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<<   作成日時 : 2012/09/16 23:00   >>

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新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉

(一)

Electric Shock

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“Electric Shock”は、SMエンターテインメントに所属する五人組ガールズ・グループ、f(x)が12年6月13日にリリースしたセカンド・ミニ・アルバムである。11年6月14日にリリースされたファースト・アルバム“Pinocchio”(4月20日リリース)の新装盤“Hot Summer”以来、ほぼ一年ぶりの新作となる。
多くのK-POPアイドルたちがシングル中心のリリースを重ね、ヒット曲量産態勢で駆けずり回っている状況(まるで馬車馬のように)の中で、意図しているものであるのか結果的にそうなってしまっているものなのかは判然としないが、09年にデビューした中堅どころのグループであるf(x)が一年に一作のペースで悠然とリリース活動を行っている様は、やはり妙に異彩を放ってはいる。新人から大御所までが入り乱れ、移り変わりの激しい韓国歌謡界での生き残りをかけた真剣勝負が日々繰り広げられているにもかかわらず、この五人組だけは、そうした熱いバトルのフィールドから少しばかり距離を置いているようにも見えるのである。f(x)とは、実にクールなガールズ・グループであり、その佇まいには、どこかこれまでにはなかったような新世代感が漂っていたりもする。
だがしかし、かなり寡作でありながらも、f(x)が発表する作品のポップスとしての質は極めて高い。そしてまた、昨年のファースト・アルバムあたりからポップスとしての洗練の度合いも、かなりのレヴェルにまで研ぎすまされつつある。いや、f(x)はデビュー時から音楽的に非常にレヴェルの高いポップな楽曲で評価され人気を獲得していた存在であり、そうした新しい世代の新しい感覚のポップ音楽としてのスタイルが、昨年のアルバム“"Pinocchio”〜“Hot Summer”あたりからよりしっかりと確立されきたといったほうが、正確であろうか。本作に収録された全六曲も、硬軟織り交ぜた非常にヴァラエティ豊かで耳に楽しい音作りがなされた楽曲ばかりとなっている。

f(x)の楽曲の特徴的な点としては、言葉遊びのようにフレーズが転がる歌詞・歌唱のユニークさを挙げることができる。これは、かねてより彼女たちの楽曲に顕著に見られた、いわゆるf(x)節でもある。本作の冒頭を飾るタイトル曲の“Electric Shock”では、まさにビビビと身体の中を突き抜けて走る恋の電流に痺れるかのように、歌詞のフレーズの頭の部分が意図的に重ねられて歌われている。たとえば、電流を意味する「전류」(チョンリュ)という歌詞を歌う場合には、頭の「전」(チョン)の部分だけをダブらせてリズミカルに「전 전 전류」(チョンチョンチョンリュ)と歌うといった具合に。この語の繰り返しの形式が、Aメロのフレーズの全ての頭の部分で登場するのである。
また、「딩동딩동」(ディンドンディンドン)や「빙그르르르르」(ビングルルル)、「찌릿찌릿」(ジリジリ)といった、同じ語を反復させる畳語や擬音語/擬態語などもふんだんに盛り込まれており、エレクトロ・ビートのグルーヴにシンクロするエレクトリックに痺れる言葉の様式という、お見事な対応ぶりをそこに聴くことができる。そうした中でも、落ちる状態を意味する語である「떨어져」(トロジョ)というフレーズの後に、物が落ちた時のバタンという物音に相当する「쿵」(クン)という擬音までが歌い込まれるパートがある。これなどは、まるで音までもが見えてくるようなマンガ的な表現がなされていて非常におもしろい。
こうした歌詞の言葉の意味性よりも転がる/グルーヴする語感の心地よさを優先させた歌が、トライバル〜エスノ系(“ジグザグ”)やディープなファンク調(“Let's Try”)のエレクトロなダンス・サウンドと渾然一体となって迫りくる感じには、どこかきゃりーぱみゅぱみゅの新世代感を満載したエレクトロ・ポップとの同時代性も香っているように思えたりもするのである。実際、きゃりーぱみゅぱみゅとf(x)のメンバーの大半は、90年代前半生まれのハイ・ティーンという同世代でもある。そこに同じ時代を同じ世代として生きる共通感覚のようなものが存在していたとしても決しておかしくはないのかも知れない。

