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zoom RSS 誰が孤独を歌うのか(四)

<<   作成日時 : 2014/01/01 22:00   >>

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誰が孤独を歌うのか



江戸時代に書かれた書物『葉隠』に「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という有名な一節がある。この『葉隠』とは、武士の心得を仔細に渡って記述した膨大な書物であるが、この一節は、そのうちのほんの一文でしかない。よって、『葉隠』の全巻を読み通さなくては武士について/武士道についての全容は読み取れないであろうし、この一文の前後の文脈を慎重に読み込まなくては、ここで説かれている武士道というものについての本質も、受け取り方を誤ったり取り違えてしまう可能性は大きいであろう。
この「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という一文は、武士と武士が剣と剣を交えて戦い、その真剣勝負の最中で天命を全うするのが武士の生きる道=武士の真髄であるというようなことを意味しているのではない。このような解釈からは、武士たるものは潔く敵と戦い全力を振り絞って最後には戦場の花と散ることが美徳であるというような誤った考え方が導かれがちである。これは、臣下として武士たちを戦わせる側にとっては実に都合の良い解釈であるといえるだろう。ひとりでも死ぬ気で戦う武士が多い方が、戦い全体で勝利を収める確率は高まるであろうから。その戦いで50人の武士が死んだとしても、その50人が死ぬ気で大立ち回りを演じ、それぞれに10人の敵を切り捨てていたら、敵方にとっては500人の武士を失わせる(10倍も)大きなダメージを与えることになる。そうした戦わせる側からみた効率性のよさを主眼とする解釈が(戦わされる側にも)定着することで、いつしか主君のために死ぬこと/お国のために死ぬことが武士に限らず戦いに赴くものにとっての最高の美徳であるかのように吹聴されるようになっていった。そして、20世紀に人類が経験した大きな戦争では、そうした間違った武士の心得の解釈による誤った考え方の下に、多くの命が無下に失われる事態を招いてしまったことは記憶に留めておく必要がある。
ここでは「死ぬ事」こそが武士の道であるかのように述べられているのだが、これは実際に生命が絶たれて死ぬということについていっているのではなく、寧ろこれは生きることの本質を見極めることのできた人間によって述べられた言葉であることに注意すべきなのである。つまり、真剣による戦いと隣り合わせに生きる武士の生死についてというよりも、より広範な意味での人間の生き方・生き様を説いた言葉として受け取った方が、この一文の意を理解しやすいのではなかろうか。「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」とは、人間にとっては「死ぬ事」こそが生きることなのだと、生と死の思考を突き詰めた先で思い至った、純粋な驚きを表している言葉だといえるであろう。
実際の死と「死ぬ事」は、全く違うことである。この「死ぬ事」を、生きた人間の状態で表すとすれば、それは確固たる(生きる)自分を失うということに当てはまるであろうか。人間が整然と正しい行いをする時、その人間の中に自分というものはない。要するに、その人間の中に自分という意識は全くなく、ただその行いだけがあるという状態である。そこに、自分というものが入り込む隙は殆どないのだ。そのような生の状態のことを、『葉隠』では「死ぬ事」と書き記しているのである。自分の中の自分を制して、あたかも死んでいるもののように生きる。何事かをなす人間というのは、死んだままに生きることによって、真っ直ぐに突き進むことができるのである。この「死ぬ事」という境地を見つけられずに生きようとしてしまうものは、必ず曲がりくねってしまうことになるだろう。そして、自分で自分のゆく道を邪魔立てして(立ち往生して)しまうことになる。
こうした人間の生き方のあるべき姿を説いた教訓は、武士にとっての生死を賭けた行動である太刀を扱う際にも、より研ぎすまされた形で用いられることが可能となるのである。武士と武士の真剣勝負の場においては、そこでいかに自分の中で自分の意識を殺し、生臭い生に執着した迷いをなくせるかが最後の決め手になったりする。「死ぬ事」を見つけて、死んでいるもののように無心となることによって、太刀はそれ揮うものの思い通りに真っ直ぐに揮うことが可能となるのである。
刀を交えて戦うことを生業とする武士は、その生と死を極限まで突き詰めた観点から観想し、人間の生の根幹にあるものは「死ぬ事」と発見した。そして、それは、あらゆる枝葉を削ぎ落とした非常にシンプルな一文で表されることとなった。それが、極めてシンプルな考え方からなるものであるから、それゆえにこの優れた一文は、死ぬ気で生きる、死んだ気で生きる、死んだつもりで生きる、などの様々な角度からの解釈によって言い換えることが可能となってしまっているのである。
だが、これは死ぬために生きるという考え方とは決定的に違うものである。人間が生きる道においては、死ぬことは決して目的にはならない。「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」とは、よりよく真っ直ぐに生きるための人間の生の在り方を説いた言葉なのである。武士として人間として死を思い生を思い、「死ぬ事」とともによりよく生きるということを『葉隠』の一文は説いている。
「死ぬ事」とは、自分を殺してしまうことである。人間が自らの手で自らの人間的な部分を殺すことで、その人間が生きる場所に適応した人間として、人間らしく生きることができるようになる。真っ直ぐに前向きに生きるものは、その人間としての生の多くの部分を殺してもいる。それは、本来の人間性を抑制し/限定し、死という生とは真逆にあるものを生の中に持ち込むことによって、自分の生を圧縮して、自らの手で自らの生を自らのものとして扱いやすくしているということを意味する。逆に言うと、野放しにしたままの生は、そう簡単には扱いきれないのである。限定し、選択し、決断することで、人間は人間の生というものに合理的に適応することが可能になる。思考してその思考を突き詰めた人間が、その思考を放り出すことで、人間本来に備わった自然な生ではない人間の生を作り出したのである。『葉隠』流にいえば、武士が人間の生きる道としてのそれを見付けた/発見したのである。
頑張って生きる。がむしゃらに生きる。ただただひたすらに生きる。生きるために生きる。死なないために生きる。死から逃れるために生きる。前向きに真っ直ぐに生きれば生きるほど、自分を殺さねばならなくなる。すると、自分の生の中に、自分によって殺されて死んだ自分が蓄積されてゆくことになる。そして、押し寄せるように迫りくる死んだ自分に圧縮されて、どんどんと自らの人間としての生はか細いものとなっていってしまうだろう。人間が人間として生きるということにおいては、活き活きとした生の部分は否定の対象となる。そこでは、全く活き活きとしていない死んでいる自分を大量に抱え込んだ生が、前向きな人間らしい生の在り方となるのである。生きることは、殺すこと死ぬことを前提としている。あまりにも生きようとするものは、この世界では人間らしくは生きられないのである。

