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<<   作成日時 : 2013/04/24 03:00   >>

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新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉

補稿 Unknown Sisters

(一)

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1957年5月27日、ロンドン市内サザークの病院において、スーザン・ボーリオン(Susan Ballion)はワロン系ベルギー人の父とイギリス人の母の間に三人兄妹の末っ子として誕生した。
その後、スーザンは、ロンドン南東部の郊外、チズルハーストの街で家族とともに育つことになる。年長の兄と姉とは、年齢が10歳以上も離れていた。ボーリオン夫妻は久しい間をおいて誕生したこの末の娘を大変に可愛がったものと思われる。歳の離れた兄と姉も、小さな妹の誕生を喜んだに違いない。だがしかし、スーザンは、とても孤独な幼少期を過ごしたと述懐している。周囲にいるのは大人たちばかりで、あまり子供らしく過ごせる環境ではなかったようだ。
また、スーザンが生まれる少し前にベルギーから移住してきた新しい入居者であるボーリオン家は、典型的な郊外の街であるチズルハーストの古くからの共同体に、あまりすんなりと馴染めずにいたようでもある。スーザンが多感な10代へと足を踏み入れる頃、その小さな胸の内のモヤモヤを打ち明けられるような存在は、近くに誰もいなかったようだ。まさにスーザンから見れば、周囲の人々は皆揃いも揃って「わかってくれない大人」でしかなかったのだ。

思春期のスーザンが唯一心を寄せることができたのが、デイヴィッド・ボウイ(David Bowie)、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(The Velvet Underground)、T・レックス(T.Rex)、ザ・ストゥージズ(The Stooges)といった、一般社会から疎外されたはみ出し者のロックを歌うアーティストやバンドによるレコードたちであった。そして、スーザンが14歳のとき、慣れない英国暮らしがストレスとなっていたのか、長らくアルコールの問題を抱えていた父親が肝硬変で他界する。その頃、不安定で孤独なスーザンの心の拠り所となっていたのが、ロキシー・ミュージック(Roxy Music)に代表されるグラム・ロックのムーヴメントであった。
ロキシー・ミュージックの音楽とアートを融合した自由で型破りな表現に触れ、スーザンは自分の中に眠り続けていた本当の自分を発見し、当時の流行の最先端であったグラム・ロックのファッションやライフ・スタイルにどっぷりとのめり込んでゆくことになる。やがてグラム・ファッションに身を包んだロキシー・ミュージックの音楽に心酔する仲間たちとの交友関係をもち始めたスーザンは、音楽とアートを通じて結びついた彼らとロンドンの街で常に行動をともにするようになってゆく。
70年代半ば頃になると、すでに高校を中退してしまっていたスーザンは、毎日のように奇抜なファッションで街を仲間と歩き回り、夜はゲイ・ディスコやナイトクラブに入り浸るようになる。過激なファッション・センスを光らせた人一倍に目立つ端麗なルックスで、いつしか彼女はロンドン界隈のアンダーグラウンド・シーンでは、かなり知られた存在となっていた。そして、75年のセックス・ピストルズ(Sex Pistols)の登場とともに、時代の流れは一気にパンク・ムーヴメントの大きな渦の中へと飲み込まれてゆくことになる。

