溝!だより

溝!だより

「サッド・ヴァケイション」

 一月十三日。いつものように、何気なく電源を入れたのだが、ノート・パソコンが、いつまでたっても起動しない。遂に、長年に渡り酷使してきたハードディスクが、限界を迎えてしまったようである。断末魔の叫びのような、唸る異音をあげて、延々とのたうちまわっている。最後の抵抗なのか、(健気にも)必死でいま一度立ち上がろうとしているのか、判然としない。そのうちに、ぷっつりと脈が途切れたのか、居場所すらも特定できなくなる。昏睡状態。そして、異様な音は止み、静かになってしまう。ディスプレイは、ずっと暗いまま。
 一月十四日。修理に出す。まずは、不具合の場所と原因を診てもらう。
 一月十五日。ハードディスクの破損が確実なものとなる。とりあえず、新たなディスクに交換して乗り切ることにする。古いハードディスクから、書類などのデータを救出するための交換である。ディスクを新しく交換して、データも取りだせないようなことになるのが、最悪のケース。上手い具合に必要なものを取りだすことができ、無事にデータを移行できるとよいのだが。とても、心配である。
 一月十六日。オンボロのノート・パソコンが戻ってくる。ただハードディスクを交換しただけ。古いディスクから、データはひとつも取りだせなかった。想定していたうちの最悪のケース。少しばかりショックが大きい。
 一月十七日。昨日、浦島太郎の気分で、オンボロをセット・アップしていたが、夜半に再び起動しなくなる。さすがに、ガックリくる。またしても修理にもってゆくが、今回は内部を修理するのに、かなり金額がかかりそうだ。やむなく諦めて、結局、その場で処分。データだけでなく、ノート・パソコン自体も、一気になくなってしまう。四日間、ずっと何やらせわしなく、電器店との間を往復し続けたのだが、最後には、何にも残らないという結果に。ただし、オンボロは、買い取り代金の小さな百円硬貨一枚になった。たった、それだけ。かなりガックリときた。
 一月十八日。少しは気分的に落ち着いてくる。仕方がないという諦めの感情と、言い様のない喪失感、そしてガックリくる落ち込み。昨年のまとめとして、約一ヶ月近くをかけてコツコツと書き連ね、おそらく二万字を越えるほどの分量で、ほぼ完成していた、ブラック・ジャックスのアルバムの評文が、跡形もなく消えてしまったのは、とても残念である。また同じものを書くのは、至難の技であろう。だからといって、また最初から新たに書き始められるほど、気力は回復していない。しかもまだ、書くための環境を整える作業も、全く開始してはいないのだ。精神的なショックが尾をひいているのだろうか。まだちょっと、萎んだ感じである。
 一月十九日。かれこれ一週間ほど、何も書いていない。変な気分である。何もしなくても、案外平気なのだ。あれだけ毎日のように、必死になって書き続けていたのに。しかし、不安な部分も、やはり大きい。何もしていなくて、本当に平気なのだろうかとも思う。だからといって、ただ書いているだけで、いいのだろうかと思う部分もある。このまま書かずにいたら、一体どうなるのだろう。こわくて想像もできないが、得体の知れぬ不安感が、もやもやとあたり一面に漂う。どこかにしっかりとした光明を見いだせたらよいのだが、いまはまだ何も見えてきてはいない。
 一月二十日。何もせず、どこか空虚な感じに一日が過ぎてゆく。探し出したいレコードがあるのだが、探し出す気力が、全然湧いてこない。たくさんの不安が、気分を重く沈ませる。世界は、ヒトを滅入らせることばかりの場所なのか。ずっと、塞がったままだから、そう思うのだろうか。開かれていたとしても、そのように感じるのだろうか。いまは、その一方に、思い切りかたよった感じしか、まざまざと実感することができない状況なので、なんともいえない。
