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zoom RSS aym: kodomodamashi

<<   作成日時 : 2012/05/30 22:00   >>

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aym: kodomodamashi
MiMi Records mi191

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aymが新しいアルバム“kodomodamashi”をリリースした。リリース日は、12年4月21日。aymとしては、前作の“franshitai”のリリースから数えて約一年四ヶ月ぶりの新作ということになる。リリース元は、その前作と同様にポルトガルのコインブラを拠点にリリース活動を行っているネットレーベル、MiMi Recordsである。
いつの間にか、このMiMi Recordsも二百タイトル近い作品をリリースする、老舗中の老舗といえる名門ネットレーベルとなりつつある。ここ数年の間にネットレーベルをめぐる状況や環境は、大きく変化した。だが、こうしたMiMi Recordsのような変化の季節の以前からあるレーベルが、泰然自若とした姿勢でリリースを重ねていることは、非常に大きな意味をもっている。まだまだネットレーベルにできることは大いにある。まだまだネットレーベルは、その役割を終えてはいないのである。
また、エクスペリメンタルなエレクトロニック・ミュージックを専門的にリリースしているMiMi Recordsが、日本のアンダーグラウンドなアーティストの作品を世界に向けて紹介してゆくという姿勢を全く変えずに活動を続けていることも非常に心強い。まだまだ日本のアンダーグラウンドなミュージック・シーンには、世界を驚かせるに足りるだけの希有な才能をもつアーティストがゴロゴロしているのだ。その事実を、わざわざMiMi Recordsが遠くポルトガルの地から、その質の高いリリース作品で証明してくれているようでもある。
そんなMiMi Recordsから本作が二作目のリリースとなるaymもまた、そうした才能あるアーティストたちのうちのひとりであることは間違いない。aymの音楽とは、実に希有で類い稀なる創作の才能から生み出されたものである。そして、きっと世界中の誰もが一聴した瞬間に、何かが普通の音楽とは違うと感じ取れるようなものでもある。おそらく、正真正銘のオルタナティヴ・ミュージックとは、こうした類いのもののことをいうのだと思う。

aymとは、岡山を拠点に活動しているアユミ・ドイ(Ayumi Doi)によるソロ・プロジェクトだ。ドイは、翳という別の名義を名乗ることもある。aymとしては、このアルバム“kodomodamashi”が、10年12月13日にMiMi Recordsより発表された前作の“franshitai”に続く二作目のリリースとなる。しかし、翳のBandcampのページを確認してみると、この翳という名義では10年11月1日に“franshitai”がリリースされており、その翌年の11年8月1日には5曲入りのミニ・アルバム“musikera”がリリースされている。そして、翳としては、この“kodomodamashi”も、すでに12年1月24日にリリースされているのである。つまり、この翳のサイドから見ると、アルバム“kodomodamashi”は、三作目のリリースということになるのである。
11年のミニ・アルバム“musikera”は、なぜMiMi Recordsよりaymの名義でリリースされなかったのだろう。その理由は、わからない。ただ、aymと翳はどちらも同じ作品のアウトプットを行う、ドイにとってのソロ・ユニットであるという点でほとんど違いはないようなので、このアルバム“kodomodamashi”が、これまでにリリースされた“franshitai”と“musikera”に続く三作目として把握されるのは至極妥当な線であると思われる。
ただし、そこでMiMi Recordsより作品を発表するaymが表の活動で、Bandcampを活動の場とする翳が裏の活動などと、両者を分け隔ててとらえてしまうのは少し短絡的すぎるような気もする。aymと翳を、まるで光と影というように位置づけてみたところで、そこに何が見えてくるというわけでもない。実際にリリースしているものは、結局のところ同じ作品であるのだから。全ては希有なアーティスト性をもつアユミ・ドイの手によって生み出されたものであり、それがたまたまaymや翳といった名義のもとでリリースされているにすぎない。MiMi Recordsからはリリースされてはいないが、ミニ・アルバムの“musikera”もまたaymの作品としてとらえることは、決して間違いではないはずである。

