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誰が孤独を歌うのか(六)

2014/03/01 02:00
誰が孤独を歌うのか



補論

特に何も誰かの役に立つようなことができてはいないような気がしているので、とてもとてもおこがましくて恐縮してしまうのだが、今年も何とか無事に誕生日を迎えることができた。ひとつ歳をとるということは、年齢の一の位の数字がひとつ先に進むことであり、この変化は、まだ自分がこの世に生きてここにいるということの(極めて確かな)証でもある。誕生日とは、生きている人間が毎年必ず通ってゆかなくてはならない一里塚のようなものだ。そんな、常に一里塚が傍らにあるような変に特別な感覚を24時間ずっと味わわされることになる一日が、今年もやってきたのである。そしてまた、今年もその日を妙にふわふわと浮ついたままの状態で過ごした。誕生日という日は、この世界の内部に自分という人間が存在しているということを、じっくりと噛みしめるのには最適な一日である(それ以外に特にこれといってすることがなければの話だが)。さらにいえば、この世界の中に自分も実際にひとりの生きる人間として存在させていただいているのだというような、妙に改まった気分にさせられるのも、この誕生日という一日の大きな特徴である。
静かないつもと変わらぬ二月上旬のとある一日。毎年のことであるが、それはとても二月らしい寒い一日であった。さすがに母親は、その日が自分の息子の誕生日であることを忘れてはいなかったようだ。最近は物忘れがひどく多少ボケ始めているような気配もあったので、何とか忘れずに覚えていてくれたことに、こちらがひと安心させられた。そして、Facebookでは高校時代の同級生が誕生日を祝うメッセージを書き込んでくれた。かなり長いこと実際には会っていないが、やはり同級生という存在には、非常に特別なものがある。10代の三年間の毎日を同じ場所で過ごしたというだけであるが、無条件で深い親近感を抱くことができる。会えばすぐに昔の感覚に戻れてしまうという感覚も、そうした同級生だけがもつ特別な関係性によるものなのであろう。それゆえに現在のソーシャル・ネットワーキング・サーヴィスなどの場においても、昔の10代の頃の感覚のままにコミュニケーションがとれたりする。とても不思議なことである。ただし、そんな感覚でコミュニケーションのとれる同級生も今ではそのひとりだけなのであるが。
今年の誕生日は、母親とたったひとりの心優しい高校の同級生を除けば、ほとんど誰にもそれと気づかれることなく、ひっそりと過ぎていった。自分からそのことについて誰かに向かって言及することは全くないので、誰も気づかなくて当然といえば当然なのである。いや、そんなことは知らなくて当然であるのだから、ひっそりと過ぎてゆかない方がおかしいとも言える。自分の誕生日のことなどは、取り立てて誰かに自分から言うほどのことではないと思っている。誰かがそれを知ったとしても、それが何かの役に立つようなことは決してないであろうから。何の使い道もない無駄な情報ほど不必要なものはない。広く名前が知れ渡っているような有名人であれば、自分の誕生日が多くの人に知られていたとしてもおかしくはないだろう。しかし、別に有名人ではないのだから、誕生日がいつであるかなんてことは誰もが知っている必要は全くないのだ。それに、有名であるかそうでないかには関係なく、決して多くの人たちに誕生日をお祝いされるほどの傑出した大層な人物でもない。だから、その一日がひっそりと通常通りに過ぎてゆくのは当然すぎるほどに当然のことなのである。ただし、そういったことぐらいは充分に承知していたつもりであってもなお、実際には、あまりにも通常通りすぎると、この社会の中で全く誰からも存在を知られずに生きているような心細い気分にさせられてしまい、とても重苦しく沈み込むような気分にとらわれる瞬間が幾度もあった。まあ、おそらくは、本当ににその通りなのである。ほとんど誰からも気に留められず、誰の目から見ても存在しているのかいないのか皆目わからないような存在なのだ。しかし、それを現実のものとして自覚することは、さすがに自分のことながらも自らの境遇の侘しさに身につまされるものがある。それも、極めて確かな現実として受け止めることは。