また、f(x)というグループは、多国籍なメンバー構成となっており、K-POPの枠だけに収まりきらぬインターナショナルなフィーリングを醸し出す歌唱に特徴をもってもいる。それぞれのメンバーのもつ個性が豊かに発揮された、内部で互いに被ることなく外側へと大きく広がってゆくようなヴォーカルのバランス感にも非常に絶妙なものがある。
中国の山東省青島出身のヴィクトリア(Victoria)は、長身でスタイルがよくお姉さんキャラがぴったりとハマるグループのリーダー。米国カリフォルニア州ロスアンゼルス出身のアンバー(Amber)は、台湾系の米国人であり主にラップのパートを担当しマニッシュなかっこよさを全身から漂わせている。ソウル出身のルナ(Luna)は、完全無欠のディーヴァ・タイプ。朝鮮半島の南東部ヤンサン出身のソルリ(Sulli)は、幼い頃から子役としても活動していた天性のかわいらしさの持ち主であり、正統派アイドルのポジションにおさまる。米国カリフォルニア州サンフランシスコ出身のクリスタル(Krystal)は、グループ内の末っ子にもかかわらず大人っぽい洗練された美貌でクールなティーン・アイドルとして多くの同世代の女の子たちの憧れの的となっている。また、韓国系米国人の帰国子女であるクリスタルは、少女時代(Girls' Generation)のジェシカ(Jessica)の実妹でもある。こうした国籍もバックグラウンドもキャラクターも全く異なる五人が、ひとつのf(x)というグループとして歌うとき、そこには五つの歌声による美しい歌唱のレンジの広いグラデーションを聴くことができる。
00年代以降のK-POPの世界では、在外韓国人・朝鮮人の二世/三世/四世のメンバーなども少なくはなく、比較的に国際色が豊かであり、どのグループにも韓国以外の出身者や韓国以外で育った帰国子女が大抵は含まれていたりする。これには、20世紀の歴史状況の中で拡散・拡大することとなったコリアン・ディアスポラの問題も密接に関係している部分もあるが、逆にグローバル時代に先がけてK-POPが国際化の動きに対応してゆく下地となっていたのも、間違いなくこうした民族的かつインターナショナルな要素を積極的に取り入れていたからだともいえる。そして、こうした流れをさらに押し進めた形態として、外国人のメンバーを加入させる動きも出始めてくる。その中でも最も目立つ存在となっているのが、二人の中国人メンバーを擁する四人組のMissAと、中国人のメンバーや台湾系のメンバー、そして米国出身の帰国子女などが混在しているf(x)なのである。
21世紀初頭の世界の状況を鑑みれば、遂に分厚いヴェールが剥ぎ取られつつある中国・中華圏の音楽市場は誰の目にも広大なフロンティアと映ずるはずである。今やこの中華圏への進出と成功こそが、これからの音楽業界(業界全体が再編され、既存の音楽業界は消え去っているかも知れないが)を生き抜いてゆくのための必須条件ともなりつつある。昨今のK-POPグループにおける中国人メンバーの取り込みは、こうした時代の動きと少なからずリンクしたものであると考えて間違いはない。ここ数年間に大挙して日本進出してきているK-POPグループに日本人メンバーがほとんどいないことを考えれば、こちらの大陸方面へのアジア進出計画は、かなり長期的な視座で見立てた、より真剣な取り組みなのだと思わざるを得ない。

