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zoom RSS 誰が孤独を歌うのか(五)

<<   作成日時 : 2014/02/01 23:00   >>

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誰が孤独を歌うのか



今ここに生きる人間は、欲望と欲求を満たして、できるだけ人間らしく生きようとするならば、その人間は死んだように生きなくてはならないことになる。どんなにひとりの人間が、できるだけありのままに人間らしく生きようとしても、その人間は自らの人間らしさというものを決してひとりでは抱えきれないであろう。人間は人間のもつ人間らしさに押し潰されてしまい、生きながらに死んでしまう。どんなにありのままに人間らしく生きようとしても、生きることの重さに耐えられず人間は決して人間らしくは生きられないのだ。
よって、できるだけ人間らしく生きようとする人間は、自らのありのままの人間らしさを殺してゆく生き方を選ぶようになる。生きながらにして死んでしまうのではなく、人間は自らのありのままの人間らしさを殺すことで、死んでしまった人間らしさを切り捨てて死とともに生きてゆくのである。『葉隠』における武士道では、あまりにも人間らしい生から一歩退くことが、人間らしくよく生きるための道であることが説かれていた。これは、人間というものが自らの(身の丈に合った)人間らしさをより生かすために、一歩ありのままの人間の生から踏み出して、自らの生の余剰部分を切り捨てることで道を見極めやすくなり真っ直ぐに生きてゆけるということである。
人間は人間を殺し、人間が人間に殺される。人間が殺す人間は、死んでも生きている。人間は、何度殺しても人間を生かしておくことができる。殺された人間は、殺された人間の中でゾンビとなる。それは、殺しても殺しても決して死ぬことはない。人間が人間らしさとして考える人間の生は、人間のありのままの人間らしさのゾンビであり、それをいくら殺しても人間そのものちっぽけな人間らしさは死んでしまうことはないのである。だが、その厄介な人間らしさを瞬間的に殺して、きっちりと処分しておくことは、人間の生にとって、とても必要なことであると『葉隠』の一文は述べている。
もはやどこにも神が存在する余地はない。神を作り殺害した人間が、自らも自らを殺害し死んだように生きている。自らのありのままの人間らしさを殺した人間は、その人間らしさを事あるごとに殺し続けることでより人間らしくなり、人間の生を犠牲にしながら一歩一歩進み続けている。そして、そのちっぽけでか細くなってゆく人間の生は、どこに向かってゆくのだろう。殺されずに生きながらえている人間の生は、何度も切り捨てられ少しずつすり減ってゆく。いつしか、人間は人間の生を生きるだけではなく、人間の死をも生きるようになってしまうのではなかろうか。そして、その切り替わる地点が、旧次元と新次元の境い目となる。
前向きにがむしゃらに頑張るのでも、生きるために足掻くのでも、平穏な生へと沈降するのでもない、正しく人間らしさを突き詰めようとすることで削り取られすり減ってしまう人間の生。ありのままの人間らしさの死の犠牲の上で、よりよく生きようとする人間が、人間の生を生き、人間の死をも生きる。欲望と欲求に突き動かされて、人間は人間を殺して前に進み続ける。それが人間がありのままの人間の生を前にして本能的に導き出した究極的な正しさでもあるから。そして、そこに合理性と正当性を見出し、あるラインよりも一歩前に進み出てしまったものは、もう二度と後戻りはできないのである。