76年、スーザンは初めてセックス・ピストルズのライヴを体験している。そして、そこで天地が入れ替わるような衝撃を受ける。まさに、パンクの洗礼を受けたのだ。おそらく、遂に自分たちの世代の声を代弁するような音楽に出会えたという気分の高揚もあったのであろう。即座にスーザンは、友人たちとセックス・ピストルズの親衛隊を結成することを決意する。彼らは、バンドがライヴを行う場所であればどこにもで付いてゆき、その破天荒な演奏を誰よりも間近で見守った。
パンク・ロックとは、ロックとしての革新性を訴える側面を殊更に強くもつ音楽であった。しかし、その姿勢を強く打ち出すことによって、パンク以前・パンク以外のロック音楽との様々な軋轢を生むことにもなっていたのである。よって、10代の若者たちを中心とする親衛隊は、ステージ上のバンドに対する旧来のロック・ファンからの攻撃を阻止する役割を担う存在でもあった。
そうした防衛の行為は、長く孤独な日々を過ごしてきたスーザンにとって、自らの世代の声が挙げられる場所を確保し、自らが仲間たちと一緒に居られる死守するための闘いに重ね合わされていた部分もあったのであろう。急進的なパンク・ロックは、常に反動的な動きと衝突する運命にあった。だが、そのムーヴメントの根底を支えていた10代の若者たちによる根気づよい支持と旧来のロック観との決別の闘いを通じて、パンク・ロックの前と後に道ができ歴史が形成されていったという側面も忘れてはならないだろう。
当時、ブラック・レザーやラテックス素材のボンデージ系のアウトフィットを取り入れた性的なフェティシズムを前面に押し出した服装や妖しいメイク・アップは、スーザンのトレードマークにもなりつつあった。こうしたスタイルは、アンダーグラウンドなゲイ・ディスコのシーンにおける、社会から疎外され抑圧された者たちが、自己表現・自己解放の場としてのダンスフロアに集う際の奔放な容姿から着想を得たものであったのだろう。これをスーザンは、街中を歩く10代のロック系の女の子のファッションに、あまりデフォルメすることなく極めて過激な形で取り入れてみせたのである。
そして、それが後に、女の子のパンクス、パンケットに好んで取り入れられ、パンク・ファッションのひとつのひな形となってゆくことになる。また、全身黒尽くめの服装に逆立てた黒髪と目の周りを真っ黒に塗る斬新なアイ・メイクというスーザンの出で立ちは、後のゴシック・ロック・シーンにおけるゴス系ファッションの先がけでもあった。

そんな時代の動きの中で、スーザンにも大きな人生の転機が訪れる。パンク・ロックは、誰にでも楽器を手にとりロックする資格と権利があることを謳っていた。これは、ブルースやジャズなどの要素を取り入れ、誰よりも楽器をうまく弾きこなすことばかりに注目が集まっていた70年代の高等/高尚なロック音楽に対する、明確な反抗の姿勢を表したものでもあった。ズブの素人でもステージに立って楽器をかき鳴らし、思いの丈をぶちまければ、ロック音楽の本質である抑え切れぬ衝動の表現として立派に成り立つというのが、パンク・ロックが標榜していた革新性の最も手軽な実践法であった。
誰もがやりたいことを好きにやる。そして、それがパンクという表現となる。極めて自由なアート・フォームとしてのパンクのとらえ方が、そこにはあった。ロンドン・パンクの仕掛人である、マルコム・マクラレン(Malcolm McLaren)が、超現実主義の流れを汲む状況主義の方法と手法を、そこに持ち込んでいたことも大きく影響を与えていたのであろう。マクラレンは、自らがマネージャーを務めるセックス・ピストルズのイメージ戦略・プロモーション戦略にも、そうした方法論を巧みに取り入れていた。
そんなハプニングを好むマクラレンのマネジメントにより、セックス・ピストルズとマンチェスターのバズコックス(Buzzcocks)をメイン・アクトに据えて、クラッシュ(The Clash)やダムド(The Damned)、サブウェイ・セクト(Subway Sect)などの活きのよいパンク・バンドを集結させた二日間の世界初のパンク・ロック・フェスティヴァルが企画されていることが明らかになった。このロンドンのThe 100 Clubで開催されるフェスティヴァルに出演するパンク・バンドをマクラレンが探していることを知ったスーザンは、ドゥ・イット・ユアセルフ(DIY)なパンクのアティチュードに突き動かされて自ら名乗りを挙げることになる。
この時点で、スーザンは、それまでにバンドを組んだこともなければ、ロック・バンドに必要な楽器を演奏した経験も殆どなかった。彼女は親しい友人でセックス・ピストルズの親衛隊の一員でもあったスティーヴ・セヴェリン(Steven Severin)に声をかけ、自らのバンドの結成へと動き出す。だが、彼女はバンドのメンバーを集めるよりも先に、ライヴのプロモーターに直談判してパンク・ロック・フェスティヴァルの出演枠を手に入れることに全力を注いだ。バンドの有る無しに拘わらず、まずは立ち上がること、それが彼女にとってのパンク精神の実践の第一歩であったのだ。
そのフェスティヴァルへの出演申請をした際に、スーザンが名乗ったバンド名が、スージー&ザ・バンシーズ(Siouxsie and the Banshees)である。ここに、スージー&ザ・バンシーズのヴォーカリスト、スージー・スー(Siouxie Sioux)の登場が胚胎されることとなった。

