曲であることも次第に広く知られるようになってゆく。すると、今度はイギリスの老舗レコード・レーベルであるHMVが、坂本九が歌う“上を向いて歩こう”のオリジナル・ヴァージョンを、すでにイギリス国内で親しまれ浸透していた“Sukiyaki”というタイトルでリリースし、この純日本産の名曲が、ヨーロッパの地に正式に紹介される運びとなったのである。そして、坂本九の独特のソフトネスをもつ歌声は、ラジオの電波に乗り欧米で一大センセーションを巻き起こすことになる。
63年5月には、遂にアメリカの西海岸に拠点を置くCapitol Recordsより坂本九が歌う“Sukiyaki”のシングルがリリースされた。この時点ではすでにイギリスのヒット・チャートでスマッシュ・ヒットを記録しており、最新の流行に敏感なラジオ局のDJたちによってインポート盤でヘヴィ・プレイされていた“Sukiyaki”は、国内盤シングルのリリースとともに爆発的な反響をもって迎えられる。そして、あれよあれよという間にヒット・チャートを駆け上がり、6月15日から三週間に渡ってビルボードのHot 100の首位に立ち続けたのである。日本語で歌われた楽曲がビルボードのチャートで第一位を獲得したのは、これが史上初めてのことであり、アジアのポップスが全米/全世界で最も支持される楽曲となることもまた前代未聞の事態であった。この約50年後に韓国語で歌われたPSYの“Gangnam Style”がHot 100の首位に肉薄するほどの大ヒット曲となったが、アジア圏で誕生した楽曲で全米のチャートを制覇したのは、後にも先にも坂本九の“Sukiyaki”のみなのである。この事実からも、いかに“上を向いて歩こう”という楽曲が、世界を舞台にとんでもないことを成し遂げてしまった稀代の名曲であるかがわかる。
すでにポップ音楽としてリズム&ブルースやドゥーワップを聴く習慣が身についてきていた欧米のラジオのリスナーにとっては、坂本九の“Sukiyaki”という楽曲のサウンドは、すんなりと受け入れることのできる耳馴染みのよいものであったのであろう。そして、そこでは中村八大による繊細で美しいメロディが、若く瑞々しい歌声の坂本九によって歌われている。その極めてシンプルであるが素晴らしく完成度の高い楽曲は、当時の英語圏のヒット曲と比較しても決して見劣りするものではなかったはずである。いや、それらを遥かに凌駕する出来映えのものであったからこそ、ビルボードのHot 100で首位を獲得するまでの歴史的大ヒット曲となったといってもよいのであろう。
そんな欧米のヒット曲との近似性が感じられるサウンドに、全く耳慣れないものであったであろう日本語の歌がのり、そのところどころに坂本九の歌唱に染みついた日本の歌ならではの歌い回しが顔を出す。そうした部分に欧米のリスナーは「なんじゃこりゃ」的な驚きとおもしろさを感じ、西欧文化の外側の世界のエキゾティシズムに初めて触れて、その魅力を大いに楽しんだのであろう。“Sukiyaki”の世界的な大ヒットの裏側では、そうした西洋と東洋の近さと遠さとが生み出す文化的な妙味がスパイスとして作用していたことは間違いない。これは、第二次世界大戦を経ながらも順調に発展を遂げてきた20世紀後半の欧米の市民の娯楽の文化が、自国内だけでなく外側の世界に対しても興味や関心をもち、旺盛な好奇心と飽くなき消費への欲求から、それらを果敢に試して受け入れる、文化的・精神的な余裕をもち始めたということでもある。世界には、まだまだこんなにもおもしろく興味深いものがあるという好例として、真っ先に海の向こうから手っ取り早く取り寄せられたのが、日本で大きな話題となり大ヒットしていた坂本九の“上を向いて歩こう”であったのだ。そこには後期近代の時代的特色であるグローバリゼーションの動きのはしりのような現象を見出すこともできるだろう。そして、21世紀のPSYの“Gangnam Style”の世界的な大ヒットも、その背景にあるものは“Sukiyaki”と大して変わりはないことに思い当たったりもする。約50年前に耳慣れない日本語の歌が「なんじゃこりゃ」なものであったのと同様に、今度は耳慣れない韓国語の歌が「なんじゃこりゃ」という驚きとおもしろさをもたらす対象となったということなのではなかろうか。ただし、ここでのグローバリゼーションの動きは、ふたつの異なる方向を向いており、そこに双方向型のソーシャル・ネットワークが存在し大きな影響をもっていることは、21世紀のヒット曲ならではの特筆すべき特徴である。

“上を向いて歩こう”は、そのタイトル通りに上を向いて歩くこと/歩こうとすること、ただその行動についてだけが歌われる楽曲である。歌の周囲にある情景や歌の背景は、ほんの少しだけあっさりと歌われるのみである。楽曲を構成する楽音やサウンドも非常にシンプルな作りとなっている“上を向いて歩こう”であるが、その歌詞の面でも極めてシンプルな言葉と言葉遣いがなされ、そして印象的なフレーズの繰り返しや反復から成り立っている一曲だといえる。とてもシンプルで隙間のある作りとなっているがゆえに、それを様々な形で解釈することが可能となる。聴く者がそれぞれにそれぞれの思いを、その隙間の部分に込めることができるのだ。
坂本九という実に人の良さそうな好青年が歌う“上を向いて歩こう”は、恋に破れた若者が身をもって痛感する、思いを交わす相手を失った喪失感と突然ひとりきりになってしまった現実を、ひしひしと噛みしめている感情を歌った一曲であると解釈するのが、ほぼ通説となっている。作詞家の永六輔は、60年5月の国会での強行採決によって成立することなった日米安全保障条約をめぐって吹き荒れた抗議活動の嵐が、結局は何の結果にもつながらなかったことの大きな虚脱感や無力感の中で、この楽曲の歌詞を書き上げたという。そこでのひとりの人間の非力さや空虚感に強く苛まれた感情が、“上を向いて歩こう”に登場する人物が人間というものの「一人ぽっち」な境遇を実際にひとりきりになって深く思い知るという状況と、詩的に重ね合わせて綴られているとでもいえるであろうか。
ひとりきりで歩く、誰もいない暗い夜道。何もかも思うままにならない、とてもとてもちっぽけな自分と向かい合う時、自然に瞳には熱い涙が溢れ出してくる。涙が頬を伝って流れ落ちないように、懸命に顔を上に向けて泣くのを堪えてみる。ここで泣いてしまうと、余計に一人ぽっちであることを痛感させられ、もっともっと悲しい気分になってしまうから。堪えに堪えて夜空を見上げながら歩いていると、瞬く星々がみるみるうちに涙で滲んでゆく。それでも、この大空のどこか、あの雲の上に、幸福な未来を見つけ出せるのではないかと信じて、夜空を見上げながらひとり歩み続ける。この胸の中にいっぱいに詰まっている悲しみを、夜空の彼方の星の向こう、月の向こう側に明日は追いやってしまうことができるのではないかと信じて、夜空を見上げながらひとり歩み続ける。一人ぽっちで上を向いて、心の中で泣きながら夜道を歩いて帰る。
どんなに悲しいことがあっても、前向きに耐えて堪えてひたむきに歩き続ける。こぼれ落ちる涙を拭いて、もう涙がこぼれないように、上を向いて歩く。この歌に込められている、どんな困難や災難にもへこたれずに、一人ぽっちでも気持ちを奮い立たせて前進してゆこうという思いは、2011年3月11日におきた東日本大震災とその後の福島第一原子力発電所事故で被った東北地方の甚大な被害からの復興と復興支援への思いとも重なった。3.11以降、“上を向いて歩こう”は被災地で日本全国で何度も繰り返し歌われている。失恋の喪失感やままならぬ現実への無力感を歌った言葉が、約50年の時を経て力強い歩みのためのメッセージを発する震災復興のテーマ・ソングとなって再生したのである。これもまた、この楽曲がもつ優れた隙間の部分によってもたらされた(作詞家、永六輔の)功績のひとつといってよいだろう。

ただし、基本的には“上を向いて歩こう”という楽曲は、ひとりの人間の孤独の感情を主として歌っているものだといえる。その孤独の感情の度合いがとてもとても深いからこそ、そこから派生する解釈も様々な多彩なヴェクトルをもつ極めて射程の長いものとなる。歌詞の中では「一人ぽっちの夜」というフレーズが六回も登場し、各ヴァースを締めくくる結びの部分でひとりきりで過ごす夜の侘しさや寂しさを強く印象づけるように繰り返されるのだ。そして、そのフレーズを軸に作詞家の永六輔は言葉をめぐらせ、どうしようもなくひとりであること、どうしようもなくひとりである状況を、“上を向いて歩こう”の歌詞の全体に滲み出させてゆく。
まだ携帯電話もインターネットもなかった時代の孤独とは、現代において感じられている孤独とは自ずと性質や特質を異にしていたに違いない。楽しい思い出に溢れていた輝かしい季節のことを思い出しては、ひとりで歩く暗く寒く心細い夜道で涙ぐむ。全ての「幸せ」は、今や遥か遠くに過ぎ去ってしまった。もうここには、そのひと欠片も残ってはいない。その代わりに、ここには山と積まれた「悲しみ」だけがある。こんなにも出口の見えない闇の中に陥っているのは、この広い世界の中で自分ひとりだけなのではなかろうか。そんなどうしようもない境遇に気持ちを抑えきれなくなり、たったひとり肩を落として歩きながら泣き出してしまいたくなる。“上を向いて歩こう”の歌詞は、孤独者が孤独を感じる際に覗き見るとてつもない深い闇というものを見事なまでに伝えてくれる。
孤独者とは、いつも活気に満ちてにぎやかな喧噪に包まれている世の中から、(理不尽にも)隔絶・疎外され、人間たちの生命力やヴァイタリティの顕現の如く目に映じる世の中の様々な動きから、たったひとり取り残されてしまっているような感覚に陥るものである。携帯電話もインターネットもなかった時代の孤独者が、自分以外の人々が属する(別の)世界とコミュニケートを試みることは並大抵のことではなかっただろう。自分以外の全ては、ただ自分の目の前を素知らぬ顔で通り過ぎてゆくだけなのだ。あらゆる道筋は遮断されている(ように思える)。そこに孤独者が取りつく島を見出せる機会なんてものは、滅多なことがない限りなかったに違いない。
60年代初頭という時代は、現在の矢のように様々な情報が目まぐるしく乱れ飛ぶ時代の動きとは、また違ったスピードでの目まぐるしい変化が、人々の穏やかな生活を急き立てていたのである。誰もが初めて経験するものであった高度経済成長時代の急な坂道を、全力疾走で駆け上がり続けさせられるような時代の変化と更新のスピードの最中にあって、きっと人々はあまりよく周りのことを見渡せなくなっていたのではなかろうか。薄暗闇の中で全てが猛スピードで突き進んでいる感覚が、ずっと継続しているような状態であったと思われる。
誰もが急激に移り変わってゆく変化と上昇の運動に乗り遅れまい/振り落とされまいと必死に駆け続けているから、すぐ近くにいる人に対しても視線は届き難くなる。走行中の電車の窓から外を眺めると、線路近くの景色は遠くの景色に比べて猛烈な早さで眼前を通り過ぎ、次々と後方へと流れ去っていってしまうのと同様に。暗く寒い冬の夜道で、上を向いて立ち止まっている人/上を向いて歩いている人がいたとしても、なかなか誰かの視界に入ることはなかったのかも知れない。猛スピードで動き続ける群衆・大衆の前では、どうしても一人ぽっちの孤独は、あまりにも小さくか弱いため見え難くなるのだ。
そうした社会や世の中においては、一人ぽっちの孤独が、大勢の人々のわたしたちの孤独として日常的に実感・共感されることは限りなくなくなってゆく。自分の中にある孤独が、自分以外の人の中にも同じ孤独としてあるのかどうかを確かめる術がないのだ。ここにある孤独とそこにある孤独は、決して目に見えるものとして人々の視界に現れて、相互に交わったりすることはない。そして、そのまま個別に薄暗闇の中で、冷たく凝固し固定化されていってしまうことになる。そこにあるのは、深く個人の中へと沈潜してゆくというよりも、べったりと表皮の裏側にこびりついているような孤独だ。だがしかし、薄暗闇でよく見えないだけで、孤独な人間はすぐ近くに大勢存在しているのである。“上を向いて歩こう”が歌われた61年の孤独とは、恋人を失い、大衆レヴェルでの政治的闘争に倦み疲れ、暗い夜道を一人ぽっちで肩を落として歩いているような、とても切ない非常に情緒的な孤独でもあった。
現代の高度に情報化された社会では、技術の進化と進歩とともに目に見えるものも目に見えないものも物凄いスピードで決して止まらずに動き続けている。上昇している動き、下降している動き、同じ場所を堂々巡りしている動き。あらゆるものが高速化する動きに巻き込まれて、それぞれにそれぞれの動きの中に絡めとられて、その終わることなき(もののように思える)疾走のただ中にある。ある意味では、あまりにもその動きが早く、加速度も高まりつつある中で、どんなに必死になって駆け続けようとも最早誰もが乗り遅れてしまっている状態であるのかも知れない。そこでは何周回分の乗り遅れかの違いだけが問題とされることになる。しかし、ただ堂々巡りを繰り返しているだけの動きであれば、かなりの周回分を乗り遅れていたとしても実際には大して問題になるような差にはならなかったりするのである。
また、その逆に、複雑に入り組んだ社会や世の中の構造の間隙を縫うように動く、凄まじいスピードの変化によって生じてくる差は、瞬時にして莫大な距離の隔たりを作り出したりもする。そして、時間の経過とともに(もしくは一瞬にして)、そのふたつの事物や地点は遠く遥か彼方にまで引き離され、それらの違いを距離から把握して理解したり感覚することは不可能になってしまう。あまりに遠く隔たった距離に、そのふたつのものを同時に見て把握することができなくなるのである。
こうした社会や世の中においては、かつての時代とは孤独感というものにも差が生じてくるのは当然のことであるだろう。そして、孤独である者と孤独でない者の間にある差も感覚しづらいものになってきてもいる。そうした孤独を感覚することそのものに差が生じてきてしまう根本には、現代に特有の病である、個々人の中における諸感覚の麻痺というものも非常に大きく作用していると思われる。
現代の社会における孤独にも、大きなものからささやかなものまで様々な様態のものがあるはずである。だがしかし、それら全てを漠然と存在する孤独としてしか感じ取ることができなくなってしまっている。よって、孤独感に苛まれて本当に危険な状態にある他人のことも、じっくりと正視して深いところまで覗き込んで理解することは、どうにも不可能なこととなってしまう。とても表面的で一面的な表層付近に現れ出ている相だけを斜め読みした不完全な理解のみで、孤独にあっさりと始末をつけようとする風潮がある。だが、実際のところは、その目に見えているものは、表面的な孤独の相ですらなかったりするのである。自分で自分勝手に理解できていると解釈している、自分自身がその世界のただ中で作り上げた尺度でとらえた孤独が、もしかしたら自分以外の誰かの深刻な孤独とは似ても似つかないものであるかも知れないことすら直感的に判断がつかなくなってしまっているくらいに、わたしたちの目はこの世界の中で見えなくされてしまっているのである。
世の中のあらゆるものを把握する全ての感覚が麻痺してきてしまっているがために、どの尺度もとても大雑把で稚拙なものにならざるを得なくなってくる。稚拙な尺度は、それが使われることによって、さらにそれを基準としたより稚拙な尺度を生むことになる。そして、そうした極めて狭い了見から成り立つ、とてもとても狭い世界が出来上がってくるのである。高速のジェットコースターに無理矢理に乗せられている者の目には、次から次へと視界に飛び込んでくるものが見えているようでいて、実は何もはっきりとは見えていないのである。
加えて、現在は携帯電話やインターネット/SNSなどの、孤独感を紛らわせることができるものも日常の生活の中に沢山溢れている。そうした気晴らしのための装置が次々と生み出されたことによって、かつてほどの実感をもって孤独者の中においても深い孤独を孤独そのものとして噛みしめることができなくなってしまってきているのではなかろうか。これは、とても危険なことでもある。自らを剥き出しにして自らをあからさまに見つめることでもある苦々しい孤独の感覚すらもが鈍化させられてきてしまっているのだから。これは、人間が人間性を失いつつあるということにも等しい。

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉(四)

