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<<   作成日時 : 2011/08/30 05:00   >>

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2011, Back To Black

追記(二)

後編

画像そして、こうした励ましや勇気づけの系統に属する作品の本命盤として取り上げたいのが、ももいろクローバーZのファースト・シングル“Z伝説 〜終わりなき革命〜”である。このシングルは、7月6日に五百円のワンコイン・シングルとして、同時発売の“D'の純情”とともにリリースされた。
4月10日、中野サンプラザでの公演を最後にメンバーの早見あかりがグループを脱退。これまで約2年近く六人組として活動してきたももいろクローバーは、このひとつの大きな節目を機に、ももいろクローバーZへとグループ名を変更することとなる。そして、改名後の五人組としての再出発盤が、“Z伝説 〜終わりなき革命〜”と“D'の純情”であった。
このグループの体制が六人組から五人組へと移行する時期は、ちょうど東日本大震災直後の全てが混乱し不安定になっていた時期と重なっていた。あの頃、人々は、いまだ頻繁に起こる余震に怯え、計画停電に協力し、できる限りの節電に励み、あちこちで水や電池や食料の買い占めや風評被害が起こる中を、悲惨な状況にある被災地のことを考えて、必死にあらゆるものに耐え忍びながら、自分たちにできることをできる限り行い、その誰も予想だにしていなかった事態と戦っていた。そうした半ばアイドル歌謡どころではない時代状況の中で、幾多の困難を乗り越えて、ももいろクローバーZは、新たな一歩を歩み出さねばならなかったのである。
このももいろクローバー/ももいろクローバーZが歩んだ道筋は、同じ時期にグループの存亡の危機と大震災という、ふたつの大きな困難を乗り越えて行かざるを得なくなっていたカラの置かれていた状況と少しばかり似たものがある。“GO GO サマー!”が、カラにとっての事務所との和解と大震災の後に制作された初のシングルであったように、“Z伝説 〜終わりなき革命〜”は、五人組として生まれ変わったももいろクローバーZにとっての改名後の初シングルであるとともに大震災後の第一声でもあった。

ももいろクローバーにとっての最後の作品となったシングル“ミライボウル”は、大震災の直前の3月9日にリリースされている。ちょうど、正午前の午前11時45分に三陸沖を震源にM7.3の大震災の前震が起きた日である。あの日、正午前後のニュースでは、地震後の津波注意報を受けて、東北地方の沿岸部の漁港などの潮位の変動をとらえるための映像が、かなりの時間を割いて放送されていた。
しかし、この日の地震でも、いつもの地震と同じように、やはり津波到達予想時刻になっても海面に大きな変化はなかった。高さ0.5mと予測されていた津波が、漁港を高台から写していた定点カメラで把握できるものなのか、少々訝しくも思ったものである。そこに映っていたのは、あまりにものんびりとしたお昼時の東北の漁港の風景であった。
だが、その全てが、その二日後には大津波に無惨にも飲み込まれ、一瞬にして失われてしまうことになるとは、その時はまだ誰も知る由もなかったのである。ももいろクローバーも、そのシングルのリリースから、たった二日後には、この世界において未来(ミライ)という言葉のもつ意味が大きく変わってしまうことを、全くもって知る由もなかったはずである。
そして、早見あかりが脱退した中野サンプラザでの公演は、完全節電協力体制下でのライヴとなった。4月10日といえば、まだ震災から一ヶ月足らずの時期である。国家機能も市民生活も全てが混乱し、社会全体に大きな不安が渦巻いていた。震災の爪痕は被災地に生々しく残り、住む場所を失った人々が多くの避難所に身を寄せていた。爆発事故を起こした原発は不気味な迷走を続け、事態の収束には程遠い様相を呈していた。そんな3月11日以降の世界では、未来という言葉には不透明なヴェールがかかったままになり、誰もが全く先を見通せなくなっていた。
そうした全てが暗く沈んでいた状況下で行われたのが、六人組のももいろクローバーとしてのラスト公演であった。あまりにも大きかった東日本大震災の影響は、この時期のももいろクローバーの活動にも大きく影を落としていた。“未来へススメ!”や“ミライボウル”といった夢と希望とギラギラとキラキラに満ちた未来のわたしたちをテーマにした楽曲が、それまでとは少し違った意味をもちつつあることを、実際にステージで歌っている彼女たちも少なからず感じ取っていたに違いない。

