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zoom RSS 誰が孤独を歌うのか(三)

<<   作成日時 : 2013/12/01 10:00   >>

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誰が孤独を歌うのか



60年代には、泣けるほどに孤独であっても、それを誰かに悟られないように「涙がこぼれないように」上を向いて「にじんだ星をかぞえて」歩く、いわゆる強がりややせ我慢の美学のようなものが存在していた。そうした、古き良き日本人の心や、古き良き時代の美意識のようなものは、もはや完全に失われてしまったといわれて久しい。だが、実際には、上を向いているよりも、前を向いて涙を流してしまった方がよい部分もあるのである。
涙を流すことは、人間的な弱さを露呈することでも、恥となることでも全くない。それは、とても人間らしい行為である。時として、人間は、人間らしさを無理に故意に押し殺してしまう。人間らしい行為を自分自身を抑制し統制して行うことによって、よりよく人間として生きることができ、人間らしさが高まると錯覚してしまっている部分があるために。ただし、その統制も抑制も完全に行うことは不可能であり、いくら自分自身を握りつぶし削り取り矮小化して人間らしさを極めてみたとしても、それを徹底することによっては人間の生は決して高まりはしないのだ。
溢れる涙を流すことを誰にも悟られないように隠さなくてはならないのは、人間らしい感情を押し殺して生きることであり、人間らしく生きることの否定でもある。上を向いて「涙がこぼれないように」堪えることは、人間が辛抱強く歯を食いしばって生きる姿に重ね合わされて、長らく美徳であるかのように解釈されてきた。そして、それは古き良き時代の人間の生き方の鏡のような姿勢として、かなり人間の感覚の中心にしっかりと定着してしまってもいた。
だがしかし、暗い夜道を「一人ぽっち」で歩きながら涙を堪えている人は、実際にはあまりいない。孤独に打ち拉がれて「泣きながら」歩いている人も、上を向いて「にじんだ星を」数えながら歩いている人も、ほとんどいない。そうした美学や美徳は、人間の胸中に存在する、とても感覚的なものにほかならないから。多くの人々は、心の中でそうしているのである。みんな辛抱強く歯を食いしばって生きている。だが、これは感覚の部分での人間らしさというものを押し殺してしまう方向性に向かうことにも繋がりかねない。誰もが本当の自分の感情を隠して、平静さを装って生きている。仮の顔である仮面をつけていれば上を向く必要はない。そしてその正面を向いている仮面の下にも感情の仮面があり、その仮面の下に本当の自分の泣き顔と涙が隠されているのである。

仮面を被っていると、その下の本当の表情や素顔は隠されて正面からは見えなくなる。つまり、誰もが仮面を被ったままの社会では、真っ直ぐでダイレクトな意思や感覚の疎通はとても難しいものとなるということである。そうした仮面の存在によって、ともに手を取り合って困難や苦悩を乗り越えようとしても、そうした思いは仮面によって素顔が隠されてしまっていることで、なかなか伝わらないということもある。きっと間違いなく、誰もが誰かとともに戦って前に進みたいと思っている。生きるということには、幾つもの困難と大きな苦悩が満ちているから。だが、仮面は、そうした思いをも巧妙に隠してしまう。そうした隣人や他者へ伝播するものを被い隠すものとして仮面はできているのだから。誰もが誰かに仮面の下の素顔を見せず、誰もが誰かの仮面の下の素顔を見通せないことで、一人ぽっちの孤独者たちは、さらに社会という枠の中で孤立し、より深く(肉眼で目視できない深さにまで)孤独の淵に沈み込んでゆくことにもなる。