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉

菅谷梨沙子とカワイイ

ハロー!プロジェクトに所属する七人組アイドル・グループ、Berryz工房の最年少メンバー、菅谷梨沙子の実に思い切った髪の毛の色が、このところ度々話題になることがある。とにかく、ごく一部でではあるが、あれこれと頻繁に騒がれるのである。今度はああしたこうしたと事あるごとに騒ぎになるくらいであるので、それなりにその都度かなり凄いことになっていたことだけは確かなのである。
唐突に(であろうか?)、いろいろと思い切ったことをし始めると、その唐突さの分だけ周囲の驚きの反応も深く大きなものになってしまうことがある。熱心なファンの中には、その急激な変化の様を目の当たりにして、菅谷梨沙子が菅谷梨沙子ではなくなってしまったと、悲嘆に暮れた者も少なくはなかったようである。
しかし、ただ髪の色が変わったぐらいで菅谷梨沙子が菅谷梨沙子でなくなってしまうようなことは、実際にはない。現実には、それまでに知っていた菅谷梨沙子が、突飛な髪の色にしてしまったせいで、それまでの菅谷梨沙子のように見えなくなってしまったというだけのことである。ただし、そのような思い切ったイメージ・チェンジの裏側で、菅谷梨沙子の中でも何かが少しずつ変化していたことだけは間違いなさそうではあるが。
それ以前までの菅谷梨沙子というと、少しはにかんだような笑顔が印象的なあどけない可愛らしさをもつ美少女というイメージが、すでに定着していたように思える。とても可愛らしく無邪気で、そこに一点の曇りも見出せない。ルックスの面だけ見れば、まるで人形が動き出したかのような、とてもアイドルらしいアイドルであったのである。だが、実際には、そんな可愛らしい人形のような面だけが菅谷梨沙子であったわけではない。言う間でもなく彼女は人形ではなく生きた人間であり、そんな普通の人間の少女が、たまたま可愛らしく生まれついたために、オーディションで選別されてアイドルをしているというだけなのである。
人形のように可愛らしい菅谷梨沙子を可愛らしい人形のように愛おしく思うファンと、そうしたファンの純粋な気持ちや期待にできる限り応えようとする菅谷梨沙子。それぞれの思いが、真っ直ぐに呼応し合い、うまく噛み合っているうちは、ほとんど全てのことが平和な状態で進んでいた。だが、そこに時間の経過とともにさまざまな変化が訪れ、少しずつズレが生じてくる。りーちゃんの愛称で親しまれていた菅谷梨沙子も、いつまでも小学生の女の子のままではないのである。だが、それでも、当たり前のようにアイドルとして活動し、どこに行っても可愛いともてはやされる。しかし、それだけで満足というわけには、段々といかなくなってくる部分もあったのであろう。おそらく、かなり根が真面目なタイプであるだけに、アイドルとしても人間としてもさらなる向上を遂げてゆきたいという欲求が、いつからか菅谷梨沙子の中に芽生えてきていたのではなかろうか。
そこで、お人形さんのようなアイドルとしての菅谷梨沙子に求められる可愛らしさではなく、自分にとってのカワイイを追求した結果としてのひとつの表現が、思い切った髪色という形で、いきなり噴出してきてしまったのかも知れない。そうした突拍子もなさには、生真面目な性格であるが故の、やる時は思い切ってやる決して手を抜かない徹底ぶりのようなものも感じ取れたりするのだが。

ただし、最初はどんなに大きな驚きであったものも、見慣れてくると最初の驚きは簡単にどこかにいってしまうものである。思い切った突拍子もない髪色をしている女の子が菅谷梨沙子だという、新たなイメージがじわじわと定着してくる。正確にいえば、そこに見えているものは、かつてと同じ菅谷梨沙子の姿などではなく、それまでにはなかったような新しいイメージを身につけている菅谷梨沙子なのである。
しかし、そこにある見かけはイメージ・チェンジしていたとしても、そこに見えているイメージが新しかろうと古かろうと菅谷梨沙子が菅谷梨沙子であることに変わりはないし、菅谷梨沙子が菅谷梨沙子でなくなってしまったわけでもない。実際には、そこにいる菅谷梨沙子は、少しだけ大人になった、かつての菅谷梨沙子よりもより菅谷梨沙子になった菅谷梨沙子なのである。菅谷梨沙子は菅谷梨沙子へと変化したのだ。
まるで人形のような存在のアイドル歌手としてだけでなく、ひとりの人間として現実に生きているアイドルとして、より自分らしさを表現しようとする方向へと向かったということは、菅谷梨沙子にとっても、決して悪いことではないだろう。一部の古くからのファンにとって、アイドルの理想像に極めて近い存在であった菅谷梨沙子の姿は、その突然の変化によって永遠に何かを失ってしまったのかも知れないが。
時間が経過し様々なものが変化してゆく中で、ファンにとっての理想と、菅谷にとっての理想が、少しずつかけ離れてきてしまっていた。そして、そのどうしようもなく広がってゆくズレを埋め合わせてゆく気が、遂に全くなくなってしまったというところこそが、ここ最近の菅谷梨沙子の中での一番大きな変化であったようにも思われる。

菅谷梨沙子の髪の色の問題に関しては、ファンの間でも賛否両論が入り乱れている。それを目の当たりにした全てのファンが悲嘆に暮れているということは決してない。ただ、あまりにも唐突な変化であったために、その原因を探ろうとする様々な憶測が乱れ飛んだことだけは確かである。
常に過去の幼い頃の自分と今現在の自分が比較されることへの潜在的な反発心が、急激なイメージ・チェンジの引き金になったのではないか、という意見がある。また、大人になりつつある自分と子供のままにいたい自分の狭間で揺れる、ちょうど18歳前後という微妙な年齢ならではの一過性の病だという、意見もある。
確かに、世間で18歳といったら高校三年であり、普通にの受験生として過ごしていれば大学進学や今後の人生の進路について本気で真剣に考えている時期でもある。菅谷梨沙子もまたアイドルであるとともに、ひとりのハイティーンの少女でもあるのだ。ふとした瞬間に、自らの将来のことを考えて人知れず不安な気持ちに苛まれ精神的に不安定になることだってあるだろう。
だが、そこで何があって、何が原因でイメージ・チェンジにいたったのかは、当の本人しか知らないことである。ただし、そうした極めて個人的な悩みや葛藤が理由で、明らかに所属グループの内部でも異質な髪色になってしまっているのだとしたら、それはそれで少しばかり由々しき問題であるような気もする。しかしながら、Berryz工房とは、そういった部分では独特のユルさを兼ね備えているグループでもある。よい意味では各々の個性を尊重し、あまりよくない意味では基本的にバラバラな、メンバーたちの間ではそれほど大した問題にはなっておらず、最年少メンバーの突飛な行動も「まあ、そんなこともあるよね」的な暖かい目で見守られている節がある。
菅谷梨沙子の髪の色は、先ずいきなり全体的に真っ赤になったと思ったら、その後一旦落ち着いてアッシュ系のブラウンになり、ここ最近はアッシュ系のパープルへと移行してきていた。そして、また再びパープルから赤っぽくなってきている。(現時点では、アッシュ系の明るいブロンドのように見える。)
かなりコロコロと髪の色を変えているので、それによる印象やイメージの変化を楽しんでいるようにも見えるし、リリースするシングルの曲調や衣装の色に合わせて、ネイルや口紅の色を変えるように髪の色を変えているようにも見える。いずれにしても、かなり好き勝手に、ほとんど野放し状態で髪色を変えていっている雰囲気はある。そこで所属事務所への相談や他のメンバーの意見を聞いているような素振りは全くなく、菅谷梨沙子が主体的に本当に自分の好きなように髪色を自由に変化させているようなのである。こういった部分もまた、Berryz工房というグループのもつ独特のユルさの表れだといえよう。

アッシュ系の髪色というと、青文字系の読者モデルの代表格であり若い女の子から絶大な支持を受けているカリスマ・モデルのAMOのヘア・スタイルが、すぐに思い浮かぶ。一時期のアッシュ系のパープルの髪色で厚く前髪を下ろしたロングという菅谷梨沙子の髪型は、ほぼAMOとお揃いのスタイルであったといってもよい。
紫というと見た目にも少し奇抜に映るため、なかなか誰でもというわけにはいかない髪色ではある。それでもカリスマ・モデルのAMOは、原宿的なフワフワのファッションを合わせて、甘くカワイイ着こなしをキメていた。菅谷梨沙子も、シングル曲の少し派手めの衣装にも負けないほどの強烈な個性を髪色で主張していた。ほぼ同時期に全く同じような髪色と髪型にしていた、このふたりには、もしかするとカワイイを感覚する方向性に、かなり近いものがあるのかも知れない。
くすんだ光沢感のあるアッシュ系の髪色の場合は、たとえば金髪や茶髪にしたとしても、これまでのカラーリングとはかなり質感が異なるものとなる。いかにも金髪っぽい金髪や、いかにも茶髪な茶髪ではなく、より落ち着いた自然な輝きのあるブロンドやブラウンに近づくのである。
これまで金髪や茶髪というと、どうしてもギャル系の女の子のトレードマークというような髪色であった。しかし、アッシュ系の金髪や茶髪は色合いや質感が通常の金髪や茶髪とは大きく異なっているために、非ギャル系の女性の間でも幅広く受け入れられるようになってきてもいるようである。ナチュラルなトーンの色合いから文字通り灰色に近い強めのアッシュまで、髪色の質感に関しても非常にヴァラエティが豊かなことから、年齢的にも10代だけでなくその上の世代でも気軽にトライできるものであるようだ。
また、AMOのようにフワフワなゴシック・ロリータ系のファッションと合わせると、まさに頭から爪先までがまるで人形であるかのように見えるようになる。このような、可愛らしい髪色からしっかりと作り込んで、全身のファッションをコンセプチュアルにコーディネートしてゆく感覚は、どこかアバウトさのあったギャルのカジュアルなスタイルや文化からは非常に遠いものがある。

ちょっと濃いめの作り込んだメイクをばっちりと施し、長い髪を思い切った髪色に染めあげ、体格も小さく華奢であった幼少期と比べると一段と大人っぽく成長してきた。最近の菅谷梨沙子のかなり迫力のある容姿には、青文字系のオルタナティヴなカワイイ文化に共振し、それを極めて自己流にアレンジした痕跡が見受けられる。だが、そうした容姿の面だけではなく、アイドル歌手の本業である歌唱やダンスの面でも、最近の菅谷梨沙子には大きな成長・進化・変化を確認することができるのである。
歌唱面での変化の兆しが見え始めたは、08年頃からであっただろうか。08年3月12日に発表されたBerryz工房にとっての16枚めのシングル“ジンギスカン”(70年代後半に大ヒットしたのユーロ・ディスコ曲のリメイク/カヴァー)と、それに続く08年7月9日に発表された17枚めのシングル“行け行けモンキーダンス”(この年の8月に開催された北京オリンピックの日本選手団への完全非公式応援ソングのような楽曲)のあたりが、明らかにひとつの転換点であったと思われる。ハロー!プロジェクトの十八番でもある底抜けに明るく楽しいダンス・ミュージック~ディスコ路線のシングル曲が続いたこの時期に、菅谷梨沙子の歌唱においても何かが吹っ切れたような感じが見受けられるようになってきたのである。
最初は、ライヴのステージにおいて、こうしたノリノリの楽曲を歌う時に、スタジオでの録音物とは少々異なるスタイルの、やや太めのドスのきいた歌声による勇ましい歌唱をぶちかますところから始まった。小さい頃からのBerryz工房での活動で鍛えられてきた部分もあったのであろう、菅谷梨沙子はグループの最年少ながらも声量がたっぷりとあり、かなり歌唱力の面でも安定した実力を発揮できるようになってきていたのである。可愛い顔には似合わず、とても低く太くよく響く声で歌えるのである。小さい頃から多くの楽曲でセンターのメイン・ヴォーカルを務めてきたことから生じた確かな自信を裏打ちするように、次第に自分としても納得のできるレヴェルの歌える実力がついてきたと感じられるようになってきたのが、ちょうどこの時期であったのではなかろうか。
そうなると、無理してアイドルらしい幼く可愛らしい歌い方を作ってまでファンに歌を披露するということに、それほど妥当性や必然性を感じなくなってしまったとしても無理はないのかも知れない。もしかすると、変に可愛くするよりも、ただ自分の好きなよう楽に楽しく歌いたいだけであったとも考えられなくはない。ライヴという多くのファンと真正面から対面して歌える場であるからこそ、本来の自分らしい素のままの歌声を聴いてもらいたいという気持ちも強くあったのではなかろうか。
この08年から09年にかけての時期(年齢でいうと14歳から15歳)に、菅谷梨沙子の中で新しい菅谷梨沙子が目覚め始めたことは間違いなさそうである。小学生や中学生として学生生活を過ごす合間に放課後のクラブ活動のようにアイドルとしての活動をしていたりーちゃんの中に、本当のアイドルとしてのりーちゃんが顔を出し始めたということだろうか。天然のアイドルらしいルックスのポテンシャルによって華々しいアイドルとしてのステージに立つ菅谷梨沙子では表現し切れない、本当の菅谷梨沙子がもつ潜在的ポテンシャルの部分が、まずは歌声や歌唱という形で表に見えてきたということなのだろう。
その後、そうした歌唱は、徐々にレコーディングされたシングルやアルバムの楽曲でも聴くことができるようになってくる。そして、おそらく、それが最初に極めて顕著な形で現れ出てきたのが、10年3月3日に発表されたBerryz工房の22枚めのシングル“雄叫びボーイWAO!”であったのではなかろうか。このムチャクチャにアグレッシヴなスペース・ロック調の楽曲は、オリコンの週間チャートにおいてグループにとっての史上最高位となる第三位を獲得するスマッシュ・ヒットを記録している。ソロ・パートでべらんめえ調の巻き舌で捲し立てる、菅谷梨沙子のぶち切れた歌唱を最初に聴いた時は、一体Berryz工房に何が起こったのかと本当に驚かされたものである。
こうした10代の中盤から後半という年齢にかけての変化を、自我(アイデンティティ/自己同一性)の目覚めといってしまえば、それまでなのかも知れない。だがしかし、菅谷梨沙子の場合は、Berryz工房の一員として活躍する現役アイドルでもあるのだ。そこでは、公的な自我(とペルソナ)と私的な自我が複雑に絡み合い、様々に移り変わってゆく変化の中で折り目正しく折り合いを付けてゆくだけでも一苦労なはずだ。よって、そう簡単に自我が目覚めたからどうこうと割り切れるものでもないのであろう。
揺れ動き移り変わり続けるミドル・ティーンの時期に、頑張って可愛いアイドルとして活動をすることに、あまり意味を見出せなくなってきてしまったということもあるのだろうか。アイドルとして過剰なまでに可愛さを演出することに、どれほどの意味があるのだろう。どんなに可愛らしくしていても、それは仮の姿(仮象)でしかない。本当の素のままのりーちゃんを希求してくれないのであれば、それは本当のりーちゃんのファンではないのではないか。この時期に菅谷梨沙子の中でアイドルとしての自我がはっきりと目覚めたということであろうか。より強く、より確かに、アイドル菅谷梨沙子を求められることを求めるようになったという意味において。

青文字系の読者モデルから日本を代表するポップ・アイドルのひとりへと羽ばたいたきゃりーぱみゅぱみゅが、菅谷梨沙子の大ファンであり、このふたりが非常に仲のよい友人でもあることもよく知られている。ネトネトやドロドロなグロいものを好み、凶暴なサメをこよなく愛することでも有名なきゃりーが、もしかするとそうしたものたちと同列にアイドル菅谷梨沙子を並べて熱を上げているのではないかと推測するのは、少し考えすぎというものであろうか。海の生物である肉食のサメと同系列の好きではないかも知れないが、最近のあまりアイドルらしくないアイドル(オルタナ・アイドル)としての部分に多少のグロ要素に近いものを感じ取っていると考えるのは、あながち完全に的外れでもないのではなかろうか。
93年生まれのきゃりーは、菅谷梨沙子よりも一歳年上(学年ではふたつ違いか)であるが、ほぼ同年代・同世代なのである。おそらく、りーちゃんが小学二年生(8歳)でハロー!プロジェクト・キッズのオーディションに合格し、アイドルとしての活動を始めた頃からその存在を知っていて、共に成長してきたような感覚もあるのかも知れない。そして、青文字系のカワイイ文化のコアな部分に触れている同世代として、きっと多くを語らずとも感覚的に通じ合う部分などもあるのだろう。
きゃりーぱみゅぱみゅが菅谷梨沙子に感じ/見出し/求めるカワイイが、菅谷梨沙子にとってのカワイイの感覚と合致する。そして、そのカワイイこそが、菅谷梨沙子がファンに求めてもらいたいカワイイでもあるのだろう。きゃりーぱみゅぱみゅとは、菅谷梨沙子とって仲のよい友人であるとともに、最も理想的なファンのひとりであるのかも知れない。