こうして見てゆくと、アジアのポップ・ミュージックの未来は、相当におもしろいことになってゆきそうである。どちらかというと、このままアジア全体をK-POPが席巻してしまうかも知れないという動きが、今は優勢であるように思える。だが、それよりも、f(x)やきゃりーぱみゅぱみゅなどの現在10代後半のアイドルたちが共通して醸し出している新しい世代の全く新しい様式のポップ感覚といったようなものに、今後は実におもしろそうな展開がありそうに思えてならないのだ。
全てがものすごいスピードでボーダーを越えて動く、高度に情報化されたグローバル時代に、最もアクティヴで多感な輝かしい10代の日々を生きる世代が、ボーダーを越えて通じ合い、ものすごいスピードでおもしろいもの・カワイイものに感染・伝播し繋がってゆく。そんな若い世代の生活そのものやライフスタイルそのものと密接に連関しているポップな感覚。そこには、同じ時代を生きる同じ世代の間だからこそ成立する、言葉を越えて/もはや言葉を必要とせず、瞬間的・感覚的に繋がってゆく新しい時代/世代の以心伝心のフィーリングが存在している。
ダグラス・クープランド(Douglas Coupland)は、かつて「ぼくは自分のことを全地球的だと思っている。全地球的な活動に参加しているんだ。ジェットに乗り込み、コンピューターに語りかけながら、小さな幾何学状の食べ物を頬張り、そして携帯電話で打ち合わせする。そんなことを考えるのがすきだ。ぼくみたいに何百万人もの人間が地下室やファッションプラザや学校や街角やカフェなどいたるところにいて、みんなおなじような事を考え、静かに連帯意識と愛を互いに送りあっている」と書き、この70年代後半以降に誕生した世代(若年期にインターネットと携帯電話を両方手にした第一世代)をグローバル・ティーンズと命名している。90年代半ば以降に誕生した現在10代後半のきゃりーぱみゅぱみゅたちの世代は、このグローバル・ティーンズをさらに光速化させ、皮膚感覚レヴェルでデジタル・データのバイトすらをも察知し共感しあうことが可能な、非常に高度化したコミュニケーション能力を備えているのかも知れない。こうなるともう新世代というより、もはやニュー・タイプと呼んだほうがよさそうな感じもするが。

こうした全く新しい世代のポップ感覚を伝えてくれるような、あらゆる先鋭的なビートと音要素を消化したエレクトロニックなダンス・サウンドや、多国籍で異種混合なメンバーによるボーダーレスな佇まいのポップ・アイコンとしての存在感を、f(x)のセカンド・ミニ・アルバム“Electric Shock”には聴くことができる。これからの時代の最先端を切り拓いてゆく全く新しい世代によるグローバル・ポップの最新型のひとつが、2012年のf(x)によってここに提示されているのである。

ぱみゅぱみゅレボリューション

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“ぱみゅぱみゅレボリューション”は、12年5月23日にリリースされたきゃりーぱみゅぱみゅのファースト・アルバムである。きゃりーぱみゅぱみゅは、93年生まれの現在19歳。11年7月20日にシングル“PONPONPON”でデビューした、日本のポップ・ミュージック界に久々に現れた希代の新星である。その全く新しいスタイルの到来を感じさせてくれるアーティスト/アイドルとしての佇まいには、何か時代全体を大きく揺り動かしそうな得体の知れないパワーが秘められているようにも感じられたりする。