では、そんな希有な才能をもつアユミ・ドイによるアルバム“kodomodamashi”を少しばかり詳しく見てゆこう。今回の作品は、全10曲を収録した、まさにアルバムと呼べる作品となっている。これまでの作品と比較しても、最も収録曲数が多く、最も収録時間の長い作品である。これは、かなり充実した内容の作品となっているといえるであろう。最初は、恐る恐る差し出されるように表に出されていたドイの音楽が、ここにきて、ようやく堂々と作品として突き出されるようになってきたようにも感じられる。おそらく、ドイの中でも自らの芸術表現や音楽制作に対して、相当に自信がついてきているのではなかろうか。きっと、本人はそういった自信の念などはおくびにも出さないようなタイプであると思うが。これだけ出来のよい素晴らしいアルバムに“kodomodamashi”(子供騙し?)などというタイトルをつけてしまうくらいなのだから。
そんな“kodomodamashi”であるが、この作品においてドイの音楽の形態は少しばかり変化を遂げているように思われる。その音/音楽のテクスチャーや質の面では、さほど変化はない。しかし、その様態や形態の面では、実は驚くほどの変化が認められたりもするのである。
これまでの“franshitai”や“musikera”といった作品におけるドイの音楽とは、ドロドロとした漆黒の精神の闇から漏れ出てくるようなローファイ・フォーク〜エクスペリメンタル・ローファイ・エレクトロニック・ミュージックの極致そのものであった。それは、おそらくお世辞にも誰の耳にとっても聴きやすいタイプの音楽ではなかったであろうし、そもそもかなりローファイな音響すぎてほとんどドイが何を歌っているのか/何を訴えかけようとしているのか/何を表現しようとしているのかが全く聴き取れないという部分も多分にあった。アコースティック・ギター/エレクトリック・ギターをつま弾き/かき鳴らしながら、チープでささやかな電子音がゆらめく、エコーとリヴァーブの海の底で、ドイがつぶやきともささやきともつかぬ歌唱を、(誰かに自らの歌を聴かせようとする意思を半ば拒絶しているかのような深く靄のかかったサウンドで)どこまでも孤独にこぼし続ける、どちらかというとかなり独りよがりの面が際立った音楽であったのだ。
そこに、どのような変化が起きたのか。ただし、その音楽性が、基本的にローファイ・フォークに属するものであるという点においては、完全に揺るぎないものはある。ドイは、その音楽/表現のスタイルを決して崩すことはない。そんな質的な面では決して変わることがなくとも、今回の作品では、その音の様態や形態において、ささやかな変化を聴くことができるのである。つまり、あれだけ独りよがりで孤独の絶頂であったようなドイの歌に、バッキングの演奏がついているのである。これは、ある意味では、とてつもなく大きな変化である。
本作の楽曲では、独り言か独白のようであったドイの歌とギターから生み出される世界に、ドラムスや鍵盤楽器、エレクトリック・ギターなどの演奏が、多彩な彩りを添えている。ほとんどバンド・スタイルで録音されていると思われる楽曲も、いくつか聴くことができる。ただし、それらの録音は、過激なポスト・プロダクションによって加工され、多彩な彩りを脱色されたり、バンド・スタイルならではの生気を抜き取られたりして、あくまでもドイのソロ・プロジェクトらしい音響でアウトプットされているのだが。作品の制作過程や録音そのものは独りよがりで孤独の極みではなくなったようであるが、その音楽の聴き取り辛さや聴こえ難さという面では、これまで通りの方向性が何ら曲げられることなく貫かれてはいるのである。
バンド・スタイルで録音したものをベースに、そこに様々な加工を施して仕上げたアコースティック系の音楽というと、一般的にはポストロックやフォークトロニカといったサウンドになるはずであるが、ドイの場合にはそうした公式はほとんど当てはまらない。この“kodomodamashi”でも、これまでと変わらずに、その音楽は究極のローファイ・フォークとして鳴っている。やはり、これはドイがぽつぽつとこぼす素朴で朴訥とした歌と、かさかさなギターの演奏に込められているアクが、とても強いものであるからなのかも知れない。その強烈な個性の塊である歌とギターそのものが、もはやがっちりとドイ流のローファイ・フォークのスタイルを確立しているともいえるだろう。また、バックの演奏がついているにも拘らず、相変わらずの極度にローファイ・フォーク的なサウンドとなっているという点からは、どんな状況においても周囲の人や物事と断絶してしまうドイの個性が浮き彫りになってくるようで、逆にその音楽が内包している深く色濃い孤独感が際立ってしまうようにも感じられるのである。