94年4月4日生まれの菅谷梨沙子は、わずか8歳でオーディションに合格(02年6月30日)し、ハロー!プロジェクト・キッズ(ハロプロ・キッズ)の一員となっている。この時に合格した15名のハロプロ・キッズのメンバーのうち、菅谷梨沙子と同学年であったのは後に℃-uteのメンバーとなる鈴木愛理と岡井千聖のふたりであり、そして最年少は当時小学一年生の後に℃-uteのメンバーとなる萩原舞であった。このハロプロ・キッズから8名が選抜され04年にBerryz工房が結成される。菅谷梨沙子は、このグループに最年少のメンバーとして参加し、04年3月3日にシングル“あなたなしでは生きてゆけない”でCDデビューを果たしている。まだ小学三年生の9歳という幼さでのデビューであった。
このBerryz工房でCDデビューする以前に、菅谷梨沙子はテレビ東京系列で放映されたドラマ『湘南瓦屋根物語』に単独で出演している。この深夜枠のミニ・ドラマは、02年の秋から約四ヶ月に渡って放送された。まだ菅谷梨沙子がハロプロ・キッズのオーディションに合格して間もない時期である。
一応、このドラマは、湘南の瓦屋根屋に居候している菅谷梨沙子が演ずる詩子を中心とする内容であった。だが、それまでに演技の経験もテレビの出演経験もない小学二年生の女の子に、いきなりドラマの中心人物を演じさせるのは、どう考えても無茶苦茶な企画である。よって、『湘南瓦屋根物語』は詩子のセリフの量を極力少なめにし、菅谷梨沙子の素人感丸出しの演技をスパイス的に散りばめる構成を採用した少々妙なノリのホーム・ドラマに仕上げられることとなった。
おそらく、ドラマの内容などは二の次で小学二年生の菅谷梨沙子の可愛らしさを撮ることができれば、きっとそれでよかったのであろう。実際、菅谷梨沙子が登場するシーンは、それだけで成り立っているような映像となっていたし、それだけで充分だと思わせてしまうほどに菅谷梨沙子はただ突っ立っているだけでも抜群に可愛らしかった。『湘南瓦屋根物語』は、そんな菅谷梨沙子の衝撃的なまでの可愛らしさを伝えるために企画制作されたようなドラマであったのだ。いまだに、この当時の非常に小柄なまるでお人形さんのように可愛らしいイメージは、多くのファンの脳裏にくっきりと焼き付いていたりするのであろう。

12年6月30日、あのハロプロ・キッズのオーディション合格日から10年が経過した。菅谷梨沙子は、18歳にして、すでに10年以上のアイドルとしての活動歴を誇り、その人生の半分以上をアイドルとして生きていることとなった。その堂々たる芸歴の長さから考えれば、まだ10代でありながらも芸能の世界ではヴェテランといってよいほどである。ハロー!プロジェクトの一員として数多くの舞台に立ってきたこの10年間に蓄積してきた経験や知識にも相当なものがあるはずである。
現在のハロー!プロジェクトでは、ハロプロ・キッズから誕生したBerryz工房と℃-uteの12名が、最も古株のメンバーとなっている。名実ともに、すでに10年以上のキャリアを誇るハロプロ・キッズ世代が、ハロー!プロジェクト全体を引っ張っているのである。

菅谷梨沙子の可愛らしさは、それまでにはあまりなかったような部類に属する可愛いらしさであった。ただ、活動開始当初はカメラの前でなかなか本来の自分らしさを上手く出せずに、常に固まったような表情をしていたようにも思われる。
そんなカメラの前に立つ緊張感からくる、常に自分の全力を出そうとする生真面目な性格の空回りが、まるで置き物の可愛らしいお人形さんを思わせる菅谷梨沙子のイメージを、いつしか固定させてしまっていたのかも知れない。菅谷梨沙子のハロプロ・キッズ~Berryz工房での活動とは、そのルックスから連想されるただの人形のように可愛らしいアイドルとは異なる部分や異なる素質をもつことを示し証明し続ける10年間であったようにも思われる。
突然の突飛な髪色の変化は、アイドルとしての新たな路線や領域を開拓するものであったのだろうか。可愛いを捨ててカワイイへと向かうことで、実際のところ何が変わるのだろうか。もはやかつてのようなお人形さんもどきではないと、りーちゃんが人間宣言をしたということか。
だがしかし、そこで追求されているカワイイに、そこまで人間臭さが感じられるであろうか。髪色を変えて、メイク・アップの方法を研究して、オシャレに興味が湧く年代らしく新しい刺激的なファッションに身を包んだだけなのかも知れない。りーちゃんの人間宣言とは、東京女子流が“Sparkle”で歌う「人間だもの当たり前」なレヴェルをちょっとばかし開示してみせたに過ぎないものであるのかも知れない。

03年のM-1グランプリで優勝したお笑いコンビ、フットボールアワーののんちゃんこと岩尾望は、Berryz工房の初期の頃からの菅谷梨沙子の大ファンであることを公言している。そんなかなり気合いの入ったファンであるはずののんちゃんでも、ここ最近の菅谷梨沙子の急激な進化や変化には、ちょっとついてゆけないものがあると愚痴をこぼしたりもするのである。誰よりも大好きな菅谷梨沙子のことであるにも拘わらず。
のんちゃんのような古くからのファンは、突然の変節の前の幼い頃のりーちゃんの映像を見返しては、現在の菅谷梨沙子を生み出した人形のように可愛らしい土台の部分がそこにあったことを何度も確認してホッと胸を撫で下ろしている。そして、菅谷梨沙子の姿に小さかった頃のりーちゃんの面影ばかりを探し求め、それがまだ確認できることを頼みの綱にかろうじてファンであり続けているのだ。
格段に大きなスケールのものへと拡大し続ける菅谷梨沙子のアイドルとしての幅や奥行きを前にしながらも、自らの究極の理想としている今はもうない小学生の頃のりーちゃんの姿を追い求めて、その実像の周辺を彷徨う、非常に屈折したファン心理が存在しているのである。そういった捩じれたファン心理をも抱かせてしまうほどに、りーちゃん/菅谷梨沙子は、アイドルとしての強烈な魅力や特異性/異常性をもっているということであろうか。

かなり熱心に追いかけているファンでさえも、ここ最近の唐突で突飛な動きをしっかりと受け止めることができずに、菅谷梨沙子が今どこにいるのかを見失ってしまうくらいなのである。そして、そうした菅谷梨沙子の行動は、これからの菅谷梨沙子がどこへ向かおうとしているのかを、さらに見えづらくしてゆくことにもなる。過剰なまでの突飛さは、周囲を不安に陥れるものでしかなかったりもするのである。
その行動は意識的なものなのだろうか。もしくは、無意識のうちに、そうした結果を招いてしまっているだけなのか。おそらく、菅谷梨沙子としては、自分の髪色を変えることに関して、それとファンの存在は全く関係ないものだと考えているのであろう。そうした考え方は、たぶん間違いではない。だが、菅谷梨沙子は、多くのファンという存在の支持によって支えられているアイドル歌手でもある。よって、その存在と完全に断絶してしまうことはできないのである。どのような行動においても。
菅谷梨沙子は、どこまでも自然体な自分というものを貫きたいと思っているのであろう。とにかく、純粋に、決して飾ることなく。後先のことなどは、あまり考えずに。ただそれだけのことなのである。そんな菅谷梨沙子のただただ自分のことだけを考えている振る舞いに、純度の高い多くのファンたちが肉体的にも精神的にも振り回され続けているということなのである。
ただし、いくら奉り上げられるアイドル/偶像だからといっても、常に支持者/ファンの求めるものであり続ける必要はどこにもない。アイドルとは、時間の経過とともに変わり続ける偶像という独特の宿命を背負っているものでもあるのだから。しかしながら、できるだけ変わらずに、いつまでも変わらずにいて欲しいという心性が、いつの頃からか日本のアイドル界には強烈に浸透していたことは確かであろう。アイドルという偶像は、より偶像らしく偶像視され、それを見守っている者の夢や希望や理想を全面的に託される存在となっている。
ひとりのアイドルに永遠に変わらずに出会った日のままのアイドルでいてもらいたいというファンの心理が、まずある。そして、その心理と並走をする、いつまでもアイドルのままで居続けたいと願うアイドルの思いが、それに可能な限り応えようとする。だが、そのアイドルの思いが極端に強くなると、いつしかそこから先行して覚醒したアイドルのオーラを放ちつつ突っ走り続けることになるのだ。こうしたアイドルとファンの間を行き交う切実な思いや願望が交錯し、それが日本の(独特な)アイドル文化というものを成り立たせてきたともいえる。
そうしたステレオタイプな日本のアイドルの形には収まりきらない存在へと、このところの菅谷梨沙子は急激に近づきつつあるのかも知れない。りーちゃんは、人形のような可愛らしさを脱し、新しい時代の魅力的な女の子像であるカワイイに突き抜けた菅谷梨沙子を自ら提示しようとしている。それはこれまでのアイドルのオーラを振り切った少し型破りなアイドル像であり、そうしたオルタナティヴなアイドルの系譜における最新世代に属するのが菅谷梨沙子なのではなかろうか。
80年代中期のアイドル黄金時代の最盛期にトップ・アイドルのひとりであった小泉今日子は、当時のある意味において神聖化されていたアイドルの(まやかしの)偶像性を自らの手で破壊してみせた。アイドルとは演じさせられるものでも演じるものでもなく、もっと生身の人間やひとりの可愛い女の子の実像に近いものであるはずであることを、小泉今日子は自らの身をもってアイドルという枠の中で素の部分をさらけ出してゆくことで表明したのである。そして、そうした意識的で自己言及的なアイドル(メタ・アイドル)にとって、アイドルすることとは、ひとつの遊戯でありながら自己表現の場でもあるようなものとなっていった。
現在にまで通じているオルタナティヴなアイドルの系譜とは、明らかに80年代の小泉今日子という存在から始まったものである。ただし、ここ最近の21世紀のアイドルは、プロデューサーやプロモーターの意向に沿って、よりしっかりと管理されたものとなってきている傾向が非常に強い。自由奔放なアイドルの振舞いさえも、実は堅い管理下に置かれたものであるというのが現状なのである。
初期のモーニング娘。などにおいては、そうした部分での年少メンバーの素人っぽさゆえの規格外な噛み合わなさからくる管理しようとしても管理しきれないせめぎ合いといった非常におもしろい動きも見られたりもした。だが、最近ではそうしたものもかなり鎮まってきている。これは、00年代中盤よりハロプロエッグという研修生の制度が確立され、そうした下部組織から昇格してきたメンバーが現在のモーニング娘。には多く在籍していることと決して無関係ではないだろう。そうしたメンバーたちは、歌やダンスのレッスンに励む研修生時代に、ハロプロの伝統的な流儀や芸能界のイロハを、見よう見まねながらもしっかりと学んで身につけてきているのである
11年9月にわずか11歳でモーニング娘。の10期メンバーとなった工藤遥などは、そうした新しいタイプに分類されるモー娘。メンバーの代表格であろう。ハロプロエッグ時代から注目株であった工藤は、モー娘。の最年少メンバーでありながらもMCの仕切りやキレのあるトークなどの技量をしっかりと身につけていることでも驚きの的となっている。こうしたタレント性には、かなり天性の素質のようなものもあるのであろうが、ハロプロエッグの一員として実地訓練を兼ねて研修する期間があったことは、工藤にとっても極めて大きな財産となったに違いない。
菅谷梨沙子の場合は、どこまでアイドルというものに対して意識的であるのかが読めない部分があったりもする。髪色やファッションなど自分にまつわることに関しては非常に意識を向いているようにも見えるのだが。そこでは、HARAJUKU的なカワイイの革新性とハロプロ的なアイドルらしいアイドルの伝統と様式を継承した保守性が、うまく交わりきらずにそれぞれの面を表に出しながら同居している。菅谷梨沙子とは、どうにもつかみ切れない摩訶不思議なところがある摩訶不思議な(脱アイドル的)アイドルなのだ。

突き放されて、ぷっつりと切り離され、もはや手が届かぬだけでなく、追いつくこともできない。そして、そこでのアイドルは、必然的に仰ぎ見るしかない対象となる。これは、いつでも気軽に「会いに行けるアイドル」としてファンのいる位置にまで降りてきて(営業して)くれる、現在のアイドルを取り巻く垣根を下げたセールス活動の動向とは、完全に逆行しているといえるかも知れない。決して縮まることのない開くだけの距離というのは、なかなかに斬新なものがある。
ファンとアイドルの間に横たわる距離を開くだけ開かせておいて、変化や進化についてこれない者たちを無惨にもそこに置き去りにしてしまう。だがしかし、そういうややサディスティックなファンのあしらい方の中にも、菅谷梨沙子という人間らしい個性を見出しているからこそ、どこか開くだけの距離を楽しみながらも一定の距離を保って無理をせずに追いかけ見守り続けることができるともいえるであろうか。
突き放されたファンたちは、映像に記録された猛烈に可愛らしかった過去の姿を振り返っては思い出に浸りつつ、頭のどこかでかつての天使のようなりーちゃんが突然戻ってきてくれることを夢想したりする。その思いが決して届かぬことも、そんな後ろ向きなファンをりーちゃんっは冷たく一瞥するだけであろうことも、大いに承知の上で。それが、どんなに屈折した思いであろうと、本人の前では密かに隠し続けなくてはならない思いであろうと、ファンにとってりーちゃんが天使のような特別な存在であることは変わることはない。どんなに変化しても、それが同じ人であるだけに見守り続けることを決して諦めきれないのである。
しかし、現実の菅谷梨沙子は、決して天使ではない。おそらく、今も昔も。唐突に突飛な髪色にするような、どこまでもとてもとても人間臭い部分をもった、ひとりの10代の少女なのである。ある意味では、天使にはほど遠い、人間的な、あまりに人間的な存在なのだ。そうした人間臭い内面に抱えた葛藤やジレンマのようなものが、髪色や表情や態度に目に見える形で表れているからこそ、少し距離を置いてでも見守っていたいという、ファンとアイドルの間の、どこか古くもありどこか新しくもある関係性が築ける素地も生まれてきているのだともいえる。
これは、偽りの優しさを媒介とした、なあなあの関係に決して陥ることのない関係性でもある。ファンとアイドルの間柄でありながらも、そこには妙な緊張感が常に孕まれているのである。菅谷梨沙子のあまりに人間的な部分に反発をしたり惹き付けられたり(菅谷梨沙子自身もファンの自分への対応に対して分かりやすく好悪の反応を示したりする)と、全く通り一遍ではない関係ともいえそうである。
はたしてりーちゃんは、こうした現状のただ中において、いまだアイドルといえる存在なのだろうか。アイドルという肩書き・名称・言葉が、過剰なまでのサーヴィス精神の固まりと同義語になりつつある現代において。おそらく、りーちゃんは本当の意味での完全なるアイドルとはいえないのであろう。だがしかし、完全なるアイドルなんていうものは、どこにもいないのである。本当は。もはやそれは偶像ではないだろうから。
菅谷梨沙子は、これまでに存在したあらゆるアイドルの形というものを、そのちょっとした髪色の変化やその内面の奥底に渦巻いているであろう隠された葛藤を通じて、大きく揺るがせているともいえる。あらかじめ決められた型にはまらないことで、何かを全体的に大きく揺さぶってみせているのである。もちろん、当の本人もまたアイドルであるがゆえに、その揺さぶりによって足許から大きく揺らぎ続けているのであるが。

