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<<   作成日時 : 2013/05/14 23:00   >>

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新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉

補稿 Unknown Sisters

(二)

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スージー&ザ・バンシーズは、83年9月30日と10月1日の両日に渡りロンドンの由緒ある大型コンサート・ホール、Royal Albert Hallにおいてコンサートを開催している。そして、この格調高い会場を、尖ったパンク・ファッションの若者やスージー・スーのスタイルをそのままコピーしたようなドギツいメイクに黒尽くめの服装の女の子たちで埋め尽くしてしまったのである。この公演の模様は、約二ヶ月後の83年11月に“Nocturne”と題された二枚組ライヴ・アルバムとライヴ・ヴィデオという形にまとめられリリースされている。
76年の結成から96年の解散までの約二十年間に渡って、なかなかギターのメンバーが固定されることのなかったバンシーズであるが、この“Nocturne”の収録時には、天才肌のジョン・マクガフ(John McGeoch)の精神衰弱による突然の脱退の後を受けて、キュアー(The Cure)のロバート・スミス(Robert Smith)がサポート・メンバーとしてバンドに参加している。80年代初頭、スミスはキュアーのフロントマンとしての活動の合間をぬって、二度に渡り突如ギタリスト不在となってしまったバンシーズの窮地を救うために助っ人の役割を買って出ている。
この二度目の在籍時には、スミスはライヴ・ツアーに参加しアルバム“Nocturne”を残しただけでなく、セヴェリンとのサイド・プロジェクト、グローヴ(The Glove)でも録音を行い、その後には84年にリリースされたバンシーズの通算六枚目のアルバム“Hyæna”の制作にも携わっている。この時期のスージー&ザ・バンシーズには、スージー・スーとロバート・スミスという80年代初頭の音楽誌・音楽紙の誌面・紙面を最も多く写真で飾ったと思われる二人の絶大なる影響力を誇ったロック・アイコン/ファッション・アイコンがフロントに顔を揃えていたことになる。
約三十年近くが経過した現在から眺めてみると、この取り合わせは本当にとんでもなく豪華なコラボレーションであった。しかし、往時は姉御肌のスージーからのオーファーを断るに断り切れず、まるで滅私奉公のような形でスミスはサポート・メンバーとして参加していた印象もあったのだが。とにかく、この83年前後のスージー&ザ・バンシーズが、世界で最もゴージャスなポスト・パンク〜ニュー・ウェイヴ系のバンドであったことは間違いない。

日本人の感覚でいうと武道館公演といったレヴェルにあると思われるRoyal Albert Hallでの晴れの舞台の模様を収録したライヴ・ヴィデオ“Nocturne”の映像を観ていて印象に残るのは、細かいエスニック柄がプリントされたルーズなノー・スリーヴのかぶりワンピース調のアウトフィットに黒のスパッツを穿き、腰と膝のあたりを結んだ白の細い布の端をヒラヒラさせているスージー・スーが、裸足でステージに立ち歌い踊っている姿である。
70年代後半のパンク期にはレザーかラバーのミニ・スカートに黒のロング・ブーツという衣装でステージに立つことが多かったイメージがあるが、この日の裸足のスージーは、まるでネコ科の動物を思わせるしなやかな舞踏を交えながら妖艶で圧倒的な存在感を放つパフォーマンスを展開している。あまり目立たない部分ではあるが、なぜ裸足なのかという点は、やはりどうしても気になってきてしまう。
由緒あるRoyal Albert Hallの舞台に裸足で立つスージー・スー。この日の会場を見渡せば、英国の文化・芸術の中心的なホールに、パンク・ムーヴメントによって解き放たれ新たに芽吹くことになったニュー・ウェイヴという時代に生きる現代の野生児たちが大挙して群がり場を占拠をしている、まさに驚くべき光景を目撃することができたはずである。そして、そうした完全に何かが逆転・転倒した状況を最も端的に象徴する存在として、ステージには裸足のスージーがいたということなのだろう。
60年代には裸足で歌う歌手とは、それほど珍しい存在ではなかった。当時、盛り上がりをみせていたエコロジー運動に積極的に関心をもつ自然派のフォーク系の女性歌手などは、エスタブリッシュメントへの反抗と自然への回帰の両面を表現するひとつの行動として、靴を脱ぎ捨てて裸足になり、母なる大地にしっかりと両脚をつけて歌う姿を聴衆に見せつけた。
だが、83年に裸足でステージに立って歌うことには、そうした60年代型の行動とはまた少し違った意味合いをもっているようにも思える。同じように自然回帰の指向を表現しているといっても、社会状況や環境そのものの変化から、そこにはより深く複雑なものが込められてくるはずなのである。特に英国では、79年からのサッチャー政権下での新自由主義へと大きく舵を切った社会の動きの中で、剥き出しになった市場原理主義が徹底された結果、市民の生活は末端まで加速した大量消費のサイクルに取り込まれて、旧来の英国的ライフスタイルの根幹は急速に蝕まれてゆく過程にあった。
近代は爛熟の極みにいたり、膨れ上がった飽和状態のまま、空疎に没落してゆく。そんな時代の空気の中で、靴を脱ぎ捨てることは、時代の流れそのものの全否定を暗示させる行動に等しかったのではなかろうか。ささやかな抵抗といえるのかも知れないが、靴という人間の文明の象徴を脱ぎ去る・捨て去ることで、西洋文明を文字通りに足許から転倒させようとする意志を、そこに垣間見させてくれているようでもある。