11年の夏にミニ・アルバム“musikera”をリリースしたドイは、その年の10月から四人組バンド、サンズノ・リヴァーサイド(sanzuno riverside)のヴォーカリストとしての音楽活動も並行して行っている。この岡山で結成されたバンドは、ヴォーカルのaym、ベースのキム(Kim)、ギターのスティーヴ(Steve)、ドラムスのロヴォ(Rovo)というメンバー構成となっており、非常に国際色豊かなライン・アップであるようだ。まさに、グローバル時代のローカル・バンドなのである。これまでドイはソロ・ユニットではポルトガルのネットレーベルからリリースをするなどインターナショナルな活動を行ってきていたが、これからはバンドの一員としても国際的な舞台で活躍するようになってゆくのではなかろうか。
おそらく、このサンズノ・リヴァーサイドというバンドに加入したことと、ソロ・ユニットでの三作目となる“kodomodamashi”のサウンド・プロダクションに認められた微かな変化は、密接に関連しているものと思われる。Bandcampでアルバム“kodomodamashi”が発表されたのは、12年1月24日のことであった。このことを踏まえると、アルバムの制作時期は、ほとんどドイがサンズノ・リヴァーサイドのヴォーカリストになってから以降であったと考えて差し支えはないであろう。であるならば、アルバム“kodomodamashi”の楽曲のいくつかがバンド・スタイルでの録音となっているのにも合点がゆく。ともに音楽活動を行うサンズノ・リヴァーサイドのメンバーが、この“kodomodamashi”にもサポート・ミュージシャンとして参加したとしても何ら不思議ではない。この作品には、楽曲のベースとなる演奏をサンズノ・リヴァーサイドが担当しているものも数曲含まれているのではなかろうか。

アルバムの1曲目は、“idle”。ゆったりと反復するドラムスのビートに、カントリー〜ブルースの香りのするオルガンと、やたらとノイジーに歪んだベース。淡々としたポストロック的なバックの演奏が進む中、青白く澄んだ歌声のドイの歌唱が、ぽろぽろと言葉をこぼしてゆく。その第一声は「おはよう」という朝の挨拶である。しかし、そこに新しい朝を迎えた清々しさは、少しも感じられない。この「世界はぼくらの墓場」であり、そこでは「夢は今日も死んでゆく」だけなのだから。この世界に生きることは、徹底的に打ちのめされることに等しい。しかし、夜が来て眠るたびに、悲しいかな私たちは「本当も嘘も希望も失望も」全てを少しずつ忘却してゆくようにできているようである。そして、ただただ空回りするだけのアイドル状態のままで、この世界の中で思うままに操られることになる。全体的に靄がかかったような、ドイの作品に共通する独特の超ローファイ音響は、ここでも健在である。コチコチにか細くされたドラムスのビートの音質などは、まるで別世界から聴こえてきているような印象すら与える。間奏では、古いレコードのプチプチいうノイズ音が、そこに大きく被さり、楽曲で表現される「世界」の重苦しさに静かな圧迫感を加味している。私たちは、ここでただひたすらに毎日「壊れるまで人のふり」を強いられる。よって、そこでは「おはよう」の朝の挨拶は、とても物悲しいのだ。ドイの歌声も、徐々に途切れ途切れとなり、最後には「溺れ」るように力なく消え入ってしまう。

2曲目は、“zanzo”。この楽曲にもバンドの演奏によるバッキングがついている。だが、さらにそのサウンドを圧縮するような加工は強烈に施され、もはや演奏というよりもノイズや物音に近いレヴェルにまで達してしまっている。特に、バシャバシャした微かな音のうごめきにまで後退させられているドラムスの音響は象徴的だ。ほぼ、その元の音の残像が聴き取れそうなのは、穏やかに鳴るエレクトリック・ギターのみである。そのように背後のサウンドが、より奥深くへと引っ込むことにより、独りぽつんと取り残されたかのようにドイの歌唱が際立ってくることにもなる。しかし、ローファイな音質でエコーの海に沈みがちな、その純粋無垢な響きをもつ歌声は、だからといって、それほど鮮明に聴き取れるようなものともなってはいない。それでも、この楽曲は、ドイの中に渦巻く情感が、奔流となって今にもほとばしり出しそうな予兆を感じさせてくれる一曲にはなっている。とてもめずらしく、楽曲の後半では喉奥から振り絞るようなハイ・トーンのどこか熱っぽい歌唱を聴かせてくれる場面もあるのだ。私と対峙する世界。何も信じられず、何もしてあげられない。ただ「逃げるように泥のように眠る」だけだ。淡々と自己の邪悪さや醜さを苛む言葉を綴り立てた歌の最後に、ドイの口からは「あなたの眼がこれ以上余計な汚れた世界みないように/私の掌で永遠に目隠ししてたい」というとても強い願いがついて出る。「どこにいっても続いてく悪夢」の残像の中で、全てはわたしとあなただけが対峙する世界へと収斂されてゆく。