76年9月20日、The 100 Club Punk Specialの第一日目。この日のメイン・アクトのセックス・ピストルズとクラッシュがステージに上がる直前に、新人バンドであるスージー&ザ・バンシーズの出番はセッティングされていた。フェスティヴァルでのライヴを行うために結成されたスージー&ザ・バンシーズのメンバーは、ヴォーカルのスージー、ベースのセヴェリン、マクラレンとデザイナーのヴィヴィアン・ウェストウッド(Vivian Westwood)が経営するキングス・ロードのブティック、SEXの常連客であり、セックス・ピストルズの取り巻きのひとりでもあったマルコ・ピローニ(Marco Pirroni)がギター、そしてドラムスにはセックス・ピストルズの親衛隊の一員であり、後にマクラレンに誘われセックス・ピストルズのベーシストとなるシド・ヴィシャス(Sid Vicious)という四名であった。全員が、バンドを組むのも初めてなら、人前でロックを演奏するのも初めてという、文字通りの即席バンドが、いきなりパンク・ロック・フェスティヴァルのステージに立ったのである。
この日のステージに立ったスージー&ザ・バンシーズは、まさにこのフェスティヴァルの企画に相応しい、パンクのスピリットやアティチュードを最も端的に象徴しているようなバンドであった。持ち時間は、20分。演奏もできなければ、作曲もできない四人は、楽器を手にステージに立ち、衝動のおもむくままにノイズをかき鳴らした。バンシーズの面々は、ひたすらに20分間のパンクな即興演奏を繰り広げ、その間にヴォーカルのスージーは思いつくままに言葉を羅列して絶叫し、暗記している詩の断片などをノイズに合わせて歌い上げたのである。
ノイズと即興の20分間。スージー&ザ・バンシーズのデビュー・ステージは、明らかに何か新しい時代と歴史の幕開けを告げるものであった。スージー・スーは、初めてのステージでマイクの前に立った時から、それまでのどんな女性ロッカーとも女性シンガーとも異なる存在感を醸し出していた。スージー・スーとは、最初からロックでもパンクでもなく、まさにスージー・スーでしかない希有な存在であったのかも知れない。
一曲もまともに演奏できる楽曲のないスージー&ザ・バンシーズを率いて、盛大なるパンク・ロック・フェスティヴァルのステージに立ったスージーは、王女の風格を漂わせるほどに自信に満ちあふれ、自らの発する声でノイジーな即興演奏を統制し、自己の中に新たに誕生したスージー・スーというキャラクターを見事に表現しきったのだ。この日を境に、チズルハーストのスーザン・ボーリオンは、唯一無二の表現者であるスージー・スーとしてのもうひとつの人生を歩み出すことになる。