きゃりーぱみゅぱみゅの新しさは、そのやや奇妙な芸名からも読み取ることができる。かつて平仮名だけで綴られた十文字にも及ぶ長い芸名を名乗ったアーティスト/アイドルがいただろうか。新聞のラジオ欄やテレビ欄に明快にそれが誰だか特定しやすいように記載されるために、 できるだけタレントが簡潔な名前(芸名)を名乗った時代は、もはや過去のものとなったということなのかも知れない。そういう意味では、きゃりーぱみゅぱみゅは、紛れもなくポスト・ラテ欄時代のアーティスト/アイドルなのである。おそらく、その歌手デビュー初期に多くの人がきゃりーぱみゅぱみゅの存在を知ったのはネットでの情報を通じてであったであろうし、その姿を初めて見たのもYouTubeを通じてであったと思われる。きゃりーぱみゅぱみゅにとって、テレビというメディアは完全に後を追いかけてくる存在であったのである。
また、かなり慣れてこないと、その長い芸名をすらすらと発音することすら困難であったりもする。この場合、長さが問題というよりも「ぱみゅぱみゅ」という日常の会話の中では滅多に使用されないであろう言葉/語の連なりがネックになってくる。この「ぱみゅぱみゅ」というフレーズは、非常に言いづらい。その発音しづらさに比較すると、その前の「きゃりー」は誰でも身構えることなく発声できる平易な単語/固有名詞であったりする。よって、このふたつを「きゃりーぱみゅぱみゅ」と全部通して言おうとする際には、「きゃりー」の部分と「ぱみゅぱみゅ」の部分で発音・発声のスピードの差が生じ、前半部と後半部ではガクッと速度が落ちてしまうことになるのだ。この長い芸名は、その発音・発声の困難さゆえに、なかなかスラッとストレートに言うことができないのである。こうした、わざわざ微妙に言いづらい芸名を名乗るところなどは、やはりちょっぴり確信犯的な匂いもする。いや、これは半ば無意識的な愉快犯といったほうが、きゃりーぱみゅぱみゅらしさによりピタリと当てはまるであろうか。
この「きゃりーぱみゅぱみゅ」という芸名は、こうした誰にでも共通して感覚できる微妙な言いづらさを内包しているところに、何ともいえぬおもしろさがある。これをNHKのアナウンサーのような口調で、簡単にスラッと言えてしまったら台無しである。何度繰り返して発音してみても「ぱみゅぱみゅ」のところで少し吃るようにつかえてしまう。そんな、どうしても思い通りに言えないところにおもしろさやおかしみがあり、何度も「きゃりーぱみゅぱみゅ」と言っているうちに、知らず知らずその芸名とその特異な存在が脳内にクッキリとインプットされてしまうことになるのである。
さらにいえば、こうした平仮名の表記のみによる芸名とは、昨今のコンピュータの変換機能に頼りきり自分の手では書くことのできない難しい漢字を使用してコミュニケートする人々に対する無言の当てつけのように思えたりもする。「きゃりーぱみゅぱみゅ」という十文字は、難読漢字よりも読むのが難しい平仮名のフレーズかあることを教えてくれる。こうした難しい漢字を捨てて、より単純明快で通じやすい平仮名でのコミュニケートへと回帰してゆく動きは、きゃりーぱみゅぱみゅたちの世代の意識として明確に存在しているのかも知れない。今、日本語そのものが大きく変わろうとしているのではなかろうか。

まるで幼児語のような「ぽんぽん」や「うぇいうぇい」という半ば意味性を放棄しているフレーズが執拗に反復されるデビュー曲“PONPONPON”は、欧州を中心とする各国のダンス・チャートでも上位にランクされるなど世界レヴェルで非常に高い評価を獲得している。弾むような丸みのある円やかな日本語のリフレインと、ピコポコした手の平サイズのオモチャのようにかわいらしいテクノポップ。おそらくこの楽曲は、とても日本的なカワイイを感じさせるエレクトロニック・サウンドによる楽しげでダンサブルなポップ・ソングとして、海外の人々の耳にはとらえられているのであろう。
だが、ただそれだけではないところに、この“PONPONPON”という楽曲のおもしろさや新しさはある。ここで聴くことのできる、思わず一緒に口ずさみやたくなるノリのよい言葉の反復や、耳に飛び込んでくるエレクトロ・サウンドの楽しさやおもしろさは、外国人だけでなく日本人にとっても非常に目新しいタイプのポップ感覚を感じ取れるものであったりもするのである。今までに誰も味わったことのないような「ぽんぽん」や「うぇいうぇい」という変てこりんなフレーズでノリノリになれる感覚こそが、この“PONPONPON”という楽曲の最大の醍醐味でもある。
こうした幼児語にも似た意味不明な言葉たちは、きゃりーぱみゅぱみゅによって考案された実際に日常語の一部として使用される「きゃりー語」という新たな言語として認識されてもいる。ただ、「ぽんぽん」や「うぇいうぇい」と言っていても、そこで何か意味のある内容が相手に伝わるわけでは決してない。特定の世代やトライブの内部で、ポップで楽しい気分を共有し分かち合うために、こうしたフレーズは存在していると考えてよいだろう。そういう意味では、こうしたフレーズの数々は、もはや日本語でもなく外国語でもなかったりする。一種の現代版の方言ともいえるであろうか。通じる場所では通じ、通じる人々の間では通じる言葉なのだ。それゆえに、この“PONPONPON”は、インターナショナルにしてグローバルなヒット曲となったのだとも考えられる。楽しくおもしろい「きゃりー語」を解する、全く新しい感覚をもつトライブが、ネットの情報網を通じて増殖し全世界的に感覚を共有しながら相互に繋がっているのである。それが、今の若い世代におけるポップ感覚の世界的な動きであり、そのムーヴメントを動かし続けているものなのである。