ゆえにか、7月6日に発表されたももいろクローバーZの第一弾シングル“Z伝説 〜終わりなき革命〜”は、ちょっと凄まじいまでに胸に響く言葉が、あちらこちらに散りばめられた楽曲となっている。大震災から約四ヶ月の間の大きく混乱し不安定に揺らぎ続けた日々に感じられたものを凝縮したような言葉を、誰もがそこに聴き取ることができるであろう。幾多の危機を乗り越え、困難な状況に真っ直ぐに立ち向かってきたももいろクローバーZが、そうした思いが込められた楽曲を歌ったとしても、何ら不思議ではない。
おそらく、この楽曲は、大震災後に制作された励まし勇気づける無限のエール系のアイドル歌謡の最たるものである。まさに、ある意味究極だ。ここでは、ほぼ全編の歌詞の流れが、そうしたメッセージとして聴き取ることが可能な言葉の連続となっている。実際の楽曲の体裁は、五人組の戦隊アイドルである、ももいろクローバーZが、週末ヒロインとして一人でも多くの人を笑顔にするために、どこまでも戦い抜いてゆく、固い決意や心構えが、歌われたり叫ばれたり台詞として語られたりするというもの。だが、妙な迫真さをもつほどに(昭和の戦隊モノ風に)芝居がかっている叫びや語りが、(かなり意図的に)間接的にメッセージ性の高い言葉となって響き渡り、思いきり胸に染み入ってきてしまうのである。
これを最初に聴いた時には、サビのパートの「止まない雨なんかない/光を信じて」という強烈なフックから各メンバーが入れ替わり立ち替わり「負けないよ!」「立ち上がれ!」「大丈夫!」「弱くない!」「絶対諦めない!」と熱く語ったり絶叫するクライマックスへとなだれ込んでゆく流れに、ちょっと涙がこぼれ落ちそうなくらいに感動し胸が熱くなってしまったりもした。しかし、あまりにもコミカルなテイストを含んだ振り付けや芸能臭に助けられて、なんとか号泣せずに済んだのである。そう、いきなり「力一杯/歌って踊る」戦う五人組に、まんまと「涙ぶちのめ」されてしまったわけである。
そうした部分こそが、この楽曲が究極たる所以である。ただ言葉で励まし勇気づけるだけでなく、それと同時に聴く者全てを笑顔にする万全のアフター・ケアも決して怠らない。ももいろクローバーZは、皆の笑顔を守るために、そして「もっともっと皆を笑顔にするために」、明日も歌い、踊り、変身ベルトを装着した戦うアイドルとして邁進し続けるのである。

