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zoom RSS 誰が孤独を歌うのか(七)

<<   作成日時 : 2014/04/01 02:00   >>

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誰が孤独を歌うのか



近代の社会は、本質的にそれをひとつの社会として成り立たせている根幹の部分に決定的な歪みを孕んでいる。人間の集団の中に芽生える歪みを補正しつつ、集団の構成員としての民衆/人間たちを隙間なく配置・併置してひとつのまとまりを形成し、閉じた運動体としての機能を辛うじて達成させたものが、近代の社会というものであった。その根本にある、どこまでも痼りとして残り続ける歪みの存在は、この人間世界の近代化以降の250年間にずっと指摘され続けてきた悪性の腫瘍だといってもよいだろう。近代の社会は、その始まりから現在にいたるまで、常に歪んでおり、いびつであり続けてきたのである。人間と人間の関係/(近代の)社会的(人間)関係には、何らかのいびつさが、常に伴っているといってもよい。そこにある小さないびつさの上に(それをいびつだと見なすことなく)さらに(見過ごされた)いびつさを重ねてゆくことで形作られるのが、この社会というものなのである。
その時々の症状や症例に合わせて、社会は自らの孕んでいる歪みを巧妙に覆い隠す術を身につけてきた。その一時的な覆い隠しの動き/働きが、さらなる新たな歪みの種を生み出すことになるのは、最初からその社会の機構にとっては計算済みのことである。みすみすそこにある歪みを悪化させて露呈したままにしてしまうよりは、新たな歪みの種の状態にまで社会の中の歪みを一旦縮減させておき、その歪みの種が目に見える歪みへと膨らみ出してきた際に、再び一時的な覆い隠しをしておけばよいだけの話なのである。この、歪みを覆い隠し続ける機能は、社会の中の歪みが大きな壊滅的亀裂に発展することを抑えるのには非常に効果的なものであった。こうして巧みにその場しのぎを行い、小さな歪みや歪みの種には目を瞑って(時間的な猶予を作り出し)先へ先へと進んでゆく機構や機能こそが、近代社会のシステムの発展/巨大化を支える大きな特徴であった。
だが、ここ十数年の急激で急速な時代の変化の中で、絶えず進化と進歩を遂げてきた近代の社会は、そうした歪みやいびつさをあまり巧みに覆い隠せなくなってきてしまっているようにも思える。これまでは、あまり目につかないものであった無惨で悲惨な歪みが、社会の至る所で露になってきているのである。自浄能力をもつ社会の仕組みによって巧妙に覆い隠されて、あまり目につくものではなかった歪みやいびつさであるから、現代に生きる人々は、それほどそうした社会の表層に露呈している歪みやいびつさに真正面から目を向けることには慣れていない。それは、少し前までは見えても(社会の歪みやいびつさには)見えないものであったのだ。道端の石ころや雑草を見ても、ただの石や草にしか見えず、それが何を意味しているものであるのか/何の徴であるのかに全く思い至ることがないように。そうした歪みやいびつさの露呈を目の当たりにしても、それが何であるのかを正しく明確に認識することは(まだ)できていないのであろう。または、それを見て、何か社会的な違和感のようなものに思い当たったとしても、自分ひとりの力ではどうすることもできないと(その歪んでいびつな社会の常識に照らし合わせて)思考をし、ついつい見て見ぬ振りをしてしまったりするのである。
近代以降の時代に生きる人間は常に前に進んでいないと言い様のない不安に苛まれてしまうという変な性質を身につけるようになってしまったようである。何かを乗り越えて前に進むということが、人間の生の活動にとって非常に重要なことと(見なされるように)なったのである。とりあえず歪みを応急処置的に覆い隠しておくような前進でも、その歪みを不安に思って一歩も前に進めなくなってしまうよりは大分ましなのである。人間とは、より生きやすい、よりよい環境を求めて、あくまでも前に進むものなのだ。より自由に活動できる環境を作り出すために、限定的な特権と人間の人間による封建的な支配体制を廃止し、次々と人間を縛り限定する規制が緩和されていった。こうして近代の(自由な主体性をもつ人間による)社会へと解き放たれた近代人たちが形作る社会は、より社会化が進み、民主主義化されたものになってゆくこととなった。それまでにあったよいものは、より風通しの良いところに引っ張り出されることによって、多くの人々の手に支えられて、さらによいものとなってゆく。そうした人間の生におけるよさの拡大により、人間は少しずつでも前に進んでいることを実感する。このような人間の生の形態の進化と前進こそが、集団や共同体を成立させていた規制を緩和することを通じて現代の社会が到達を夢見る民主主義的理想の追求の形態そのものなのだもといえる。
だが、現実には理想通りには決してなってはいない。厳しい規制によって不可侵のままに保たれていた人間を人間らしくしていたものが、その規制の緩和とともに一斉に地べたへと勢いよく引き下ろされてしまった。そこでは、これまでには考えられなかったような大量の粗雑なものが生み出され、それまでにあったよいのものを数と量で圧倒して蹴散らして蔓延るようになる。規制緩和の動きは、新しい時代の病理の素を広く津々浦々までまき散らす役割を全うするというあまりありがたくない機能をも果たしたようである。これによって、本格的に深刻な近代の病が一気に発症した。そして、病で免疫力を失い露になった歪みやいびつさから溜まっていた膿が噴き出すと、社会の動きは著しく滞り、硬直し、そのまま死に至るということにもなりかねない。新たな歪みの種をまき散らしながらもしぶとく蘇生して、何度も生き返った/何度も生き返らせられた近代社会のシステムが、ここにきて本当に立ち行かなくなりつつあるのである。