90年代後半から00年代にかけての時期、日本のポップ・ミュージックの世界にも、続々と裸足で歌う女性歌手が登場するという動きが見られた。Cocco、元ちとせ、矢井田瞳、鬼束ちひろ、一青窈、中島美嘉といった、フォークやニュー・ミュージックの流れを汲むタイプのポップス(J-POP)の系統に属す、ある種の神秘性をともなうイメージをもった女性ソロ歌手たちが裸足になって歌い、それがその歌手のトレードマークとなったり、ちょっとした話題を振りまくことになったりもした。
そうした者たちの中には、裸足になることで60年代のフォーク歌手のような社会問題に対しても意識的なアーティストというキャラクター作りを狙っていた者もいたのだろう。また、ひとつの斬新なファッションとして、裸足になることを逆転の発想で戦略的に取り入れていた者もいたのだろうし、何となく流行っていてトレンディなスタイルに見えるので完全追従型で裸足になった者もいたのだろう。誰がどのタイプだったかということは一概には分類できないが、当時は裸足になって歌うということが、ある界隈においてひとつの流行のスタイルとなっていたことだけは間違いないところだ。
この当時の日本は、自民党の小泉内閣(01年4月〜06年9月)の下で新自由主義的な動きが急速に本格的に浸透していった時期でもあった。その進行とともに社会の流動性や不安定さは猛烈に高まっていったのである。大量消費のスピードは加速し、慢性的なデフレ状況がそこに追い討ちをかけ、地域経済が空洞化して、その後の金融危機の影響が遠回しかつダイレクトにとどめを刺した。市民の生活は虫食いのように内側からぼろぼろにされて、いつしか脆くも崩れ落ちる時を待つだけとなってしまっていたのである。
こうした、どこか83年の英国と似通った状況が、この時期の日本の社会にも起きていたのである。いや、日本の場合は、その多くの悪弊の面は、最初はほとんど目に見えないところで進行していただけに、それが一気に表面化した時には相当に問題の深刻度は増大していたと言わざるを得ない。こうした社会の状況の中において、同じようなタイミングで裸足の歌手を頻出してきているという現象は、おそらく直接的には関係性を見出せるものではないのかも知れない。しかし、あながち無関係なことではないように思えたりもするのである。