かつてボブ・ディランは、あの甲高く上ずった人間離れした歌声で「誰にも相手にされず、道端に転がる石のように生きるのは、どんな感じだい」と歌った。道端の石ころにだって、道端の石ころが道端の石ころとして生存してゆくための世界がある。道端の石ころの目の前には、道端の石ころにしか見えない景色がある。だが、大きな視点から眺めれば、そんな道端の石ころなど存在していてもいなくても特に変わりはないようなものである。道の真ん中を前向きに歩くものの目には、ちっぽけな道端の石ころの存在なんて決して目に入ることはないだろう。だが、ディランはわざわざ足を止めて道端に視線を送り、執拗に問いかけてみせる。道端に転がる石ころに「どんな気分だい」と。しかし、そんな問いかけに対して、答えとして返せる言葉が石ころの側にあるであろうか。そもそも道端の石ころは、毎日ほとんど言葉を発することなく、静かに孤独にひっそりとそこに佇んでいるだけなのだから。その凄まじく静かな佇まいゆえに、道の真ん中を忙しく通り過ぎてゆく人たちには全く気にされることもないのである。誰も気にかけられず、誰もその言葉を聞こうという素振りをみせるなんてこと全くなかったというのに、いきなり質問を投げかけられた時にだけ、それに応じなければならないなんて、ちょっと理不尽な話ではなかろうか。まさか、石ころが喋る言葉をもっているなんて思いもつかないことなのではなかろうか。質問をしてみたところで、その答えが返ってくることはないと最初から踏んでいるということか。まあ、道端の石ころの存在を気にも留めていなかった人たちは、そこで静かにひっそり生きているものたちが言葉を発している場面など、これまでに一度も見たことも聞いたこともなかったのかも知れないが。それぐらいに、道端の石ころは、この広い世界の中で忘れ去られた存在となっている。

連続する二日間(48時間)に家族以外の人間との関わりの全くない生活を過ごしている(とても孤独な)人々を、どうやら最近はSNEPという括りでひとまとめにして、ボンヤリとその不気味な存在をあぶり出そうとする動きがあるようである。SNEPとは、Solitary Non-Employed Personsのそれぞれの語の頭文字をとった略語であり、日本語では孤立無業者という見るからにすさまじい五文字が並ぶフレーズがその名称に適用されている。これは文字通りに、社会の中で孤立している無業のものということだ。日常の中で人間との接触が全くなく、仕事がなく、金がなく、ひとりきりで暗く寂しく貧しく静かにひっそりと暮らしているもののことである。今、そんな人々が、この国には162万人以上もいるという。まさに道端の石ころや雑草のように、静かにひっそりと社会から孤立して生きている人が、そこら中にいっぱいいるのである。SNEPな人々は、ほとんど誰からも生きていることを知られずに、巨大な生きることに対する言い様のない不安だけを抱え込んで、暗く乾涸びた毎日を侘しくきゅうきゅうとしながらやり過ごしている。
家族以外の人間ということになると、道でばったり近所の人と会った時ぐらいにしか実際に誰かと言葉を交わすことはない。だが、そんな誰も知っている人に会わない孤独な48時間を過ごすことは、あまり稀なことではないのかも知れない。そういう意味では、ほぼ完全にSNEPそのものの毎日を生きているということになるだろう。つまり、社会の中で孤立してしまっている、ほぼ無業のものということだ。そんな自分と同じような毎日を過ごしている人間が、この国には今160万人以上もいるのである。実に驚くべき数字だ。これは、(あまりにも己のことを棚に上げたような言い方であるが)大変に由々しき問題である。この輝かしきものであるはずの人生への漠然とした灰色な大いなる不安が、約160万以上もこの国に渦巻いているとは。はっきり言って、ただごとではない。