アイドルであってアイドルではないような存在。とても中途半端な位置にある存在であるのだが、これはアイドルというものをひとつの決められた枠の中に押し込めようとするために生じてきてしまう矛盾でもある。そして、このアイドルというものが多様化し多層化してきている時代にあっては、ますますアイドルという存在をひとつの枠の中だけで捉えることは困難になってゆくに違いないのである。
現在の菅谷梨沙子のパフォーマンスには、本格的に歌える歌手という一面も見え始めている。アーティストと見紛うような歌唱のクオリティとルックスの存在感をもちながら、その実体はアイドル・グループの一員であるということに、妙な違和感が感じられることもあったりする。
だが、そんな菅谷梨沙子が、どんなに異質な方向へと向かおうとも、すんなりと暖かく迎え入れてしまえる空気感や底知れぬ懐の深さがBerryz工房というグループにはあるのだ。メンバーたちは、8歳の頃からりーちゃんの成長を誰よりも近くで見守り、ともにアイドル道を切磋琢磨して歩んできた盟友なのである。もしかすると、ここ最近の菅谷梨沙子の突拍子もない劇的な進化や変化を、一番身近な位置で楽しみ頼もしくも感じているのは、このメンバーたちであるのかも知れない。
ただし、ここ最近の菅谷梨沙子は、本来は可愛らしさの権化であるはずのアイドルでありながら、俄にはアイドルとは思えぬような本物っぽい貫禄を明らかに身につけつつあるのである。また、その努めてアイドルらしい可愛らしさを追求しようとしない姿勢からは、全くもって通常の意味でのアイドルらしさの対極にあるものしか感じ取れないのである。
幼少期の姿を振り返ってみれば一目瞭然のように、菅谷梨沙子は、何もしなくても格段に可愛い女の子である。元々の土台の出来が飛び抜けて普通以上なのだと言い換えてもよいだろう。そして、このところかなり型破りなファッションの趣味へと傾いているりーちゃんであるが、その素顔は、とても純真な今どき珍しいくらいの真っ直ぐさをもった18歳の女の子であったりするのである。
小学二年生の頃からハロプロに所属し、多くの年長のメンバーや先輩たちに囲まれてきたせいか、実に折り目正しく礼儀正しい部分をもっている。また、アイドルとしての仕事を通じて、業界の大人たちと関わることが多かったせいなのだろうが、とてもまだ10代とは思えぬような落ち着きが備わった一面ももっている。
とてもドライでシヴィアな部分もある大人の芸能の仕事の世界を、小学校低学年の頃から具に見てきたのだから、普通の10代よりも大人びている部分があっても当然なのであろう。ただ、そうしたハロプロのメンバーとして10年以上も活動している芸能界のヴェテランとしてのりーちゃんと実際の18歳のりーちゃんとの間に、いつからか埋めがたいほどに亀裂が広がり、精神的なギャップが生じてきてしまっていたとしても何ら不思議ではない。
それなりのキャリアをもつアイドルとしてひとり歩きしている仮象としての自分は、もはや自分の意志ではどうすることもできはしない。それでも自分の目に映ずるアイドルとしての自分は、本当の自分の方へと引き寄せずにはいられない。そうした芸能人・アイドルとしての諦めの部分とできる限り自分らしくいたい本能の狭間で、どうも突飛な髪色で自分というものを際だたせ自分の位置を再確認しようとする行動が増長されていたような気がしてならない。
そして、そんな行為や行動が、新しいカワイイの感覚を装備した新しい菅谷梨沙子を現出させることにもなる。だがしかし、そこにいる菅谷梨沙子は、自分の目には本当の自分らしく映じるものであったとしても、それがアイドルとしての像である以上は、どこかに新たな仮象としての部分が混入しているように見えたりもするのである。

新しくもあり古めかしくもあり、突出した個性と実力を兼ね備えてもいる菅谷梨沙子は、これまでにアイドルといわれてきたものの枠組みを越えてゆけるだけの大いなる可能性をもったアイドルであるようにも思われる。これまでの消費される商品としてのアイドルの型に絡めとられぬように、りーちゃんは進化し(変化し)続けているようにも見えるのである。逆に、菅谷梨沙子の存在やスタイルが、新たにアイドルというものの枠を大きく押し広げ、その先行者に追いついてゆけるくらいではないと、従来型のアイドルというものも、もはやこれまでだともいえるであろうか。
新しい時代のアイドル像の起源のひとつとなり(もしくは、これまでのアイドル像を突き崩して)、新たな領域を切り拓いてゆく存在。それが、菅谷梨沙子なのであろうか。りーちゃんのカワイイが、さらに新しいカワイイをポップ文化の内部で前進させてゆく。様々なシチュエーションで振れ幅の非常に大きいカワイイを表出させている、りーちゃんの(脱アイドル的)アイドル像が、可愛い/カワイイを統合して、次の次元へとつながる新たな扉を開くのである。
これまでの可愛いには収まりきらなかったようなオルタナティヴな可愛いが、これからのカワイイの範疇にはど真ん中で含まれることになる。これまでの一般的な可愛いは、カワイイの一形態に過ぎなくなる。そして、可愛いを狙わないカワイイが、普通の可愛いと同等にカワイイの一形態として認知されることになる。そこでは、あまりにも必死な可愛いは、最も低いレヴェルのカワイイに格付けされることもあるであろう。
技術や技量で作り出すよりもアイディアや発想の転換が重視される時代がやってくる。新しいカワイイは、旧来の凝り固まった感覚で眺めると全く可愛くないものであることも多いだろう。カワイイの追求とは、自分にとってのカワイイを追い求めることである。カワイイは、自分以外の誰かにとっても可愛いである必要は全くない。
りーちゃんの髪色の変化から見えてくる、新旧のアイドル像や可愛い/カワイイの在り方は、新しい時代のカワイイの到来(カワイイの革命)を考えるうえで実に示唆に富んだ事例だといえる。菅谷梨沙子は、21世紀のアイドル像に、ただの偶像や人形ではない人間らしい/人間臭い/人間的な(カワイイの)感覚を持ち込む。そして、それとともにそこに全く新たな偶像性の匂いも漂わせるのである。
これからも、今や古いメディアになりつつあるテレビの画面の中では、これまで通りの旧来型のアイドルが活躍する姿を見ることができるだろう。だが、そうした形とは全く異なる新しいアイドルが、古い限定された枠を越え出たフィールドに存在するということも、もはや当たり前のこととしてあってよいはずである。菅谷梨沙子は自らの身でもって、その場所をこじ開け、何か全く新しいものへと確実ににじりよりつつある。アイドル菅谷梨沙子のスタイルから、カワイイの未来が見えてくるようである。

菅谷梨沙子は、もしかすると類型的にはアウトロー型の人間であるのかも知れない。集団に属していながらも、そこから常にはみ出そうとする意志を感じさせる動きを時折あからさまに見せたりもする。そして、少しずつ菅谷梨沙子らしさの部分が垣間見られてきた現在でも、何かをまだ内面に秘めていそうな雰囲気を濃厚にもっていたりもするのである。
本当の本物の菅谷梨沙子が素の表情を見せるのは、これからのことなのではなかろうか。そうなった時に初めて、菅谷梨沙子がどれくらいアウトローで型破りな存在なのかが、はっきりと見えてくるはずである。逆に言えば、それまでは菅谷梨沙子という人間の本質部分を見極めることは、なかなかに難儀なこととなるであろうということだ。
そんなりーちゃんのことをこよなく愛するきゃりーぱみゅぱみゅは、その新しい時代のカワイイの感覚を表出させた存在そのものが目新しかったこともあって一躍話題の人物となり、第63回紅白歌合戦への出場を果たし、もはや青文字系などといった地平を軽く飛び越えたアイドルとも色物ともつかぬキッチュなファッション・アイコンという地位を確立している。また、菅谷梨沙子と同じハロプロ・キッズ出身でありBerryz工房のメンバーである嗣永桃子は、読者モデルというバックグラウンドをもつきゃりーぱみゅぱみゅとは、また別種の曖昧さをもったアイドルとも色物ともつかぬ自らのペルソナとしてのももちというキャラクター設定を最大限に活用して、テレビのヴァラエティ番組の世界へと活動の場を精力的に広げていっている。
そして、それ以外にもかつてはアイドルらしいアイドルの牙城であった界隈の周縁から、様々なカワイイの感覚を装備したアウトローや型破りな者たちが、次々と飛び出しつつある。ぱすぽ☆、でんぱ組.inc、Dorothy Little Happyなど、オーヴァーグラウンドとアンダーグラウンドのぎりぎりの境界線上で地道なアイドル活動を続けるグループに、そうした独自のカワイイを前面に押し出している(オルタナ・アイドル系の)メンバーをちらほらと目にすることができる。このあたりの動向にも、これまで以上に注視してゆきたいところである。
旧型のアイドルと新型のアイドル、そして可愛いとカワイイが、それぞれ入り組み入れ子状になって密かに激突するとき、そこから何が生まれ出てくることになるのであろうか。新しい時代の創出に繋がってゆきそうな地殻変動は、すでにあちらこちらで静かに、だが確実に生起しているのである。

12年12月19日、菅谷梨沙子の所属するBerryz工房はシングル“Want!”をリリースした。この“Want!”は、Berryz工房にとって04年3月のデビュー曲“あなたなしでは生きてゆけない”から数えて通算30枚めの節目を飾るシングルである。
シングルのジャケット写真を眺めてみると、菅谷梨沙子の髪色がちょっと前のような真っ赤な色に戻っているのを確認できる。前髪を揃えたストレート・ロングの赤い髪は、どこか韓国のアイドル・グループ、2NE1のメンバー、パク・ボム(Park Bom)のヘア・スタイルを思わせるものがある。これは、ボムが可愛らしいだけでない完全無欠の歌唱力を武器にしたディーヴァ・タイプのシンガーであることを考えると、もしかすると菅谷梨沙子の同じような路線へと移行しようとしていることを宣告するサインのように読めたりもする。とにかく、真っ赤な髪色で誇らしげな表情を決める菅谷梨沙子は、さらに強く逞しく進化してきているように見える。
目まぐるしく変化するりーちゃんの動向は、本当に予断を許さぬものになってきている。菅谷梨沙子のカワイイは、まだまだ現在進行形で進化し続けるはずである。そのことを証拠づけるかのように、シングルのリリースの直後には、シングルのジャケットの撮影時とは異なるアッシュ系の明るいブラウンに変化していたりする。
この“Want!”は、疾走感のあるメロディとフックのあるノリが入り混じった現代的なフィーリングをもつエレクトロニック・ダンス・ミュージックの楽曲となっている。こうしたフレッシュな曲調の楽曲を歌い踊ることによって、すでにデビューから9年が経過しているBerryz工房というグループ自体が、どこか全体的に少し若返ったように見えたりもする。この楽曲は、ある意味では、その歌詞の内容や言い回しや言葉遣いなどを含め、とても10代の女の子らしいまだ初々しさの残る恋愛の感情を表現した歌である。だが、実際には、Berryz工房はすでにヴェテランのアイドル・グループであり、七人のメンバーのうち五人が20歳以上になってしまっている。よって、この楽曲は、どちらかというと10代前半から中盤にかけての若いメンバーが中心となっている、現在のモーニング娘。あたりが歌いそうな恋の歌なのである。
ただし、現在18歳でグループの最年少メンバーの菅谷梨沙子にとっては、曲調も歌詞の内容も年相応な楽曲だといえるのではなかろうか。しかし、その菅谷梨沙子のソロ・パートで飛び出してくる、どっしりとした逞しい歌声を耳にすると、そうした思いは一瞬にして吹き飛んでしまう。Berryz工房の中でも一番初々しい恋の歌に年相応であるはずのメンバーが、若々しく可愛らしい歌声を聴かせてくれる年上のメンバーたちには全くお構いなく、ひと際異彩を放つ落ち着き払った歌声で歌唱しているのである。りーちゃんは、いつだって我が道をゆくのだ。
こうした、それぞれのメンバーが思い思いの方向を向いて、それぞれの個性を表現している自由さにこそ、Berryz工房らしさを見出すこともできる。それでも、最近のりーちゃんには、Berryz工房の内部でもひと際浮いてしまっているように感じられる瞬間が度々あることも確かなのである。こうした事態が続くようでは、これまでユルく絶妙にまとまってきたBerryz工房のグループとしてのよさの部分を、そのうちに乱してしまうことにもなるのではなかろうか。
プロデューサーを含めた制作の担当者たちは、その異質さをおもしろいと思い、その一風変わった(非調和の中の)調和を現出させる希有なグループの存在そのものを楽しんでいるのであろうか。そうした、このグループならではのおもしろさをできる限り活かしてゆくためには、少しぐらい和が乱れることさえも犠牲にしてゆかなくてはならないということなのか。もしくは、この個性のばらけ方こそがBerryz工房にとっては正解ということなのだろうか。それとも、その強烈ないびつさを均すことは不毛であると、すでに判断を下していて、そのことを承知してあるがままの姿を見せているのだろうか。それはそれで、どうしても管理が強化されオーヴァー・プロデュースになりがちなアイドル・グループの現状に対する、ひとつのオブジェクションになるのかも知れないが。
菅谷梨沙子というひとりの18歳の少女についての考察を重ねていると、複雑に入り組んだ構造をもつ集団において異質な存在をどのように取り扱うべきなのかということを、いろいろと考えさせられる場面に直面することになる。ここまでの10年間の坂道を一気に駆け上がってきたりーちゃんには、急いで変に大人になったりせずに、このまま己のカワイイの道をどこまでも好き勝手に若々しい感覚で突っ走っていってもらいたい。Berryz工房の菅谷梨沙子としてできることは、まだまだたくさんあるはずであるから。(12年)(13年改)

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉補稿(四)

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉

補稿 Unknown Sisters

(四)

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ロック音楽の世界において、女性は常に周縁に置かれる存在であった。ビートルズのような若い男性による人気バンドに悲鳴混じりの歓声を挙げ、熱狂的にどこまでも追いかけ回すのが、ロック・バンドに対する女性(ファン)の役割であったのだ。いつだって輪の中心にいるのは男性のバンド・メンバーであり、そのもり立て役・引き立て役といった立場しか女性には割り振られることがない。
しかし、時代が進むとともに女性の地位は(形式的に)向上してゆくようになる。そして、そこでは女性ヴォーカリストが参加したロック・バンドも登場してくる。この場合、女性のメンバーは常にバンドの中心に位置してはいる。だが、それでも基本的に男性ばかりの世界であるロック・バンドに紅一点として華を添える存在として見られることがなくなることは決してなかったように思われる。バンドのメンバーが男性ばかりであれば、メンバーの性別に関しては特に何の注意も払われることはない。ただ、そこに女性のメンバーがひとり混ざり込むだけで、常に特別な扱いを受ける存在となるのである。そしてまた、そのバンド・メンバーが女性であるというだけで、舞台の中央の最前に立つことによって時に男性の好奇の目にさらされることも少なくはない。
ロック・バンドに参加する女性ヴォーカリストのイメージは、かねてよりジプシー/ロマの歌い手やダンサーに結びつけられることが多い。ジプシー/ロマとは、古くからヨーロッパの各地を定住することなく転々と移動して生活する集団/民族のことである。その町から町へと移動生活する流れ者の大家族的な一団は、大道芸や歌やダンスなどの演芸や芸能を生業とする旅芸人の一座といった一面ももっている。しかし、近代以降のヨーロッパの社会は、定住することなく一般の市民とは異なる信仰をもち続けるジプシー/ロマの集団/民族を、その相容れなさを根拠に積極的に社会の外側へと排除し、汚くみすぼらしい人々として卑下するようにもなっていった。ジプシー/ロマは、ヨーロッパの社会の周縁において、ある種の不可触民として移動生活を続けてきているのである。
社会の内部と外部の民族は、ほとんど交わることがない。社会の周縁を浮浪する民は、その内部からは不可視なのである。しかし、触れられないものであるからこそ、芸術の表現は、そこにあるオルタナティヴなものに惹きつけられてきた。ジプシー/ロマは、しばしば絵画や文学や演劇のテーマとして描かれ、その芸能や演芸の技はヨーロッパの音楽や舞踏に少なからず影響を与えてきたともいわれる。そうした社会的・文化的な歴史背景があるゆえに、ロック・バンドの女性ヴォーカリストは、歌やダンスの芸能に長けたジプシー/ロマのシンガーやダンサーとイメージ的に結びつけられることになっていったのであろう。
だが、ロック・バンドの女性ヴォーカリストたちも、そうしたイメージを逆手にとるかのようにジプシー/ロマとして歌う様式を次第に身につけてゆくようになる。それは、一面においては、女性ヴォーカリストたちによる自己言及的な方法での不当な偏見に対する問題提起としての側面ももっていたといえる。ただし、それは同時にジプシー/ロマ的なイメージの定着や強化へとより結びつきやすい諸刃の剣でもあったのだが。女性ヴォーカリストたちは、歌の世界の中で宿無しの踊り子や売笑婦といったキャラクターに扮し、社会の周縁や底辺にあって卑下される存在でありながらも強かに生き抜き続ける女性の姿を、自らの姿に重ね合わせるように歌ったのである。
また、女性ヴォーカリストたちは、根強く残り続ける不当な偏見に対する闘いの中で、自らのセクシャリティを積極的に有効な武器に変える姿勢も編み出していった。そして、そうした巧みな表現の中で女性性を華やかな舞台の上で光り輝かせ(もしくは、それをより攻撃的に先鋭化させて)、周縁に置かれ卑下されるものとしての女性のイメージを立ち位置ごと逆転させることにも成功していったのである。
しかし、女性ヴォーカリストたちは、なぜそこで自らの身を削るような闘いを挑み、自らのセクシャリティや押しつけ・押し着せられる性的差異の部分までをも武器にしなくてはならなかったのであろうか。その根幹部分を見落としてはならない。それは、女性が、男性中心の社会において、男性と平等の立場にはないからにほかならない。ロック・バンドの女性ヴォーカリストも、自らが主役となる華やかな舞台をひとたび降りれば、そんな社会の中に生きるひとりの女性に戻ることになる。その偏見や不平等に対する闘いに、決して終わりはないのだ。そして、全ては、その社会構造の延長線上に位置づけられることになるのである。