ロンドンのThe 100 Clubのステージ上で何にもとらわれずどこまでも自由に喚き歌うスージー・スーの姿は、過激なものに慣れ親しんだパンク世代の若者たちにとっても、これまでに経験したことのないような大きなインパクトと衝撃をもたらすものであったようだ。この日、会場にいたスリッツ(The Slits)のメンバーが、20分間の圧倒的なスージーのパフォーマンスを絶賛していることは有名な話である。スージー・スーの登場は、女の子がロックする/パンクすることへの新たな扉を開いた。そして、その何も特別ではないごく普通の女の子がステージ上でマイクを握り自由に声を挙げる行為は、後のライオット・ガール(Riot Grrrl)の動きの先がけでもあったのだ。
ただし、それ以前にもパティ・スミス(Patti Smith)やブロンディ(Blondie)のデボラ・ハリー(Deborah Harry)など、NYパンクのシーンには女性パンク・ロッカーが何人も存在してはいた。しかしながら、スージーは、ロンドンのムーヴメントの震央部に属していたためにパンクを体現する存在にはなっていたが、決してロッカーとカテゴライズできるような存在ではなかったのではなかろうか。それは、ひとりの郊外育ちの女の子が、ファッションとメイクによってスージー・スーというひとつの人格を表現し、剥き出しのパンクな衝動をパフォームしただけのことだったのである。マルコム・マクラレン的にいえば、それは純粋にアート表現と呼べるものであった。
パンク・ロックの基本となった三つのコードはおろかメロディすらまともに弾くことのできないバンド・メンバーによるスージー&ザ・バンシーズの初ステージでは、一般的な意味でのロックらしきものが演奏されることは一切なかった。ただし、そこでぶちまけられた即興ノイズは、伝統的なロック・ミュージックという形態へのカウンターとしてのパンクそのものではあったのだが。しかしながら、チズルハーストのスーザンは、そこで括弧付きのロックに唾を吐きかけながらも基本的にはロック音楽の系譜に連なるパンク・ロック世代の多くの声の中のひとつとしてではなく、それをさらに更新した世代と時代を代表するアイコン、スージー・スーとして自らの声を挙げていたのである。
スージー・スーは、当時のどんなパンク・ロッカーよりもパンクであった。そして、それは、まだ産声を挙げたばかりであったパンク・ムーヴメントの可能性の大きさと、その先にあるものを感じさせるものでもあったのだ。最初から、スージー・スーとはポスト・パンク的な存在であったのかも知れない。既存の伝統的なロックのイディオムやコンテクストを遥かに超越していたという意味において。
このスージー・スーというパフォーマーは、何ものにも縛られず、全てを解放し解き放つ自由奔放な表現者として登場した。それは、旧来の思考や思想を破壊するだけのパンク・ロックを軽く超越し凌駕してしまう、まさにポスト・パンクな流儀のアーティスティックな表現だったといえよう。そして、その新しい時代/世代のスピリットやアティチュードは、パンク・ムーヴメントの到来によって目を覚ました多くの新しい感覚をもつ者たちの目と心を惹きつけてゆくことになる。

全く新しい感覚のルックスをもって出現したスージー・スーのスタイルとは、70年代のグラムやパンクなどのロック・ファッション(そこには60年代の自然回帰的なヒッピー文化/ファッションに対する反動も多分に含まれている)を通過する中で育まれてきたものであった。そして、ゲイ・ディスコの世界の独特な美的感覚などの様々なエッセンスを盛り込み取り入れることで、スージー・スーにしか創造・表現することのできない形態へと通ずる、一層の深みと膨らみがもたらされることにもなった。服装から髪型、メイクにいたるまで、どこまでも奇抜で斬新な、それまでに誰も見たことのないスージー・スーのオリジナルなスタイルが生み出されていたのである。
それは、音楽を中心にファッションなどを含めた総合的なスタイル(ライフ・スタイル)の自由な表現を行うという、グラム・ロックやパンク・ロックのムーヴメントが向かっていた方向性を、さらに強く押し進めたひとつの究極の形であったのかも知れない。何ものにも抑圧されることなく、あるがままに着飾り、自分自身の内面から湧き上がってくる声を挙げる。アンダーグラウンドなゲイ・クラブのダンスフロアにおける同性愛者たちのように。どこまでも付きまとう社会的な労働の枷を振り払い、そこでは全てがアートへと変容するのである。
スージー・スーのスタイルは、社会の環境が要求するものに従わされるのではなく、自分がなりたいものになる自由を強く主張しているものでもあった。ステレオタイプな男性や女性のみが社会的理性的人間として認められるという暗黙の了解に対する、あからさまな闘争/逃走を、スージー・スーは自らのまとうエクストリームなファッション・スタイルで展開してみせたのだ。着たい服を着たい様に着て、聴きたい音楽を聴きたい時に好きなだけ聴き、自分が思うような自分のままでいること。自分を偽らずに、本当の自分の生を生きること。社会の片隅や周縁や奥底で偽りの自分を生きていたマイノリティの声を取り戻し解き放つアクション。そこにこそパンクの真髄があることをスージー・スーのスタイルは、目に見える形で表現してもいたのである。
また、そのスタイルは、スージー・スーのオリジナルなアレンジがなされたものであるがゆえに強烈なインパクトをもち、周囲に大きな衝撃をもたらした。あまりにもスージー・スーという存在は、それまでのものとは異なる先鋭的なスタイルをもち、それ以降のスタイルの方向性を決定づけてしまうような圧倒的な斬新さと切れ味を体現していたのである。スージー・スーが生み出したスタイルの影響力は、極めて強大だ。あの日の即興ノイズの中から生まれたものは、35年以上を経た現在のスタイルにも間違いなくはっきりと影響を及ぼし続けている。