そんな現在の社会において、そうした社会のあり方をある意味で象徴するかのような形で国民的な人気を獲得しているアイドル・グループがある。それが、言わずと知れたAKB48である。年末も、年始も、そして3月11日の前後も、特別な日も普通な日も関係なく、彼女たち(のうちの誰か)の姿をテレビ等のマス・メディアを通じて見かけない日は、もはやない。いつどこを見てみても、当たり前のように、そこにAKB48はいる。テレビでCMばかりが流れる時間帯であれば、一分間のうちに複数回その姿を見ることだって可能であろう。
AKB48というアイドル・グループは、ひとつの大きな経済活動や現代型のビジネスのモデルとして、この社会のもつ消費と快楽の欲望を最大限に有効に引き出し、それに律儀に経済原理に則して応対し、大衆の消費行動の有り様に最も的確に幅広くフィットすることで、非常に大きな成功を収めるにいたった。いまやリリースするシングルは、軒並み100万枚以上の売り上げを記録(12年5月23日に発表された“真夏のSounds good !”は、選抜総選挙に投票するためのシリアルナンバーカードが特典としてついていたこともあり182万枚を売り上げている)し、11年と12年の年末には二年連続で日本レコード大賞を獲得している。
選抜総選挙と呼ばれるメンバーの人気投票への投票権や握手会イベントへの参加券などが特典としてついた1600円のCDを短期間に大量に売りさばくのが、いわゆるAKB商法といわれているものの特徴である。そこでは、もはやCDは、歌や音楽を記録した半永久的な再生用の媒体というよりも、そのパッケージに封入されている幾つものヴァリエーションのある特典と抱き合わされることよって賞味期限/消費期限つきの生ものの一部に変質させられてしまっているといってよい。そして、その商品の価値を安いものにするのも高いものにするのも消費者の消費行動次第となる。特典付きCDの価値は、それを手にした消費者がそれをどれくらい消費するかという意思や行動によって決定されるのだ。そこではCDは買って聴くだけのものではなく、消費者に多くの楽しみをもたらす予約券のようなものになる。購入したCDを聴く必要は、もはやない。よりよい特典を手にするために同一のCDを大量に購入したとしても、聴くためのCDは一枚あれば十分だろう。全ての選択の自由は消費者側に委ねられている。そして、その選択肢に多くの幅を設けて消費者の消費欲望を煽るだけ煽るのが、売る側の巧みや戦略でもある。目の前にズラリと並べられた商品を積極的に消費すればするほどに、AKB48というアイドル・グループが提示する娯楽性をエンターテインメントとして楽しむことのレヴェルも相対的に上昇する。ただし、それによって消費者にとってのその消費行動がもつ価値は高まるが、それと同時に、その商品のCDとしての価値は破壊的なまでに下落することになる。しかし、それは、旧来の伝統的な音楽を聴くという単一的な娯楽性しかもたないCDの価値でしかないのだ。AKB48は、音楽CDに新しい時代の娯楽性と消費者向けの価値を付加してみせたのである。AKB48のCDとは、もはや音楽CDなどという時代遅れのものとは根本的にその性質を異にしているのである。
だが、そうしたAKB48型のエンターテインメントのあり方は、あまりにも歪みやいびつさが露になった現代的な経済原理と密接に寄り添い、それを反映し俗悪なまでに増長するものでありすぎるようにも思える。大きく成長するために(狡賢いまでに頭を働かせ)真っ直ぐに前に進むことが近代社会の基本的な精神原理であるからには、このやり口は確かに正しい。だが、明らかにいびつな様相をもつものでもある。こうした巨大な規模の特典商法を繰り返し行うことで、莫大なまでに膨れ上がった消費者の消費欲望は一時の快楽を伴う娯楽とダイレクトに交換される金銭という形で生々しく引き抜かれ続ける。そして、AKB48は、その大衆向けサーヴィス産業の最も素朴で高度な超商業主義的集金モデルによって、徹底的に日本のアイドルというものをおもしろくないものにしてしまったともいえるのである。70年代に始まり、80年代に黄金期を迎えた、日本的な「かわいい」の感覚をひとつのスター・システム的な形で発露させたアイドル現象やアイドル文化というものが、そのシステムが当初からもっていた戦略的運営のメソッドを極限まで押し進められて、末端の末端にまで高度資本主義的/新自由主義的イデオロギーを行き渡らせた形態として完成させられたAKB48の大成功/大勝利によって、完全に焼け野原と化してしまったのだ。AKB48が通った後には、もはやしばらくは新たに草木は育つ気配さえなくなってしまうのではなかろうか。郊外の大型量販店的な雰囲気消費にも対応しているABK48は、それまでのアイドル現象やアイドル文化が孕んでいた「かわいい」を特権化し商品化して猛烈な勢いで消費する閉じた歪みやいびつさというものを、まるで抉り出すかのように露にしてエグい記号化の果てに拡大再生産させてしまった観がある。
始まりの時から存在していた歪みを一気に露にしてしまうことで、それ以前にはそれが当たり前のこととして少々ウネリながらも流れ続けていたものが根底から破壊され歪みがバイパス化されて危機に瀕することになる。AKB48以降のアイドル現象やアイドル文化は、思いきり開き直るかひたすらコンセプチュアルでマニアックな在り方に偏るかのふたつにひとつの選択を迫られている。そこでは、完全にメタメタな別ものに突き進んでゆく傾向が強まっており、もはやそれまでの素朴なアイドルらしいアイドルの様式は取り戻せなくなってしまったといってよい。100万単位で売ろうとする機能に長けたAKB48だけが大量に蔓延り、過当競争に敗れた弱小アイドルたちは蹴散らされ駆逐され華々しい成功の影の土台とされてしまう。これは、アイドルの世界のことであるが、まるで社会の縮図を見るようでもある。