1976年の9月20日と21日の二日間に渡ってロンドンのThe 100 Clubにおいて開催された、まだ産声を挙げたばかりであったパンク・ロック・ムーヴメントの祭典、The 100 Club Punk Specialには、セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド、バズコックス、スージー・スー率いるスージー&ザ・バンシーズなど全八組のバンドが出演した。そして、このうちの初日に登場したスージー&ザ・バンシーズと二日目に出演したスティンキー・トイズ(Stinky Toy)の二組がフロントに女性ヴォーカリストを擁するバンドであった。スティンキー・トイズは、パリで結成されたフレンチ・パンク・バンドの草分けであり、ここでヴォーカルを担当していたエリー・メディロス(Elli Medeiros)は、後にソロ歌手や女優としても活躍してゆくことになる。
この世界初のパンク・ロック・フェスティヴァルにおいて、八組中の二組が女性がリード・ヴォーカルを務めるバンドであったことは、荒々しい男性的な側面ばかりが強調されがちなパンク・ロックにあって、そのムーヴメントが本来もっていたオープン・マインドネスな姿勢を非常によく伝えてくれる驚くべき事実であるといえよう。この女性進出の割合の大きさには、非常に示唆的なものがある。ロック音楽の流れを大きく揺るがしたパンク・ロックの出現とは、ひとつの大きな時代の変わり目の到来を告げる事件であったのかも知れない。

76年、ロンドン・パンクが勃興した時期にステージに上がったスージー・スーは、ロック音楽の新しい時代の扉をこじ開けた女性ヴォーカリストであったとともに、60年代後半から70年代にかけて登場したセクシャリティの問題に意識的な、不当な偏見や差別と闘うロック系の女性ヴォーカリストの流れを汲む存在でもあった。だがしかし、その闘い方は、それまでのものをそのまま受け継ぎ繰り返したものではなかった。セクシャリティの問題に関しては、60年代末より変革の気運が波のように押し寄せて、俄に動き出し始めた時代の中で、より複雑に社会の根深いところから派生している問題であることが、すでに浮き彫りになってきていたのである。スージー・スーの世代は、さらなる強かさを身につけ、真正面からだけでなく裏へ回り込むような戦術で渡り合うことも必要とされてきた第一世代であったのだ。
かつて英国では、テレビの音楽番組で女性歌手が両手でマイクを持つだけで、オーラス・セックスを揶揄するアクションであるという嫌疑がかけられ、見るからに扇情的であると多数の非難や苦情の声が放送局に届けられることがあったという。そうした、性的表現に保守的なキリスト教団体、人権擁護団体、児童福祉団体によって、女性の著名人やアーティストたちは、常に厳しく監視されているといってもよい。そこには、近代の西欧社会や西欧文化の源流にまで遡れる厳格なキリスト教的宗教観に由来する、あまりにも強いセックスに対するアレルギー反応が存在している。
もしかすると、そのアレルギーの反応は、当の女性の感覚よりも女性的なセクシャリティに対して敏感になってしまっているのかも知れない。それゆえに、いつしか過敏な敏感さに次々と輪がかけられて、それを見つめる社会の目が必要以上に過敏になっていってしまうという部分も少なからずあるのだろう。そして、そうした過敏さが、いつしか当たり前の感覚にすり替わってしまうのである。複雑な社会の構造の内部で、より深く入り組んだ女性(女性というもの)への偏見が生じてゆくことになるのも、そのためである。長い年月の間に硬直しきってしまっていた意識との闘いには、ある種の荒療治が火急に必要とされる部分もあったのかも知れない。おそらく、そうした変革の時代の流れの中で必要とされていたものが、パンク・ロックであり、過激なスージー・スーのスタイルであったのかも知れない。

セックス・ピストルズの親衛隊時代に撮られたスージー・スーの有名な写真がある。スティーヴ・セヴェリンなどともにスナップ・ショットに写っているスージーは、ピストルズのライヴの会場である劇場の椅子に深く腰掛けた状態で網タイツに包まれた片脚を高く掲げている。まるでどこかの国の女王か往年の大女優を思わせる、型破りな傲慢さが漂う優雅なポーズでファインダーに収まっているのである。そして、その表情は、実に気品に満ちてもいる。しかし、その気品や優雅さが全くのポーズであることは、一目瞭然である。なぜならば、スージーは上半身に乳房を覆うカップのない黒の下着と左腕の黒の長手袋だけしか身につけていないのだから。黒髪にばっちりとどぎついアイ・メイクを施し、黒の皮やラテックス類をまとい、ミニ・スカートか短いパンツに網タイツと肌の露出度も相当に高く、しかも両乳房は完全に丸出しな状態なのである。
そこはコンサート会場という公の場であるのだが、そうしたことをスージーが気にかけている素振りは全く見当たらない。その不遜な態度には、ただ自分の個性に見合う服を着ているだけだと言わんばかりの自信すら窺える。これでは、頭の固い保守的な人々が発する文句や非難に耳を傾ける傾けないとかいう以前に、これほどまでに奇抜なメイクに過激なファッションの女性には、ただただ怖れをなしてしまって普通の人はそう簡単には近寄れないのではなかろうか。敬虔な人々であれば、両目を覆ったままその場で立ち尽くし、石のように動けなくなってしまうかも知れない。
初期のバンシーズのステージでも、スージーは黒のフィッシュ・ネットのボディスーツに黒のホットパンツと黒の皮のロング・ブーツといった服装でパフォーマンスを行うことがあった。特にそれ以外には上半身に下着などは着用していないので、こうした際にもフィッシュ・ネットの細かい網目を透かして、常に両乳房は露になっている状態にあった。また、当時のスージーのステージ衣装として広く知られていたのが、SEXのヴィヴィアン・ウェストウッドがデザインした胸部に女性の乳房の写真が等身大にプリントされているTシャツである。このTシャツは、着ているはずなのに丸出しになっている状態に見えてしまうという点で、完全に露になっているよりも相対する者をドキッとさせる衝撃を与えた。
こうしたスージーが身につけていた黒のレザーやラテックス、ラバーといった素材を使用したボンデージ・スーツなどの露出度の高いアウトフィットは、彼女が10代の頃に足繁く通っていたアンダーグラウンドの同性愛者専門のダンス・クラブにおいて頻繁に目にしていたアイテムであったのではなかろうか。そうしたゲイ・クラブという秘められた場所が、昼間に表の世界では決して見ることのできない、およそ考えつく限りのストレンジでファンタジックなセックス・ウェアの宝庫であったであろうことは容易に想像がつく。
しかしながら、そんな地下深くの別世界において、現実世界で抑圧された欲望を具現化させるためのアイテムとしての機能を果たしていた極めてオルタナティヴなファッションを、新しい時代のパンクなスタイルに変換して陽のあたるところに持ち出し、パンクからポスト・パンクへと連なる時代の動きに再接続させたのは、やはりスージーの卓抜したセンスによるものというしかないだろう。おそらく、そのスタイルは、地下の世界にあまり通じていない人々にとっては、見るからにショッキングなものであったはずである。
だが、それは、ただ少しだけ世界が異なっているというだけで、ひとつのファッションやスタイルとして完成されているものを、偏見や先入観によって日陰に追いやってしまうことが正当であるのかという問いかけにもなっていたのである。スージー・スーは、ファッションで問いかけ、スタイルで主張していた。女性の乳房は、なぜ人目に触れてはいけないのか。男性は公衆の面前でシャツの前を開けても大抵は問題にはならないというのに。同性愛者は、ただ性的指向が違うというだけで鼻つまみ者にされ、なぜ地下に潜ってコソコソしなくてはならないのか。男女のカップルは老いも若きも普通に昼間の街中を手を繋いで歩けるというのに。
スージー・スーは、自分が本当に着たいものをただ着たいように着た。ただし、変革や価値観の転換の風を時代の動きの中で吹かせることに成功したヒッピー文化やグラム・ロックを通過してきた76年という時代においても、その本能的で直感的なファッション・センスは、まだまだ少しばかり常軌を逸脱し奇抜すぎるものであったようだ。そして、それはその驚くべき先鋭性によって、新しい時代の中でも突出し、いつまでも新しさのあるファッションとして注目を集め、常に次の新しいスタイルを生み出す種や糧となっていった。
また、そこには、ただただ直感と本能にまかせて着たいものを着ただけであるがゆえの、何かを強烈に訴えかける訴求力も備わっていたのである。正確には、強烈に訴えかけてくる何かオーラのようなものが、スージー・スーの特異なスタイルや個性から発散されていたといったところであろうか。しかしながら、それは彼女の感覚と相容れないものに対して、いきなり噛みついてゆくような訴求の仕方では決してなかった。
世代間のギャップから生ずる新しい考え方と旧来の考え方との闘争に一気に持ち込んでしまっては、それまでに飽きるほど繰り返されてきた小競り合いをまた繰り返すだけになる。スージー・スーは、その奇抜なファッションやスタイルで、まずは新しい時代や新しい世代の新しいオシャレの感覚というものを、明確に少々ショッキングなほどにわかりやすく提示してみせた。そう、そこでなされていたのは、セックス・ピストルズやクラッシュの(男性的な)パンク・ロックが非常にわかりやすく行っていた自らの主張を強く(文字通りに)声高に叫ぶスタイルとは、全く違った様式で深く鋭く斬り込んでゆく方法でもあったのだ。
ファッションやスタイルといった自らの身体を包むものを通じて、そこで無言のうちに自らの主張を代弁させ、激しく言葉で言い争うのではなく、純粋に視覚的に新しさの所在を見せつける。そのやり取りの中では、そこに見えているものは、スージー・スー的なスタイルとして記号化されて流通してゆくことになる。決定的に新しい時代のアイコンは、それに相対峙するものに対して真っ向から突きつけられたまま、そのスタイルを受け取り/受け入れた新しい世代の中で静かに増殖し、無数の記号がひしめく新たな領域を拡大させてゆくのである。
さらに、そのスタイルの過度の過激さは、それを見る者を怖れ戦かさせるだけでなく、世間一般に浸透し信じ込まれている括弧付きの普通の枠を、大きく逸脱してみせることで、そこに注がれる視線から思考から動作までの全てを一旦停止させる役割を果たしていたとも考えられる。その停止とは、ごく普通の物事の流れを一旦せき止めることで、そこにおいて何が正で何が否であるかを、今一度根底から問い直す動きを作動させる瞬間・契機にもなったのではなかろうか。そうしたファッションやスタイルを通じて表された主張や問い直しの姿勢が、パンク・ロック以降のポスト・パンク~ニュー・ウェイヴという新しい時代(そして、その後に続く世代たちの時代へ)の扉を大きく開け放っていったのである。

スージー・スーは、ファッションをファッションとしてだけでなく、そのもののうちに何らかの超越性といったものを身につける着こなしを体得していたのかも知れない。それはハイパーにセクシャルなファッションでありながらも、現働的な意味でのセクシャルなものや対象へと堕することは全くないあたりからも感じ取れる。常に予定調和な流れへと通ずる道を避けて突っ切ってゆくのである。ただし、それは意図的なイメージの操作によるものではない。そこが最も肝要なところだ。
ファッションやスタイルは、ひとつのイメージそのものになる。そして、そこに余分なものが入り込む余地はない。イメージの全体像がひとつの記号でもあり、その/それらの記号は全ての個別の意味にも通じており、全ての個別の意味を超越してしまってもいる。スージー・スーは、実体でありイメージであり記号であり意味・反意味でもある。その女性としての肉体は、女性性を飛び越え、女性性に深く沈潜し、文字通りに性そのものとして浮かび上がり、そこでその表層へと戻ってきてさらけ出されているのである。
特異で突き抜けていて超越している存在。そこでは、もはや性別というような差異は、ほとんど無意味なものとなる。ファッションとスタイルによって、セクシャリティの位置づけやとらえ方が、あらためて問いに付される。実は性差には意味はないのではないか。性差に意味があるとすれば、それはいかなるものであるのだろう。それが必要とされる場面以外で、性とは分け隔てることができるものなのであろうか。いかなる場面においても、女性となることや女性とならないこと、男性となることや男性とならないことは、全体としても個別においても決して冒涜されるべきものではない。そして、その原則はファッションやスタイルにおいても同じことがいえるのである。
表層の表れから読み取りが可能な意味といったようなものが、その枠組みらしきものを作り出しているのでも、全体においても個別においても性別による差異を作り出しているのではない。誤った方向を向いた意味は、実際にはその表層には全く表れ出ていないところからやって来ていたりする。女性の肉体を被服によって隠すことなく目の前にいる者に対して見える形で剥き出しにしてみせる、おっぱいプリントのTシャツやトップレスのボンデージ・ファッションは、そうした偏見や誤解が存在することを強烈に主張し提示・明示(再提示・再明示)してみせるものでもあったのだろう。

すでに、あのThe 100 Club Punk Specialが開催されてから35年以上の年月が経っている。また、スージー&ザ・バンシーズが活躍したニュー・ウェイヴの全盛期からも30年近くが経過している。当時のスージー・スーのファッションやスタイルを、21世紀の現在の視点で眺めてみると、そこには一種のノスタルジーが感じられたりする部分もあるのが正直なところだ。それが、現在のロック系やストリート系のファッションやスタイルにおいても大いに参照され、ひとつのルーツとして相変わらず孫引きや曾孫引きされているものであったとしても。
だが、はたして、全く新しいファッションやスタイルというものが、今後の世界に生れ出てくるようなことが考えられるであろうか。これまでのように着るのではなく直接肌に噴射して張り付けるような、何か根本的な部分でのファッションというものの概念の変革がない限り、それはないのではなかろうか。着るや穿くという行為を続けている限りは、その行為が積み重ねてきた数千年から数万年単位の歴史を、その行為とともに背負い込まなくてはならない。ファッションは着るや穿くの歴史と密接に結びついており、どんなに現在進行形の最先端のスタイルであっても、そこにはどこかノスタルジックな匂いを嗅ぎ取れたりもするのである。
現在の原宿の感覚でいうカワイイにおいても、その一部分からは猛烈に80年代リヴァイヴァル的な郷愁が香っていることを確認できるはずである。その香りを分析すれば、そこからは往年のパンク・ロックやニュー・ウェイヴ、そしてマドンナやスージー・スーの成分を検出することができるだろう。
ファッションやスタイルに染み込んだノスタルジーとは、現実には、どこかで完全に想いは裏返され、匂いや香りを抜かれた、抜け殻のようなものとなっている。ただでさえ孫引きや曾孫引きなのだから、オリジナルの匂いが薄められてゆく過程・工程はそこに山ほどある。ファッションやスタイルのルーツ/根っこといったものは、それを生み出した大地から、とっくの昔に引き抜かれてしまっているのが普通なのであろう。
おそらくは、青文字系の読者モデルたちも、そうした元々の根っこの部分がもっていた匂いや香りに対して、それほど意識的ではないはずである。裏返されてしまった郷愁の香りは、そう簡単に嗅ぎ取れる・嗅ぎ出せるものではない。そこでスタイルを形成しているのは、ほぼその新しい時代の新しい世代によって共有されているカワイイの感覚のみなのだから。
そうしたカワイイの感覚が共有され、新しい時代における新しい世代のカワイイが増殖してゆくにつれて、ノスタルジックな懐かしい匂いは完全に抜き去られ、郷愁を誘う契機は完全に裏返しにされままとなる。そして、過去の時代から純粋に素材として抜かれてきた(裏返され匂い抜きをされた)ものが、それぞれ記号化されて配置・配列され文脈や系譜を飛び越えて組み合わされ混ぜ合わされることになる。このような(なかば)無意識のうちの既存のコードをシャッフルさせる混合から、21世紀的なファッションやスタイルの歴史は再生/再生産されてゆくことになるのである。