孤立無業という状態は、それが時間的に長引けば長引くほど、経済的な困窮の度合いは増し、精神衛生的にも非常にまずいものとなってゆく側面がある。孤立して完全に生産的な活動からは隔絶された蚊帳の外の日々を生きる。そんな境遇の真っただ中にあると、人間というものは、ひとたび落ち込む気になれば際限なく落ち込むことができてしまう。もう二度と戻ってこれなくなってしまうのではないかと思えるほどに。そして、基本的に誰かとの接点がない状態がしばらく続いていると、その何らかの接点への糸口さえもが急激に遠離っていってしまうものなのだ。一度遠くなった接点は、なかなか手を伸ばしても手が届かないものになってゆく。孤立した無業のものたちは、道端の石ころや雑草のように社会の中で忘れ去られ、この世界の中での自分の存在意義/存在意味というものをも見出せなくなってしまう。そうしたものは、闇の中で一旦見失ってしまうと、なかなか再び見つけ出すことができないものなのである。元々が、とても薄ぼんやりとしていた実感のあまりないものであったがゆえに。
なぜ、この世界に自分が存在しているのかということの意味が分からなければ、生きるということ自体に対しての希望が全くもてなくなってくる。道端の石ころや雑草なんてものは、大きな社会の中にあっては取り立てて何かの役に立つようなものではないし、そんなものをいちいち注意して見ている人は滅多にいない。まあ、ザックリといってしまえばあってもなくてもそう大差はないものなのである。道端に、石ころが転がっていようがいまいが、雑草が生えていようがいまいが、道の真ん中を真っ直ぐに進んでいる人間にとっては、その先々の出来事に対してそれは何らかの影響を(直接的に)及ぼすということはほとんどないのである。道端の一角の非常に狭い世界と何らかの関わりをもつというようなことがない限りは。普通に考えて、石ころにも雑草にも未来も希望も(見出せ)ないのが当たり前といえば当たり前のことなのだ。そこには、明るい光が差し込むことは全くない。今、この国は、そんなSNEPという将来の自殺者予備軍ともいえそうな人生の破滅を目前にしている160万以上の人間を、その根底に抱え込んでいる。さて、この問題をどうするべきか。この160万人以上の人々は、孤立して無業のまま暗く侘しく貧しく静かにひっそりと野垂れ死んでゆけばよいのであろうか。

このまま、こうした状態が放置されたままであれば、この状況はさらに悪化してゆくであろうし、今現在の160万人以上の孤立無業な人々の行く末も暗く貧しく侘しくとことんまで先細りしていってしまうであろう。社会から見捨てられ/見離されて本当にどうしようもないことになっている、ひたすらに暗黒な未来しか目に見えていない人は、本当に沢山いるはずなのだ。そうした人々が、社会の片隅や奥底に、ひっそりと息をひそめるようにうずくまっている。こうした孤独者たちの周囲に形成されている人間関係は、実に希薄で範囲が狭く脆弱なものである。人間同士の繋がりがあまりなく、目立った活動もないために、その人の姿は誰の目にも見えないものとなっていってしまう。でも、社会的な動きが全くなく、生きている人間の気配が全くないところにも、そんな人々は確実に存在しているのである。おそらくは、誰にとってもとても身近な場所に、想像しているよりも遥かに大勢が。そして、間違いなくこれから猛烈な勢いで、その数はさらに増加してゆくはずなのだ。孤立して無業な、暗黒色に塗りつぶされた不幸な将来だけが確約されている人たちが。