3曲目は、“uonome”。とてもオーソドックスなスタイルのフォーク・ロック。ゆったりとした歩調でギターのストロークに合わせて静かに楽曲が進んでゆく。途中でノイジーなエレクトリック・ギターが行儀よく乱入し、ちょっとしたシューゲイザー的な展開をみせたりもする。このあたりは、かなり往年のCreation Recordsのバンドを思わせるサウンドである。80年代後半のタームで表現すれば、ノイズ・ギター入りのネオ・サイケデッリック・ロックといったところであろうか。今回のアルバム中では、この楽曲が、最もわかりやすい形でロック・バンドしている一曲であるかも知れない。ふんわりやわらかに漂うドイのハミング、ローファイ感たっぷりのギター、そして微かな電子音のハーモニーが、独特のアトモスフィアを生み出してゆく。そのあたりのサウンドは、今回のアルバム中でも、最も儚くも美しい瞬間であるだろう。この楽曲には、前曲の“zanzo”で歌われていた「犠牲にしてきた過去」の香りが濃密に込められているようにも思える。やや舌足らずなドイの歌声が、辿々しく弱々しく「すべてがくだらない」行き詰まりの状況を淡々と歌い込んでゆく。この楽曲のラストは、「どこまでいくのぼくは」という問いかけとなっている。そして、それに対する回答が、おそらくは前曲の“zanzo”での「どこにいっても続いてく悪夢/それのなかでまた殺されるだけで結局なにも変わらない」という一節なのである。

4曲目は、“albino”。こちらは、バンド形式ではなく、アコースティック・ギターとふわふわゆらゆら揺らめく微かな電子音による、ストレートなローファイ・フォーク・スタイルで歌われる一曲。ただし、それが、これまでの楽曲よりも、ほとんど聴き取れないぐずぐずにノイズまみれなローファイ寄りではなく、真っ当なフォークのスタイルへと大きく傾いたローファイ・フォーク・スタイルのサウンドである点は、ここに明記しておいてよいであろう。ドイの音楽は、確かに変わった。いや、ようやくドイの音楽が、音楽らしい音楽の形に近づいてきたといってもよいのではなかろうか。曇りも濁りもない澄み切った天使のような歌声で、この世界の中で「なにもできない/動けない」自分に対するアンビヴァレンスな感情が、実にいじらしいまでに切々と歌い上げられてゆく。ドイの書く楽曲には、聴く者をただただたじろがせるような名曲が数多いが、これはその中でもメロディの美しさとモヤモヤとした情感の表出という面において、まさに一二を争う傑作であろう。あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、全てがものすごい速度で行き過ぎてゆくのを、ぼんやりと眺めている。ただ、それだけで、ずぶずぶと「曖昧に濁した言葉を吐き出すことさえままならぬ」気分の奥底に沈んでゆくようだ。そして、頭の中に渦巻くのは、今日も明日も「なにもできない/動けない」という呪文のようなフレーズだけ。ここでは、深い深い諦めの境地が吐露され続ける。ドイは、「選ばれなかった私たち/最初から負け戦だった」と歌う。はたして、最初から負けだと決していたのだろうか、その無惨にも敗れ去ってしまった現実を素直に受け入れることができないから、「選ばれなかった私たち」は、ここでいつまでも鬱屈した毎日をもがき苦しみながら生きているのではなかろうか。いつか、「淡々とこなしてく日々」を「情けない」と感じなくなるような日が訪れるのだろうか。そんな分別のあるオトナな生き方ができないから、この世界があまりにも見たくないものばかりだから、「呪文となえて」「もう目覚め」ることのないように「とざして」しまうことを決意する。

5曲目は、“gypsophila”。ここでは、前曲からの流れを引き継いで、より深くシンプルでストレートなローファイ・フォークのスタイルへの沈潜が展開される。序盤は、歌とギターだけの音の構成であるが、途中からそこに電子音などが流れ込んできて、モヤモヤしたエコーの海の底へと歌もギターも全てが沈み込み、段々と何も聴き取れなくなってゆく。そっと静かに歌われる、ささやかな小曲であるが、これは前曲の“albino”で「後悔はあとで待っていてそればかりみえてしまう」と歌われた時点の、遠い過去の時間を振り返った一曲としても聴くことができそうである。つまり、今現在は、その暗く深い後悔の真っ直中にある。また、その遠い過去の時間には、2曲目の“zanzo”で「あなたとうまくやりすごせるように/いびつなただしさを信じたかった」と歌われていた、わたしとあなた(だけ)の間でなら信じられそうだった「優しい永遠」すらもがあったのだ。しかし、後悔の真っ直中では、聴き取れなかった「最後の言葉」や、言えなかった「感謝の言葉」に、全てが集約されてゆくだけである。無限にすれ違う解放と墜落の物語。何もかもがぼんやりと霞んでゆく。最後にドイは、「どうして」と歌う。しかし、もう誰にもどうすることもできない。