ユダヤ系ドイツ人の思想家、ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)は、遺作となった『歴史の概念について』(40年)において、「ぼくらが希求する女たちには、かの女たちがもはや知ることのなかった姉たちが、いるのではないか?」と書いている。確かに、姉たちは、いつもそこにいる。たとえ、妹たちにとっては全く見知らぬ存在であったとしても。
現在の青文字系のファッションやスタイルを担っている読者モデルたちにも、やはり沢山の姉たちがいるのだ。ファッションやスタイルとは、姉から妹へと受け継がれてゆくもの(たとえ互いに見ず知らずであっても)なのである。ある系統や系譜の流れにおいては、長女にあたる一番上の姉がスージー・スーであったりする。また、別のある流れにおいては、すぐ上の姉がスージー・スーであることもあるのだろう。
かつてスーザン・ボーリオンは、どこか倦怠と白けたムードが漂っていた70年代を多感なティーンエイジャーとして過ごした世代ならではの感覚や、大都市の郊外の街で孤独感を身近に感じながら育った境遇、そしてラジオやテレビや映画や街角で出会った音楽/文化から受けた影響などの、様々な要素・ファクターを結合して、斬新なスタイルを編み出していった。
しかし、昨今の雑多な情報が溢れかえる時代においては、かつてのスーザンのように生活圏の身近なところに存在するものから何か決定的なものを選択し、そこから決定的な影響を受け、有用なものだけを吸収してゆくことは、かえって難しくなってきてしまっているのかも知れない。ただ、そこでは、あらゆるものの記号化した表層のみを(ひとまずは)取り込んでゆくしかなくなってしまっているということにおいて、それまでには決して出会うことのなかったような要素と要素が接続されて混ざり合い、より詳細に入り組んだ切り貼りや時代や文化の文脈を完全に超越した飛躍的なパッチワークが可能になってくることもあり得るのではなかろうか。
だが、それでは、やはりあまりにも表層的すぎて、極めて底が浅い。少し強い風が吹けば、どこかに吹き飛ばされてしまいそうである。ある程度のルーツ/根っこへの遡りは、必要なことなのだ。何らかの匂いがついてしまうことも厭わずに、雑多な情報の中から何を選択するか。どこへの遡りを選択するか。いかに文脈と系譜の流れを違わずに正しい根を探し当てられるか。そこでは、こうしたことが重要となってくる。表層にある枝葉を広げてゆくには、それだけの根の深さや広がりも必要となるのである。
切り貼りやパッチワークは、重層的/多層的なものでなくてはならない。さらにいえば、その遡りや根の張り方などに大きな間違いがあったとしても、それはそれで何らかの意味をもつ結果を導き出せるはずなのである。大事なのは、匂いの抜き去られた表層をなぞるのみでは、ファッションらしいファッションにもスタイルらしいスタイルにもなり得ないということに突き当たってみるということなのである。そこから、裏返されたものを再びひっくり返し直したり、消えかかりそうになった匂いを必死に嗅ぎ直したりする本当の作業が始まる。
意識的なものであろうと無意識的なものであろうと、ルーツ/根っこの匂いにまみれていなくては、それは姉にも妹にもなれはしない。現代のスージー・スーの妹たちは、この偉大なる(見知らぬ)姉から受け継いだファッションやスタイルを、新しい時代のカワイイに仕立て直して、そのまた妹たちの世代に引き渡してゆくことになる。今もこれからも、たくさんの姉たちが、かわいい妹が生み出す新しい世代のファッションやスタイルを、ルーツや根っことなって微かな匂いや香りを漂わせつつ見守り続けてゆくのである。(12年)(13年改)

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉補稿
(一)(二)(三)(四)



新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉補稿(三)

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉

補稿 Unknown Sisters

(三)

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2012年11月20日(12:50)のAMOのツイートから
「NANAが公開したころの中島美嘉さんを見るときの感覚はもはや恋だったなあ(⊃OvO)」
https://twitter.com/AMO_ANGEL/status/270735801548144640

現在、スージー・スー的なスタイルに同化したい欲望を(間接的/無意識的にでも)最も形骸化とは遠い形式で継承していることを明確に垣間見させてくれるのは、一部の青文字系のモードにおける動きであったりする。コンサバの対極に位置しながら、それまでのカジュアルなギャル系とも一線を画すオルタナティヴなガーリー・ファッションの一大系統として90年代を通じてじわじわと浮上してきた青文字系は、原宿などの街のストリートや街角から生み出される生きたポップ文化に牽引される形で、常に新しい時代の新しい感覚のカワイイを前進させ続けている。
その青文字系の流れの中には、70年代末から原宿という若者のファッションの街に土着的に根付いている伝統的なパンク・ロック以降のロック系のスタイルを、どこか脱力気味に受け継いでいる流派が存在している。カジュアルな機能性が追求されたストリート・ファッションとしてのパンク・ルックの流れを汲み、ゴシックやロリータなどのオルタナ系のカワイイを通過し、さらには米西海岸のスケート・パンクやシアトル発祥のグランジ、そしてエモコア~スカコアなどの要素までをも取り込んだ、実に幅広いスタイルを、そこには見てとることができる。様々な要素が雑多に盛り込まれ、そのスタイルそのものは切り貼り状のものとして成り立っている。これまでの約40年間のロック系のファッション文化の蓄積を前提としつつも、脅威的なリクリエーションとミクスチャーのセンスの下で、全く新しいカワイイ感覚が花開いているのである。
そのようなロック寄りの青文字系のスタイルに、ロンドン・パンクやゴシック・ロックの匂いを嗅ぎ取り、それらからの影響を見出すことは容易いだろう。ただし、そこに表れているものは、ダイレクトな文化的な面での影響というよりも、あらゆる要素やパーツを記号化して読み込んだ結果(意図的/非意図的な誤読も含めて)である部分が実は大きかったりする。全ての場面において表層的な流用がなされているわけではないだろうが、それらの実践的・実戦的な使用の面では、軽々と文脈を乗り越えたコピー&ペーストや混ぜ合わせがなされているパターンが多いはずなのだ。だが、それだからこそ、そうしたスタイルが、ガールズ・パンク・ファッションのオリジネーターであり、その後のゴシック系へも多大なる影響を及ぼした、黒尽くめのスージー・スー的なスタイルを参照し、そこから継承している要素やパーツは、決して少なくはないともいえるのである。

原宿系のモードや幅広いカテゴリーのストリート・ファッションを紹介し、その誌面から新しいトレンドを生み出し続けているのが、青文字系ファッション誌の代表格「Kera」や「Zipper」である。こうした雑誌に登場するのが、読者モデルとして活躍する女の子たちである。彼女たちは、雑誌の読者の代表であり、読者である同世代の女の子たちの間では、オシャレの手本となる師匠的な存在となっている。そして、そこで多くの読者たちから一目置かれるようになった読者モデルは、さらにカリスマ的な人気を獲得してゆくようになるのだ。
そんな読者モデルたちの中でも非常に多くの若い女の子からの支持を獲得しているのが、AMOちゃんである。AMOは、脱力や困り顔といった青文字系の登場以前にはファッション・モデルのスタイルや姿勢として雑誌の誌面などでは決して見ることのできなかったような表情やポージングを、時代の空気や原宿の街の空気とフュージングさせながら新しいオシャレの魅せ方やスタイルとして確立させた、青文字系モードの中心的な読者モデルのひとりである。
かつて青文字系雑誌の読者による人気投票において、最も好きな読者モデルに選ばれたこともあるAMOの影響力には、絶大なものがある。その影響は、AMOが雑誌の誌面でみせるファッションやオシャレのコツやヒントだけでなく、好きな音楽や好きな本、好きな映画、さらには物事の考え方や生き方の持論(ライフスタイル)などにまで及ぶ。ある意味では、一介の読者モデルから多くの支持を集めるカリスマ・モデルへと昇りつめたAMOは、10代から20代前半にかけての同世代の女の子たちの生きた手本であり生活全般におけるロール・モデルとなっているともいえよう。
読者モデルとは、その名の通り雑誌の読者の中から選ばれたモデルのことである。どんなにカリスマな読者モデルといえどもモデルとなる前は、ひとりの読者であったことに変わりはない。よって、読者にとって読者モデルとは、無条件に親近感の抱ける存在でもある。その根幹や素地の部分にある読者性は、どんなにカリスマな読者モデルといえども変わりはないのだから。
また、読者にとって非常に近い存在である読者モデルのファッションやスタイルには、読者モデルにしかもち得ぬ説得力が備わってもいる。基本的にモデルの着ている服とは誰かに着せられたものである。季節やコンセプトごとに様々な服を着こなしてみせることが、一般的なモデルの役割であったし、今もこれからもそうであるはずだ。しかし、それは読者の目線から視ると、誰かに押し着せられた服として映るものでもあるのである。
ただし、読者と同じ誌面を視る側から登場した読者モデルは、普段のストリートや街角のスタイルをそのまま雑誌の誌面に持ち込む、それまでのモデル像を逆転させる存在でもあったのだ。読者モデルのファッションやスタイルには、まるで誰かの着せ替え人形のような存在であった文字通りのモデルたちのそれとは異なる、表層や格好だけではない生身の部分からにじみ出る血の通った説得力が本質的に備わっていたのである。
そして、その読者モデルのファッションやスタイルとは、読者モデル以前の一読者として読者と同じ側の立場で形作られていったものでもあった。そこには、それまでに青文字系ファッション誌の読者として培い蓄積してきたオシャレやカワイイのノウハウや知恵やセンスが、ギュッと凝縮されているのである。
青文字系モードのファッションやスタイルとは、ただ身体の表層を格好よく被い着飾るだけのものではなく、それまでにそれを着る人が関わってきた服装の文化や街や人や音楽や本や映画などの全てから生み出されるものであることを、読者モデルは身をもって教えてくれる。青文字系のオシャレやカワイイとは、ひとつのライフスタイルの表れでもあるのだ。読者は、その読者モデルの姿やスタイルに自分自身の憧れを投影することによって、そこになりたい自分の姿をより容易く見出すことができる。読者モデルとは、現代における最も現代的なスタイルのアイドルや偶像のひとつの形であるのかも知れない。

青文字系の読者モデルの最も特徴的な点として、その脱力したポージングは欠かすことができないものであろう。これは「Kera」や「Zipper」といった雑誌の誌面に登場していたモデルたちが、いつもいつも特に笑うでも楽しそうな表情を作るでもなく妙に困ったような顔で、特に可愛いらしいポーズを作ることもなく妙に手持ちぶたさでやる気なさげな感じで、力が抜けたようにダラッと写真に写っていたことから、これが青文字系の読者モデルの特徴的なポージングとして話題となり後に広く認知されてゆくところとなった。
そんな中でも脱力と困り顔の二大特徴を最もスタイリッシュにキメていたのが、独特のほんわかクールな雰囲気をもつAMOであった。そして、いつしか無理に笑顔を作らない脱力ポージングはAMOの十八番としても知られてゆくことになる。彼女たちは、被写体としてカメラに媚びるような仕草を特段みせることはない。いわゆるモデル・スマイルとも型通りの服を魅力的に魅せるポージングとも全く無縁なのである。
彼女たち読者モデルは、一般的なファッション・モデルのように誰かにその服を着せられてるわけではない(基本的に)。また、その服を着て雑誌の誌面に登場することが、その着せられている服のブランドの広告宣伝活動に直結しているわけでもない(基本的に)。読者モデルとは、読者でもありモデルでもある存在である。つまり、読者兼モデルなのだ。プロフェッショナルなモデルではなく、半ばアマチュアであるところが、彼女たちの最大の強みだ。ただ自分が着たい服を着て、自分のオシャレをしている姿を、撮影して雑誌の誌面に載せたいという申し出があるので、それを受ける形で、ほんのお手伝い感覚(+おしゃれ自慢感覚)でカメラの前に立っているだけなのである。
基本的には、誰も(一般的な意味でいうプロフェッショナルな)モデルではないのである。原宿のような街に休日ごとに集まってくる女の子たちの服装が、どんどんと目を見張るほどに独創的でおもしろいものになっていった動向が、ストリートでスナップされる読者モデルと呼ばれる女の子たちの存在を生んだといってもよい。それとともに10代の女の子たちの安くてカワイイものを見つけ出し、それをオシャレに身にまとうセンスが、飛躍的にアップしていった流れも見逃せない。万年不況でデフレが進行し続ける社会状況・経済状況の中で、10代の女の子たちはその過酷な環境に適合したカワイイやオシャレを作り出す方法を原宿などの街の街角で実践的に見出していったのである。こうしたDIY精神をもつオシャレな女の子たちの中から青文字系の読者モデルは誕生してきた。まさに、この時代の10代の女の子たちのハードコアなカワイイ探究の産物として。
そんな新しい時代と新しい世代を象徴する存在である読者モデルは、これまでに多くのプロのモデルたちに向けられてきたカメラという装置によって写真を撮られるという事象に対しても、決して変に構えたりはしない。そうする必要は、どこにもないのだから。よって、無理に作り笑いすることも、変に可愛らしくポーズをとることもない。そこには、何にも媚びることのない、どこまでも自然体なカワイイやオシャレの感覚だけがある。そこが、読者モデルが、多くの同世代の女の子たちに熱烈な支持を受けているひとつの要因でもあるのだろう。
誌面に見ることのできる読者モデルの姿は、雑誌を読む読者のいる位置の延長線上に常に地続きに見えているものなのである。脱力や困り顔とは、彼女たちが編み出した読者としての立場の防御の姿勢であり、彼女たちに向けられる読者の輪の外部からの視線に対する応答のポーズなのだといえよう。
このように、青文字系の読者モデルたちは、いつでも全く力みのない自然体の脱力スタイルで、彼女たちがこれまでになかったような新たな境地に立っていることを自ずと位置づけてみせる。ただ、際だった特徴のない特徴的なポーズとして脱力してはいるが、それは彼女たちが別に何も考えていないことを示している訳ではない。
独特のアレンジが施されたフワフワのガーリーなファッションをまとったAMOが、そのふんわりとした見かけとは裏腹に、テレビ出演時などに意外なほどハキハキと自分の思ってることや感じていることを的確かつ簡潔に語る姿を見かけると、少々驚かされたりもする。青文字系の女の子たちの主な特質として、それまでのギャルやコギャルと総称されていた女の子たちに見られたようなまったりとしたダラダラが、ファッションやスタイルに関しては微塵もなかったりするのである。
彼女たちの中には、「これを着たい」「これがしたい」「こうなりたい」という、しっかりと自分の目標や目的を見据えた芯がある。何か周囲の動きに流されて、惰性でそこに至っているのでは決してない。そこには、自らのセンスで見つけ出した趣味の色があり、個別の指向や主張が存在している。彼女たちは、その青文字系のファッションやスタイルに、絶対に譲れないものや確固たる信念をもっている。それらは、数多くの選択肢の中から選び抜かれた、パンクでありゴシックでありロリータなのである。
フワフワと脱力しているようで、彼女たちの中で筋や芯はしっかりと通っており、そこに固執しようとする意志も途轍もなく固い。その実に高いレヴェルに設定された地平には、服飾文化のひとつの成熟を見ることもできそうである。青文字系モードは、あらゆる過去のスタイルからカワイイ要素を抜き出してきて、現在進行形で世界に通用するインターナショナルなHARAJUKU的ハイブリッド・ファッションを常に生み出し続けている。

2012年8月1日、AMOは「Zipper」のモデルとして活躍する読者モデル仲間のAYAMOとともに結成したユニット、AMOYAMOのミニ・アルバム“A☆M☆O☆Y★A★M★O”を発表し、予てよりの念願であった音楽活動を開始している。この“A☆M☆O☆Y★A★M★O”は、インディーズからのデビュー盤でありながらthe brilliant greenの川瀬智子がTommy名義でプロデュースを手がけたことでも話題を集めた。AMOYAMOの音楽性は、ゴシックやパンクなどの要素を融合させた実にキッチュなロリータ・ポップ・サウンドとなっており、その楽曲の世界においてはAMOとAYAMOの独特なファッション感覚やハードコアなカワイイを炸裂させたスタイルが追求されている。
ここ最近はTommy february6やTommy heavenly6などの別名義を使い分けたソロ活動を積極的に行ってる川瀬智子は、AMOYAMOの独創的なファッションやオシャレのセンスに親近感を抱き、そこに垣間見られるものから音楽的方向性にも近いものを感じて、ふたりの音楽活動のプロデューサーを自ら名乗り出たともいう。様々なスタイルからカワイイやオシャレの要素を引き出してきて融合させるジャパニーズ・ハイブリッド・ファッションの流れが、ひと回り以上も年齢差のある両者を世代を越えて繋いだのである。カワイイの感覚は、そこに共感を生むものなのである。身体の表面に表されたスタイルやファッションを見て、その背後や背景にあるものを嗅ぎ取り/読み取り、それだけで深く通じ合える共通の感覚が芽生えてくる。