誰も上を向いて歩かなくなって、思わず泣けてくるほどのどうしようもない孤独は、ほとんど歌われなくなってしまった。そして、いつしか楽しく手と手を取り合って前向きに生きようという歌が、完全に主流を占めるようになってしまっている。そこでの楽しく前向きにという状態は、「一人ぽっち」ではないことを前提としている。周囲に手を差し出してくる誰かがいなければ、どんなに手と手を取り合いたいと思っていたとしても手を取ることはできないのだが。誰も周りにいない本当の孤独者は、最初からそうした歌に歌われるような世界からは除外されている。もしくは、その世界においては目に見えない存在とされているのである。
暗い時代に、努めて明るく歌うこと/明るい歌を聴くことで、鎮静剤的に瞬間的にでも楽しい気分に浸れればそれでよいということだろうか。生きることとは忘れることであり、人間は次々と忘れ続けてゆかなければ決して生きてゆくことはできない。だが、無理矢理にでも暗いものを明るくし、強制的に楽しい気分に浸らせてくれる歌には、何か(瞬間的にでも)ひとつにまとまるべき社会にとって不都合な部分を積極的に切り捨て、隠匿しようとしているような意志が感じられもするのである。
おそらく、国民的アイドル・グループのAKB48は、どうしようもない孤独を決して歌わないであろう。彼女たちは、どんなときにも、みんなで力を合わせて頑張ろうと歌いかけてくる。それは、(国民的アイドル・グループという看板を背負った)AKB48そのものを力強く前進させてゆくための掛け声であり、AKB48のファンやその楽曲を聴くものへの力強いメッセージとなって響き渡る。どこまでも前向きに困難や苦悩を乗り越えてゆくことが、彼女たちの歌のひとつの大きな主題なのだ。そこでは、誰もが自分の中にある「一人ぽっち」な暗さを抜け出して、ポジティヴな境地へと歩き出しているところから歌がスタートする。前に進まないもの/前に進めないものは、そうしたみんなで一緒に頑張るポジティヴなノリから歌のイントロが始まる前から追い出されてしまっている。そのノリに乗り遅れてしまっているものの生は、まるで好ましくない生を体現しているものであるかのように認識されることになるのだ。そして、どうしようもない暗さを隠匿し努めて明るく振る舞う社会の最底辺や外側にオートマティックに位置づけられてしまうのである。そこに立ち止まっているだけで、全体の前進を妨げる悪行であるかのように扱われることになるのも、そのためである。そして、そうした前向きに前進してゆこうとする感覚の一方向に整流された広まりを、前向きに進もう/力を合わせて頑張ろうと歌うヒット曲が強く後押しし、人々の耳にその正当性を刷り込むように吹き込みながら、捩じれて歪んだ認識を押し進めてゆくことになるのである。
ともに力を合わすことのできぬ/合わせることすら望まれない「一人ぽっち」な孤独者は、そこでそうした歌を聴いて、どう反応すればよいのだろう。最初から「一人ぽっち」が除外されている場所で、頭の中に思い浮かべた空想の誰かと空しく力を合わせていればよいということであろうか。実際、本当の孤独者とは、常にそういうイマジナリーな音楽の聴き方しかできないのであるけれど。

だが、本当のところは、どうなのであろうか。上を向いて歩く人がいなくなったから、どうしようもない孤独が歌われなくなったのだろうか。どうしようもない孤独者がいなくなってきたから、孤独は歌の主題にならなくなってしまったと考えることもできるのではなかろうか。本当に「一人ぽっち」な人は、そうそういないのかも知れない。一面的で極めて表層的な見方では、そのように見えないこともない。ただし、それでも今この時にもひとりきりで孤独のただ中に沈んでいる人は、確実に存在しているであろうし、ひとりきりで生きる辛さに耐えきれず、今すぐ逃げ出してしまいたいと考えている人も少なからずいるに違いない。そして、今この時に、ひっそりとひとり寂しく死んでゆく人だって、実際には少なからずいるのである。だが、そうした、本当のどうしようもない孤独は、とても見え難いものになってきてしまっている。しかしながら、それ以外の孤独な人の周囲には、もしかすると誰かしらがいるのではなかろうか。現代の大半の孤独者は、文字通りの「一人ぽっち」ではないのかも知れない。だが、孤独は孤独なのである。孤独者が孤独であることに違いはないのである。
今の時代には、携帯電話もインターネットもツイッターもフェイスブックもある。そこには、直接的なものとは異なる、間接的な人と人との結びつきや繋がりがある。しかし、ツイッターのフォロワーやフェイスブックに友達が何人いたとしても、様々なコミュニケーション・ツールを使って沢山の間接的な繋がりがあったとしても、それは本当に「一人ぽっち」ではないということを意味しているのであろうか。逆に、周囲に間接的にでも繋がりのある人がいるからこそ、かえって「一人ぽっち」を感じてしまうということもあるのではなかろうか。誰かが確実にそこにいるはずであるのに、数多くのフォロワーや友達のうちの誰一人として、自分に対して本気で関心をもってくれることはない。そのどうしようもない状況が、現代の孤独者の心により深い孤独感を募らせてゆくことにもなるだろう。