孤立した無業者は、なぜかこれだけは誰の人生にも平等に割り振られている勢いよく流れ去ってゆく時間を、ただ無為にやり過ごしながら、どうしようもない不安だらけの灰色の今を抱え込むようにして生きている。そこに最後の希望への糸口が見出せるとでも思っているかのように。その今という瞬間の先にある将来の時間の流れの中に、何も希望が見出せなくなっている。そこに待ち構えているものは、今はまだ暗黒に包まれていて、漠然としか眺めることはできないが、それは確実にくる。そのことだけは、確実に分かっている。孤立して無業な状態が、そう簡単には好転しないことも、すでに痛いほど思い知っている。だからこそ、そこで感じられる不安は、とてつもなく大きく深く重くなる。そして、それは片時も離れずに胸の中にあり、ずしりとのしかかり続けている。ただ、最悪の暗黒に包み込まれてしまう将来というのは、今から5年後のことかも知れないし、もしかすると10年後のことかも知れない。そう考えると、少しばかりの猶予があるようにも思える。だがしかし、やや極端なことをいうならば、それはすぐ先の明日か今のその次の瞬間のことかも知れないのである。社会の片隅や奥底で孤立している無業者たちの重苦しい不安の中では、明日も10年後もそう大差はない。そこには、重苦しい不安だけが、ただただ膨れ上がり渦巻いているだけなのだ。

暗く深い竪穴のような場所に落ち込んでしまったままで、何もできなくなってしまう。自分でも、自分の落ち込んでしまっているそうした状況が、とてももどかしい。だがしかし、決して何かを諦めてしまったわけではないのだ。人間らしく生きることを諦めてしまっているわけではないし、自分では誰よりも人間らしく生きようと思っているつもりではいる。だけど、どんなにそう強く思っていたとしても、なかなかそう全体的には思った通りにうまくはゆかないものなのである。うまくできてないのは、自分の力が全く足りていないせいかも知れない。だからといって、諦めてしまっているわけではないのである。そして、もう何をしても無駄だと思っているわけでもない。何もかもうまくゆかないことに対して、ただただ底知れぬ無力感に浸りきっているわけでも、何かをする自信を完全に喪失してしまっているわけでもない。この暗く深い穴の底から自力で這い出そうとして、精一杯に尖らせたかぎ針のついたロープを投げ上げようとしているのだが、それを引っ掛けるための適当な場所が全く見当たらないだけなのだ。そのための適当な場所を探し続けるだけで、ただただ毎日が過ぎてゆく。突然、状況が一変するようなことは滅多にないだろうから、見当たらないものはいつまで経っても見当たらないままだ。ただ目を凝らして、ぼんやりと辺りを見回すだけの日々が続く。おそらく、その姿は端から見れば、ただただずっとそこに突っ立ってぼんやりしているだけにしか見えないかも知れない。かぎ針を引っ掛ける適当な場所が見当たらないのならば、ロープなど投げずに、腕と脚を使って壁面を這い上がってこいといわれるかも知れない。だが、それは決して容易なことではない。もしも、誰かがそのやり方の手本を見せてくれたとしても、そんなことが誰にでもできるとは限らない。そんな頼みの綱すらない状況に直面させられることで、さらにまたただただずっとそこに突っ立ってぼんやりしているだけしかできなくなってしまう。

社会の中での存在感がなくなればなくなるほどに孤独で孤立してしまっている状況に光は届かなくなり暗さは色濃さを増してゆく。そして、そうした日陰になった部分に、とても貧しく寂しい階層が、ゆっくりと確かに広大な裾野をもって形成される。もうすでに、それはすぐそこにある。まるで壁や天井に点在するシミのように、知らないうちに社会のあちこちで小さな黒い点となって静かに佇んでいる。そのシミは、それぞれに硬直し凝固して、社会の奥底にこびりついている。強力な洗剤で洗い流そうとしても、そう簡単に一掃して洗い流せるものではない。そのシミのそれぞれは孤立していて、社会の中での存在感がまるでなく、なかなか目には全体像が見えないものである。まるで頑固な焦げ付きのように、社会の鍋底にびっしりとこびりついているシミ汚れ。ひっそりと、実に静かに。そのシミは、このひとつの大きな鍋の底に160万以上も息をひそめるようにこびりついているのである。これほどの数になったら、たかが鍋の底の汚れやシミだとしても、もはや見て見ぬ振りはできないはずである。そのこびりつきは、あまりにも大量でひとつひとつが深刻な問題を孕んでいるのである。さて、どんな高度な技術をもった天才料理人であれば、この汚れきった鍋を使って、おいしい料理を作ることができるであろうか。