闇の中にいる孤独者たちは、微かにではあるが必死に人間の生を生きようと足掻いている。今の状態のままで「一人ぽっち」の寂しい死を迎えたくはないから。そのすっぽりと落ち込んでしまっている深みは、光の中で作り出された「死ぬ事」の影を全く寄せ付けようとはしないかのようでもある。静かで平穏な暗がりの中の生が、そこには存在している。
その抱えきれないほどに溢れかえる生への渇望は、孤独者にとってのさらなる苦悩となり、終わりなき悪循環の中で身動きをとらせずに停滞を余儀なくさせる重しとなる。そして、その強烈なまでに重い生の重しは、動き出そうという心持ちを起こすことすら失わせてしまうのである。その停滞する静けさの中では、自分を殺してまで生きる不安も苦悩もない。だが、それゆえに静かに微動だにせず生きることが、その生の全てとなり、かえって人間らしい生からは遠離ってしまうことにもなる。

生きることは「死ぬ事」によって始まる。生きることは、それすなわち死への跳躍でもある。生きながらに死ぬことは、自らの人間らしさを抱え込んだ自分を殺しながら生き続けることである。そして、内在化され蓄積された死が、いつしかその生の表面へと滲み出してくる。それが、死に顔のような仮面となる。だがしかし、そうやってよりよく「死ぬ事」によって、生きるという重苦しい足掻きから人間は解放されているのである。
闇の奥底では、死が忍び寄ってきて生を圧迫したりはしない。そこでは、常に死は突然に襲いかかる。殺されることのない生は、そのままにそこに生きてある。だから、手に負えない。生の重苦しさから解放されるには、そこから飛び退くしか方法はないのだ。生を諦めて直接的/間接的な死へと移行する。死んで/殺して生から解放されるのにも、そこに飛び出すには重苦しい選択が待ち構えている。だが、死んでも生きたい/死んでしまいたいという切実なる思いから、あまりの苦しさに耐えかねて人間としての生そのものを諦めてしまうものも少なくはないのだ。「死ぬ事」を見極め、それを見出すことは、とても難しい。
それでも、どこまでも孤独に、降り掛かり続ける苦悩と苦痛の中で足掻き続けるものもいる。もっと自分らしく、もっとありのままに、苦悩と苦痛にまみれながらも、もっと楽しく生きてゆけるはずであるから。だから足掻くのである。限界まで。その限界を越えてしまったら、そこには孤独な生者にとって最も厭うべき死しかない。だが、それこそが、苦悩や苦痛からの最も手早く簡単な解放の手段でもある。生きたいと強く思うものほど、その誘惑に強くとらわれる。人間には、死んだふりをするか本当に死んでしまうかしか、よりよく生きる道はない。

自己実現とは、何のことであろうか。それは、人間であれば誰もがもっている欲求であろう。生きている人間が前に進むのは、この自己実現の欲求を満たすためである。空気を吸い込み、水を飲み、物を食べることも、呼吸して喉の乾きを癒し空服を満たした自分を実現させるための行動にほかならない。だが、簡単に実現できる欲求とそう簡単には実現できない欲求が、人間の生には存在する。そうした、なかなか自己実現できない大きな欲求が存在するからこそ、人間は生きて前に進み続けなくてはならないのである。
際限なく生じる自己実現の欲求によって、自分がなりたいと思う自分になるという行為は、終わりの見えない自己実現のための行動のシリーズとして継続されてゆく。自己を実現する行動は、自分が自分らしく生きるということへと繋がっている。それを欲求し満たすことの繰り返しが、人間の生の殆どの部分をなしているといってもよいだろう。
そこで実現したい自己として欲求されている、人間の中にある自分というものは、全ての人にとって同じ自分なのであろうか。人間それぞれが自分の中でとらえている自分というものが、それぞれに微妙に異なるレヴェルにあるのであれば、その行動で実現される自分/自己というものにも、自ずと差異が生じてくるはずである。