6曲目は、“akibare”。この楽曲は、エレクトリック・ギターとピアノの演奏によって形成される透徹した音のアンビエンスが美しい、ちょっとしたローファイ・モダン・ロック的なスタイルの一曲となっている。ちなみに、この“akibare”という楽曲は、サンズノ・リヴァーサイドでも録音されており、彼らのSoundcloudのページでそれを聴くことができる。こちらは、完全にバンド・スタイルでの別ヴァージョンとなっている。こうしてソロとバンドの両方でそれぞれ録音されていることを考えると、この楽曲もまたドイの書いた名曲のひとつといえるかも知れない。いや、もはやドイにとっての代表曲のひとつであろうか。おそらくは、ソロでの初期ヴァージョンがあったのだろう、それが、その後バンドにおいて取り上げられ、新たなアレンジメントで演奏された。そして、今回のアルバムにおける別録音ヴァージョンは、このバンド・スタイルでのアレンジを通過しているもののように思えるのである。それだけ様々な変節を遂げてきただけの、しっくりとこなれた感じが、この楽曲には漂っている。ドイの歌唱も、いつになく非常に聴き取りやすい。それだけ歌い込まれたメロディということなのであろう。また、ここでのピアノやギターのフレーズも、全て絶妙にハマっていて、かなりよい。まるで秋晴れの空のようにか、その歌の世界は、もはや深い後悔や諦念を通り越して、達観の境地にまで達してしまっているようだ。しかし、だからといって、そこにこびりついた惨めさや情けなさの塊は、少しも拭い去られるようなことはない。現実の世界の外側に追いやられて、「点滅信号」や「ゆらめくサルビア」の花を、まるでよい知らせの到来を告げる前兆の「蜃気楼」であるかのように、ただただ眺めている。そんな虚しき者にできることといえば、「せめて終わる今日に後悔しないように」と静かに願うことぐらいである。

7曲目は、“gomi”。この楽曲では、再びバンドの演奏によるバッキングをつけたスタイルでの録音がなされいる。しかし、そのサウンドは完全にペシャンコな状態になるまで押しつぶされ、微かな物音かノイズのさざめきのような音像にまで減退させられている。ドラムスはカシャカシャとビートを刻み、ギターはサラサラとゆらめき、鍵盤は微かに周辺に漂い、そしてベースはもはやどこにあるのかわからない。そんな今にも崩れ落ちそうで消え入りそうな演奏とともに、ドイの歌唱もまたペナペナに加工されている。そこで歌われているのは、尽きぬことのない内面の葛藤である。それは、「ありふれた嘘」を平気でつき「心のともなわないきれいな言葉だけをあつめて」並べ立てる大人になることに対する、鈍い「痛み」を伴う拒絶でもある。だが、そんな葛藤に苦しむ者は、すでに充分に大人の部分を内面にもっているともいえるだろう。もうすでに自分の置かれている状況に駄々をこねているだけの子供ではないということでもあるのだから。要するに、全てを「悪い夢のせい」にしてしまえるほどには大人なのだ。しかし、そのことこそが、もはや子供ではなくなった目線から見ても到底許容できないほどに、醜く人間離れしているように思えてしまう部分なのだ。どんなに汚く理不尽で「楽に」なれなくても「このままで生きてたい」のだ。これ以上、この「世界に染まってく」ことには堪えられない。葛藤する大人の決して叶えられることのない願い。

8曲目は、“resless”。パッと見た感じではレストレス(restless)の綴り違いにも思えるが、おそらくは返信(レス/res)がほとんどない(レス/less)ことを意味する造語/新語であろう。ギターと歌声だけで構成された、クラシック・スタイルのローファイ・フォークが展開される一曲である。そのサウンドは、今にも消え入りそうで、ほとんど聴き取れない。まさにローファイ・フォーク・スタイルの極北がここにある。かなりエクスペリメンタルな音響だ。ドイの歌声は、まるで異界か異次元から響いてくるようにも聴こえる。そして、そこで歌われているのは、こちらの世界とは無縁の、向こう側の世界の歌である。「考えたところでおんなじ結果なら/のまれてなくなる前に/なにももたずにお外へいこうよ」。その世界とは、「お外」、つまり外部・外縁にある。そこでは、全ての関係性は断ち切られている。よって、何もかも「必要がないならそのまま」にしておけるのである。虚空に、たったひとり。今にも孤独に押しつぶされそうな、誰にも聴こえない歌。ドイは歌う、「無敵な毎日恐れるべきものなどない」と。これは、きっと聴こうと思う意志のない者にとっては、決して歌として聴き取ることのできない歌である。まずは、「お外へ」と一歩踏み出し、真っ暗闇の中で耳をそばだてる。そこに、世界からこぼれ落ちた歌が聴こえたら、そこでそのまま「明日のことなど考えず/ひとりで踊っていればいい」。