こうしたことを踏まえて、きゃりーぱみゅぱみゅの“ぱみゅぱみゅレボリューション”の革命性について、少しばかり詳しく見てゆきたい。一体、これの何がレボリューションなのであろうか。革命とは、「物事が急激に発展・変革すること」だという。どこかの一点から、何かがガラリと変わることが瞬間的なレボリューションなのだとしたら、大きな動きとしての革命とは、新しい何かが動きだし、それがそのまま動き続けることをいうのであろう。ここでの、その基点となる一点とは、紛れもなくきゃりーぱみゅぱみゅのファースト・アルバムのリリース日である。そして、それは、ある世代とともに発展・変革してゆく時代を、その動きの前と後に区切り出来事として位置づける。きゃりーぱみゅぱみゅの“ぱみゅぱみゅレボリューション”は、12年5月23日にそれぞれの時代の間に明確に一線を引いたのである。

まずは、そこで歌われている言葉の意味が、通じるか通じないかが、その線引きの位置のひとつの目安となるであろう。「きゃりー語」がポップで楽しい言語だと感じ取れるかどうか。そこが、ひとつめの大きなハードルとなる。アルバムの曲でいうと10曲目の“ぎりぎりセーフ”で歌われているような状況や内容を理解できるかというところが、それなりに目安となるのではなかろうか。
この“ぎりぎりセーフ”では、きゃりーぱみゅぱみゅや彼女と同世代の女の子たちにとってのひとつのホームグラウンドであり聖地でもある原宿へ電車に乗って急いで向かう、という場面が描写されている。その主人公は、原宿駅で山手線を降りて、目的の場所へ向かって「混み始めた竹下通りを/駆けて駆けて/ 駆け抜けきった」と思ったら、「足を止めた/お店で結構/夢中/夢中/夢中になっちゃ」ったりもする。
その歌詞の字面だけを見ていては、その歌の意味するところは誰の目にも耳にも不明であるかも知れない。タイトルは“ぎりぎりセーフ”でありながら、楽曲のサビの部分では「間に合った?/間に合った?/ギリギリセーフ?/ギリギリアウト?」と繰り返されるだけで、実際に間に合ったのか間に合わなかったのか、セーフだったのかアウトだったのかは、全く歌われることはない。そもそも、そこで何がどうなるとセーフで何をどうするとアウトになるのかという根本的な部分も、最初から何も説明されていはいないのだ。「信号/渡った先」で待っている「みんな」や、休日に会える「キミ」との明確な待ち合わせ時間などは、何ひとつとして示されていないのだから、聴き手がそこで何かを判断することさえできはしない。
ここでは、極めて感覚的に、そこで起きていること、その状況が、理解できるか否かが問題となってくる。ギリギリセーフで間に合っているようでも「みんな」や「キミ」がアウトだと感じれば、それはアウトになるし、その逆にギリギリアウトのようでもその場のノリで何となく間に合っていることになったりもする。時間通りに動いている電車とは違って、ギリギリのセーフかアウトかは、ただ時計の針の動きやその位置だけでは計ることができないのだ。不思議な「エネルギー」に満ちた「宝箱みたい」な「この街」では。まるで、原宿駅で電車を降りた途端に、時間の流れ方までもが一転し、一定方向に等質的に流れゆくものではなくなってしまうかのように。
要するに、すでにその竹下通りを駆けて駆け抜ける時間感覚的な変わり目に、ひとつの線が引かれているのである。また、こうした原宿に集う世代の感覚に共感し、それを共有することができるかの分かれ目にも、レボリューションの線は引かれる。この“ぎりぎりセーフ”が、空虚で全く意味不明な歌にしか聴こえないとしたら、それはすでに動き出しているレボリューションに完全に乗り遅れてしまっている動かぬ証拠であるかも知れない。