中島美嘉は、01年11月にシングル“STARS”で歌手デビューを果たしている。この楽曲は、01年の秋に放映されていたドラマ『傷だらけのラブソング』の主題歌でもあった。そして、このドラマに、中島は女優としても出演をしていたのである。女優デビュー作であるこのドラマの劇中でも同曲“STARS”でデビューする新人歌手を演じており、ドラマそのものが中島の歌手デビューを彩るものとして機能していたといってもよいだろう。こうした音楽業界とTV業界を巻き込んだ大規模なプロモーション展開に後押しされるだけの実力派の大型新人であった中島は、その話題性も手伝って歌手としても女優としても一躍注目される存在となった。そして、デビュー曲の“STARS”から立て続けにヒットを放ってゆくことになるのである。
その後も歌手としても女優としても活動を続けてゆく中で、05年には映画『NANA』において主演を務めている。このロック・バンドを題材に青春の群像劇をスマートに描いた同名の人気少女マンガを原作とする映画『NANA』は、若手人気歌手の中島と若手人気女優の宮アあおいの二人が揃って主役を演じたこともあり、若年層を中心に社会現象ともなる大ヒットを記録した。劇中でBLACK STONESのヴォーカリストとして中島が歌う楽曲“GLAMOROUS SKY”は、そのまま映画の主題歌となり、05年8月にはNANA starring MIKA NAKASHIMAと役名を併記した名義で中島のシングルとして発表され、こちらも大ヒットを記録する。
この“GLAMOROUS SKY”は、L'Arc〜en〜Cielのヴォーカリスト、hydeが、作曲とプロデュースを手がけたロック色の強い楽曲であった。それまでのバラード曲やポップスが中心であった中島の歌のイメージとは、少し路線が異なる作品であったといってもよい。元々、声質的に歌声の線が細く、あまり声を張り上げて歌うタイプではなかった中島であるが、この“GLAMOROUS SKY”では、まるで自らの殻を破るかのようにバックのロック・バンドのラウドな演奏すらをも圧倒してしまいそうな力強い歌声を聴かせてくれている。
やはり歌手としての実力にはかなり高いものがあり、そして女優でもあるだけに、どんな曲調の楽曲であろうとも、しっかりとそこに相応しいシンガーを演じ歌いこなしてみせる懐の広さと深さを中島はもっている。この楽曲のヒットによって、中島の歌手としてのキャパシティはさらに大きく広がり、それまでにはあまり見せることのできなかった新たな魅力の扉を開くことができたといってもよいだろう。

90年代のヴィジュアル系ロックのブームの立役者となった大御所バンドのひとつであり、現在もカリスマ的な人気を誇っているL'Arc〜en〜Cielであるが、その音楽性やバンドのイメージ的コンセプトには、80年代のニュー・ウェイヴやゴシック・ロック、インダストリアル・ロックからの影響が非常に色濃く見てとれたりもする。こうした影響をバンドの素地として隠さずに表に出し、徹底して欧米のロックのサウンドと比肩しようとする姿勢を崩さぬあたりの一貫性は、多くのヴィジュアル系とよばれるバンドが存在する中でもL'Arc〜en〜Cielだけがもつ特色といえるのかも知れない。そうした音楽面では極めて骨太な指向をみせ続けているところに、変わらぬ熱烈な支持が集まっている秘密がありそうだ。
映画『NANA』のために提供された“GLAMOROUS SKY”には、どこかオリジナル・ロンドン・パンクを思わせる雰囲気が、微かにだが感じられたりもする。おそらくプロデューサーとしてhydeも自らのバンドやソロ活動での楽曲とはまた違った形で、ここでは音楽的な趣味性を前面に押し出すことができたのではなかろうか。その作曲や制作の際に、女性ヴォーカリストが歌うメロディのイメージ的なモデルにスージー・スーの歌唱が据えられていたとしても何ら不思議ではない。
ただし、ギターがノイジーなリフをかき鳴らすストレートなビート・パンク的なサウンドにメロディアスなヴォーカルがのる“GLAMOROUS SKY”は、どちらかというとニュー・ウェイヴ的で刺々しいところのあったバンシーズというよりもメロコアやエモコア以降のポップ・パンクに近い趣きをもっていたりもする。そこには映画の主題歌として大ヒットするのも頷ける、十二分なポップ性が盛り込まれているのだ。このあたりのツボを押さえた曲作り・音作りは、プロデューサーとしてのhydeのバランス感覚のよさからくるものなのであろう。
主演映画の公開と連動させたNANA starring MIKA NAKASHIMAという名義での歌手活動を行った際に“GLAMOROUS SKY”を歌唱していた中島は、まさにスージー・スーを思わせるような存在感を放つヴォーカリストとしてバンドの中心に位置していた。これは映画に登場するBLACK STONESというバンドが、中島が演じる紅一点のNANAを中心としたバンドであるせいもあるのだろう。BLACK STONESとバンシーズはバンドの編成そのもの似通っているために、そこにスージー・スーのような女性ヴォーカリストの影を見ることは非常に容易かった。
また、黒のミニ・スカートにいくつものレザーのアクセサリーを装着し、濃いめのアイ・メイクを施した中島は、映画の役柄を演ずるための衣装とメイクに身を包んでいるのだと思われるが、その黒を基調にしたロック・ファッションには、どうしてもスージー・スーがパンク期に生み出したスタイルが透けて見えてきてしまうものがあったのだ。そこに何か明確な両者の繋がりを示すようなファッション・アイテムが特別にあったわけではない。しかし、原作マンガや映画『NANA』で描かれてていた女の子のかっこいいロック・ファッションの源流に、ロンドンのパンク・シーンで生まれたスージー・スーのスタイルがあることは、揺るぎない事実であるはずなのである。よって、そういった意味でも中島とスージーの間には全く繋がりがないわけではないのはなかろうか。
さらにいえば、この両者には同じような時代背景・社会背景の中で靴を脱ぎ捨てて裸足になって歌った女性歌手という共通点もある。ただし、こうしたファッションやスタイルの系譜的な繋がりには、おそらく無意識のうちに継承されている部分も多分にあるものと思われる。そうした地下水脈的な流れは、何かのきっかけで無意識下から表層へと表れ出てくる。そんなひとつの契機となったのが、いくつかの要素が絡み合って激しく根底でうごめいていたものの噴出としての“GLAMOROUS SKY”という楽曲であったのかも知れない。