川瀬智子が所属するthe brilliant greenは、97年にデビューした京都出身の三人組音楽ユニットである(現在のメンバーは、二人)。ソフトで落ち着いた耳に馴染みやすいメロディを、メンバーの音楽的ルーツであろうUKロック~ニュー・ウェイヴからの影響という趣味性を大胆に導入したサウンドにのせたthe brilliant greenの楽曲は、ロックでも歌謡曲でもない微妙な線を商業主義的に定型化させていったJ-POPが主流の当時の時代の音と絶妙な距離感を保ちながらも、それまでにはあまりなかったようなタイプの音楽スタイルとして受け入れられてゆくことになる。そして、98年に発表したシングル“There will be love there”のヒットとともにブレイクし、絶大な人気を獲得するのである。
the brilliant greenは、80年代にはネクラな音楽の代表であったUKのニュー・ウェイヴ系のネオ・サイケやダーク・サイケ、そしてネオ・アコスティックなどから強く影響を受けたサウンドをモロに展開しながら、極めて一般的な人気と大きな成功を手にしたのである。また、80年代のネオ・サイケやネオ・アコスティックのサウンドは、ロック音楽の新たな境地の開拓が目指されていたニューウェイヴ期において、大真面目に60年代に回帰しようとすることを志す後ろ向きの前向きという思いきり逆説的な方向性をもつものでもあった。そのような音の血脈を色濃く受け継いでいるthe brilliant greenが、90年代後半の日本において次々とヒット曲を飛ばす状況というのは、元から捩じれていたものが十数年という年月を経過してさらにもうひと捻りが加わって、真っ当にウケる音楽となってしまっているかのような不思議な驚きをもたらしもした。そして、すでに80年代という時代からは遠く離れた地点にいることを変に実感させてくれるものでもあったのである。
そうしたthe brilliant greenの人気が、常にフロントに立つ川瀬のヴァーカルやルックス、京都出身の女性らしいはんなりおっとりした個性的なキャラクターによって支えられていたことは間違いないところであろう。川瀬の変な力みのないダルなヴォーカル・スタイルは、the brilliant greenの楽曲において非常に特徴的で重要なパートを占める、独特すぎるほどに独特な魅力をもつものであった。この川瀬の歌唱法を最大限に活かすサウンド・スタイルこそが、ミッド・テンポのビートとノイジーに引きずるようなギターのリフに決して急くことのないゆったりとしたメロディ・ラインをのせる、どこかヒプノティックな風合いをもつthe brilliant greenならではのサイケでリアが脈打つブリグリ節であったのではなかろうか。
Tommyこと川瀬智子は、AMOYAMOのデビューから遡ること十五年も前から完全に脱力しきっていたのである。もしかすると、この川瀬智子こそが、ファッションやスタイルやパーソナリティの面をも含めた青文字系というものの元祖であったのかも知れない。
年齢的にはニュー・ウェイヴ世代のギリギリ末尾のあたりに属する川瀬は、the brilliant greenなどの活動を通じてUKロックやニュー・ウェイヴから受けている多大なる影響を表現するとともに、ファッションやスタイルの面でもオーソドックスなパンク・ルックや80年代のニュー・ウェイヴ系のテイストを現代風にアレンジしながらオシャレかつポップに再生させ続けている。そんな著名なファッション・アイコンの存在が、90年代後半から00年代にかけての原宿/裏原のモードに(そして、ひいては青文字系のファッション文化に)与えた影響は、決して軽微なものではなかったはずである。そういった意味においても、この10年代における川瀬智子とAMOYAMOのふたりの邂逅は、かなり運命的なものであったのかも知れない。
以前より川瀬智子の大ファンであることを公言しているAMOが、the brilliant greenや川瀬のソロ作品を聴くとともに、川瀬が通過してきたポスト・パンク~ポスト・ニュー・ウェイヴ的なファッションやスタイルにも接し、そこから様々なものを感じ取り吸収していたであろうことは間違いない。
しかし、91年生まれのAMOの世代であると、90年代後半にカリフォルニア州オレンジ・カウンティのスカ・パンク・サークルから登場し大ブレイクしたノー・ダウト(No Doubt)のヴォーカリストでありバンドのフロント・ウーマンらしい常に人目を惹く容姿で新たな時代のファッション・リーダーとなったグウェン・ステファーニ(Gwen Stefani)や、00年代に大ヒット曲を次々と放ち一躍全世界的なポップ・アイコンとなったカナダ出身のポップ・パンクなシンガー・ソングライター、アヴリル・ラヴィーン(Avril Lavigne)といった存在から受けている影響にも、おそらく大きいものがあるのではなかろうか。
だが、そこで手本にされていると思われるグウェン・ステファーニは、マドンナの熱烈なファンでありフォロワーであることを公に認めてもいる。つまり、そのファッションのスタイルやセンスは、マドンナに代表される80年代のファッションやスタイルからの流れを継承しているものでもあるのだ。そして、マドンナのスタイルを生み出した80年代初頭のストリート・ファッションもまた、その先を遡ってゆけば、そこにはポスト・パンク系ファッションやニュー・ウェイヴ・ルックのオリジネーターとしてのスージー・スーがいるのである。そう、やはり青文字系のルーツの一端を辿ってゆけば、どうしたってスージー・スー的なスタイルから脈々と受け継がれてきているものに突き当たることになるのである。
もはやAMOYAMOの世代あたりになると、スージー・スーがスージー&ザ・バンシーズを率いて黒尽くめのニュー・ウェイヴ・シーンの第一線で活躍していた時期というのは、この世に生まれる遥か以前であったりもする。よって、青文字系と往年のスージー・スー的なスタイルの間柄は、孫引きもしくは曾孫引きであるともいえるだろう。おそらく、当事者は、それほど近さらしきものなどは感じていないのかも知れない。きっと、川瀬もAMOYAMOのふたりも、それを意識的に模倣したり、直接の手本としてはないと思われる。
しかし、ひとつのファッションやスタイルの系譜として眺めれば、確実に継承されているものはそこに存在しているのである。現在でもパンクやゴシックの匂いのするところであれば、いたるところにスージー・スーのファッションやスタイルから流れ着いてきているものを見出すことができる。スージー・スーが、ある種のパンク・ロック~ニュー・ウェイヴ~ゴシック/ダーク・ウェイヴ的な独特なファッション・スタイルを70年代後半から80年代にかけて生み出し、それをひとつのモデル/型として完成させたオリジネーターのひとりであることは明らかなのだから。

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉補稿
(一)(二)(三)(四)



新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉補稿(二)

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉

補稿 Unknown Sisters

(二)

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スージー&ザ・バンシーズは、83年9月30日と10月1日の両日に渡りロンドンの由緒ある大型コンサート・ホール、Royal Albert Hallにおいてコンサートを開催している。そして、この格調高い会場を、尖ったパンク・ファッションの若者やスージー・スーのスタイルをそのままコピーしたようなドギツいメイクに黒尽くめの服装の女の子たちで埋め尽くしてしまったのである。この公演の模様は、約二ヶ月後の83年11月に“Nocturne”と題された二枚組ライヴ・アルバムとライヴ・ヴィデオという形にまとめられリリースされている。
76年の結成から96年の解散までの約二十年間に渡って、なかなかギターのメンバーが固定されることのなかったバンシーズであるが、この“Nocturne”の収録時には、天才肌のジョン・マクガフ(John McGeoch)の精神衰弱による突然の脱退の後を受けて、キュアー(The Cure)のロバート・スミス(Robert Smith)がサポート・メンバーとしてバンドに参加している。80年代初頭、スミスはキュアーのフロントマンとしての活動の合間をぬって、二度に渡り突如ギタリスト不在となってしまったバンシーズの窮地を救うために助っ人の役割を買って出ている。
この二度目の在籍時には、スミスはライヴ・ツアーに参加しアルバム“Nocturne”を残しただけでなく、セヴェリンとのサイド・プロジェクト、グローヴ(The Glove)でも録音を行い、その後には84年にリリースされたバンシーズの通算六枚目のアルバム“Hyæna”の制作にも携わっている。この時期のスージー&ザ・バンシーズには、スージー・スーとロバート・スミスという80年代初頭の音楽誌・音楽紙の誌面・紙面を最も多く写真で飾ったと思われる二人の絶大なる影響力を誇ったロック・アイコン/ファッション・アイコンがフロントに顔を揃えていたことになる。
約三十年近くが経過した現在から眺めてみると、この取り合わせは本当にとんでもなく豪華なコラボレーションであった。しかし、往時は姉御肌のスージーからのオーファーを断るに断り切れず、まるで滅私奉公のような形でスミスはサポート・メンバーとして参加していた印象もあったのだが。とにかく、この83年前後のスージー&ザ・バンシーズが、世界で最もゴージャスなポスト・パンク~ニュー・ウェイヴ系のバンドであったことは間違いない。

日本人の感覚でいうと武道館公演といったレヴェルにあると思われるRoyal Albert Hallでの晴れの舞台の模様を収録したライヴ・ヴィデオ“Nocturne”の映像を観ていて印象に残るのは、細かいエスニック柄がプリントされたルーズなノー・スリーヴのかぶりワンピース調のアウトフィットに黒のスパッツを穿き、腰と膝のあたりを結んだ白の細い布の端をヒラヒラさせているスージー・スーが、裸足でステージに立ち歌い踊っている姿である。
70年代後半のパンク期にはレザーかラバーのミニ・スカートに黒のロング・ブーツという衣装でステージに立つことが多かったイメージがあるが、この日の裸足のスージーは、まるでネコ科の動物を思わせるしなやかな舞踏を交えながら妖艶で圧倒的な存在感を放つパフォーマンスを展開している。あまり目立たない部分ではあるが、なぜ裸足なのかという点は、やはりどうしても気になってきてしまう。
由緒あるRoyal Albert Hallの舞台に裸足で立つスージー・スー。この日の会場を見渡せば、英国の文化・芸術の中心的なホールに、パンク・ムーヴメントによって解き放たれ新たに芽吹くことになったニュー・ウェイヴという時代に生きる現代の野生児たちが大挙して群がり場を占拠をしている、まさに驚くべき光景を目撃することができたはずである。そして、そうした完全に何かが逆転・転倒した状況を最も端的に象徴する存在として、ステージには裸足のスージーがいたということなのだろう。
60年代には裸足で歌う歌手とは、それほど珍しい存在ではなかった。当時、盛り上がりをみせていたエコロジー運動に積極的に関心をもつ自然派のフォーク系の女性歌手などは、エスタブリッシュメントへの反抗と自然への回帰の両面を表現するひとつの行動として、靴を脱ぎ捨てて裸足になり、母なる大地にしっかりと両脚をつけて歌う姿を聴衆に見せつけた。
だが、83年に裸足でステージに立って歌うことには、そうした60年代型の行動とはまた少し違った意味合いをもっているようにも思える。同じように自然回帰の指向を表現しているといっても、社会状況や環境そのものの変化から、そこにはより深く複雑なものが込められてくるはずなのである。特に英国では、79年からのサッチャー政権下での新自由主義へと大きく舵を切った社会の動きの中で、剥き出しになった市場原理主義が徹底された結果、市民の生活は末端まで加速した大量消費のサイクルに取り込まれて、旧来の英国的ライフスタイルの根幹は急速に蝕まれてゆく過程にあった。
近代は爛熟の極みにいたり、膨れ上がった飽和状態のまま、空疎に没落してゆく。そんな時代の空気の中で、靴を脱ぎ捨てることは、時代の流れそのものの全否定を暗示させる行動に等しかったのではなかろうか。ささやかな抵抗といえるのかも知れないが、靴という人間の文明の象徴を脱ぎ去る・捨て去ることで、西洋文明を文字通りに足許から転倒させようとする意志を、そこに垣間見させてくれているようでもある。

90年代後半から00年代にかけての時期、日本のポップ・ミュージックの世界にも、続々と裸足で歌う女性歌手が登場するという動きが見られた。Cocco、元ちとせ、矢井田瞳、鬼束ちひろ、一青窈、中島美嘉といった、フォークやニュー・ミュージックの流れを汲むタイプのポップス(J-POP)の系統に属す、ある種の神秘性をともなうイメージをもった女性ソロ歌手たちが裸足になって歌い、それがその歌手のトレードマークとなったり、ちょっとした話題を振りまくことになったりもした。
そうした者たちの中には、裸足になることで60年代のフォーク歌手のような社会問題に対しても意識的なアーティストというキャラクター作りを狙っていた者もいたのだろう。また、ひとつの斬新なファッションとして、裸足になることを逆転の発想で戦略的に取り入れていた者もいたのだろうし、何となく流行っていてトレンディなスタイルに見えるので完全追従型で裸足になった者もいたのだろう。誰がどのタイプだったかということは一概には分類できないが、当時は裸足になって歌うということが、ある界隈においてひとつの流行のスタイルとなっていたことだけは間違いないところだ。
この当時の日本は、自民党の小泉内閣(01年4月~06年9月)の下で新自由主義的な動きが急速に本格的に浸透していった時期でもあった。その進行とともに社会の流動性や不安定さは猛烈に高まっていったのである。大量消費のスピードは加速し、慢性的なデフレ状況がそこに追い討ちをかけ、地域経済が空洞化して、その後の金融危機の影響が遠回しかつダイレクトにとどめを刺した。市民の生活は虫食いのように内側からぼろぼろにされて、いつしか脆くも崩れ落ちる時を待つだけとなってしまっていたのである。
こうした、どこか83年の英国と似通った状況が、この時期の日本の社会にも起きていたのである。いや、日本の場合は、その多くの悪弊の面は、最初はほとんど目に見えないところで進行していただけに、それが一気に表面化した時には相当に問題の深刻度は増大していたと言わざるを得ない。こうした社会の状況の中において、同じようなタイミングで裸足の歌手を頻出してきているという現象は、おそらく直接的には関係性を見出せるものではないのかも知れない。しかし、あながち無関係なことではないように思えたりもするのである。

中島美嘉は、01年11月にシングル“STARS”で歌手デビューを果たしている。この楽曲は、01年の秋に放映されていたドラマ『傷だらけのラブソング』の主題歌でもあった。そして、このドラマに、中島は女優としても出演をしていたのである。女優デビュー作であるこのドラマの劇中でも同曲“STARS”でデビューする新人歌手を演じており、ドラマそのものが中島の歌手デビューを彩るものとして機能していたといってもよいだろう。こうした音楽業界とTV業界を巻き込んだ大規模なプロモーション展開に後押しされるだけの実力派の大型新人であった中島は、その話題性も手伝って歌手としても女優としても一躍注目される存在となった。そして、デビュー曲の“STARS”から立て続けにヒットを放ってゆくことになるのである。
その後も歌手としても女優としても活動を続けてゆく中で、05年には映画『NANA』において主演を務めている。このロック・バンドを題材に青春の群像劇をスマートに描いた同名の人気少女マンガを原作とする映画『NANA』は、若手人気歌手の中島と若手人気女優の宮﨑あおいの二人が揃って主役を演じたこともあり、若年層を中心に社会現象ともなる大ヒットを記録した。劇中でBLACK STONESのヴォーカリストとして中島が歌う楽曲“GLAMOROUS SKY”は、そのまま映画の主題歌となり、05年8月にはNANA starring MIKA NAKASHIMAと役名を併記した名義で中島のシングルとして発表され、こちらも大ヒットを記録する。
この“GLAMOROUS SKY”は、L'Arc~en~Cielのヴォーカリスト、hydeが、作曲とプロデュースを手がけたロック色の強い楽曲であった。それまでのバラード曲やポップスが中心であった中島の歌のイメージとは、少し路線が異なる作品であったといってもよい。元々、声質的に歌声の線が細く、あまり声を張り上げて歌うタイプではなかった中島であるが、この“GLAMOROUS SKY”では、まるで自らの殻を破るかのようにバックのロック・バンドのラウドな演奏すらをも圧倒してしまいそうな力強い歌声を聴かせてくれている。
やはり歌手としての実力にはかなり高いものがあり、そして女優でもあるだけに、どんな曲調の楽曲であろうとも、しっかりとそこに相応しいシンガーを演じ歌いこなしてみせる懐の広さと深さを中島はもっている。この楽曲のヒットによって、中島の歌手としてのキャパシティはさらに大きく広がり、それまでにはあまり見せることのできなかった新たな魅力の扉を開くことができたといってもよいだろう。