9曲目は、“ayatori”。そして、この楽曲においても「お外」から聴こえてくる消え入りそうな歌は続いている。しかし、ここで展開されているサウンドは、いつものローファイ・フォークではない。微かなエレクトロニックなビートとシンプルな鍵盤の伴奏。そこにギターの弦の音はない。エクスペリメンタルなローファイ・フォークトロニカ・スタイルとでもいおうか。歌とやわらかな電子音の微かな音響が、まるで戯れるかのように共存している。ほとんどつぶやきか独白のような状態の歌唱で、ぽつりぽつりと言葉をこぼしてゆくドイ。その歌声は、ここまでくるともう何もかもが抜けきっているようにも聴こえる。まさにピュアで澄んだ天使の歌声のように、閉ざされた小さな空間にゆらゆらふわふわと漂うのだ。どこか賛美歌のような神々しさすらある。醜さと汚さ、惨めさや情けなさ。その極限まで堕ちきって聖性すらまとってしまった歌が、ここにある。もはや、「痛みを忘れた愚かな私のいいわけはきみに届かない 」のだから、「きれいな嘘にみちた記憶の海を泳いで」ゆくしかない。重く重くのしかかる孤独。「むげんの罠におち」た、私は「情報を遮断」し、ただただひたすらに世界に閉じこもる。中途半端な「優しさ」は「罠」だ。これ以上、優しくされたら「だめになる」だけだから、もう二度と「触れないで」いて欲しい。「誰の手も借りずに生きていけるように傷つかないふりを身につけ」る。まるで憑いていたものが落ちたように、ごっそりと生気が抜けきった生。この世界で人間として/人間らしく生きることのパラドクス。今日も「生温い怒りをとどめ」た人々が、「眠れない日々」にしがみついて、今にも消えてなくなってしまうほどに生をすり減らして生きている。

10曲目は、“thend”。一見すると傾向があるという意味のテンド(tend)かスレッド(thread)の綴り違いのようにも思えるが、これは終わりを意味するジ・エンド(the end)を一語に省略して表記したものなのではなかろうか。実際、この楽曲はアルバムの最後の曲となっている。そして、今にも消え入りそうであったドイの歌は、ここにはもうない。これは、こうして正式に発表されるものとしては初のドイのインストゥルメンタル曲となる。しかも、7分を越える大作曲でもある。ほとんどイントロも後奏もないようなシンプルな歌ばかりを書くドイにしては、これは大変に珍しい作品といえるかも知れない。そして、さらに特筆すべきは、この楽曲は純粋にエレクトロニック・ミュージックとしても、非常に出来がよいのである。可憐に咲き誇った花が美しく静かに散ってゆく様を、まるでスロー・モーションで捉えたかのような、実に映像的なサウンドがゆったりと展開されてゆく。とても微かにそっと揺らめく電子音響ではあるが、その繊細さ儚さが逆に強烈な印象をともなって、いつまでも耳に残り続けるのである。ドイの作曲家ならびにサウンド・プロデューサーとしての才能の豊かさを、あらためて認識することのできる一曲となっている。

MiMi Recordsのフェルナンド・フェレイラ(Fernando Ferreira)による分類では、本作もまた前作に引き続いてドリームポップやインディトロニカということになる。少なくともサイトでは、そうした紹介がなされている。また、このブログでも前作の“franshitai”に関する記事において、決して納得のゆく説明のつかない、本当におかしなことが必ず起こる、ほとんど現実感のない奇妙な夢を思わせる音楽としてのドリームポップとしてならば、これほどこの音楽に相応しいラヴェルもないように思えると書いた。終始、その音も歌もぼんやりとしていて、全くこことは違う次元から(ほとんど聴き取れないくらいに微かに)聴こえてくるという印象が非常に強かったのであろう。
しかし、本当にこれは夢の中で奏でられているようなポップ音楽なのであろうか。実際には、もはや全く夢見心地になれるような音楽とはいえないし、ただ不条理な夢の中の世界のことばかりを歌っているわけでもないように思える。その霞がかかったようなサウンドは、確かにはっきりとは聴き取り辛い。こことは違う別の世界から聴こえてきているような印象も与えるだろう。だが、現実の世界だって、本当は霞がかかったようなことばかりであり、聴き取り辛いものばかりではないか。ハッキリとした明確なものばかり、などということは決してない。ドイの音楽とは、そうした世界のよくできた複写として、ありのままを描き出してもいるのである。
また、こことは違う別の世界も存在するのが、実は本当の現実であったりもする。世界には外側もある。内側だけが世界ではない。これは、そんな外側・外縁・周縁の世界において奏でられ/歌われた、「お外」の音楽であり、「お外」の歌である。苦しいこじつけと欺瞞に満ちた内に固執し、外にあるもの/外があることが見えなくなっている状態のほうが、もしかすると現実という世界の夢に深く埋没していることの帰結だとはいえないであろうか。こうなると、本当に夢見心地のままでいるのはどちらなのかという問題にもなってくる。世界には、目を閉ざすからこそ見えてくる夢もあるし、目覚めた状態で見続けさせられる夢もある。