現在では、もし夜道で上を向いて歩いていてる人がいても、ほとんど誰も「涙がこぼれないように」堪えている人だとは察してくれないのではなかろうか。行き交う多くの人は、ちゃんと前を見て歩かない人にぶつかられることがないように足早に上を向いて歩く人を避けて行き過ぎてゆくだけであろう。もはや、上を向いて歩いているくらいじゃダメなのだ。その行為からは、ほとんど何も伝わらないし、そこから何も汲み取られることはない。21世紀の人々は、そうしたかつての60年代的な人と人との暗黙のコミュニケーションの作法からは、とてもとても遠いところまできてしまっている。
そして、そうした現代の人々の輪の中に入るために適当な仮面を被り、その下に涙を隠し、表情を隠し、孤独を隠し、哀しみを隠してしまう。そんな幾重にも隠されているものからは、やはり何も伝わらないし、何も汲み取られることはない。そこにある本物の深刻な孤独は、誰にも気づかれることなく感情の襞の奥に埋もれてゆくだけである。本当の孤独者は、ますます孤独を深め、いつまでも救われることはない。果たして、孤独とは、上を向いて歩いたり胸の奥底に秘めたりして、ただただ耐え忍ばなければならぬものなのであろうか。

本物の孤独者が、その孤独の淵から一歩踏み出すことは、そうそう容易なことではない。だからといって、内側へと籠りきって逆に突き抜けてしまうのも、そうそう容易な道のりではないだろう。暗い闇の中で孤独者は、ただ「一人ぽっち」で立ちすくんでいる。立ちすくんだままでいると、その道を前に進むのも後ろに進むのも簡単なことではなくなってくる。どこにも明かりが見えない中で何かを乗り越えて進まなくてはならないのは、とても辛く難しいことである。そして、前にも後ろにも進めないというのもまた、とても辛い状況なのである。
だがしかし、ただ単に辛いというだけで進まない/進めないのでは、そこに何の解決の糸口も見つけ出せはしない。闇の中で立ち尽くす孤独者も、自分の周囲に何らかの動きがあるということは直接的にも間接的にも見えているし、しかも動き出すこと/動くことの重要さは痛いほどに認識してはいるのである。しかし、そう簡単に全てをクリアできてしまうほどに、この問題は単純なものでも底の浅いものでもない。ただ、何かのきっかけとなる出来事がなくては、その先へと動いてゆくことに繋がる動き出しの動きは生まれないだろう。だが、その出来事とは、果たして何なのか。それは、どこにいかにして生ずるものなのか。そして、そのどうしようもないほどの出来事の見通せなさや決定的な出来事を思う浮かべることの重苦しさに、孤独者にとっての大いなるジレンマが生じてくることにもなるのである。