全く新しい世代は、全く新しい世代のみに通ずる感覚に貫かれた言葉で喋り、そして歌う。古い耳には意味不明にしか聴こえない歌は、それそのものが急激な発展としてのレボリューションの動きとして浮かび上がってきたものなのである。そうした特定の世代の交流・交感の場では、何かが確実に起きている。当事者にとっては、全ては極めて日常的なことであるかも知れないが。会話や歌やテキスト/メッセージやLikeボタンで繋がり、感覚を共有し、そうしたコミュニケーションの中で、より強固に新世代としての世代性が形成されてゆく。原宿というひとつの象徴的な場所を越えて、ネットワークを通じた全世界的な広がりの中で、繋がっている場所であれば、どこもかしこも原宿に連結する。
こうした交流や交感の根幹にある、テキストやワードそしてそれに類するものは、時代が生んだ暗号としてもとらえることができそうである。線引きされ切り離されてしまった旧い時代の人々にとっては、それはどこまでも解読することのできない理解不能なものであろう。これに対して、新世代に属する者にとっては、それはどこまでも感覚的・直感的に共有・共鳴できるものであり、ただの共通して認識することが可能な記号のようなものでしかない。そして、これよりも後の時代の人間にとっては、それは特に意識する間でもなくすでにそこに存在していたものとなり、どこまでも当たり前にそこにある日常的な言葉/語/フレーズとなってゆくのである。(中には、無惨にも朽ち果ててしまうものもある。)

YouTubeは、きゃりーぱみゅぱみゅをグローバルなポップ・アイドルにした。しかし、きゃりーぱみゅぱみゅという新たな個性は、そこから生み出されたわけではない。ここでは、きゃりーぱみゅぱみゅを輩出した原宿や青文字といったものが、どのようにレボリューションであったのかという点もみてゆかなくてはならないであろう。
まず、青文字系と呼ばれるものが誕生する以前に、そもそも赤文字というひとつの括りがあった。この系統は、「JJ」「ViVi」「Ray」「CanCam」といった表紙に赤い文字で誌名が大きく記載されているファッション雑誌に由来している。こうした赤文字雑誌が季節ごとに打ち出すモードにリードされる若い女性のファッション傾向のことを総称して、赤文字系といった。この赤文字系のファッション文化は、80年代より若い女性のライフスタイルのひとつの主流をなしてきたといってよい。だが、主流があれば自ずとそこに対抗する勢力も生まれ出てくることになる。
90年代半ばあたりから「Zipper」や「CUTiE」などのストリート(街角)の傾向を大きく取り入れた若者向けのファッション誌を中心に、赤文字系のコンサバ路線とは全く路線の異なる、カジュアルでより自由度が高く独創的なファッションが、ひとつの様式としてまとめられ新しい動きとしての盛り上がりをみせはじめる。そこで注目を集めたのが、裏原の小規模なブティックなどから興りつつあった新しいスタイルの原宿のファッション文化であった。それは、赤文字系に代表される主流文化へのカウンターであり、原宿という古くからのファッションの街が育んだ新時代のオルタナティヴでもあった。また、そこには、青文字系のファッション誌のモデルたちの表情に顕著に見られる「あひる口」や「困り顔」などの完全に脱力しきった自然体なオシャレの感覚が、全く新しいスタイルで息づいてもいた。90年代後半から00年代にかけて原宿という街は、コンサバな世界に溶け込むために無理に笑顔を作ったり異性にウケる服装をしなくてもよい、青文字のファッション文化やライフスタイルの象徴的な中心地となってゆく。

きゃりーぱみゅぱみゅは、元々こうした「Zipper」や「KERA」といった青文字系のファッション誌でモデル(読者モデル)として活躍していた女の子のひとりであり、その独特のファッション・センスで同世代の女性読者から熱烈な支持を受けてもいた。そんな、原宿が生んだ新たなカリスマ的なファッション・リーダーがソロ歌手として発表したのが、デビュー作の“もしもし原宿”であり、そこからシングル・カットされたのが“PONPONPON”であったのだ。
この楽曲のMVを見れば明らかであるが、飛び出す眼球や回転する脳や臓器、骸骨、舌など、体液的なねちょねちょしたグロい要素をもカワイイに組み込むのが、きゃりー世代もしくはぱみゅぱみゅ流派の特徴だといえるであろうか。これは、青文字系の特徴のひとつである脱力の極致なのであろう。あらゆる力が抜けた結果として、オシャレの感覚は最も人間臭いレヴェルにまで突き抜けてしまう。
とりあえずは、小綺麗に整った可愛らしさや美しさを追求し、それをものの見事に形にし続けてきた赤文字系のファッション文化へのカウンター・アクションを極限までアグレッシヴに押し進めた果てに到達した地点に、より自由度が高く無限の可能性を感じさせるカワイイやオシャレの領域が開拓されたことは間違いない。原宿的なセンスによってエロやグロな領域までをオシャレやカワイイに変換してしまおうというきゃりーぱみゅぱみゅの表現世界が、その根底に確信犯的なもの/確信的なもの/革新的なものをもつことになったとしても全くおかしくはないだろう。