この鍋底に汚れのようにこびりついた孤立無業者の階層は、これから時間の経過とともに確実に社会という大鍋にとっての致命的な重しとなってゆくであろう。この硬直し凝固していながらも、どんどんと膨れ上がってゆく、社会の中では存在感の全くない底辺の階層の存在によって、社会はその重みに耐えきれずに正常には立ち行かなくなり、全く前進することができなくなる。そんな社会全体にとっての悲劇が現前化してしまう前に、すっぱりと汚れた鍋底を切り捨てて前に進んでしまうのもひとつの手であろう。静かにひっそりと暗闇に落ち込んでしまっているものたちは、道端の石ころや雑草と同然の存在である。そんな塞ぎ込んでいたずらに停滞している階層などは、絶えず高みを目指して前進してゆこうとする人類の未来にとっての重荷であり、飽くなき幸福の追求にとっての障害でしかないのだから。思い切って見捨てて切り捨ててしまったとしても、何の問題もなく、かえって(前向きな)社会にとってはプラスとなることであるのかも知れない。鍋底なんて、また新しいものを用意すればよいのだ。孤立無業者たちよりも、もう少しそれなりに動けて旨味を搾り取れる使い勝手のよい層から。

豊かで賑やかで色鮮やかな日常がある。真っ当な人間の人間らしい生の在り方としての。だが、どうやら現在の社会が設けたルールにおいては、人間であれば誰でもそうした真っ当な人間らしい生が無条件に生きられるわけではないようだ。人間が人間らしく(現代人らしく)生きるためには、それなりの条件をクリアしなくてはならないらしい。そうした条件というものは、いつの時代にも(その時代なりの条件として)あったものなのであろう。だが、この社会においては、その条件のハードルは、とても高い位置に設定されている。ただし、真っ当に飛べる能力と従順さがあれば、そのハードルの高さは、それほど高いと感じられるものではないのかも知れない。しかし、誰もが、そのように真っ当に飛べる人間ばかりとは限らない。人間の中には、とても重いものたちが存在している。もしかすると、現代の社会においては、誰もが真っ当な人間らしく生きる条件を楽々とクリアしてしまっては、ちょっとまずいことでもあるのではなかろうか。踏みつけるための大量の石ころや雑草の存在を切実に必要としている社会が、もうすでに今ここにあるということなのかも知れない。
豊かで賑やかで色鮮やかな日常とは、孤立した暗いものたちにとっては完全に無縁な世界としてそこにある。闇の底の生には、賑やかさも色鮮やかさもない。豊かで賑やかで色鮮やかな日常では、大量消費社会の高度に発達した機能が、そのプログラムそのままに最大限に謳歌されている。その日常の生活を旺盛に生きようとする生のサイクルが、社会に備わっている消費と生産の機能を正しく前進させる機動力/原動力となって、それが大量に消費される商品の流れによって色鮮やかに彩られれば彩られるほどに前進のための推進力は強力になり加速度を増してゆく。そして、そうした絶えず速度を増してゆく社会の道端に、石ころや雑草のように孤立した無業者たちが、賑やかな動きとは全く関係なくジッとこびりついているのである。
大量消費社会は、ありとあらゆる需要に応じるためにありとあらゆる商品を経済の場の隅々にまで行き渡らせる機構を、人体における血管のように張り巡らしている。そして、その機構は、自らの内部の根幹部分を強固にしてゆくための要請として、機構そのものである張り巡らされた血管からごっそりと栄養分を吸収し続け、再びそれを機構の隅々にまで吐き出して、その莫大なサイクルを拡大させてゆくことで、より強固な機構を構築してゆくシステムのムーヴメントを完遂させる。高いものは高いものを購入する層へ。安いものは安いものを購入する層へ。採取的には、あらゆる商品が大量消費のサイクルという動きと速度を渇望する大きな口に(的確に狙いを定めて)飲み込まれてゆく。この終わることなき消費行動への欲動による循環こそが資本主義のシステムが先行投資したものを消費者の懐から取り返すための(終わりなき)機会となる。社会を構築している機構は、消費者による大量の消費(活動)を通じて、出来るだけ多くの投資分と利益を掴み取ろうと加速してゆくサイクルを、その機構そのものの(構築/再構築の)ために大きく勢いよく回し続けるのである。