黒髪に目の周りを大きく黒く縁取るように塗って強調したメイク、黒のレザーやラテックス素材のボンデージ・スーツ/ボディスーツにぴったりと身を包み、足には黒の網タイツやスパッツ、そして足元は黒ラバーのハイヒール・ブーツをきめる。こうした、頭の先から爪先まで黒尽くめの装束というと、欧州ではやはり魔女のイメージと結びつく部分がかなりあったのではなかろうか。
魔女とは、魔法使いの女性のことである。昔話や物語の中に登場するキャラクターとしての魔女というものには、誰もが幼い頃から馴染みがあるだろう。現実の世界では、超能力や人知を越えた能力をもつ人を魔法使いのようだと形容したりもする。かつて、そうした能力を持つ人は、割と身近な場所に存在していた。呪術や占星術といった類いのものは、農耕や狩猟などの日常の行動・労働と非常に密接に結びついてもいたのである。
しかし、こうした何かしらの術めいたものを使う人物が一様に魔女と位置づけられるようになったのは、中世の社会においてである。キリスト教が広まり教会を中心にして社会が形成されていた中世ヨーロッパにおいては、一神教の教えに背反する行いは、全て背信行為と見なされた。よって、呪術などの土着の神や精霊を信奉する行為は、それすなわち妖術であり、キリスト教教会からは悪魔信仰と断定されるにいたる。妖しく不思議な能力をもつ魔女は、キリスト教社会では教会によって徴付けられた異端者であり、迫害の対象となったのである。こうしてキリスト教の上に成り立つ社会が隅々にまで行き渡っていたヨーロッパの各地で大々的に公に魔女狩りが行われ、多くの魔女が裁判にかけられ処刑されることとなった。
中世以前には共同体の内部に深く根をおろしていたものが、教会によって悪魔を信仰する魔女と呼ばれて社会の外側へと追いやられた。魔女は、キリスト教の道徳観を社会に浸透させ、教会による人民の支配を強化するためのスケープゴートの役割を担わされていたといってもよいだろう。異教徒を異端として撲滅し、社会を浄化してゆく動き(上部から下層を見通しやすくする動き)を推進してゆくために、魔女という存在が人々の生活の近くに身近に存在していただけに非常にわかりやすく利用されたのである。
こうした中世の歴史を過去の記憶として擁しているためか、現在でもヨーロッパの社会では、黒い装束の魔女のイメージは悪魔的で忌み嫌われている部分もあるものと思われる。魔女とは、ある種の禁忌に近い存在であり続けているのだ。そうした魔女のイメージというものすらも、スージーは自らのファッション・スタイルにひとつの要素として取り入れ、中世の眠りから覚めずに捩じれた記憶をもち続ける現代の社会に復活させたのだともいえる。