また、そこで行動する人間に追い求められるものにも、それの大小に関係なく、崇高な欲求もあれば極めてささやかなものもあるだろう。そして、自分を殺してか細く縮減された人間の生を生きているものは、生に思い悩み「一人ぽっち」で立ちすくんでいる孤独者よりも、なりたい自分になるという自己実現を実現しやすい生を生きているのかも知れない。前に進むために抱え込むものを少なくしていることによって、そこでは欲求が満たされるレヴェルも相対的に低くなっているであろうから。死んだように生きるものの方が、(どちらかというと)満たされた気分に到達しやすい生を生きている。
ただし、人間は簡単に自己実現が可能な行動の連鎖の中だけで生きているわけではない。実際には、この自己実現の欲求というものを完全に満たすことのできるものは、世界のうちに一握りもいないであろう。だから、それをいつまでもどこまでも欲求し続けることになるのである。赤ん坊の行動も老人の行動も、それを追い求めることの表れにほかならない。生きるということは、自己実現の欲求の追求そのものなのある。
そこで究極的に欲求されるのは、完全に自己を実現し、自分の生に対して苦痛や不安を覚えることのない状態へと至ることである。ひとりの人間として自分らしく生きるということを突き詰めてゆくと、安心と安らぎに満たされた、とても平穏な生というものに行き着くはずである。そこでの生は、行動を起こさせる渇望というものをもはや何も知らない、全く動きのないものとなる。動じない生。揺らがない生。それこそが、自己が実現されているという状態だといえる。
この全く動きのない生の状態というのは、実は孤独者の生とも通じ合うものがある。孤独な生は、深い闇の中で立ちすくむことで自ずと動きのないものとなってゆく。暗い場所で、前にも後ろにも進めなくなり、孤独者は身動きとれずに静止した状態となってしまうのだ。そこで、頑張って前向き生きることや、がむしゃらに生きることから、すっぱりと解放されてしまうのである。だが、それは自己を実現する遥か以前の解放なのである。なりたい自分に全くなることはなく、そこに一ミリも近づいてはいない状態/段階での停止による解放だといえる。孤独者は、闇の中で、スタート地点に立つ以前に、人間らしい生の源泉である自己実現の欲求の追求から切り離され、その欲求実現のレースからつまみ出され退場させられてしまう。それは完全なる自己の非実現状態であり、自己実現不可能性の中での異常な解放だといえよう。
孤独者は、自己実現の達成とは反対側にある平穏さに埋没した生を生きている。そこに安心や安らぎは全くないが、闇の中で動きがとれないがために、全く動きのない生がひたすらに安定して続いてゆかざるを得なくなっているのである。静かに微かに足掻き続けるだけで、前にも後ろにもどちらにも動けないので、じっとしたまま動かなくなる。闇の中の穏やかな動きのない生が、静かに孤独者の毎日を覆い尽くしてゆくのだ。
それは、決して人間らしく生きる欲求が何も満たされることはなく、自己実現からもほど遠い場所にあるが、波風が立つことのない厄介ごとのない生でもある。そして、それは、孤独者が人間らしく自らの生を全て受け止めて生きようとした行動/行為の帰結としての静止と平穏でもある。人間は、人間らしく生きようとすればするほど人間らしく生きられなくなってしまう。それは、孤独者が闇の中で前方の光を見ることができず、積もり積もった自らの苦痛や不安とだけ向き合い、それ以外のことに対しては無感覚になってしまっていることとも無縁ではなかろう。自分のことだけを見つめすぎて、その向こう側にあるものが見えなくなる。闇の中の穏やかさは、(自分以外の物事が)何も見えず何も感じなくなっていることに由来してもいる。立ち止まり「一人ぽっち」になっているものには、何も起こりはしない。そんな溢れかえる自らの生の不安を見つめ、ただじっとそれに寄り添うだけの変化のない日々が、そのまま静かに流れてゆくだけなのである。