では、本作“kodomodamashi”において、ドイは覚めているのであろうか。ここで聴けるのは、どんな夢の中の歌なのだろう。はたして、現実感のない奇妙な夢のようなドリームポップであるのだろうか。そして、もしもそうではないとすれば、一体それは何なのだろう。エクスペリメンタルなサウンド・プロダクションによるオルタナティヴ・ポップであろうか。ただ、本作を聴いてみてひとつだけ明らかなことは、ドイの音楽表現が、ここにきて非常に微かにではあるが劇的に何かに目覚めつつあるということである。
いくつかの楽曲においては、これまでにはついぞなかったほどにドイの歌は聴きやすい/聴き取りやすいものとなっているのだ。その世界を見つめる視線そのものも非常に鮮明となり、音楽としても、はっきりとした自己の内面の表現へと昇華されつつあるように思える。それは、もはや夢見心地にはほど遠く、この現実世界に対する居心地の悪さを明らかに表明するものである。そして、目を瞑り歯を食いしばって夢中で社会関係の中で生きる大人が完全に遮断する、いわゆる「お外」の世界へと広がってゆく歌でもある。もしかすると、ここにドリームポップを聴いている人というのは、今のような大人になる前の遥か遠い過去の自分に対するノスタルジーから、ここに異次元や異界としての夢の世界の歌を(意識的に・積極的に)聴こうとしているのではなかろうか。

この作品を聴いていると、あちこちにダブル・ミーニングの匂いがする箇所があることに気づかされる。特に、“resless”や“thend”といった楽曲のタイトルの綴りには、何か意図的なものが感じられる。また、“gypsophila”の終盤に登場する「かすみそう」という歌詞には、実際の「霞草」という植物と、霞んで消え入りそうな状態を切実に訴える「かすみそう」という言述の、ふたつの(意味の)面の表出を聴き取ることもできる。これ以外にも、細かい部分で臭い場所はあれこれある。“kodomodamashi”というアルバムのタイトルそのものが、子供騙しなのか子供魂なのか判然としないところなども、そのひとつである。
全ての物事には、ふたつ以上の意味がある。ひとつの意味しかもたぬような絶対的なものが、何かあるだろうか。そもそも意味というものは、常に揺らぐ余地を残した、とても曖昧なものであったりする。実際は、見かけとは違う。本当の意味は、見えないところに隠れている。そこに見えているものは、その裏には必ず何かを隠している。
ひとつの表面にふたつ以上の意味をもたせる、ダブル・ミーニングとは、形而上学的な世界の子供騙しなからくりを暴き出すための、ひとつの有効なやり口だともいえるだろう。フクロウは見かけと違う。見えている姿とは違う意味が、そこには隠されている。奥底に潜んでいるものは、自ずからは決して語り出さない。表面に見えているもののように、無駄に饒舌ではないのだ。深く沈み込んでいるものは、そこに微かな光を投げかけられることで、ようやく何かを明るみに出し、重い口を開く。
ドイの音楽とは、そんな物事の深奥にあるものを気づかせてくれる重要なヒントを含んでいるのではなかろうか。綴りや意味をズラすのは、そうしたゲリラ的な戦術の一部だ。そしてまた、その音楽は、深く沈み込んでいるものを明るみに出す、微かな光そのものでもある。