90年代のヴィジュアル系ロックのブームの立役者となった大御所バンドのひとつであり、現在もカリスマ的な人気を誇っているL'Arc~en~Cielであるが、その音楽性やバンドのイメージ的コンセプトには、80年代のニュー・ウェイヴやゴシック・ロック、インダストリアル・ロックからの影響が非常に色濃く見てとれたりもする。こうした影響をバンドの素地として隠さずに表に出し、徹底して欧米のロックのサウンドと比肩しようとする姿勢を崩さぬあたりの一貫性は、多くのヴィジュアル系とよばれるバンドが存在する中でもL'Arc~en~Cielだけがもつ特色といえるのかも知れない。そうした音楽面では極めて骨太な指向をみせ続けているところに、変わらぬ熱烈な支持が集まっている秘密がありそうだ。
映画『NANA』のために提供された“GLAMOROUS SKY”には、どこかオリジナル・ロンドン・パンクを思わせる雰囲気が、微かにだが感じられたりもする。おそらくプロデューサーとしてhydeも自らのバンドやソロ活動での楽曲とはまた違った形で、ここでは音楽的な趣味性を前面に押し出すことができたのではなかろうか。その作曲や制作の際に、女性ヴォーカリストが歌うメロディのイメージ的なモデルにスージー・スーの歌唱が据えられていたとしても何ら不思議ではない。
ただし、ギターがノイジーなリフをかき鳴らすストレートなビート・パンク的なサウンドにメロディアスなヴォーカルがのる“GLAMOROUS SKY”は、どちらかというとニュー・ウェイヴ的で刺々しいところのあったバンシーズというよりもメロコアやエモコア以降のポップ・パンクに近い趣きをもっていたりもする。そこには映画の主題歌として大ヒットするのも頷ける、十二分なポップ性が盛り込まれているのだ。このあたりのツボを押さえた曲作り・音作りは、プロデューサーとしてのhydeのバランス感覚のよさからくるものなのであろう。
主演映画の公開と連動させたNANA starring MIKA NAKASHIMAという名義での歌手活動を行った際に“GLAMOROUS SKY”を歌唱していた中島は、まさにスージー・スーを思わせるような存在感を放つヴォーカリストとしてバンドの中心に位置していた。これは映画に登場するBLACK STONESというバンドが、中島が演じる紅一点のNANAを中心としたバンドであるせいもあるのだろう。BLACK STONESとバンシーズはバンドの編成そのもの似通っているために、そこにスージー・スーのような女性ヴォーカリストの影を見ることは非常に容易かった。
また、黒のミニ・スカートにいくつものレザーのアクセサリーを装着し、濃いめのアイ・メイクを施した中島は、映画の役柄を演ずるための衣装とメイクに身を包んでいるのだと思われるが、その黒を基調にしたロック・ファッションには、どうしてもスージー・スーがパンク期に生み出したスタイルが透けて見えてきてしまうものがあったのだ。そこに何か明確な両者の繋がりを示すようなファッション・アイテムが特別にあったわけではない。しかし、原作マンガや映画『NANA』で描かれてていた女の子のかっこいいロック・ファッションの源流に、ロンドンのパンク・シーンで生まれたスージー・スーのスタイルがあることは、揺るぎない事実であるはずなのである。よって、そういった意味でも中島とスージーの間には全く繋がりがないわけではないのはなかろうか。
さらにいえば、この両者には同じような時代背景・社会背景の中で靴を脱ぎ捨てて裸足になって歌った女性歌手という共通点もある。ただし、こうしたファッションやスタイルの系譜的な繋がりには、おそらく無意識のうちに継承されている部分も多分にあるものと思われる。そうした地下水脈的な流れは、何かのきっかけで無意識下から表層へと表れ出てくる。そんなひとつの契機となったのが、いくつかの要素が絡み合って激しく根底でうごめいていたものの噴出としての“GLAMOROUS SKY”という楽曲であったのかも知れない。

80年代には、若い女性ならば誰もがバンシーズのスージー・スーのようになりたいと思っているのだろうと思っていた。スージー・スーのようなかっこいい女性に憧れ、その独創的なファッション性をもったスタイルや髪型やメイクを真似してみたいと思っているに違いないと固く信じきっていた節がある。だがしかし、実際には、そのような誰にとっても憧れとなる存在では決してなかったはずなのである。冷静に考えてみれば、当時の日本で英国のニュー・ウェイヴ・バンドであるスージー&ザ・バンシーズの音楽を熱心に聴いていた人は、どんなに多く見積もってもおそらく若い女性のうちで全体の一割にも満たなかったであろうから。では、なぜそんな風に思い込んでしまっていたのであろうか。おそらくは、当時の時代の空気そのものや若い女性のファッション傾向のどこかしらに、何かしらそれに近しいものを感じ取っていたからに違いない。
当時の海外の最新の流行やモードの最先端の動きに敏感なファッション雑誌では、かなり日本人女性の普段の服装とは遠くかけ離れたスタイルが紹介されていることも多かった。すでにパンクはスタイルのひとつとして流行やモードの動きの中に取り入れられていたし、ニュー・ウェイヴ系の代名詞でもあった頭から爪先まで黒尽くめのコーディネイトも当たり前のように誌面に掲載されていたように思われる。そうしたものの内部にスージー・スー的なスタイルというものは、知らず知らずのうちにひとつの形式や流行のモードとして、すでに混入していたということなのだろう。当時、スージー・スー的なパンクやニュー・ウェイヴ系のファッションやスタイルというのは、間接的にであっても誰にでもそう遠くはないところに感じ取れるものであったはずなのである。

その頃、多くの若い女性たちの憧れの対象であったのは、やはり84年に“Like A Virgin”を大ヒットさせ世界的なアイドル・スターとなっていたマドンナ(Madonna)であった。眩しいほどの輝きを放つマドンナのようになりたいと全世界の多くの女性が思っていたのではなかろうか。日本でも“Like A Virgin”などのヒット曲は広く知られていたし、MTVからセンセーショナルに登場したニュー・スターの存在は、洋楽ポップスの人気者という枠を越えて、ちょっとした社会現象と化していたといってもよいだろう。そして、マドンナのファッションを真似てみたり、そのエッセンスを取り入れた、いわゆるマドンナ・ルックといったものまでが流行していたのである。
マドンナ・ルックとはいってもスージー・スー的なスタイルと同様に、何か決まった形があったわけではない。マドンナ的なスタイルが、若い女性のファッションに取り入れられアレンジされて流行したものがマドンナ・ルックであった。原色のカラフルなミニ・スカートにタイツやスパッツ、Tシャツの上に重ね着するメッシュのカットソー、ラフに髪をまとめる紐状のヘアバンド、耳や首や腕にジャラジャラと大量につけたアクセサリーなどが、その特徴的なアイテムである。また、ミニ・スカートに小さめのシャツを合わせて意図的にお腹を出すヘソ出しルックというものも、新しい時代のセックス・シンボルとして肌の露出度の高かったマドンナのファッションから流行し認知され、やがて一般的なレヴェルにまで浸透していった経緯もある。
こう見てゆくと、この当時に非常に新しいものとして登場し、日本の若い女性のファッションの概念を一変させてしまったマドンナ・ルックというものが、後に80年代後半から90年代初頭にかけて10代の女の子の典型的スタイルとして浮上してくるカジュアル系のギャル・ファッションのハシリであったと思える部分は大いにある。ただし、80年代中期の時点では、マドンナがステージ上やMVの中で表出させていたスタイルとは、ニュー・ウェイヴ期のニューヨークのストリート・カルチャーやストリート・ファッションと密接に結びついているという印象が強かったことも事実なのである。
80年代初頭のニューヨークは、70年代中葉からのパンクのムーヴメントが大きな盛り上がりをみせたことによってファッションを含めた若者の文化全体が新たな局面に入り、ブロンクスやハーレムから堰を切ったように流れ込んできたヒップホップの文化やエレクトロでブレイクダンスを踊るダンサーたちのスタイルと混ざり合った、新たな若々しい感覚のストリート・ファッションを生み出す非常にホットな場所となっていた。そんなパンクやニュー・ウェイヴ、ヒップホップにエレクトロなどが入り乱れた新しい若者文化やファッション・スタイルの発信地となっていたニューヨークのアンダーグラウンド・ダンス・クラブのシーンから登場したのが、マドンナであったのだ。
82年にマドンナが発表したデビュー曲“Everybody”は、ダウンタウンのナイト・クラブ、ダンステリア(Danceteria)の人気DJ、マーク・ケイミンズ(Mark Kamins)がプロデュースした楽曲であった。そして、その当時の彼女のファッションやスタイルは、最新型のNY系ダンス・ミュージックとなっていたデビュー曲の楽曲と同様にアンダーグラウンド・クラブ・シーンが夜毎に生み出す新しく奇抜なニューヨークのトレンドをそのままトレースしたものでもあったのだ。マドンナは、80年代初頭のニューヨークのストリートで花開いていた新しい時代のスタイルを、ポップ・ミュージック~ポップ・カルチャーの世界に取り込み最先端のスタイルとして大流行させてしまったのである。そして、そのスタイルは一般のレヴェルでも流通可能なポップなアイテムへと再解釈されて、世界中の若い女性の間に広まっていった。
また、マドンナのファッションは、彼女が強く影響を受けていたデボラ・ハリーなどのロック・スターやマリリン・モンローなどの映画女優のスタイルからの引用がふんだんに盛り込まれていた点でも特徴的であった。まさにファッションやスタイルを継承する形で、尊敬する先人たちへのオマージュを全身で表現していたという感じであろうか。そこには、若き日のマドンナの人生観や表現者としての在り方にも大きな影響を及ぼしたであろう、DIY精神に満ちたパンク・ムーヴメントから継承していたものも少なからずあったに違いない。
ニューヨークのストリート・ファッションも、ロンドンで急速に発展・発達したパンク・スタイルに対して全く無関心であったはずはない。そうしたファッションの流行の流れの中で、マドンナがロンドン発のパンク~ニュー・ウェイヴ系のスタイルを代表するひとつのひな形としてスージー・スーを参照したであろう可能性は非常に高い。いや、80年代初頭のパンク~ニュー・ウェイヴの時代の空気を吸収したニューヨークのストリート・ファッションを、分かりやすく新たにマドンナ風にアレンジしてみせたマドンナは、間接的/無意識的にだとしても間違いなくロンドンのストリート・ファッションのモードを生み出したスージー・スーのスタイルを継承していたといってよいはずなのである。また、マドンナとスージー・スーの両者のスタイルには、女性の性がもつ両義性の強度を態度として表明・表出している点で非常に通じ合うものがあるようにも思えるのである。

80年代半ばから流行し始めたマドンナ・ルックは、マドンナになりたい若い女性が率先してマドンナ的なファッションを模倣したところからスタートし、より一般的に流通するファッションとして薄められた形ではあったが、あまりタイムラグがなく日本においてもごく普通の10代や20代の女性のファッションの要素に取り入れられていった。これには、当時の流行の発信源であったMTVなどにおいて、実際に動くマドンナ本人の映像を見ることができたことが大きく作用していたものと思われる。誰もがそこでマドンナが何を着て歌い踊っているかを、すぐに確認することができたのである。このような経路を通じて、日本の若い女性たちもマドンナが影響を受けた過去のロック・スターや映画スターのスタイルやニューヨークやロンドンのストリート・ファッションから引用し受け継いだものを、間接的/無意識的に継承していたのである。そして、そこではやはり間接的/無意識的にスージー・スーのスタイルもまた継承されていたはずなのだ。
80年代の若い女性のロック系やニュー・ウェイヴ系のファッションには、どこかロンドンのパンクやスージー・スー的なスタイルの香りを強く匂わせるものがあった。そして、そうしたファッションのすぐ近くに、よりコンサバティヴなスタイルに近いものとして登場したのが、瞬く間に流行の中心となっていったマドンナのスタイルであった。ゆえに、当時はマドンナ・ワナビーとも呼ばれたマドンナになりたいスタイルのとても近いところに、そのルーツのひとつであるスージー・スーになりたい的なスタイルを見出すことも比較的可能であったのである。
ロンドンの街角に発生したバンシーズのスージー・スーのようになりたいファッションは、80年代中期にはマドンナやMTVといった新しいマスメディアを介してポップ文化の一部を形成するまでになっていた。多くの若い女性が、マドンナのようなかっこいい女性に憧れ、マドンナが継承したスージー・スーのスタイルからの流れを継承する形で、あのThe 100 ClubやRoyal Albert Hallのステージに見ることのできた新鮮な感覚をもつファッショナブルなスタイルや髪型やメイクに近づき触れることになっていたのである。

だがしかし、よくよく冷静になって思い返してみると、そうした80年代という時代の中でのある種のスタイルに対する憧れのような現象は、もしかすると自分の中にあるスタイルへの憧れ(であろうか)をそこに重ね合わせて、そこに積極的に実際の憧れの対象を見出していたものであったのかも知れない。もしも自分が女性であったら、きっとスージー・スーのような女性になりたいと感じていたであろう。その確信そのものには、かなり強いものがあったはずである。ただし、そこにあったのは、どちらかというと、そのファッションに対する憧れの感情というよりも、自らのスタイルをもったひとりの人間としての(スージー・スーというパーソナリティの)かっこよさに痺れる心理であったようにも思われるが。そうした自分の内面に強くある、あんな風になりたいという願望が、当時の世の中の多くの人もそうであって欲しいという願いへと変換されて、目の前にあるものを己の願望の幻想の側へと引き寄せて見てしまう現象を生んでいたのかも知れない。
どこかミステリアスで、それ以前に妙に意味不明なところがあり、強烈に自分の個性をアピールしているスージー・スーのスタイルには、それを肯定的に見る者をそのイメージの世界の深みへと引き込み、その人と同化してみたいという欲望を強くかき立てるかっこよさがあった。実際に近づき触れることのできる女性ではなくとも引き込まれイメージにとらわれてしまうほどに、そのスタイルやアティチュードには何かを完全に超越した輝きがあったのである。そうした、ある種の人々にとっての時代のアイコンとして、スージー・スーというパーソナリティは間違いなく存在していたのである。
多くの同時代人・同世代人の前に登場し自分もそうなりたいと思わせる存在。それが時代の偶像たるアイドルというものの最も基本的な形なのであろう。アイドルとは、時代が生み出すものなのである。スージー・スーはバンシーズというバンドを率いて、ある日突如としてロンドンの街に出現した。そして、70年代後半のロンドン・パンクから80年代のニュー・ウェイヴへと大きくうねりながら移行してゆく時代が、そのアイドル性を受け入れ、その新しく特異なる存在を、時代を象徴する偶像へと選別/聖別していったのである。

アイドルとは、明確にその個性を表出させる性格をもつがゆえに、既存の規範の枠内にはおさまりきらず外部に弾き出される(弾け出る)存在でもある。それらは、それぞれに自らを徴づけるスタイルやファッションをもっている。80年代以降の偶像であるスージー・スーやマドンナのそれは、時代や経済の動きに包摂された場としての「ストリート」の空気を思いきり吸収したスタイルやファッションでもあった。それは、大量消費社会の空気や時代性を思いきり吸収しているという意味で、ある種の物質化された消費材的な性質を色濃く備えるようにもなってゆく。ゆえに、こうした現代の偶像やアイドルとは、とても儚い運命の下にあるものでもあるのだ。
消費されるアイドル。それは時代の波間に漂う一枚の木の葉のようなもの。しかし、偶像でありながらも人々が往来する街角にまで降りてきている存在であるからこそ、その同じ時代に生きる者が共通して感覚しているものを、生のままにスタイルやアティチュードとして代弁することができるのである。そして、そこに、そんな偶像に憧れ、そのスタイルを真似したい、それになりたいと願望する者たちの間における、同じ時代を共に生きていることをアイドル/偶像を介して実感する間接的同世代感覚によって緩く広く繋がった共感の輪が生じてくることにもなるのである。

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉補稿
(一)(二)(三)(四)