孤独な状態とポジティヴな方向へと向かう動きは、完全に絶縁してしまっているものなのであろうか。暗い場所ですっぽりと深い穴にはまってしまったような孤独な状態とは、明るく前向きに動いてゆこうとする生き方とは決して相容れないものなのであろうか。
どんなに孤独な状況にあっても、そうした人生の辛さや苦みをバネにして頑張ってゆこうとするのが、坂本九の大ヒット曲「上を向いて歩こう」を生んだ昭和という時代にあったメンタリティであった。寂しさや侘しさに打ち拉がれて、上を向いて「にじんだ星をかぞえて」歩いていても、その周囲を見渡してみれば、そこには頑張っている人がいっぱいいたのである。それは、頑張っている人たちが、逃げも隠れもせずに真正面から頑張っている時代であった。そして、頑張っている人たちが、頑張っている姿を隠すことなく頑張っていた時代でもあった。頑張っている人たちは、そうした一緒に同じ時代を生きる頑張っている人たちの存在を、とても身近なものとして感じながら頑張れたのである。
どんなに孤独であったとしても、どこかに自分と同じように感じている人がいて、それぞれに孤独の淵に沈んでいながらも、みんなで寂しさや悲しさや辛さと戦って乗り越えていこうとしているような感覚をもてたのであろう。近くに存在を感じられる目に見えて頑張っている人たちの中のどこかにいる、どうしようもない孤独と孤独に戦っているものと、その孤独の感情を共有することが実感をもってできていたのである。
現在では、周囲にいる頑張っている人たちの存在もまた、非常に見えづらくなってきている。おそらく、頑張っている人そのものは今も変わらずに存在しているのだろう。かつての「上を向いて歩こう」の時代の頑張りを、遥かに凌ぐほどに真剣に頑張りながら。だが、その頑張っている人たちは、とてもとても静かに頑張るようになってきている。頑張っている人たちのがむしゃらに頑張っている姿が、実際に見れることは極めて稀である。静かに穏やかに、さも普通のことをしているかのように、頑張っている人たちは極めて平然と頑張っている。
生のままの感情が隠されるように、頑張りもまた見えないように隠されてしまっている。頑張っている人たちは、自分の意思で頑張っている自分を隠そうとする。がむしゃらに頑張る人を見かけることが稀なのは、頑張っている人たちが頑張る自分を各層としているからなのではなかろうか。いつ頃から、静かに穏やかに頑張る人たちばかりになってしまったのだろうか。だが、なぜに自分の頑張る心持ちや表情や姿を見えないように隠してしまうのだろうか。この現在の世の中や社会の中に、がむしゃらになれない要因でもあるのだろうか。頑張っている人たちが、頑張っている本当の自分を表に出せないのは、なぜなのだろう。今ここで、どんなに頑張っても、それは大抵の場合が意味のないものになってしまい、もはやどこにも到達しないことが殆どであることを、誰もが薄々感づいてしまっているからなのだろうか。頑張っている本当の自分を隠すというよりも、あからさまには頑張れない気持ちというものが、どこかにあるのではなかろうか。
おそらく、こんなところで頑張っているということそのものが、とても空しいことに感じられているのではなかろうか。こんなことろで頑張ってしまう自分を、非常に空しいことだと最初から思ってしまっているのではなかろうか。だから、曲がりなりにも頑張ってしまうことがあったとしても、その表情や姿を、あまり表に出してしまってはいけないのである。頑張っている人たちは、静かに自分の頑張りを主張しないように頑張るものなのである。その本当の自分を押し殺した仮の姿は、見方によっては黙々とひたむきに頑張っているように見えてしまうこともあるだろう。だがしかし、そこに見えているのは、頑張っている人の本当の表情や感情を仮面の下に隠した、仮の姿にほかならないのである。まさに、見せかけの黙々と頑張っている姿であり、本当の自分を押し殺した後の死後の姿でもあるのだ。それは、自分の内面や心持ちを前面に出したがむしゃらに頑張っている姿とは、実際にはほど遠いものなのである。
本当の自分を押し殺して、こんなところで頑張っていてはいけないと感じてしまうのは、ここではないどこかに自分が本当に頑張れる場所があるはずだと思っているからにほかならない。自分の能力を最大限に活かして、がむしゃらに頑張れる場所が、どこかに必ずあるはずなのだ。人間とは、前向きに歩み続けるものである。歩き続ける目的があるからこそ歩き続けられる。そのためには、自分が最適な形で生きられる場所が、歩き続ける先のどこかになくてはならない。だがしかし、そうした本当に頑張れる場所は、この今の世界から見渡しているだけでは、なかなか見つけられないものなのである。でも、ひとつだけ確かなことは、それが絶対にこの今の世界ではないということこと。なぜならば、ここは自分で本当の自分を押し殺さなくてはならず、全く最適な形で生きられる/頑張れる場所だとは感じられないから。
いつか自分が自分らしく頑張れる場所でならば、仮面を被ったり自分を押し殺したりすることなく本当にがむしゃらに頑張れるであろう。そこでは、自分の頑張りは、その先にあるものへとしっかりと繋がっていることが、常にありありと実感できるはずである。頑張りが空しさには直結することは、決してないのだ。でも、ここには、それとは真逆の状況がある。だから今は、無駄にがむしゃらに頑張ったりはせずに、ただただ自分を押し殺して時間をやり過ごしている。
こうした、ここではないとどこにもないの悪循環は、仮面を被り自分を押し殺す自己否定の感情しか生み出さない。前向きに頑張る気持ちを突き動かす、ポジティヴな希望はどこにあるのだろうか。本当に、もはや頑張ってもどこにも到達することはないのだろうか。自分を押し殺して、自己否定の日々をやり過ごしているうちに、かつては見えているように思えた光をも見失ってしまうことになるのではなかろうか。そして、気がつけば、そこは深い闇の中である。光のあるべき場所からは、とてもとても遠い。そして、前向きに生きるための希望からも、どんどんと遠離ってしまうことになるのである。
自己否定は孤独な感情の停滞を生み、その孤独な状態で自己否定の状況をさらに突き詰めてゆくことによって、そこで本当の自分を発見する契機を逆に掴むことになる。仮面をつけて孤立してしまった人々が、自己を否定し続けることで生きることのポジティヴィティとは断絶され、次々と暗く深い本物の孤独の淵へと落ちてゆく。そして、その闇の奥底で、仮面の下の本物の自分と対面し、どうしようもなく孤独なひとりのちっぽけな人間の姿を、初めてまじまじと見つめることになるのである。