人間のありのままの人間らしさが人間が人間らしく生きるために殺され、その死んでしまったありのままの人間らしさの屍の上で人間は生きる。もはや、そんな人間の人間性の大部分はゾンビ化してしまっているといってもよい。ゾンビ化した人間性に圧迫されて死んでいる自分を亡きものとして生きている人間は、生きた人間らしさや本当の人間性を取り戻すことができるのであろうか。殺害されゾンビとして生き返ったものは、どんなに蘇生して生き返ったとしても、ゾンビのままではもはや生きているものではない。死者だけがゾンビとなる。では、人間のありのまま人間性は、このまま人間が生きてゆくために死滅してゆくままにしまってよいのであろうか。
人間が自らの手で人間のありのままの人間らしさや人間性を犠牲にする以前には、その役割は神や神的な存在に委ねられていた。それらが、人間の生に苦痛と不安を与えるありのままの人間の人間らしさを取り上げ、人間の人間性を殺し、人間が世界において人間であることに苦しむことなく人間を人間らしく生きられるようにした。その場所では、人間が自然にもつ人間性の全てが、全ての個人に割り振られることはない。それらを取り上げ引き受けるからこそ、そこに神や神的な存在が出現する。人間は人間の世界に人間にされたものとしてある。人間が自然や必然を放棄することで作り出された超越的存在が、人間が抱え込むありのままの人間らしさを手放させ、そこに示される人間らしい生の道を真っ直ぐに歩み出させるのである。
そこには常に神々しいものがいた。いつでも、どこにでも。神が奉り立てられるところに、全ての人間らしい人間が歩み出る。絶対的な超越的存在の前では、人間は常に全員であった。誰かが「一人ぽっち」のとき、全員が超越的存在の前では「一人ぽっち」であった。そこでは、人間がひとりきりにさせられることはない。誰もが「一人ぽっち」にはならず、あるがままの人間らしさや自然な人間性に直面せずにいられた。そして、それゆえに極端な不安や苦悩も個々の人間の上には直接降りかかってはこなかった。そこで超越的存在に示された神の領域と悪魔の領域のその間に、全ての善と悪のバランスを包み込むことができていたのだ。
しかし、人間は神の領域から人間らしさや人間性を取り戻した。人間は自ら人間らしく生きる道を探り、そして自分の足で立つようになった。そして、そこに深くどうしようもない孤独が穿たれた。だが、そんな人間が、また「死ぬ事」を見つけて、そこに神を蘇らせようとする。死んだ神に代わって新たな神を打ち立てることは、明らかに後退であり、迂回であろう。だがしかし、入れ物ごと上下をひっくり返すことができるほどにバランスを狂わせることができるのは、その新しい神だけであるのかも知れない。人間の人間らしさを見失った生のあり方を瞬時にして変えることができるのも、もしかするとその新しい神だけであるのかも知れないのだ。