 一月二十一日。何もしないままでは始まらないので、少しずつ動き出す。ノート・パソコンを見にゆく。軽く目星をつける。探し出したいレコードを、大きな山の下の方から取り出す。その周辺のものも同時に数枚ほど発掘しておく。探し出したかった盤は、クリス・ナズカとティム・シューメイカーのプライマリー・カラーズ。ティム・シューメイカーの手掛けたセバスチャン・アモールを久々に聴いたら、とてもよかったので、ちょっと気になっていたのだ。クリス・ナズカは、やや地味だが、基本的にどれもかなり質は高い。トウィーキンから出ていた二枚組は、問答無用の不朽の名作だと思う。だが、とりあえず、掘り出してみたものの、まだプライマリー・カラーズは聴き返していない。今は、発掘するだけで、やっと。
 一月二十二日。また、とても空虚な一日が過ぎていった。思い悩み、落ち込んでいる。明日や明後日や、そのまた先のことを思い浮かべようとするが、どうしても現実感がない。「いま」を生きているという感覚が希薄だからなのだろうか。何も手応えがない。掴めない。これは、手応えなどなくても、掴めなくても、闇雲に引き寄せるべきものなのであろうか。ただ、あやふやな感覚のなかで、じたばたとのたうちまわるだけだ。沈んでいるので、何を思い描いても暗くなる。何かができそうだなんて、全く感じられない。誰からも必要とされていないように思えてくる。そんな気分に、ずぶずぶとはまってゆく。晩年の芥川を読み返しているのも、そこに、よくない影響を、多少なりとも及ぼしているのかも知れない。
 一月二十三日。少しばかり前向きに、これからのことを考えてみる。何か全く違うことを始めてみるのも悪くはないかも知れない。勉強するのはどうだろうか。次のノート・パソコンをどれにするかも考えなくてはならない。どん底からは、何としても這い上がらなければ。誰からも必要とされていなくても構わない。誰も相手にしようとしないのも関係ない。そういうものなのだろう。かかわり合いたくないならば、それでよい。だが、それでも、何とかして這い上がらなければならないということには全く変わりはない。昨日の夜から安吾を読み返している。安吾の書く言葉、文章には、滾るような生命力が息づいている。独特の力強さがある。上昇しようという気持ちが湧いてくる。
 一月二十四日。理由もなく前向きになれていたが、あれこれ考えると不安にもなってくる。時間的に、悠長なことをしていられる余裕があるのだろうか。途中で挫けずにのぼってゆけるだろうか。あれこれ考えながらも、いつしか理由もなく前向きになれてきたりする。しかし、しばらくすると不安な闇の中に逆戻り。浮いたり沈んだりの繰り返しだ。何かを掴めないかと必死になっているが、どんなに深刻になってみても、確かなものは掴めやしない。こういう時は、思ってもみないところに、思い掛けないヒントが転がっていたりするものだ。少し目先を変えてみるのも悪くはないかも知れない。
 一月二十五日。いろいろと考えれば考えるほどに、一時はよいと思えた考えも、次第に濁ってくる。惨じめな気分になる。心細くなる。不安になる。進むべき方向が、全く定まらなくなってゆく。闇雲に進んでいったら、全てを見失ってしまわないだろうか。わからないことと不安だらけだ。どこに向かってゆけばよいのかがわからない。延々と浮き沈みの繰り返し。そこにまた、違う問題が流れ込んでくる。混沌。昨日の夜で安吾の文庫本を読み終わる。イノチガケは、相当にヘヴィだった。人間のイノチについて考えさせられた。いや、全てのイキモノのイノチについて考えさせられた。イノチは決して軽々しいものではない。しかし、これまでの膨大な量のイノチガケの上に、(間違いなく)我々は立っているのである。何気なく踏みつけている足の下に、この惑星の歴史を形成してきた、あらゆるイノチが横たわっている。たくさんのイノチガケが踏み付けられ、踏み固められて、「いま」を生きるものたちが立つ土台を形成してゆく。イノチをカケられた後のイノチは、ただの何気なく踏んづけられるだけの、軽々しいものになってしまうのだろうか。いや、最初からイノチは、吹けば消えるような、儚いものであるのかも知れない。それは、きっと最初から軽々しいものなのだ。イノチの重さは、計れない。それは、何よりも重いからではなくて、あまりにも軽いからなのだろう。