ドイのBandcampのページをつぶさにチェックしてゆくと、そこでは楽曲のダウンロードだけでなく、じっくりと歌詞(全作品の)を読むこともできる。そして、これが、かなりの驚きの連続という類いのものなのだ。間違いなく、ドイの目にはこの世界の有り様がきっちりと見えているし、その目はしっかりと見開かれており、決して眠ってなどはいない。歌詞の世界は、とてもとても深い。また、美しさすらをも感じさせられてしまうほどに綺麗に屈折していて、手の施し様がないほどに孤独の極みにまで突き進んでいる。
人間とは、より人間らしくなるためには動物のように生きなくてはならないのか。それが、かつて人間化した動物が帰り着く先とでもいうのだろうか。やはり世界は最初に見られた風景(起源)に立ち返ってゆくということか。何も考えずに人間らしく生きる。人間になることは、汚いことであり醜いことなのか。人間になろうとしないことが、汚いことであり醜いことなのか。その世界の外側には何があるのか。なぜ、その境界の内側に踏み止まらなくてはならないのか。社会に歩み入るということは、人間になることなのか、動物になることなのか。こぎれいに人間らしく装った動物たちの行き交う社会。あさましい動物性を剥き出しにした人間が行き交う社会。
ドイの歌は、大人と子供/人間と動物の狭間で揺らめきながら、この世界に蔓延している不条理を告発し、嘆き、悲嘆に暮れ、諦め、暗い孤独の底にゆっくりと沈んでゆく。内面を繊細に描出する、そのどこまでもピュアな言葉の連なりには、本当にドキリとさせられる。どんなに惨めで情けない境地に沈み込んでゆこうとも、決して世界から目を背けることはない。これは、今ここで言葉にしておかないと、やり過ごせない思いでもある。鬱屈して、降下してゆく気持ちを、少しでも軽く解き放つために。そして、まさに「お外」の世界から人間を人間のままに解放するために歌われる歌でもある。

ドイの音楽の世界は、昨年秋からのサンズノ・リヴァーサイドでのバンド活動を経て、やはり大きく変化しているように思われる。これまでソロでのアウトプットはローファイ・フォーク一辺倒であったのが、直接にそれとは違うサウンドのスタイルや、ひとりでの音楽制作とは全く異なる世界に触れて、音楽そのものに対する意識の変化のようなものがあったのだろう。より具体的には、歌うということに対して、とても積極的になってきているようにも思える。自らが書いた歌詞を歌い、それを他者へと届けようとすることに意識的になりつつあるともいえようか。ちょっとずつだが何かを伝えたい思いが込められた歌に変化してきているようにも感じられるのだ。
だが、ドイはただ歌を歌うぐらいで、自分の内面にあるものが誰かに伝わったりするとは思っていないかも知れない。物事の意味を取り違えずに他者と分かり合うことが、そう簡単ではないことは充分に承知しているであろうから。この世界の中で様々な葛藤を抱えて生きている種類の人間にならば、もしかしたら伝わるかも知れない形で、内面にあるものを外に出せるようになったということだろうか。だが、実際には、そうした希望を託せるほど、世界そのものは明らかに良い方向へは変化していないのだが。
ドイの内面には、明らかに微かな変化があった、それが、その音楽の世界にも、前向きな影響を及ぼした。ただし、この世界に、その「お外」の音楽をちゃんと聴き取れる人間の耳をもつ人間が、どれくらいいるのかは皆目見当もつかない。

個人的には、本作でのドイの数曲での歌唱には、ちょっとD-Dayの川喜多美子の透明感のある歌声を彷彿とさせるものがあるようにも感じられた。声の線が細く頼りなげで決して上手いといえる歌手ではないが、独特の何ともいえない抗い難い魅力がある。ひとそれぞれに好みはあるであろうが、個人的には、とても心地よく聴けるタイプの歌声であったりする。

おそらく、こんなにも真正面から「お外」の世界に生きる私を歌にできているシンガー・ソングライターは、なかなかいないであろう。まさに唯一無二の才能である。そんな、ドイのような希有なアーティストが、海外のネットレーベルからも作品を発表し、洋の東西を問わずに幅広い評価を受けていることは、非常に意義のあることだと思える。言葉は通じなくとも、その音楽の世界から何かを感じ取れる人々は必ずいるはずなのだから。そんな、現在の社会の中で生きることに違和感を感じ、本当の孤独というものを見つめたことのある人種が、今にも消え入りそうなともしびのようにそこここで揺らめいている。実は、そうした人々は、これから爆発的に増加してゆくことが予想されていたりもする。進行するグローバリズムの波に押しやられて、「お外」の世界は、物凄い勢いで不可視化されていっている。世界を形作る真っ当な理性は、全てを境界で食い止め、あらゆる多層化した意味を単一化し統制しようとする。そして、向こう側の世界は容赦なく抹殺されてしまうのだ。今後、こうしたドイのような才能がひっそりと生み出す痛みに満ちた音楽に耳を傾けることは、さらに大きな意味をもつようになってゆくであろう。(12年)

MiMi Records
http://www.clubotaku.org/mimi

http://franshitai.bandcamp.com
sanzuno riverside
http://sanzunoriverside.xxxxxxxx.jp

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