人間らしい生を生きようとすることへの正反対の反応から生じた穏やかで動きのない生が、光と闇のふたつの極と極に分かれてそれぞれに存在している。この静止状態を動かすとするならば、もはや入れ物ごと全部ひっくり返して、上と下を一気に寄せてしまうしかないのかも知れない。それが、深い闇の中に落ち込んでしまっている孤独者を救い出すための、ひとつの道/ひとつの方法であるはずである。
何もすることができないままに厄介ごとから解放されて、そこに落ち着いてしまったものは、そう簡単には動かすことができないだろう。何らかの刺激や自己実現のための欲求から自ら動き出すものもいる。しかし、全てのものたちが一斉に動き出すような、そんな強烈な刺激が、どこにあるというのだろう。もしも、それが現実のものとしてあるのだとしたら、それは本当に完全に全てをひっくり返してしまうような、驚くべき劇的な変化でなくてはならない。それほどのものでなくては、いつまでも闇の中のものたちに、そこから動き出すタイミングは訪れることはないだろう。
全てがひっくり返るとは、世界のあらゆるものが一気に転換することである。それは、この世界がひとつの極限にまで行き着いた先に起こるものである。秤の両端に錘がついている状態で、ちょっとでもバランスが崩れた際に、全てが一瞬にしてひっくり返るというイメージであろうか。あらゆる変化は、自然のうちに起こる。それは、とても自然なことであって、全ては必然のうちにあることであるから。人間に自然なものとして備わっている自己実現の欲求を満たそうとする行為/行動が、あらゆるものを前に進めるのであるならば、その自然な欲求を満たす行動によって前進を続けた先に、自然な変化が必然的なものとしてあるのは当然のことであろう。全てがひっくり返るような大きな変化は、あらゆるものが極限まで行き着いた先で自然な必然の変化治して起こるはずのものなのである。
そのギリギリの極限にまで行き着いている、そうした状態までゆくということが、どういうことであるのかは、とても自然なこと過ぎて、その先までいってみないと分からないものであるのかも知れない。二次元の世界が、三次元の世界を見渡せないように、この三次元の世界からは、その先の次元の世界の景色は見通すことも思い描くこともできはしないのである。そこは、三次元の世界では存在しえないものと、今ここにあるものとの、ありとあらゆる組み合わせが可能となっている次元である。この三次元に住む人間にとっては、想像を絶する世界であることだけは、少なくとも間違いないはずだ。
今ここでなされているような、ちょっとした何気ない行為は、実は無限の可能性へと開かれているはずなのである。その無限の可能性への開けを、三次元の世界では隠れてしまっていて見ることのできない面と今ここにある世界との組み合わせとして、全感覚的に把握できるようになるのが、その先にある次元なのではなかろうか。そこは、無限に開けている世界である。今という瞬間を貫いて、ありとあらゆることがありとあらゆるヴェクトルへと向かって開かれている。そして、その無限に全方位へと開かれた今が、全方位に無限に連なっていっているのである。
そうした事物/時間の無限の組み合わせのひとつとして、全てが入れ物ごとひっくり返ってしまう転換がある。そして、その転換を境に次元が切り替わり、この世界の光と闇は、もはや光でも闇でもなくなってしまう。今現在の世界の、その先にある世界では、そんな大きな変化すらも簡単に想定のつく極めて当たり前の可能事であるに違いない。