やはり、ここで歌われている(語られている)言葉が、これ程までに強く胸に響いてしまうのは、五人組グループとしての再出発の時期と、大震災後の動揺と混乱が日本全体を包んでいた時期が、計らずも重なることになってしまったことと、決して無縁ではないであろう。それらの言葉の向こう側には、誰もが共感し共有することができる背景が、(それを見ようとする者には)見えてくるのである。そうした部分が、この楽曲を、意味ありげなものとして響かせるだけでなく、実際の日常の生活と結びついたものとして聴かせる新たな異なる回路を作り出してゆくことになる。本来であれば、いかにもももいろクローバーZらしい芝居がかった第一級の決意表明の言葉であったはずのものが、この最悪の状況の中で過酷な現実に戦いを挑まなくてはならないわたしたちが(胸中で)挙げた鬨の声のこだまへと、不思議な変節を遂げるのである。
画像7月27日に発表される、ももいろクローバーZのファースト・アルバム(ももいろクローバー時代を含めても通算一枚目)のタイトルは“バトル アンド ロマンス”である。終わりなきバトルとロマンスは、戦隊モノの様式を借りた、変身ベルトを装着したアイドル・グループが生きる日常そのものである。世は激動の戦国時代。群雄が割拠するアイドル・グループの世界でも、日夜生存を賭けた戦いが繰り広げられているのである。
そして、この“バトル アンド ロマンス”というタイトルは、そうした周囲の状況を再確認した上での、さらなる事実上の新たな闘争宣言という意味ももっている。事実、3月11日以降の世界とは、ある種の戦いの場でもある。それは、誰もが日々の生存のスペースを、戦い取ってゆかねばならない時代だといってもよい。しかし、勝者が真っ先に勝ち取り占拠してしまう場所が、絶対に安全であるかは、もはや誰にもわからない、もしかすると、最後まで余っていた社会の周縁の僻地のほうが、実はよっぽど安全であったりするのかも知れない。また、日常的に戦わなくてはならないのは、誰の目にも見えない敵であったりもする。そして、その敵は知らぬ間に体内に飛び込んできて悪さをしたりする。全くもって、手に負えない。そうした終わりなきバトルとロマンスの時代の幕開けを、闘志漲る雄叫びとも絶叫ともつかぬ奇声混じりのシャウトの応酬で飾るのが、この“Z伝説 〜終わりなき革命〜”なのである。
実際、この楽曲は、かなり大きな意味をもつエポック・メイキングな作品といえるのではなかろうか。新たな船出を遂げたももいろクローバーZにとっても、10年代の日本の歌謡界にとっても。また、俗にいうアイドル戦国時代の戦況においても。この五人組は今、大いなる野望に燃えて、変身ベルトを装着したまま(ある種無謀ともいえるような)激走を続けている。終わりなきバトルとロマンスの先にある、六人組時代には叶わなかった、日本の歌謡文化の象徴である紅白歌合戦の舞台に立つために。果たして、日本のアイドル歌謡に革命の嵐は巻き起こるのか。妙な胸騒ぎを感じてしまう今日この頃である。

(注)
7月19日、ももいろクローバーZの妹分、私立恵比寿中学のリーダー、宮崎れいなによって、いち早くアイドル戦国時代の終結宣言がなされ、局地的に激震が走った。そしてまた、この宮崎の発言は、アイドル新時代の到来を(勝手に)告げるものでもあったのだ。これは、群雄割拠の時代は終わり、戦国大名が天下統一を目指して激突する本当の戦の時代が始まるというということであろうか。もしくは、これまで不当に(?)格下扱いを受けてきたエビ中からのももクロZに対する事実上の下克上宣言ということなのか。一人減って五人組となったももクロZに十人のメンバーを擁するエビ中が本気のバトルを挑めば、もしかするともしかしてしまうのかも知れない。今後の動向が大いに注目される。

(追記)
はたして、生前に中村とうようは“Z伝説 〜終わりなき革命〜”を聴いていたであろうか。もし耳にしていたのにも拘らず、その死を思い留まらせることができなかったのだとしたら、このバトルはももいろクローバーZの惨敗であったというしかない。ただ、「早見あかりのいないももクロなんて認めん」という理由ですっぱり拒絶されてしまったのであれば、少しばかり話は違ってくるような気もするのだが。
やや手垢に塗れている「明けない夜なんかない/朝日は昇る」という表現にも、少なからず希望を見出して、そこに必死に縋り付かなくてはならないような切羽詰まった状況に、今現在のわたしたちはある。絶望することは、息をするよりも簡単である。そんな極めて生き辛い時代のただ中で、ももいろクローバーZのアイドル歌謡にちょっとだけでも生き抜いてゆく勇気をもらうことは、とんでもなくバカげたことであろうか。大衆音楽の歴史に通じた大先生に是非とも意見をうかがってみたかった。たぶんきっと、答えは「ナンセンス!」(もしくは、「早見あかりのいないももクロなんてナンセンス!」)だろうけど。