前向きに生きることのできる場所や時間というものは、どこにあるのだろうか。暗い孤独の闇の中にいる者に、それを探し出すことは可能なのであろうか。希望という名の微かな明かりを、どこに見出せるというのだろう。そして、そもそもそこに辿り着ける保証などどこにあるのだろうか。
暗闇で立ちすくんでいるだけのように見える孤独者にだって、何らかの希望をもつことはあるはずである。そして、それを自らの手で掴むために前向きになれる場所へと突き進んでゆきたいという願望もある。そんな、いつの日か自分が辿り着けるはずの場所こそが、自分が自分らしく頑張れる眩いばかりの希望に満ちた場所であるはずなのだから。まだ見ぬ希望という名の微かな明かりを頼りに、がむしゃらに突き進んだ先には、自己実現というひとつの頂があり、そこで自分の夢を叶えることができるのだ。
しかし、深い闇の中に留まったままでいては、いつまでも頂へと走り出すためのスタート地点にすら立てていない状態ということになる。叶えたい夢や実現したい自分のイメージや姿は、どんどんぼやけて霞んでゆくだろう。胸の内に秘めて、自分の中にあったはずのものなのに、次第に像が見えなくなっていってしまう。夢も希望の光も見失われ、自分自身すらをもを見失う。いつかなりたい自分や実現したい自分を諦めざるを得なくなる。自分に対して否定的になる。自分というものを打ち捨てざるを得なくなる。
こうした悪循環が続くと、スタート地点にも立てていない自分を、もはや哀れむことすらできなくなってしまうだろう。すでに否定し尽くされた自分の中で哀れみを募らせたところで何にもならない。哀しみも空しさもない無感覚な状態である。暗闇で立ちすくんだまま、自分に対して何の感情も湧いて来なくなる。完全に動きは止まる。全く動きのないところには、新たな動きは生じ難くなる。こうして、さらにスタート地点に立って動き出すことから、どんどん遠くなってしまう。あとは、ただ深い闇の底へとゆっくりと落ちてゆくだけなのであろうか。
それでも、孤独者は闇の中で立ちすくんだまま何もしていないわけではない。一般的な意味での歩みと見なされる一歩と比べたら、微々たるものであるかも知れないが、少しだけ足を動かしていたりする。しかし、その足元はとてもジメジメとしていて滑りやすく、動かした足はすぐにズルズルと元の場所に戻ってしまう。微かに動かしては元に戻る。毎日が、その小さな動きの単調な繰り返しになる。何も生産的な結果を生むことのない、どこまでも不毛な繰り返しである。ひたすらに繰り返しているうちに、その情けない結果に対しても、ちっとも苛立ちや空しさを覚えなくなる。意味があるのか意味がないのかすら分からないことを繰り返すだけの毎日の中で、何も変わらず何も目に見える動きがない状況が、慢性的な無感動と無感情を引き起こして反復されてゆく。
決して目に見える形では動き出すことができなかったとしても、毎日少しは前向きになろうと足掻いてはいる。だがしかし、そのささやかな動きは、誰からも注視されることなく、ただ無駄な徒労に終わるだけなのだ。誰かに見てもらいたくて/認めてもらいたくて足掻いているわけではないが、その闇の奥底で頑張ろうとしている人間がいることに誰かに気づいてもらわなくては何も始まらない部分は、確かにある。不毛な足掻きを繰り返しているだけでは、本当の意味での動きは何も起きはしないであろうから。
ただし、そもそもの話として、孤独者に何かが起こることや何か希望らしきものがあると孤独者が思い込むことこそが、ただの幻想であるのかも知れないが。