生と死とは、何であろうか。それは、ひとつのコインの裏表のようなものであろうか。真逆なもののようでいて、実は一体であるものなのではなかろうか。生きているのは、ただ死んでいないというだけのことであり、死んでいるのは、ただ生きていないというだけのことでしかない。生きているものは、ここにいる。死んでいるものは、もうここにはいない。死というものが無な存在としてあるのであれば、ここに存在するということは決して有り得ないことである。もし、死が無であれば、もはや生きてはいないものが、こちら側からコインの裏側の死の領域へと移行したとしても、そこには無しかないのである。全てが無なのであれば、そこには時間も存在することはない。よって、生きているものの側の観点から見て、そのもはや生きてはいないものがどんなに長い時間を死んでいたとしても、死んだものにしてみれば、ほんの一瞬でコインの裏側から再び生の領域へと戻ってくることも可能なのである。今ここで生きている人間が死んだとしても、その人間は死んで無の存在となって人間らしさや人間性の全てを失うことになるが、死の領域に入った瞬間に再び人間として人間らしく飛び出してくることになるのである。生きた人間が生きた人間ではなくなり、死んでいる状態で存在できるのは、限りなくゼロ/無に近い一瞬でしかないのである。
人間は、死という無を生きられるであろうか。人間として存在するものが、無として存在することは可能であろうか。では、人間が人間らしく生きるということは、それがそのままありのままの人間らしさや人間性の全てを失った死んでいる状態なのであろうか。人間は生きながらに死んで無になれるのだろうか。コインがひっくり返り、あらゆるものが転倒した世界では、死は生になり生は死になる。
武士道とは、死してよく生きるという、人間が人間らしく生きるための道であった。そして、死とともに生きる人間の生と生きながらに死ぬ人間の生は、人間が人間らしく生きることにつきまとう不安や苦悩から人間を解き放つことになる。死すことが人間の人間らしい生と重ね合わされてゆくに従って、死は生となり生は死となって、人間は生きながらにして生死の境を越えてしまうことになるのかも知れない。コインには表も裏もなくなり、表だけしかないコイン、もしくは裏だけしかないコインとなってしまう。
表だけのコインと裏だけのコインとは、死となった生と生となった死が、ただひたすらに回帰する無限世界である。三次元からは見通せない次の次元の世界もまた、無限の世界である。そこでは、あらゆる形の組み合わせの道筋の線が、今ここの瞬間を基点に全方位に走り出している。そして、その次の瞬間には、また新たな無限の組み合わせが目前に立ち現れることになる。そこには、無限に無限の道が生成し続ける。そして、その組み合わせの中心点を死という無が横切るのは、ほんの一瞬にも満たないのだ。生者を死が襲った次の瞬間には、その生は再び最初の地点から、無限に錯綜する線の組み合わせの中で寸分違わずに繰り返されることになる。
あらゆる組み合わせが可能となる世界では、全てが一定の方向へ向かって流れてゆくことはない。あらゆるものは、前も後ろも上も下もなく飛び散り、ごろごろと転がり回る。動き出したものは、延々と転がり回り続ける。その動き出しの力にあわせて、それぞれに個別のペースで、それぞれの速度を保持しながら。延々と転がり回り続けていると、どこかで回転が噛み合うものに出会ったり、滅多に回転が噛み合うものに出会わなかったりする。回転が噛み合うもの同士の間では、波長や周波数の同調が起こり、そこに交感や共感が生じる。回転が噛み合うもの同士はくっつき、速度に変化が起こり回転が噛み合わなくなると離れ、またばらばらに延々と転がり回り続け、そしてまたどこかで回転が噛み合うものに出会う。
延々と転がり回り続けているものの中には、ゆっくりと動いていて静物ように止まって見えるものがある。そして、おそろしく速く動いていて、それが何なのかよく見えないものもあるだろう。だが、いずれの動きであっても回転が噛み合うものに出会う確率は全く同じなのである。それぞれに延々と転がり回り続けながら、それぞれにくっついたり離れたりするだけなのだから。

死んでしまった神を生き返らせることはできるのであろうか。だが、わざわざ人間が神を生き返らせるまでもなく、そこら中に神的なものは自然発生している。人間の目に見えているものといえども、突き詰めて考えてゆけば、どうにも訳の分からないものだらけだ。ただ目に見えているものの、目に見えている部分を見れているだけで、そこに見えているものの何を理解し何が把握できるというのであろうか。実際に目に見えている部分を見ているだけでは、それを表面的に認識し分析し把握することぐらいしかできないのではなかろうか。
そこら中で訳の分からないものは自然に発生していて、それは超越的存在の神的なものとして表面的に認識し把握されている。そこでは、あらゆるものが神なのである。どんなに目を凝らして見ても、どんなに奥深くまで把握しようとしても、どうしても掴み取れない部分をもつものばかりであるという意味において、全ては訳の分からない/得体の知れないものばかりなのだ。あらゆる人/あらゆる物/あらゆる事柄は、超越的な神的な部分/側面をもっている。
何かが起きるとき、それが快いことでも快くないことでも、あらゆる人や物や事柄は、超越的な部分や側面をもつ神的なものとして受け入れられることになる。あらゆることの組み合わせとして起こる出来事が、全てが自然で必然なこと/ものとして処理されるとき、その時々に、神的なものはその超越性によって逃走するであろう。そこでは、生きることも死ぬことも、もはや不安でも苦痛でもない。全ては、超越的な訳の分からない/得体の知れないものばかりだ。全ては超越性をもって漂うのみの神的なものであり、全ては巡り巡って快をもたらすものとなる。
悪行ですらもまた快いものとなる。そこに罪の意識は生じない。善と悪の認識や把握もまた意味をもたぬものとなる。そもそも意味をもたぬことは、行為の目的としても意識されなくなる。そして、殺害された神もまた神的なもののゾンビとしてそこにあり続ける。生きることで引き受けなければならなくなる罪もまた快いものである。全てのことは引き受けられて快いものとならなくてはならない。
全ての事柄は、無限の組み合わせの中から偶然という必然によって選択され、そこに現れる。それが、そこにあること自体が、すでに快であり、喜びである。もしも、そこで起きたこととは全く真逆のことが選択されていたとしても、そこではそれは快なるものとして受け入れられるであろう。あらゆる組み合わせを受け入れることは、全ての組み合わせの無限の可能性の一瞬の結晶を、そこあるもの/そこにあったかも知れないもの/そこにないもの/そこにあるべきであったもの/そこにないはずであったものとして、受け入れて快とすることである。
全ての出来事は、それすなわち快であり、喜びである。それは、その瞬間に一回限りでしか起きないものであり、どれほどその瞬間が繰り返し生きられたとしても、それはその瞬間に戻ってきてそこで起こることになる。それは、いつまでもどこまでも回帰する出来事として、目の前で最善にして最快なものとして選択され/選択されていたのである。偶然という必然に命運をまかせ切ることによって。