スージー・スーのスタイルが表現するものとは、社会の周縁の人々や社会から疎外されたはみ出し者たちの声なき声の代弁でもあった。真性を尊び異端を認めぬ疎外的な労働を中心にしてまわる社会。スーザンのような郊外の孤独な子供たちを蔑ろにする大人による大人のための社会。異性愛を自明のものとし影に隠れる同性愛を無視し続ける同一性のみを重視する社会。女性を声をもたぬ性として封じ込め男性化する女性のみを形式的に受け入れる男性中心の社会。そうした社会とは交わらぬ禁忌に近い黒尽くめの装束を装備することによって、そうしたものと真っ向から対峙してみせる。
女性的な肉体のラインを強調するボンデージ・スーツやコルセットを身につけ、ロング・ブーツを履いて脚のラインを強調する。一見すると過激な扇情性ももつパンキッシュなファッションは、女性の肉体をフェティシズム的な語りへと落とし込む男性の短絡的な視線を逆手にとる覚めた女性ならではの自己言及的表現の形態でもあった。社会の周縁に棲む疎外された人々を中世の魔女の姿に重ね合わせ、スポットライトのあたる場所へと抉り出して声を与えるのが、その過激な黒装束の役割でもあったのである。
そして、アンダーグラウンド/暗部に追いやられた者たちは、スージー・スーの身体と服飾を借りて社会のあちこちから静かに語り出す。それはまさに口寄せ的な形式そのものであり、現代の呪術といえるものであったのかも知れない。しかし、そこで語られ代弁されているのは、冥府からの声などではなく、紛れもなく抑圧からの解放を必死に訴えかける人間たちによる声なき声であった。

さらに、スージー・スーのファッション・スタイルを特異なものにしている点として、彼女の特異なエスニック趣味が、そこに効果的に反映されている部分を挙げることもできるだろう。彼女は、意図的にヨーロッパ的なイメージから離反する要素を盛り込むためにか、そのファッションや作品のアート・ワークの随所でエジプトや中近東、果てはアジアにまでいたる様々な文化的モチーフを積極的に取り入れている。
そうしたもののベースとなっていたのは、クレオパトラに扮したマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)やエリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)のスタイルの模倣であったことは、ほぼ間違いないところなのではなかろうか。特に、そこでなされていた真っ黒の黒髪にアイラインを強調するように瞼からこめかみ近くまで黒く濃くシャドーを入れる化粧は、そのままスージー・スーのスタイルに取り入れられて基底部分をなしているといってもよい。ゴシック系ファッションの元祖ともいわれるスージー・スーであるが、その特徴的なメイク方法のルーツは、実はマリリン・モンローやエリザベス・テイラーといったハリウッド女優を経由したエジプトの女王クレオパトラにあったのである。
その深いルーツとなっている部分が、中世ヨーロッパを代表する様式であるゴシックの対極にある古代エジプトやローマと連関をもつものであるというのは、とても興味深い繋がりであり、そのスタイルの多様な特性を象徴しているかのようなポイントでもある。そうしたスージー・スーのスタイルに顕著な特徴として、過去のものからサンプリングした素材を、自らのスタイルにリミックスする手腕に非常に長けているという部分を挙げることもできるだろう。巧みにリアレンジし独特なスタイルを構成するピースとして取り込むことで、スージー・スーはマリリン・モンローやエリザベス・テイラーといった先人たちと、スタイル的に独創性の面で見事に並列に並んでみせるのである。
エジプトや中近東といった古代オリエントの文明や文化からの要素を取り入れているということは、ヨーロッパがキリスト教社会となる以前の呪術的世界にも通じているという意味で、自然崇拝や多神教信仰の象徴としての魔女の要素を黒を基調とするファッションで復古させているスタイルの方向性と、どこか密接に繋がるものがあるともいえるのではなかろうか。スージー・スーの黒尽くめの装束と特異なエスニック趣味は、神の愛と白い純潔という幻想の教義の上に成り立つ宗教的西洋文明批判としての意味を強くもっているようにも思われる。
しかし、そうしたエスニシズムへの接近は、とても一面的かつ表面的であるようにも見えるため、どこか植民地主義や帝国主義へと通ずるものがあるという見方がでてきたとしてもおかしくはない。また、そのスタイルが、キリスト教教会と結びついた汎ヨーロッパ的な面も孕むゴスの原点とも見誤られている傾向もあるだけに、二重に読み違いをされてしまう怖れもないわけではない。しかしながら、やはりスージー・スーのスタイルというものが、前衛的なアートやロック、民間伝承、歴史神学や歴史哲学にまでいたる、極めて多彩で多様なコンテクストの結合・融合から成り立っていることを見過ごした批判は、それこそとても一面的かつ表面的で的外れなものであるといわざるを得ないであろう。
そして、そのスージー・スーのスタイルとは、スーザン・ボーリオンが演ずるところの芸能としての表現の一部であることも忘れてはならない。作られたペルソナの受け止め方というものは、それこそ様々であって然るべきなのである。敢えていえば、あちこちに多くのつっこみどころがあるからこそスージー・スーなのだともいえるし、だからこそ国境や人種や性別も超越して多くの人々に受け入れられたのだともいえる。そもそも全てのテクスト/コンテクストとは、読み違われるため/解釈されるためにあるといってもよいのだから。