孤独者の視点から、活き活きと前向きに頑張って生きている人たちを眺めていると、あれは自分と同じ人間なのだろうかと思えてくることがある。それは、ただ単に遥か下の方から人間の生のよい部分だけを眺め見ているからなのであろうか。つまり、その孤独者が見上げる角度のせいで、よい部分しか見えてこないということなのだろうか。そもそもが、そこに見えているのは、孤独者の生とは全く違う次元の人間の生なのであろうか。あまりにも違いすぎて上からは下がはっきりと見通せないし、下からも上がはっきりと見通せなくなってしまっているのではなかろうか。
これらふたつの生の形状の間には、とても大きな隔たりがあるように孤独者には感じられる。また、そう思うことで、さらに孤独者の気持ちは萎み無気力や無感動が増長されることになる。明るい場所にいる人がどういった生を生きているのか、闇の底の孤独者には朧げに想像することしかできない。おそらく、そこは孤独者が立ちすくんでいるような深い闇に包まれた場所とは全く違う場所なのであろう。遥か下層の闇の奥底からでは、うまく理解も想像もできないほどに違ってしまっているのだ。違いすぎて詳しく実態が分からないせいで、そこまでの距離感をうまく掴むこともできない。上の人間と下の人間を大きく隔てているものとは、一体何なのだろうか。
明るい場所と暗い場所の違いは、どこから生じているのか。それは、ただ孤独者には我慢できなかったものを、ほんの少しだけ頑張って我慢して、ちょっとした人生の分かれ目となる関門をかいくぐった場所というだけの、ちょっとした違いなのであろうか。そこにいる人々の顔を見ても何も分からない。誰もが同じような表情で行き過ぎてゆくだけである。本当の表情は内面の奥深くに隠されてしまっていて、それを覗き込むことすらできない。仮面によって防御されていて、本当の表情や感情は全く見えなくなっているのだ。それが、現代の世界であり、現代社会というものなのである。見えているのは何でもないものばかりであり、本当のことは何も見えないし、誰も何も見せようとはしないのである。
中には仮面を取り払って自分を見せている人もいる。だが、それは何らかの形で腹を括っている人か、全てを見せてしまったとてもどうということのない人たちである。自分を売り物にして商売を行っている人は、そうやって仮面を剥ぎ取り身を削って生きてゆかねばならない運命にある。ただ、はっきりとそれを見せることを前提としている生であるので、それは安定した明るい場所での生き方ということになるだろう。周囲が真っ暗な場所では、誰もそれを見ることはできないのだから。
全てが安定している明るい場所には、足許がぬかるんで滑りやすい暗い場所とは、全く異なる生き方がある。ただし、いずれにしても暗い闇の奥底から、この明るい場所のことをハッキリと見ることは出来ない。そこは、あまりにも明るすぎて、闇に沈む孤独者にとっては眩しすぎる世界なのである。