80年代には、若い女性ならば誰もがバンシーズのスージー・スーのようになりたいと思っているのだろうと思っていた。スージー・スーのようなかっこいい女性に憧れ、その独創的なファッション性をもったスタイルや髪型やメイクを真似してみたいと思っているに違いないと固く信じきっていた節がある。だがしかし、実際には、そのような誰にとっても憧れとなる存在では決してなかったはずなのである。冷静に考えてみれば、当時の日本で英国のニュー・ウェイヴ・バンドであるスージー&ザ・バンシーズの音楽を熱心に聴いていた人は、どんなに多く見積もってもおそらく若い女性のうちで全体の一割にも満たなかったであろうから。では、なぜそんな風に思い込んでしまっていたのであろうか。おそらくは、当時の時代の空気そのものや若い女性のファッション傾向のどこかしらに、何かしらそれに近しいものを感じ取っていたからに違いない。
当時の海外の最新の流行やモードの最先端の動きに敏感なファッション雑誌では、かなり日本人女性の普段の服装とは遠くかけ離れたスタイルが紹介されていることも多かった。すでにパンクはスタイルのひとつとして流行やモードの動きの中に取り入れられていたし、ニュー・ウェイヴ系の代名詞でもあった頭から爪先まで黒尽くめのコーディネイトも当たり前のように誌面に掲載されていたように思われる。そうしたものの内部にスージー・スー的なスタイルというものは、知らず知らずのうちにひとつの形式や流行のモードとして、すでに混入していたということなのだろう。当時、スージー・スー的なパンクやニュー・ウェイヴ系のファッションやスタイルというのは、間接的にであっても誰にでもそう遠くはないところに感じ取れるものであったはずなのである。