赤から青へ、90年代半ばから時代はゆっくりと細かな変遷を繰り返しながら動いてきた。そして、その動きの最後の仕上げとしてレボリューション的な激動が起こり、一気に裏表をひっくり返してしまうこととなった。物事が急激に発展してゆく契機となる革命とは、こうした価値転倒の現象にほかならない。原宿発の青文字系のオシャレ感覚やポップ感覚は、若者のファッション文化の表層に、確実に新たな生息域/領域を獲得し、光速の繋がりで不定形な広がりを繰り広げつつ、その領土を維持し続けている。そうした青文字系のセンスが表層を被い尽くしている限りは、一連のレボリューションは長く尾を引いて続行していると考えてよいだろう。

アジアのカワイイ

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今年、台湾でデビューした新人歌手のキンバリー・チェン(Kimberley Chen)もまた、間違いなく全く新しい世代に属するアーティスト/アイドルである。彼女は、94年5月23日生まれの現在18歳。デビューした時点ではまだ17歳という若さであった。93年生まれのきゃりーぱみゅぱみゅよりはひとつ年下であり、韓国の芸能界でいう94lineに連なるアイドル黄金世代の一員である。
オーストラリアのメルボルン生まれのキンバリーは、幼い頃より天才少女としてエンターテインメントの世界で活動してきた驚きの経歴をもっている。すでに芸能の道においてはかなりヴェテランな新人歌手なのである。デビュー作の“Kimberley”では、表現力・歌唱力ともに申し分ない堂々たる歌声を披露し、作詞などの制作作業にも積極的に携わるなど、まさに10代の新人歌手とは思えぬ堂々たる完成度を誇る作品を作り出していた。
そんな本格派のシンガーであるキンバリーは、その大人びたタレント性とはやや相反する10代の可愛らしい女の子そのものなルックスやファッションで、台湾や上海・香港といった中華圏の大都市を中心にアイドル的な人気を博してもいる。すでにそのファッションだけでなく、言動やライフスタイルまでもが同年代の女の子たちの日常生活に影響を与える、まさにきゃりーぱみゅぱみゅ的なアイドル人気を獲得しているのだ。
また、どこかグロ要素までをカワイイに変換してしまう、かなり脱力した青文字系のファッション感覚に共通するものを、一種独特な雰囲気をもつキンバリーのカワイイやオシャレの方向性からも嗅ぎ取ることができる。
キンバリーは、かなりこまめにFacebookに自分の写真をアップしている。その大半は、本当に何気ない日常の一コマを切り取ったスナップショットである。そこでは、実に無防備なまま素の部分を表に出したキンバリーの表情を垣間見ることができる。彼女はそこで、全くもってアイドルらしからぬ表情の写真までをも躊躇することなく公開してしまうのである。こうしたあたりからもキンバリーが、どこまでも肩の力の抜けた飾らぬ自然体な人物であることが分かる。そこでは、可愛らしいキュートな服装でも、何の変哲もないダラッとした部屋着でも、全てが自然体のオシャレとして表れ出されることとなる。
まだ10代でありながらも長い芸能生活を生き抜いてきたために相当に肝が据わっているという部分もあるのかも知れないが、イケてる表情もイケてない表情も、全てがキンバリーの表情であることに変わりはないのだ。ならば、全てをありのままに見せてしまったとしても、そこに特に何も問題はないはずである。完成された(=作り上げられた)可愛いを突き抜けて人間臭いグロ要素にまで到達したきゃりーぱみゅぱみゅのように、キンバリーもあらゆる無駄な装飾を自ら率先して剥ぎ取って見せている。こうした飾らない自分をありのままに見せ、それをカワイイの表現にまで昇華させてしまうところに、この両者の非常に似通っている部分はある。そこには、全く新しい感覚のカワイイのモードが存在している。そして、そこから、そのオシャレ感覚が共有されることで、全く新しい共感のスタイルで繋がり、ネットワークを通じて互いの存在を同世代として認識する、ひとつの世代が形成されてゆくことになる。