そこに人間の顔がある。だが、その人間の本当の表情は見えない。目の前にいる、あの前向きに労働に勤しむものは、ただただ無心になって働いているだけのように見える。そのまるで仮面のような表情からは、何も読み取ることはできない。仮面の下に何を隠しているのだろうか。それとも何も隠してはいないのだろうか。本当は何かとても辛いことが昨日の夜にあったのではなかろうか。もしかすると、あの前向きに頑張っている姿というのは、自らの意に反することなのではなかろうか。仮面のような表情からは、何も伝わってくるものはない。仮面を被ったままで生きていると、いつしか仮面越しに事物を眺めることに慣れてしまい、本当に何も感じなくなってしまうのではなかろうか。
それでも彼らは前向きに自らの生き方に満足をし、そこに生き甲斐を感じたりしているだろうか。仮面で隠されてしまっているせいで、その満足感を表に出せていないだけなのか。何も感じていないような表情に見えるのは、そこに大きな幸せがあって常に満ち足りた状態にあるからなのだろうか。何も感じていないような表情に見えるのは、そこに大きな幸せが欠乏しているからなのだろうか。前向きな生であっても、未来への希望を感じられないようなこともあるのだろうか。日々の生活の中の小さな幸せも、あまりにささやかなものになりすぎてしまって、それを幸せだと感じられなくなってくることもあるのだろうか。
毎日トラックで配送をする人。家のポストにチラシを投函して回る人。営業で朝から晩まで歩き回る人。机で細かな計算だけを繰り返す人。スーパーマーケットで棚に商品を補充し続ける人。メガネを売り続ける人。コンタクトレンズを売り続ける人。回転寿しを回し続ける人。コンビニでレジを打ち続ける人。駄菓子を卸売りする人。電話でアンケートをとる人。バスの運転をする人。電車の運転をする人。タクシーの運転をする人。病人を診察する人。病人を看護する人。葬儀を行う人。野菜を売る人。散髪する人。畳を作る人。公園のベンチでずっと座っている人。駐車場に停めた車で眠っている人。畑を耕す人。稲刈りをする人。漁船にのる人。絵を描く人。文章を書く人。詩を書く人。
人間が生きているということは、どういうことであるのだろう。今ここで生きている人がすべきこととは、つまらない労働なのであろうか。より多く(つまらない)労働するものが、よりよく人間らしく生きているということなのだろうか。表情も感情もなくなるまで(つまらない)労働をすることが、人間が生きているということの主目的であるのだろうか。労働というのは、表情も感情もなく生きる人間にしかできないものなのだろうか。労働が、生きる人間から表情も感情も奪い去ってしまうのだろうか。
おそらく、そうした労働らしい労働こそが、人生の全てという人間も少なからずいるのだろう。そういった人間にとって、労働というものが人生から取り去られてしまったら、残りの人生はどのような意味をもつものなのであろうか。それは、全く意味の無いものになってしまうのではなかろうか。(労働以外に)意味のない人生を人間は生きられるのであろうか。生きながら死ぬことは可能だろうか。死んだまま生きることは可能だろうか。
人間が生きるということは、その人間が生きることのできる人生を最大限に生きるということではないのだろうか。人間が人生を最大限に生きようとする意志をもつことは、とても当たり前のことのように思われる。だが、全ての人間が思いきり最大限に生きようとしたら、この世の中はもはや人間の住めるところではなくなってしまうのかも知れない。
だから、人間は本当の自分を隠し、自分を押し殺し、表情もなく、感情もなく、無の状態になって生きなければならないのだろうか。人類の歴史や文明の繁栄は、人間に対して生きながらに死んでいるような生き方を強いるような方向に流れてきているのではなかろうか。上手に生きながらに死ねるものには、それに見合ったこの世界で生きてゆくための許可が下りる。前向きに人間らしく死ねないものや、世の中や社会が許容する以上に存分に生きたいと思うもの、人間らしく生きようとする意志が過剰に強いものは、この界隈では逆に人間らしく生きてゆくことが出来なくなる。ここでは、人間らしく生きないことによって、人間らしく生きることが許可されるようになるのである。
人間らしく生きないもの/人間としては死んだ状態で生きるものが、最も人間らしく生きてゆくことができるのが、この明るく光りに満ちた場所なのである。そこにいるのは、無事にスタート地点に立つことができ、頑張って前向きに走っている(つまらない労働に勤しむ)人間たちである。
その道の行き着く先のきつい坂を上りきった先には、また違った生き方があるのだろうか。もっと眩い光に包まれるような場所があるのだろうか。人間らしさをかなぐり捨て、人間らしく生きることすら諦めて、頑張って前向きに生きる人々。生きながらに死に、死んだように生きている、平然と感情を押し殺して走り続けなくてはならない人々。彼らは自分を亡きものにした自分の顔を隠すために仮面を被っている。
前向きに頑張って生きる人々のいる世の中の両極には、全く動かずに止まってしまっている人々がいる。一方の極は、光の中にあり、もう一方の極は、闇の中にある。表情も感情もなく忙しなく動いているのは、その両極の中間にいる止まることのできない人々のみである。その生きながらに死んでいる/死んだように生きている人々のいる場所が、光と闇の世界を大きく隔てている。ふたつの極の間の距離は、とても遠く、そこには大きな断層が横たわってる。生きながらに死んでいる/死んだように生きている人々の労働が労働を膨れ上がらせ、その極の距離と段差をさらに大きく広げてゆく。

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