その頃、多くの若い女性たちの憧れの対象であったのは、やはり84年に“Like A Virgin”を大ヒットさせ世界的なアイドル・スターとなっていたマドンナ(Madonna)であった。眩しいほどの輝きを放つマドンナのようになりたいと全世界の多くの女性が思っていたのではなかろうか。日本でも“Like A Virgin”などのヒット曲は広く知られていたし、MTVからセンセーショナルに登場したニュー・スターの存在は、洋楽ポップスの人気者という枠を越えて、ちょっとした社会現象と化していたといってもよいだろう。そして、マドンナのファッションを真似てみたり、そのエッセンスを取り入れた、いわゆるマドンナ・ルックといったものまでが流行していたのである。
マドンナ・ルックとはいってもスージー・スー的なスタイルと同様に、何か決まった形があったわけではない。マドンナ的なスタイルが、若い女性のファッションに取り入れられアレンジされて流行したものがマドンナ・ルックであった。原色のカラフルなミニ・スカートにタイツやスパッツ、Tシャツの上に重ね着するメッシュのカットソー、ラフに髪をまとめる紐状のヘアバンド、耳や首や腕にジャラジャラと大量につけたアクセサリーなどが、その特徴的なアイテムである。また、ミニ・スカートに小さめのシャツを合わせて意図的にお腹を出すヘソ出しルックというものも、新しい時代のセックス・シンボルとして肌の露出度の高かったマドンナのファッションから流行し認知され、やがて一般的なレヴェルにまで浸透していった経緯もある。
こう見てゆくと、この当時に非常に新しいものとして登場し、日本の若い女性のファッションの概念を一変させてしまったマドンナ・ルックというものが、後に80年代後半から90年代初頭にかけて10代の女の子の典型的スタイルとして浮上してくるカジュアル系のギャル・ファッションのハシリであったと思える部分は大いにある。ただし、80年代中期の時点では、マドンナがステージ上やMVの中で表出させていたスタイルとは、ニュー・ウェイヴ期のニューヨークのストリート・カルチャーやストリート・ファッションと密接に結びついているという印象が強かったことも事実なのである。
80年代初頭のニューヨークは、70年代中葉からのパンクのムーヴメントが大きな盛り上がりをみせたことによってファッションを含めた若者の文化全体が新たな局面に入り、ブロンクスやハーレムから堰を切ったように流れ込んできたヒップホップの文化やエレクトロでブレイクダンスを踊るダンサーたちのスタイルと混ざり合った、新たな若々しい感覚のストリート・ファッションを生み出す非常にホットな場所となっていた。そんなパンクやニュー・ウェイヴ、ヒップホップにエレクトロなどが入り乱れた新しい若者文化やファッション・スタイルの発信地となっていたニューヨークのアンダーグラウンド・ダンス・クラブのシーンから登場したのが、マドンナであったのだ。
82年にマドンナが発表したデビュー曲“Everybody”は、ダウンタウンのナイト・クラブ、ダンステリア(Danceteria)の人気DJ、マーク・ケイミンズ(Mark Kamins)がプロデュースした楽曲であった。そして、その当時の彼女のファッションやスタイルは、最新型のNY系ダンス・ミュージックとなっていたデビュー曲の楽曲と同様にアンダーグラウンド・クラブ・シーンが夜毎に生み出す新しく奇抜なニューヨークのトレンドをそのままトレースしたものでもあったのだ。マドンナは、80年代初頭のニューヨークのストリートで花開いていた新しい時代のスタイルを、ポップ・ミュージック〜ポップ・カルチャーの世界に取り込み最先端のスタイルとして大流行させてしまったのである。そして、そのスタイルは一般のレヴェルでも流通可能なポップなアイテムへと再解釈されて、世界中の若い女性の間に広まっていった。
また、マドンナのファッションは、彼女が強く影響を受けていたデボラ・ハリーなどのロック・スターやマリリン・モンローなどの映画女優のスタイルからの引用がふんだんに盛り込まれていた点でも特徴的であった。まさにファッションやスタイルを継承する形で、尊敬する先人たちへのオマージュを全身で表現していたという感じであろうか。そこには、若き日のマドンナの人生観や表現者としての在り方にも大きな影響を及ぼしたであろう、DIY精神に満ちたパンク・ムーヴメントから継承していたものも少なからずあったに違いない。
ニューヨークのストリート・ファッションも、ロンドンで急速に発展・発達したパンク・スタイルに対して全く無関心であったはずはない。そうしたファッションの流行の流れの中で、マドンナがロンドン発のパンク〜ニュー・ウェイヴ系のスタイルを代表するひとつのひな形としてスージー・スーを参照したであろう可能性は非常に高い。いや、80年代初頭のパンク〜ニュー・ウェイヴの時代の空気を吸収したニューヨークのストリート・ファッションを、分かりやすく新たにマドンナ風にアレンジしてみせたマドンナは、間接的/無意識的にだとしても間違いなくロンドンのストリート・ファッションのモードを生み出したスージー・スーのスタイルを継承していたといってよいはずなのである。また、マドンナとスージー・スーの両者のスタイルには、女性の性がもつ両義性の強度を態度として表明・表出している点で非常に通じ合うものがあるようにも思えるのである。

80年代半ばから流行し始めたマドンナ・ルックは、マドンナになりたい若い女性が率先してマドンナ的なファッションを模倣したところからスタートし、より一般的に流通するファッションとして薄められた形ではあったが、あまりタイムラグがなく日本においてもごく普通の10代や20代の女性のファッションの要素に取り入れられていった。これには、当時の流行の発信源であったMTVなどにおいて、実際に動くマドンナ本人の映像を見ることができたことが大きく作用していたものと思われる。誰もがそこでマドンナが何を着て歌い踊っているかを、すぐに確認することができたのである。このような経路を通じて、日本の若い女性たちもマドンナが影響を受けた過去のロック・スターや映画スターのスタイルやニューヨークやロンドンのストリート・ファッションから引用し受け継いだものを、間接的/無意識的に継承していたのである。そして、そこではやはり間接的/無意識的にスージー・スーのスタイルもまた継承されていたはずなのだ。
80年代の若い女性のロック系やニュー・ウェイヴ系のファッションには、どこかロンドンのパンクやスージー・スー的なスタイルの香りを強く匂わせるものがあった。そして、そうしたファッションのすぐ近くに、よりコンサバティヴなスタイルに近いものとして登場したのが、瞬く間に流行の中心となっていったマドンナのスタイルであった。ゆえに、当時はマドンナ・ワナビーとも呼ばれたマドンナになりたいスタイルのとても近いところに、そのルーツのひとつであるスージー・スーになりたい的なスタイルを見出すことも比較的可能であったのである。
ロンドンの街角に発生したバンシーズのスージー・スーのようになりたいファッションは、80年代中期にはマドンナやMTVといった新しいマスメディアを介してポップ文化の一部を形成するまでになっていた。多くの若い女性が、マドンナのようなかっこいい女性に憧れ、マドンナが継承したスージー・スーのスタイルからの流れを継承する形で、あのThe 100 ClubやRoyal Albert Hallのステージに見ることのできた新鮮な感覚をもつファッショナブルなスタイルや髪型やメイクに近づき触れることになっていたのである。