人間らしく生きようとする人間が密集している過密地帯で生きている人間の生は、どんどんとか細いものにならざるを得なくなる。殺害した自らのありのままの人間らしさの死臭に圧迫されて、迫りくる死の気配に押し潰されそうになりながら、今ここで生きている。だが、その大半の部分は死んだままであり、生きながらにして死んでいるようにも見える。実際、人間としてよりよく生きるためには、ありのままの人間らしさや本来の人間性といったものは、大変に邪魔になる。その人間としてよりよく生きようとする生においては、本当はそこにあるべきものである人間性というものは、殆ど窒息して死んでしまっているといってよい。人間は生きれば生きるほどに、生きている自分というものを失ってゆく。
ただ前だけを向いて頑張って突き進み続ける人間の生は、どんどんと(無駄なありのままの人間らしさが削り取られ研ぎすまされて)細く尖った一面的なものになってゆく。ただ生きるために生きる生が、そこにはある。自分で何とか処理のできる範囲内で、よりよく生きようとする人間によって、その人間の人生は設計される。その道を歩んでゆくためには、人間らしさも、人間性も、人間としての可能性も、全てが放棄されることもある。そして、単純な欲望や欲求を満たすことに自己実現のための生の大部分は費やされるのだ。目の前に見えているものだけが全てであり、それ以外のことについては考えを及ばせない。ただ生きるのである。本当に死んでしまわないように。足許の細い道を一歩でも踏み外せば転げ落ちてしまう。考えも及ばないような下級の生へ。そして、そこに待っているのは死だ。何も考えずに死んだように生き続けるために、余計なことはせずに、ただひたすらに死者の仮面とともに生きるのみだ。自分で何とか遣繰りできる生を、細々と生き繋いでゆく。
仮面の奥底に小さく縮こまっている本当の自分をひた隠しにして生きる人間の生は、どんどんと(本当のありのままの人間生との接触がないままに)それぞれにバラバラなものになってゆく。とてもとても小さな人間たちが縮こまって生きてゆく社会。その硬直した状況が極限まで行き着いた先に、大きな転換の時が訪れるのだろう。しかし、その大いなる時が訪れる前に、今ここにいる人間というものは過酷な人間の生というものに耐えられなくなって絶滅/消滅してしまっているのではなかろうか。人間としてよりよく生きるための完成された生を生きる道を見出し、それを突き詰めていった先で人間は滅亡して、そんな人間らしさというものを全く意識的に省みることのない人間以降のものが生まれでる瞬間が、その来るべき転換の時ということなのであろうか。