何が、こうした歪んだ社会の構造を明るみに出し、それを増長させているのか。あらゆるものが多様化し多層化してゆくにつれて規制緩和で開けた道にできた泥濘のスレスレをすり抜けて巧妙に儲けようとする商業マシーンが、なりふり構わぬ動きを見せるつつあるように思われる。そして、そうした動きは、一旦ぬかるみに足を奥にまで踏み入れてしまうと後戻りできなくなり、ジワジワとその動きを進行させ、激化する競争の中でぬらぬらと一気にその動きをエスカレートさせてゆくことになる。こうした雪崩式に無茶苦茶なものなりつつある社会/経済活動の動向おいて、実に当たり前のものにして有りがちな人間の欲求や欲望にダイレクトに訴え、巧みに広範囲から小銭を掠めとるように儲け続けている狡猾な大人たちが存在していることは、間違いなく(とてもそうは見え難い部分もあるが)大きな問題である。現代の社会/経済のシステムは、強者のための勝利の方程式を強化する仕組みとして、巧みに使い回されるだけのものとなりつつある。狡猾なものたちは、上の方にも下の方にも明るいところにも暗いところにも(あらゆる階層に)潜んでいる。つまり、その詐取/搾取/詐欺の手口の基底にあるものは、近代社会とその社会の中に巣食い/強化されていった透徹された資本主義経済が生み出した「声の大きい」詐欺師(いかさま師)が、その体質を肥やしながら(大衆/万人にとって分かりやすい形で)前進する動きを稼働させる(社会における正当性をまとった)規範(ルール)そのものなのである。それが、いびつな社会の正当性に裏付けされた方向性を確信して、この社会全体に深く(根深く)浸透しきっているのだ。