加速する部分は、どこまでも加速してゆく。だが、その周縁では、中心の加速度が増せば増すほどに、溢れてしまった層が猛烈に堆積してゆくようにもなるだろう。消費社会を加速させてゆく機構は、その速度を落とさぬために、高いものを高く大量に消費する層を中心にして効率よく回り続ける形に明確にシフトしつつある。機構は、うまく潤いながら賑やかに回り続けることが出来れば、その消費が高いものを大量に購入する豊かな層のみをターゲットとしたサイクルであったとしても、何の後ろめたさや疚しさを感じることはない。最初から、システムそのものには人間らしさなどは微塵もないのだから。それは、あくまでもシステムなのだ。そこでは、溢れるものは率先して(加速したサイクルから)切り捨てられてゆくだけなのだ。
また、長年に渡りデフレ的な状況が続いたことで、ジリジリと物価が降下を進行させたために、あまり多くを支払わずに、かつてと同じ分量の満足を手にすることが可能になっていた面は確実にある。経済のデフレ傾向における最もエクストリームな経済活動は、(手持ちが少ないゆえに)出来る限り安いものを(貪欲に)購入しようという層において急速に進行する。それが、賑やかで色鮮やかなはずの大量消費社会の中にあっても、貧しくても貧しいなりに安価なものを大量に飲み込んでゆく色褪せた(低価格品の大量)消費行動の維持を可能にするように(できる限り)貧しいものたちを繋ぎ止めることになる。さらに、大量消費の賑やかさの影には、全く大量には消費しない薄暗い層も出現してくることになる。彼らは、出来る限り安いものを購入しようという層をターゲットとして生産された低価格商品を、ほんの少しだけ消費して、極めて慎ましやかに生きている。そうした層の大部分を占めているのが、孤立無業者たちであることは言う間でもないであろう。
そのような、資本主義経済の(排泄する)汚れやカスのように鍋底に溜まっている、活動の範囲の狭さや規模の小ささからマクロな視点からは全く見通されず、ほとんど社会全体にとっては目立った大きな波風を起こすことも何らかの影響を及ぼすこともない、貧しさと侘しさに静けさとともに沈んでいる160万以上の人々は、本当に(社会的に/経済的に)どこまでも無意味な層でしかないのであろうか。静かに慎ましく暮らして、豊かさや賑やかさや色鮮やかさとは無縁に生きて(乾涸びて)、それなりの時間が経過したら、ひっそりと目立たぬように社会から退場してゆけばよいのであろうか。

ひっそりと多くを求めずに這いつくばるように生きている層が底辺にあるからこそ、豊かに潤う満ち足りて色鮮やかな層の存在が可能となっている面は少なからずある。貧しい層から広く薄く掠めとってゆくことで豊かな生活を成り立たせている層が、そこには確実にあるのである。貧しい層が薄暗い場所から浮かび上がろうとする緩慢なのろのろした動き(本能的な動き)に先んじて、その浮上の場所を予め(予測・特定し)奪い去ってしまうことで自らの生活に潤いを得ている層がある。道端で身動きとれずうずくまったままの孤立無業者たちの存在は全く目に入らず、彼らの存在が今のところ目に見えた影響を何ら及ぼしていないとそこでは感じられている。そうだとしても、有り余るほどの富や日々の生活の快適さや人間らしい生の満足を求めて上昇してゆこうと旺盛に活動する階層の下に、それを支えるための土台となる足場が山ほどに必要とされていることは、紛れもない事実なのである。