 一月二十六日。浮いたり沈んだりが、おさまる気配が一向にない。なぜに、こんなにも生きる希望というものは、点灯したり消滅したりを繰り返すのだろうか。せわしなく。消えて、見失うたびに、重く沈み込む。胸が苦しく、頭もおかしくなりそうだ。浮いたり沈んだり、浮いたり沈んだり。今はただ、できる限りのことをするのみ。ほんのちっぽけなことしかできないが、何もしないよりはましだろう。小さなことをチマチマとすることによって、少しは気がまぎれるとよいのだが。だが、あいにく、そう簡単に気はまぎれるものではない。次々と、沈まずにはいられない状況に直面させられる。
 一月二十七日。浮き沈みは、少し落ち着く。昨日の振れ方が、相当に激しかったせいだろうか、それほど急激に上がったり下がったりを繰り返すことはなくなる。この週末にむけて、少しずつ動き出してゆく足場を築くためにも、安定した状態を保つことは重要である。ステップそれ自体は、どんなに小さく、ささやかなものでもよい。まずは、安定し、バランスを保つことを心掛けなくては。堂々と、胸を張って前進するために。
 一月二十八日。気分転換。門前払いだろうが、何だろうが、別に全然気にはしない。文章の直しの作業。たとえ僅かでも、やるべきことがあるというのは、決して悪いことではない。プライマリー・カラーズを、ようやく聴き直した。悪くない。音的には、かなりアブストラクトで重い、シンプルなミニマル・ハウス。アシッドから派生したものと思われる反復ベースが、なかなかに独特で興味深い。その後のドイツのミニマル系のものと比較すると、訴求力のある情感の表出にも、夥しいものが見受けられる。かなり真摯なメッセージ性のある、伝統的なアンダーグラウンド・シカゴ・ハウス(音作りの面では、かなりの革新性を含んでいるが…)だ。クリス・ナズカは、一貫してこういうサウンドの世界を(頑固に)表現しているプロデューサーである。全くブレていない。非常に好感がもてる。相方のデリック・カーターの作品などとともに、いろいろと久しぶりに聴き返してみた。素晴らしい作品ばかりで、とても楽しい。やはり、シェ・ダミエの“クローサー”は名曲である。まだまだ、全く風化していない。
 一月二十九日。少し、スロー・ダウン。ずっとスローにきてはいたが、さらにペースを落とす。二十一世紀の社会が、よりよい方向へと変容してゆくことを夢想する。枠組みを変えるのではなく、土台自体を変えること。言うまでもなく、その土台の交換とは、古くからある別の土台を持ってきて、今のものと挿げ替える簡単な作業では決してない。土台を変え、土壌を作り直すことも必要だ。今のままでは、郊外の都市は、思うようにならぬ人々の、単なる吹き溜まりになってしまうだろう。暗く、薄ら寒い、吹き溜まりだ。ささやかな幸福と、ささやかな生きる希望。隠され、見えなくされているものは、とても多い。出口を閉ざされたまま堆積し、そのまま化石となれというのか。人々は、ささやかな生産性の原材料となるために、投棄され堆積物となる存在では決してない。ここにある、ささやかな人々にも、間違いなく輝かしい生を享受する権利はある。このまま閉ざされたままでいては絶対にいけない。ささやかな生は、もっともっと解放されるべきである。もっと生々しい喜びと、幸福と、生きる希望が必要なのだ。ゆえに、二十一世紀の社会は、変容されなくてはならない。よりよい方向へと。そんな、満ち足りている輝かしい未来を夢想してみる。必要なものは、何か。やはり、変化だ。形式だけの変化ではない、ホンモノの変化である。
 一月三十日。ぼんやりとした一日。後はただ、前もって決めていたことを、決めた通りにするだけだ。昨日からレヴィ=ストロースについて読みはじめる。ぼんやりとしながら調子よく読み進んだため、明日か明後日あたりには軽く読み終わってしまいそうである。
 一月三十一日。池袋。助走が、少し延びた。踏切りのタイミングが合わなかった。やや迷いがあった。ささやかな人々のささやかな生とは、決して、ちっぽけで味気ない生と同義ではない。闘うレヴィ=ストロース、読了。関連して、若き日のレヴィ=ストロースなどが躍動していた二十年代から三十年代にかけてのフランス/パリの動きについても読みはじめる。そこから、再びバタイユへと戻ってゆく予定。ブルトンあたりに寄り道してしまいそうな気配も、なきにしもあらず。