どこまでも前進して今の自分より成長した自分になりいと願いつつ、今あるものは決して失いたくはない。それゆえに、次第にあまり変わりたくないという思いの方が大きくなってくる。だが、そのように思えてくるのは、今ここに永続的に保持したいものがあり、今この社会に生きるメリットのようなものを何かしら現状において得ているからにほかならない。絶対に手放したくないものが、今現在その手の中には、しっかりと握られているのである。そして、そうした前進し続けようとする社会の周縁部には、変わりたくても変われない人々が存在している。積極的に生きようとする意志を不可抗力的に挫かれ、消極的に静かにひっそりと貧しく生きる生活から変わってゆけなくなっている階層が、そこにはある。そんな、変われずにもがいている層にも様々な様態があることに目を向けること。そこにある目に見えないものを見ることこそを、この問題の解決へ向けての第一の突破点とするべきであろう。社会のデコボコの穴に小さく弱いものたちを押し込めているのは誰なのか。この社会の構造を固定化させる動きに騒々しく賑やかにエネルギーを注ぎ続けているのが、上から下まで様々な階層に存在している宣伝と広告の技術に長けた声の大きい詐欺師たちでることは間違いない。そこで景気のよい掛け声とともに振り回されているのが、過去の成功モデルだろうが、現在の成功モデルだろうが、それらの粗雑なミックスであろうが、このいびつな社会構造をある意味では狡猾に利用して、詐取システムをピンポイントで稼働させ、巧みに搾り取ってゆく機構が堅持されていることに全く変わりはないのだ。そして、その底辺では乾涸びているものたちが、ますますカスカスになってゆくことになるのである。

AKB48を批判することは、決して間違ったことではない(正確には、AKB48の音楽以外の部分を主として批判することであろうか)。その極端な商売のやり方の面からのみでなく、文化や娯楽・芸術といった側面からも猛然と批判がなされなくては、この国の社会も大衆もこのまま恐ろしいほどの勢いで没落してゆくことになるだろう。そのグループ/集団の社会的/経済的な成功というものが、「声の大きい」いかさま師たちが策を弄して練り上げた壮大な詐取構造の道具でしかなくなっている現状では、そこら中をただ美味しそうに見える撒き餌だらけにする仕掛けは残念ながら非常に有効であるといわざるをえない。その後は、まさに濡れ手に粟の如く策略の規模を膨れ上がらせられるだけ膨れ上がったいびつな商法そのものが、えげつないエンターテインメント性をまといながらもエスカレートしてゆくことになるのだ。こうした根本の部分から決定的ないびつさや歪みを内包している黒い娯楽産業に対しては、殊更に厳しい批判に晒しておくことが必要なのではなかろうか。その体質や構造は、根本的な部分から批判され(具に省みられ)なくてはならない。それによって、独自の進化を遂げてきた日本の芸能文化やアイドル文化というものが徹底的におもしろくないものになってしまうとしても。そこには最初からある程度の歪みやいびつさが存在し、それを承知で文化的な娯楽性が毒々しいまでの花を咲かせ押し進められてきたのだから。
資本主義の基本的精神に則したある種の社会的要請でもある狡猾な手口を最大限に機能させることで、欲望の消費が加速する現代においては、その社会そのものの機構の流れをも巻き込んで爆発的に売れるものが出現することも稀ではない。その最も売れているものこそが、その社会をある意味では映すものともいえるだろう。だが、絶対的に正しいものが、最も売れるものになるとは限らない。大衆の感情の方向性を何となく納得させる真正さのようなものを巧妙にパッケージ化して大々的に売り出される(何となく良さげな)商品が、消費の欲望を刺激し着実に売り上げを伸ばしてゆくのである。最も売れるものは、社会に広く行き渡ることで、そこにある(上と下の)歪みを一時的に覆い隠し、新たな(内と外の)小さな歪みの種を広範囲に渡って植え付けてゆく。そしてまた、その商品が引き出す消費者の消費欲望の尋常ではない強烈さが、すでに露になっている歪みやいびつさを、さらに抉り出す作用因となることもある(上と下/内と外の隔絶)(上と下/内と外の水平化)。
「AKBを批判するから日本は衰退し続ける」というけれど、あのいびつさには真正面から批判されなければならない部分が確実にあるはずである。どことなくグレイだが「何となく良さげ」「何となく楽しげ」をふんわりと肯定してしまうことの危険性に、今この時代だからこそ意識的にならなくてはいけない。社会のあちこちに歪みやいびつさ、そしてほつれや破綻・瓦解の様相が露になってきていることは、何を意味しているのか/何をわたしたちに知らせようとしているサインであるのかを、しっかりと考えてゆかなくてはいけないだろう。実際のところは、AKB48を批判しようと批判しまいと、今のままでいてはこの国は確実に衰退し続けるのである。現在のこの社会の無茶苦茶さの結果として、異常に明るい光が照るところの真下に、異常に暗い影の部分ができている。その暗い場所に鍋底の汚れやシミのようにこびりついた石ころや雑草たちに、何らかの方法で光を届けなくてはいけないのではなかろうか。このまま道端で乾涸びさせて/萎びさせてしまえば、ゆくゆくは何事もなかったかのように済ませてしまえるのかも知れない(後に残るのが草木も生えない砂漠であったとしても)。おそらくは、それが最も簡単で最も手っ取り早い対処法なのであろう。だが、それは、これまでのように石ころや雑草が静かにひっそりと黙り続けていればの話である。道端で「どんな気分だい」と問いかけられた石ころや雑草が、ただ冷たく厳しい風に吹かれているだけの屈辱をはね返して一斉に猛烈に唸り声を挙げて異議を唱え始めたら、このガタガタでデコボコな社会は、どのように対処/対応するのであろうか。それらの声を全て聞き取ることのできる上等な耳を、この社会に生きる人々は持ち合わせているであろうか。必死に生きようとする本物の血の通った人間の切実な声を、今でも彼らの耳は聞き取ることができるであろうか。今こそ孤立したものたちが孤独の歌を歌うべきときである。誰かに聴かせるために歌うのではない。そして、その歌には投票権も握手券も付くことはない。それは、どうしようもない本当の孤独の歌だ。道端の転がる石ころたちが歌い、雑草たちが精一杯に広げた青い葉が闇の奥底から語り始める。(13年)(14年改)