台湾では、キンバリーはS世代を代表するアーティスト/アイドルという位置づけがなされている。S世代とは、90年代以降に誕生した現在の主に10代前半から20代前半にかけての世代のことをいうようだ。現在18歳(94line)のキンバリーは、ちょうどその中心的な世代といってよいだろう。スマートフォンとSNSという頭文字がSのツールを自在に使いこなして新しいタイプのコミュニケーションの形を生み出しているS世代とは、新世紀の初頭に一番最初に登場した全世界的な10代、つまり21世紀型のグローバル・ティーンズなのである。彼らは、きゃりー語のような独特の様式をもった新言語によるコミュニケーションに精通し、さらには特に意味をもたないがゆえに意味をもつ言葉のやり取りにおいても、そこにある空気感を通じて大いに交感をしてみせ、いいねボタンやリツイート、お気に入りに登録といった、もはや言葉を介さぬ/言葉を越えた繋がりを通じても強い仲間意識を育んでゆける。これは、海外でも高い人気を誇るきゃりーぱみゅぱみゅのグローバルなファンダムのネットワーク形成のベースにあるものとも、まさに合致している。全世界的な10代/グローバル・ティーンズにとって、ボーダー/境界とは、もはや過去の遺物となりつつある。

ダンスする音

個と個の繋がりは、言葉の通じないところ/共通の言語を前提としないところにも生じる。
そこでは、音(サウンド)そのものが、共通の言葉/言語の役割を肩代わりすることもある。また、細かく切り刻まれた言葉が分子的データによる記号や信号といったものにまで変換されることで、言葉/言語を越えた疏通が可能となる場合もある。
言葉として伝わるのではなく、音(サウンド)として伝わる感情や気持ちがある。言葉の意味は理解し得なくとも、その理解の領域を越えて、言葉のもっている音(サウンド)の強度やテクスチャーで雰囲気が伝わる。同じ言語体系に属する近接した地域(欧州、アジア、アフリカ等)では、こうした傾向が強くなることが大いにあり得るであろう。記号や信号の強度は理解のレヴェルを超越する。
何かの状態を明確に表現する擬音を用いた伝達は、言葉を前提としない前言語的なコミュニケーションの定形でもある。そうした擬音よりもさらに意味がなく、非常に曖昧であるがイメージの広がる言葉の連なりというものがある。リズミカルな短い語の連続が繰り返し反復されることで、そこに発語・発声・聴取の楽しさ・心地よさが生ずる。そこでは、発話する者と聞き取る者の間に同期・同調する波長が生まれ、共通する感情の動きを見出せるようにもなる。言葉遊び的な語の連なりは、最も原始的な形態でありながらも、現代的な電子ネットワークにおいても極めて有効な、同族(トライブ)的な繋がりを形成しやすいコミュニケーションの形となる。
新しい時代の到来は、そこに属するトライブ内部のみで流通する新しい言葉・造語をも生み出してゆく。時代の暗号として機能する新造語は、常に新しいものとしてそこにある。それは、特定の(若い)世代だけに通ずる隠語であり、今までになかったようなフレッシュな語感覚を、そこに宿してもいる。記号や信号となった語を感覚的に共有することが、新しい時代を作り出す共通世代感覚の基礎構造を固めてゆく。記号や信号の新しさではなく、そこにある感覚の新しさこそが、そこでは問題となる。
ポップでフレッシュな感覚から生み出された新しい記号や暗号としての言葉/言語/語と、若者向けのエレクトロニックなビートのきいた音楽は、常にとても近い場所で流用されており、それらはアイドル・ポップスやアイドル歌謡という場において宿命的に接近し交じりあうこととなる。そんな10年代初頭の新しい感覚の音楽的な交錯点として現れた/表されたのが、きゃりーぱみゅぱみゅの“ぱみゅぱみゅレボリューション”やf(x)の“Electric Shock”である。こうした音楽作品は、新しい世紀の新しい世代のための新しいポップ・ミュージックとして受容される。

新しいポップ文化とカワイイ感覚〈序説〉(二)
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