また、今まさに上層にいるものが、さらに上方へと伸び上がってゆこうとすればするほどに、さらに多くの高く積み上げられた広い裾野をもつ土台が必要になってくる。上層部は十分すぎるほどに潤うために下部の層から本能的に生活動のための養分を常に吸い上げている。その吸い上げられることになった下部の層は、そのさらに奥底の下部の層から活動のために必要なものを補うために吸い上げる。様々な段階の多くの上層部が豊かさと潤いを求めて栄養分を吸い上げる本能的な生活動の行為を行うことによって、広く薄く掠めとられる摂理に従ってほんの僅かなもつものを容赦なく吸い上げられるためだけに存在する最下部の層が形作られる。そして、効率よく効果的に栄養分を吸い上げるシステムと機構の要請によって活発に活動を繰り広げる、それぞれの階層が巨大な土台の上に土台を重ねて、上に立つものが下にいるものを踏み潰すようにして社会という名目を与えられて形成されたピラミッドが堆く積み上げられてゆくのである。このピラミッド状のシステムの大半が、ごく僅かな頂上付近の富裕層の莫大な豊かさと潤いを下から(それぞれの)生の本能によって支えているのである。掠めとられ吸い上げられるだけ吸い上げられて全く余剰をもたない最底辺の最貧困層は、巨大なピラミッド状の重しの下に組み敷かれ、そこにしっかりと貼り付けられたまま固定されてしまう。まるで、鍋底にこびりついた汚れのように。それもまた、本能的な人間の生き方のひとつなのであろうか。
貧しく侘しい160万の石ころや雑草のような階層を、今よりも確実に数段は豊かにするだけの余剰は、この巨大で豊かな社会には充分に備わっているはずである。だが、その潤いは暗い奥底の乾ききった土地にまで行き渡ることはない。人間本来の本能に従って有効に再分配されるはずの社会的な富は、幾層もの上方に位置する層を通過する際に、巧妙に少しだけ多く掠めとられてしまい、その上部の階層の中だけでひたすらに循環して、最終的に乾いた土の上に落ちてくるころには雀の涙ほども残ってはいない。利益/利潤を少しでも多く追求するという前進や成長を正義とする言い分がまかり通り、そこで正統とされる活動のための詐欺まがいのやり口が資本主義経済の原理として徹底的に完遂され全く隙がないほどに強化されているがために、最下層の石ころや雑草たちの地平には少しも(それを分け与えられて然るべきはずの)社会的な富の潤いは降り注いでくることはないのである。その地平は、(社会というピラミッドの重要など大部分でありながら)もはや社会的には社会階層のその下のそれに準ずるものとしてしか見なされてはいないのだろう。それゆえに、それらの富と豊かさは、全て賑やかに生の活動をする正当な経済人たちの手によって吸い上げられてしまうのである。この搾り取るものと搾り取られるものを分け隔てる摂理こそが、片時も休まずに公然と行われている資本主義経済の道徳観に則ったある種の搾取と欺きの手口の一端をなすものでもあるのだ。そして、この詐欺行為は、それと気づかれることなく巧妙により多くの利潤を流れの中から引き抜くことができればできるほどに賞賛を受けることにもなる。
社会の上層で快適に悠々と暮らす大量消費のサイクルを軸となって支えている層としては、いつまでも静かにひっそりと(賑やかさや色鮮やかさとは無縁に)貧しく慎ましく暮らしていてほしい現行の社会の土台をなしている層(これからもずっと社会の土台となってゆく層)がある。そんな個々に孤立した貧しいものたちの僅かな経済活動の中からこぼれ落ちる、ATMの手数料やローンの金利をかき集めて豊かに潤いを手にしている人間たちは間違いなくどこかに存在しているのである。ほとんど詐欺まがいの正当性をまとった手口で搾り取り、貧乏人の経済行動のパターンを予測しきった狡猾な機構を駆使して、そこからさらに可能な限り広く薄く吸い上げる。この社会/経済のシステムが延々と(少しずつ狡賢い知恵を働かせながら)繰り返される限り、静かに生きる侘しく貧しい層は、さらにひっそりとした暗い暮らしを余儀なくされてゆくことになるだろう。そして、その苦しい暮らしには徐々に全く余裕がなくなってゆき、その細々とした活動は薄っぺらで微小なものとなってゆかざるを得なくなり、次第にそこでは人間としての身動きらしい身動きはとれなくなる。まさに道端の石ころや雑草のように、そこにうずくまっていることしかできなくなってしまうのだ。
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