先鋭的なイメージを表出させていたスージー・スーのスタイルは、鮮烈なインパクトをもってパンク期とそれ以降のロック系ファッションのモードを直撃してゆくことになる。それは誕生とともに、すぐさま多くのパンク・ロック・ムーヴメントの周辺にいる女の子たちによって模倣されたのだ。
スージー&ザ・バンシーズは、衝撃的な初ライヴの後にスージーとセヴェリン以外のギターとドラムスのメンバーを入れ替え、77年頃からロンドンで本格的なライヴ活動を開始し、翌78年8月にポリドールより発表したデビュー曲“Hong Kong Garden”をスマッシュ・ヒットさせている。この頃には、彼女たちのライヴは常に各地で超満員になり、毎週のようにスージー・スーのアーティスト写真が音楽誌・音楽紙の誌面・紙面を飾る状況が出来上がっていた。
そして、イギリス全土の街角にそのスタイルを取り入れたファッションの女の子たちを確認することができるようになる。ほどなくして、ロンドンやニューヨーク、そして東京にも、黒尽くめのファッションをトレードマークとする新しい人種が出現した。80年代の幕開けとともに、時代はパンクからニュー・ウェイヴへと移り変わりつつあったのだ。
スージー・スーのスタイルは、ゆるやかに時代の移り変わりとともに変化し、スタイルの幅を広げながら、様々な亜種を生み出しつつそのフォロワーたちを増殖させていった。パンク系、ポップ系、ロック系、ニュー・ウェイヴ系、ゴシック系といった多くの系統が、スージー・スーを始源・源流として発展を遂げながら滔々と流れ続け、それぞれがそれぞれの流れの中でひとつのスタイルとして確固たる地位を築き上げていったのである。
こうした動きや流れの根底には、やはり自分もこうなりたいと思わせるものが強烈に存在していたのであろう。そうした思いが共感され、次々と感染してゆくことによって、そこに大きな流れが形作られてゆく。そして、そのさらに奥底には、スタイルを模倣することによって、オリジナルのスタイルに込められていたアティチュードの強度を引き継いでゆく部分も確実にあったのではないかと思われる。まさに、スージー・スーのスタイルとは、パンク〜ニュー・ウェイヴ期に登場した、ひとつのファッションと密接に結びついた生活や考え方のスタイルのモデルでもあった。それはロックやパンク・サークルの周辺の最もオーセンティックなスタイルのひな形として、今も変わらずに参照され続けている。

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