(追記)
画像7月20日、9nineの7作目のシングル“夏 wanna say love U”がリリースされた。このシングルには、カップリング曲として“Wonderful World”という楽曲が収録されている。これが、少々地味ながらも、かなりの励まし勇気づけるタイプの良質な作品となっていたので、ここに追加で取り上げておきたい。
この曲で歌われるのは、今の困難なことが続く状況から抜け出して、まだ見ぬ世界へ夢を掴むために勇気を出して歩き出してゆこうと促す内容の言葉である。最初の一歩を踏み出す少しの勇気さえあれば、未来は自らの手で変えられるという、思いきり青春時代ならではの懊悩ぶりを感じさせる歌詞が、実に爽やかに歌われてゆく。
しかし、これを今現在の時代状況と重ね合わせて聴くと、何ともいえぬ胸に染み入るメッセージとして聴こえてきたりするのである。ただし、その系統の極めつけであろう“Z伝説 〜終わりなき革命〜”の後のリリースであるだけに、ちょっとインパクト的には薄いだろうか。しかし、「新しい明日を見にゆこうよ」「希望を強く持てば/未来が変わる」という前向きな歌詞に、素晴らしい未来や真新しい世界の創造への意思が明確に表されているところに、無限のエール系の楽曲のその先を感じさせてくれるものがあるような気もするのである。
また、軽くトランシーなダンス・ポップのタイトル曲“夏 wanna say love U”も、いよいよ勢いを増すK-POP勢を堂々と迎え撃つような仕様(平たくいうと、少女時代風歌謡曲)となっており、なかなかに面白い。ここ数作で急成長しつつある9nineは、アイドル新時代の戦線における、まさにダークホース的な存在といえるかも知れない。スターダスト勢と古参ハロプロ軍団の牙城となりつつあるアイドル新時代の流れに、どのように食い込んでくるのか、ちょっとした見物ではある。

ここにきて、3月11日以降に書かれ録音されたと思われる楽曲を収録した、自作自演系のシンガー・ソングライターの作品なども、続々と登場しつつある。こうした自作自演歌手の歌う言葉は、とてもダイレクトに対象を見つめているからか、強い思いや意志が深く込められているように聴こえる。だが、これは決して悪いことではない。自分の声と言葉をもつ人は、率先して、そうするべきなのである。大震災後の社会に漂っている空気をとらえて、この悲惨な状況や心象を今ここで歌っておくことに、きっと大きな意味があるのだろうから。
画像7月6日、シンガー・ソングライターのさだまさし(Masashi Sada)が、新作アルバム“Sada City”を発表した。この作品では、さだシティと名づけられた架空の街の、懐かしくも新しい伝統的な共同体のぬくもりの息づく光景が、その独特の語り口で歌われてゆく。それは、間違いなく日本人が忘れかけていた、いかにも日本らしい日本の街の姿である。さだは、アルバムの冒頭で高らかに宣言するかのように「みんなで最初からやり直そう」(“桜の樹の下で”)と、ポール・サイモン(Paul Simon)ばりに歌いあげる。この新しいさだシティの町づくりは、また最初の第一歩から始める、悲しく辛い出来事からの復活の歌となって響く。また、それとともに、さだが思い描く昔ながらの日本の街の原風景を復古してゆこうとする強く確かなメッセージとしての響きももつ。そして、その穏やかで優しい歌声は、今のこの状況下で頑張っている全ての人たちに向けた応援歌にもなり、ひとときの安らぎを与える癒しともなる。
このアルバム“Sada City”は、間もなくデビュー40周年を迎えようかというさだにとっても、おそらく非常に大きな意味をもつ一枚となったのではなかろうか。ここでは、今時ちょっと珍しい程に活き活きとしたフォーク歌手らしい歌を聴くことができるのである。きっと、さだのキャリアにとっても一二を争うほどにアクチュアルな意味性や時代性をもったフォーク・アルバムであるに違いない。ある意味において、これは、3月11日以降の世界だからこそ生まれ得た作品ともいえるであろう。つまり、“Sada City”とは、まさしくこの時代の産物なのである。
こうした今ここで歌われるべき楽曲と言葉を収めた作品が発表されることは、大変に大きな意義がある。後の時代に聴き返された時に、今現在の社会において、さだやそれに近い年代の人々が、どのようにこの状況を見つめ感じながら生きていたのかを探る際の重要な資料となるであろうから。
しかし、そうした確かな傾向をもつ作品であるから、時として、その言葉が白々しく響いてしまうこともある。その歌と言葉に込められている、思いの強さやメッセージ性の強さゆえに、そこに無条件に同調してしまうことが、果たして正しいことであるのかが見通せず、とても不安になってきてしまうのだ。この何が正解なのかが全く見えない世の中においては、強い言葉ほど空虚に響いてしまいかねない。
ゆえにか、イケイケな夏の恋の歌や戦隊モノのドラマ仕立ての歌に忍ばされている言葉から、妙に胸に響いてくるものを啄むくらいが、実はちょうどよい湯加減であったりもする。現実世界の出来事とはかけ離れた文脈から、現実世界に漂う空気感に接続可能な言葉だけを切り取って聴き取る。そうした聴き手本位の勝手気侭な聴き方が可能となるのもまた歌謡曲のもつ特性といえるであろう。
だがしかし、歌謡曲というものは、所詮歌謡曲でしかない。よって、そこに、この時代に対する確かな答えを求めて聴いたとしても、結局は空振りに終わるだけだろう。恋愛や戦隊モノに関する歌が、何らかの答えを果たして与えてくれるだろうか。
それでも、もしかすると、その歌のどこかに(本来の歌詞の文脈からはかけ離れた)この時代を読み解くための(誰が隠したわけでもない)暗号が隠されているかも知れない。そんな風に思えてならない部分は確かにある。アイドル歌謡もまた、この時代や社会の空気を吸って作品として生み出されたものであるはずなのだから。それが、外的な影響を全く受けない無菌室で作られたような歌謡曲であったら、全く話は別であるが。
この3月11日以降の世界の歌謡曲には、それまでのものとは全く違った聴こえ方や響き方をするものが実に多い。やはり、あの日を境に何かが大きく決定的に変わったのであろう。今現在の世界において、歌謡曲は、それ以前の世界においてのものとは全く異なった意味や意義を帯びつつある。