はたして、どこまで人間が極限まで近づけば、どうしようもない孤独は、ポジティヴなものへと変換されることになるのであろうか。孤独であることが、それだけで浮上や上昇につながる瞬間とは、いつになったら訪れるのであろうか。そして、そうした動きが常態的に起こりうる社会の形とは、いかなるものであろうか。その変節の到来は、あらゆる組み合わせの動きが動き出すきっかけとして(世界から退場してゆく)人間らしい人間の耳に告げられることであろう。
研ぎすまされた生を生き続けるものたちは、その生のあまりに真っ直ぐなか細さによってゆっくりと没落してゆく。その終わりのない降下が継続して続くことによって、孤独なものたちはぬかるんだ地盤ごと下から持ち上げられる。黙々と前向きに生きる仮面のものたちによって支えられて、重く沈んでいたものたちが上昇する。二足歩行によって前進を続けていた人間の、その大切な足許を支えていたものが崩れ去り、よりよく生きようと欲していた人間たちも人間以下のものとなる(その場にしゃがみ込み地面に這いつくばる)。その大いなる時へと向けて備えるために、前進してゆく動きから隔絶されていた孤独なものたちは、極限の変節点に差し掛かる遥か以前からもはや人間とは見なされなくなっていた(その場にしゃがみ込み地面に這いつくばっていた)のかも知れない。人間以下になり人間として認められなくなっていたものたちが、絶滅へと突き進む幾重もの死にまとわりつかれた人間たちの場所の外側で/内側で/中核地点で、新たな時代の太陽の如く浮上してゆくことになる(人間らしい人間以降の何かとして)のである。

どうしようもない孤独なものたちは、どこを向いて歩くべきなのであろうか。少なくとも、上を向いて頭上にあるものを見上げるというような、無意識のうちに自分を低い位置に置いてしまうような行いは避けるべきであるのかも知れない。もっとも、上を向いて歩いていたとしても、そこに見えるのは、ただの空だけなのだが。人間は空の下しか歩いてゆけない。涙がこぼれそうになったなら、無理して上を向いて我慢などせずに、そのまま溢れ出るにまかせて、後できれいなハンカチで拭えばいい。もしかしたら、その溢れ出る涙を拭ってくれる心優しき人が、そばに現れるかも知れない。大概の場合、「一人ぽっち」な孤独なものに、そんなに優しく接してくれる人はいないのが当たり前のことではある。まあ、そんな孤独者にとっての宿命は、すでに十分に痛いほど承知されていることと思う。もはや、それはそれとして受け入れるしかないのである。そのために、いついかなる時も溢れ出して止まらなくなる涙を拭うためのハンカチは、自分でちゃんと用意しておかなくてはならないのだ。
人間にとっての幸せや悲しみは、空の上や星の影になどには決してありはしない。そんなものは、大抵はそのへんの地面の上に落ちているものなのである。だからこそ、しっかりと目の前に何があるかを見定めて歩かなくてはならない。「にじんだ星をかぞえ」て上を向いている場合ではないのである。どうしようもなく孤独なものたちは、暗い道を「一人ぽっち」で歩いているがために、どうしても悲しみの種ばかりを踏んづけて拾い上げてしまいがちである。その辺に転がっている幸せは、とても小さくて人目につかないものばかりなのだ。それは、光に満ちた明るい道を歩いていたとしても、なかなか見つけられないものなのである(おそらく)。だが、たとえひとつも幸せの種を拾い上げられなかったとしても、暗い夜道で悲しみばかりを踏んづけてしまうよりは、幸せの欠片さえ見つけられない方がよっぽどよいのではなかろうか。だからこそ、しっかりと足許を見て、慎重に進むべきなのである。
幸せだった過去の日々の思い出に浸ることは、とても後ろ向きな行いではあるが、それはそれで悪いことではない。だが、それと同じものを現在に取り戻そうとするのは、意欲することからして無駄である。そうした幸福な話が可能になるのは、小説や映画の中だけである。現在という瞬間に舞い込んでくるのは、いつだって真新しい幸せや悲しみなのである。上を向いてみたり後ろを振り返ってみるよりは、ちゃんと今現在に手の中にあるものを吟味している方がいいだろう。ただし、それをじっくりと行うには、春の日や夏の日や秋の日に感じた実際の幸せや悲しみというものを参照しなくてはならない。本当の幸せを知るためには、深い悲しみの感覚を忘れ去ってはいけない。あまりにも辛い時に涙をこぼすことも決して悪いことではない。全ての喜びや悲しみの味とは、的確に幸せの種を手に取ってゆくために、前もって噛みしめられていなくてはならぬものなのである。
誰が孤独の歌を歌うのか。今ではもう誰も本当の孤独を歌わなくなってしまったようである。それならば、どうしようもない孤独の淵に沈むものが、それを声高に歌うしかない。そんな孤独者の歌などというものは、誰の耳にも届かないかも知れない。だが、深い深い闇の底からは何を歌っても誰にも聴こえないのが当然のことなのだ。誰かに聴かせるためにではなく、ただただ降り掛かり続ける不安と苦痛の在り処を確かめて、それを刻み付けるために本物の孤独の歌を歌えばよい。光のあるところでは目も当てられないような、真っ赤な血の涙を流しながら、誰にも見られることなく、誰にも聴かれることなく、地上の詐欺詩人には歌えないような生きた苦悩する人間の言葉で歌え。孤独者の痛々しい歌は、その不安や苦痛を和らげ癒すようなものでは決してない。それは、そんな不安や苦痛がありのままの自然でであり必然であることを実感し、それらがどこからやってくるのかを真っ直ぐに見据えて、その苦々しさを真正面から味わい尽くすための歌である。(13年)