その先の世界においては、あらゆるものが、(今ここでいうところの)神懸かったような性質・性格をもつものとなるのであろう。そして、その時々に、そうした神懸かりなものは自然で必然なものとして殺され葬られるのだ。また、神懸かりなものは、その神的な力で人間を殺すこともある。人間は神懸かりなものを殺し、そして神懸かりなものを殺した人間が神懸かりなものに殺される。そこでは、苦痛や不安もまた快いものとなる。生きることも死ぬことも快いものであり、快いものは苦痛でもあり不安でもある。そしてまた、殺し葬ることも快いものである。罪の意識も罪の捉え方も根本か裏返されている。起こりうる全てのことを必然として受け入れるためには、そこにある罪すらも自然で必然なものとして快いものと見なさなくてはならない。
あらゆる組み合わせを引き受けなければならない世界は、今ここにあるような表面的な認識や一面的な認識を、それそのものとしては決して許容しないであろう。それらは、表面的で一面的すぎるために撥ね付けられ、起こりうる全てのことの中で、その軽々しさゆえに埋没してゆくことになるであろう。
今ここでは見えない部分までが見通せる世界では、仮面も意味をなさなくなるだろう。あらゆる組み合わせを引き受けることで人間は、あらゆる仮面を手に入れて装着することが可能になる。だが、全ての人間のあらゆる仮面の組み合わせを見通せてしまう世界では、仮面そのものの意味が全くなくなってしまうことにもなるだろう。また、あらゆる組み合わせを引き受けることで人間は、あらゆる苦痛や不安も快いものとして受け入れざるを得なくなる。そこでは、快くないものは、もはや快いもの一部としての意味しかもち得ないのである。快くない状態とは、快いもの全体のほんの一部でしかないのだ。どうしようもなく孤独であることも、快いこと全体のごく一部の非常に些細なことでしかない。全ての人間が孤独であることは、とても自然なことであり、人間であるからには必然なことなのである。孤独者が闇の中の孤独の淵に立ちすくんでいたとしても、あらゆる組み合わせによって世界のあらゆるものが密接に繋がっていることは、そこからはっきりと見通せるのである。孤独とは、「一人ぽっち」のことであり、世界の全員が実は「一人ぽっち」なのである。そこにいる全員が「一人ぽっち」であるとき、その孤独は全く快くないものではなくなる。基本的に全ての人間は孤独であり、全員があらゆる孤独な状態の組み合わせを全て見通しながら全て当たり前のこととして引き受けることができているのである。そこでは、今ここでいわれているような孤独な状態は、あまりにも軽々しく独善的な孤独の感情の漏出の一例として全く意味をなさなくなるであろう。

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