 二月一日。午後から雨。この二月第一週は、とても重要である。近日中にもうひとつ、メールを書いて送る予定。レヴィ=ストロースからブルトンを経て、バタイユへ。順調に読み進んでいる。「戦間期」の思想家たち、読了。さらにバタイユについて読みはじめる。ようやく、かなり踏み込んで全体を理解できそうなところまで、何とかたどり着けてきているような手応えがある。
 二月二日。昨夜の降雪のせいか、かなり寒い。まるで冷蔵庫の中のような寒さの中で、いろいろ考える。今週は、本当に、かなりの山場となりそうだ。頭も冴えてきている。片目も開いてきているように感じる。
 二月三日。いろいろと渦巻く迷いが、頭の中から消え去ることがない。これを、なかば無理矢理に消し去ってしまってよいのだろうか。よい流れと悪い流れが、並行して存在し、コインの裏表のように、アッチが出たりコッチが出たりを繰り返している。バタイユを読み進める。このタイミングで、少し徹底的にヘーゲルの方面に対しても見通しをよくしておくことにする。クリス・ナズカの音には、その奥底に鬱屈した感情が蠢いているのが感じられる。そうしたとても低い場所から響いてくるものが多々あるのだ。表面的には、とてもシンプルでスマートにまとまっているが、ところどころに、それだけでは済まされないような部分が顔をのぞかせている。その隠れた極めて強烈な情感のうねりに、ぐいぐいとのめり込まされる。耳から飛び込んできて、内面に効く音である。やはり、バタイユからヘーゲルへと少しさかのぼって、あれこれ眺めてみるというのは、なかなかに興味深い。ひとひねりしてあったものを、ゆっくりと、ひとつずつほどいてゆく感じか。また少し、沈みはじめる。いろいろと現実的なことを考えると、とても辛い。まだ、全く何も確実なものは、見えてきていないから。何が何でも何かを掴み取りたいのである。もっともっと切羽詰まって、もっともっと浅ましくならなくてはならないのか。このどん底からは、なかなか這い上がれなさそうな気がする。だが、やはりまだ諦めるわけにはいかない。何とかして何らかの方策を講じなくては。
 二月四日。電器店に、新しいノート・パソコンを買いに行く。だが、取り寄せで、入荷までに三週間ほどかかるかも知れないという。これは、困った。このまま、ずっと二月の末まで待たなくてはならないのか。別のルートか、別の選択を、あらためて考えたほうがよさそうだ。明日、また最初から仕切り直しだ。新聞のチラシなどを見る。また、とても暗い気分になってくる。全てを諦めるべきなのか、とても揺れてしまう。何を血迷ったか、小説などを書き出してしまう。かなり切羽詰まってきている。這い上がり、生き延びるために、必死にならざるをえない。(どうにも困ってしまって、真剣に小説を書き始めるなんて、やはり、どう考えても血迷っている。)
 二月五日。新しいノート・パソコンを購入。ひとつ前のモデルで、かなりお安くなっていたものを確保。そこそこは、よい買い物ができたのではないかと思う。滅入るようなことばかりでは、たまらないので、少しぐらいはよいことがないと、本当におかしくなってしまうのではなかろうか。しかし、それでも、ふと現実を見てみると、とても苦々しい気分になってきてしまうのだが。
 二月六日。久々に様々な情報に触れる。世界は様々な情報であふれかえっている。すさまじい。いろいろと設定し、作業環境を整えているだけで、すぐにかなりの時間が過ぎてしまう。オンボロを使っていた時代とは、目が白黒してしまうほどソフトもハードも変化している。二十一世紀もテクノロジーの発展には、目覚ましいものがあることを、あらためて実感。チマチマと手探りで、ゆっくりと歩みを進めているような感じだ。気分は浦島太郎、感覚的には右も左も目新しいものばかりな小児に戻ったよう。遅ればせながら、テディ・ペンダグラスが他界していたことを知る。ステファニー・ミルズとのデュエット曲を久々に聴き返してみたくなった。さようなら、ありがとう、テディペン。あなたのバリトン・ヴォーカルは、間違いなくソウル・ミュージック史上最強のものでした。きっと、フィリー・ソウルの代名詞として、永遠に聴き継がれてゆくことでしょう。あなたの歌声は、永遠に不滅です。

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