〈メモ〉

どこかに自分と同じように孤独を感じている人がいても、なかなかその存在を感じることはできない。孤独は見えづらい。孤独なものは隠れている。孤独なものは孤独を隠している。孤独なものの孤独は見えづらいがゆえに、その孤独はどうしようもないほどに深まる。孤独なものが誰からも見えなくなってしまっているのは、それはきっとそれが特殊なことだからではないからなのである。きっと、どこかで同じように孤独を感じているものが、誰からも見えづらくなり、同じように隠れて/隠されてしまっているはずなのだ。その姿は決して見えないため、通じ合えているような実感をもてるような気配は全くないであろう。だが、きっとそうなのだ。どうしようもな孤独は、この暗い底辺のあちこちにごろごろと転がっているのである。

生きることに疲弊し、自らの生を自らの手ですり減らしてゆく。前向きに生きることは、生きる苦しみとの直面の連続である。立ち止まり立ちすくんでいる孤独者はじっと動かない。生きることに疲弊しきっているが、その生をすり減らしはしない。むしろ、次々と降り掛かってくる不安や苦痛に埋もれながら様々なことに考えを巡らし、自らの生にたくさんの瘤をつくり、それどんどんと膨れ上がらせてゆく。そして、そのいびつな膨張や突起した部分には、孤独者の有り余る力や生のエネルギーが蓄積される。

人間を没頭させることのできる気晴らしは、とても優れた気晴らしである。優れた気晴らしの前では、どんな不安も苦痛も跡形もなく霧散せざるを得ない。気晴らしに没頭することで、生に思い悩んでいた自分を極限まで小さく萎ませることができる。それを極限まで小さくすることができないならば、気晴らしが気晴らしとして成り立ったとはいえない。気晴らしもまた人間を人間らしくする無感覚を誘発する。気晴らしを日常的に行うことで孤独者は自分の孤独を省みなくなる。気晴らしを日常的に行うことで人間は自分の人間性を省みなくなる。瞬間的に。そして、慢性的/継続的に。

世界の極と極とその間。これらの全ては、ひとりの人間の内部にあるものでもある。ある時は、当面の欲求が満たされて凪のような平穏の中にいる人間。ある時は、明るく柔らかな光に包まれて前向きに進んでいる人間。そして、その次の瞬間には、暗い深い闇の底で孤独に浸りきっている。