〈メモ〉
そもそもAKB48に孤独を歌うことは不可能である。基本的にAKB48のパフォーマンスは、まばゆい光に満ちあふれる明るい場所での仲間たちとの連帯や団結を見せる/魅せることによって成り立っている。その熱く賑やかで華々しい場所からは、道端の石ころや雑草は決して見えることはない。
そもそもAKB48は孤立無業者に歌いかけることはない。この160万人がAKB48のCDを大量購入するような積極的な消費活動に参加する確率は極めて低い。AKB48が消費行動・投票に参加しないものの欲望を満たすことは決してないだろう。
現在、AKB48が新たなターゲットとして狙っているのは、まず最初にデフレ状況から脱却して賃金が上昇し始めるはずの企業勤めをする20代から50代の男性会社員たちだと思われる。すでに缶コーヒーのCMではAKB48のメンバーが若いOL役で会社組織の内部への潜入を開始している。そのうちに日本経済の成長戦略を後押しをするという謳い文句のもとに、一生懸命に働く人々(サラリーマン)のための応援歌を次々と(お茶の間向けに)ユニゾンで歌い始めるはずである。

空回りのサイクル。同じことだけを繰り返す毎日。ただ何となく動いているけれど、それがほかの何かにエネルギーを伝えて新たな動きを生み出しているようには思えない。毎日ひたむきに頑張っているのだが、全く前進しているようには見えないのである。繰り返される規定の時間内の労働によって社会のシステムを決して止めずに動かし続けることだけには辛うじて貢献しているようだが。代わり映えのしない毎日に、次第に意味らしきものは薄れてゆく。半分眠ったままでもこなせるようになる毎日の行動/活動。社会はそれを熟練と呼ぶこともある。そこでは、必要以上に頭脳を使うことはなくなってゆく。予め決められたことの決められた範囲内での繰り返しであるから、頭脳というものの必要性は極限まで減縮されてゆくことになるのである。動いて余暇、また動いて余暇。その繰り返し。意味のない労働と意味のないストレス発散。意味のないリフレッシュ。人間の毎日の生活は、とても簡単に非常に楽に生きられるものとなってゆく。どこまでも軽く小さくなる人間。水面に浮いたまま、もう二度と沈むことはない。

最底辺に落ち込んでしまったものたちをも救うことができるようになるとき、何としてでも前へと猛進しようとする近代の社会を見限って人間は、そのまま緩やかに没落へと向かいはじめるのかもしれない。前に進み上り続けようとする栄光を求める本能は、決して人類全体を最終的に幸福にすることはないのだろう。人類の歴史とは、そうした試みの失敗の連続そのものでもあった。近代社会を生きる個々人にとっての幸福とは根本的に異なるものであるらしい本来の人間にとっての幸福をどのように認識できるかが、これからの人類が生きてゆくことのできる未来の射程の長さを決定することになる。栄光からの没落が、人間らしさの回復に接続される。ギリギリのところで。


【参考】
孤立無業者「SNEP」が急増中
http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2013/02/19/ranks-of-unseen-unemployed-sneps-growing/
AKBを批判するから日本は衰退し続ける
http://blogos.com/article/53435/

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