だがしかし、よくよく冷静になって思い返してみると、そうした80年代という時代の中でのある種のスタイルに対する憧れのような現象は、もしかすると自分の中にあるスタイルへの憧れ(であろうか)をそこに重ね合わせて、そこに積極的に実際の憧れの対象を見出していたものであったのかも知れない。もしも自分が女性であったら、きっとスージー・スーのような女性になりたいと感じていたであろう。その確信そのものには、かなり強いものがあったはずである。ただし、そこにあったのは、どちらかというと、そのファッションに対する憧れの感情というよりも、自らのスタイルをもったひとりの人間としての(スージー・スーというパーソナリティの)かっこよさに痺れる心理であったようにも思われるが。そうした自分の内面に強くある、あんな風になりたいという願望が、当時の世の中の多くの人もそうであって欲しいという願いへと変換されて、目の前にあるものを己の願望の幻想の側へと引き寄せて見てしまう現象を生んでいたのかも知れない。
どこかミステリアスで、それ以前に妙に意味不明なところがあり、強烈に自分の個性をアピールしているスージー・スーのスタイルには、それを肯定的に見る者をそのイメージの世界の深みへと引き込み、その人と同化してみたいという欲望を強くかき立てるかっこよさがあった。実際に近づき触れることのできる女性ではなくとも引き込まれイメージにとらわれてしまうほどに、そのスタイルやアティチュードには何かを完全に超越した輝きがあったのである。そうした、ある種の人々にとっての時代のアイコンとして、スージー・スーというパーソナリティは間違いなく存在していたのである。
多くの同時代人・同世代人の前に登場し自分もそうなりたいと思わせる存在。それが時代の偶像たるアイドルというものの最も基本的な形なのであろう。アイドルとは、時代が生み出すものなのである。スージー・スーはバンシーズというバンドを率いて、ある日突如としてロンドンの街に出現した。そして、70年代後半のロンドン・パンクから80年代のニュー・ウェイヴへと大きくうねりながら移行してゆく時代が、そのアイドル性を受け入れ、その新しく特異なる存在を、時代を象徴する偶像へと選別/聖別していったのである。

アイドルとは、明確にその個性を表出させる性格をもつがゆえに、既存の規範の枠内にはおさまりきらず外部に弾き出される(弾け出る)存在でもある。それらは、それぞれに自らを徴づけるスタイルやファッションをもっている。80年代以降の偶像であるスージー・スーやマドンナのそれは、時代や経済の動きに包摂された場としての「ストリート」の空気を思いきり吸収したスタイルやファッションでもあった。それは、大量消費社会の空気や時代性を思いきり吸収しているという意味で、ある種の物質化された消費材的な性質を色濃く備えるようにもなってゆく。ゆえに、こうした現代の偶像やアイドルとは、とても儚い運命の下にあるものでもあるのだ。
消費されるアイドル。それは時代の波間に漂う一枚の木の葉のようなもの。しかし、偶像でありながらも人々が往来する街角にまで降りてきている存在であるからこそ、その同じ時代に生きる者が共通して感覚しているものを、生のままにスタイルやアティチュードとして代弁することができるのである。そして、そこに、そんな偶像に憧れ、そのスタイルを真似したい、それになりたいと願望する者たちの間における、同じ時代を共に生きていることをアイドル/偶像を介して実感する間接的同世代感覚によって緩く広く繋がった共感の輪が生じてくることにもなるのである。

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