不安や苦痛は、孤独者を弱らせたりはしない。孤独者は疲弊しきってはいるが、その生は少しもすり減ってはいない。厳しく苛まれるほどに強く増大してゆく生命力。生命のインフレ危機と隣り合わせにして成り立つ社会は、全ての人間をバラバラに砕いて、孤独なものたちの存在を肉眼には見えないほどに小さくしてゆく。だが、その弱さや小ささゆえに、限界を越えようと(立ちすくんだままに)奮い立つ動きが生ずることにもなる。バラバラな小さいものほど強くなる。バラバラな小さいものほど強く生きようとする。

人間にとって好ましくないと見なされる生を生きることは堕落であろうか。怠惰であろうか。非人間的であろうか。より意識的に肯定的に生を前向きに生きることで、人間は人間を堕落させる巨大な落とし穴を乗り越えることができるのだろうか。だが、それを乗り越えてしまった先では、好ましい生も好ましくない生ももはやなくなるのではあるまいか。好ましくない生を乗り越えてしまったら、ここでは好ましいと思われているような生は、そこではその意味を失ってしまうだろう。それと同時に、すでに人間の生にとって好ましくないとされるものもまた乗り越えられしまってているのだ。好ましい生とは、傍らに好ましくない生があって、はじめて好ましい生となる。人間にとっての好ましい生とは、今ここで好ましくないと思われている生と一対であり、その好ましくない生の一部でもあるのではなかろうか。それは、コインの裏表のようなものなのではなかろうか。

そのまま人間らしい前向きの生の道を突き進んでゆくと、どこに辿り着くと思いますか。全てを振り絞って全速力でゴールラインを駆け抜けると、そこには次元の異なる生が到来しているかも知れない。あらゆることの無限の組み合わせが、意識する前に意識される/見る前に見えている/知覚する前に知覚できる世界である。わたしたちの目をくもらせるものは、そこには何もない。そこでは、全てのことが正解となり、全てのことが誤りともなる。選択は無限に可能である。最善のものが最悪の道となることもあれば、最悪のものが最善の道となることもある。あらゆることが見えている目には、もはや今の先にある何かを特別に意識するということはなくなるであろう。意識をする前に全ての行いはなされる。意識は後からついてくる。そこには意識的な選択はない。だがしかし、何も意識しないでいるということもできなくなる。

孤独者は救われなくてはならない。孤独者が救われるとは、いかなることなのであろうか。孤独者が(一時的にでも)孤独でなくなれば、孤独者は救われたことになるのであろうか。人間は本質的な部分において誰もが孤独なのではなかろうか。全ての面で誰かとずっと一緒に生き続けられる人間は誰もいないであろう。孤独者を孤独の淵から掬いあげて、もう二度と孤独を感じないように誰かしらを全面的にそばに置いておくだけでは、孤独者の救済にはならない。こうした荒療治を好む人間は非常に多いのであろうが。それでも、やはり孤独者は根本的に本質的に救われなくてはならないのだ。孤独者が、その生に染みついた孤独とともに人間らしく生きることは、全く不可能なことなのであろうか。

ちっぽけな人間のちっぽけな人間らしさのいくらかを前面に出して生きることすら許容できない世の中や社会へと、前向きな人間たちは率先して向かっている。ちっぽけな人間のちっぽけな人間らしさのいくらかを前面に出して生きることすら許容できない世の中や社会へと、前向きな人間たちは追いやられている。ほとんど人間らしい人間らしさのない人間として生きることを、人類の歩みの突端で人間たちは激しく欲望しているのだ。

ある程度のこの世の中や社会の成り立ちへの貢献をすると、その分だけ他者に対して不寛容になってもよいようだ。それが、この世の中や社会のルールのひとつでもある。

それを見えなくしているものは何か。暗いところに隠れ込んでいるから見えないのか。だが、そこにそれを追い込んでいるのは誰なのか。暗い狭い場所にしか居場所を与えていないのは誰か。厄介なものたちは厄介払いしておくのが一番だと考えているのだろう。見えなくされているのではない。最初から見ようとしていないのだ。

どうしようもなく孤独である。本当に、どうしようもない。

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