歌謡曲の歌詞の中に散りばめられている励まし勇気づける応援の言葉がもつ意味とは、果たしてどんなものなのであろう。それは、それを聴く全ての人にとって、何らかの応援として機能するものなのであろうか。そのあたりは、全くもって不明である。恋愛の歌や戦隊モノの歌の中で、その元々の意味とは異なる文脈での役割を割り出そうとする時点で、全てが間違っているとする考え方もあるだろう。
おそらく、それは、励まし勇気づける応援の言葉として聴き取られることによって初めて、それがそのように今ここにあることの重要な意味をもち始めるのである。この今しか感じ取ることのできぬ時代や社会の空気を共有することがかなわない、後の時代の人々には、それらはただの恋愛の歌や戦隊モノの歌としてしか聴くことができないかも知れない。それでも、何もないよりは、何かがあったほうがいい。何も言葉が発せられないよりは、何らかの言葉が歌にされて歌われたほうがいい。それが、その言葉通りに(しか/は)伝わることがなかったとしても。必ずや、それを様々なカタチで聴き取り解読する人はいるはずである。言葉とは、そのために発せられ響くものであるのだから。
大震災後の錯綜し混乱した時代や社会の空気を反映した、何が正しいのかが見えてこない時代ならではの暗中模索や試行錯誤が積み重ねられ、それらがあらかたやり尽くされた先に、この今の時代に本当に歌われるべき歌や、時代が本当に必要としている音楽が、ようやく(後ろを振り返った時に)見えてくるのではなかろうか。だから、今は、その先にあるものを先取りして、あれこれと考えるよりも、今現在の(これまでの感覚からいうと)ある種あまり歌謡曲らしくない歌謡曲を具に聴いておく方が、よっぽど有意義なことであるのかも知れない。
10年代の歌謡曲は、10年代の音楽全体の流れを生み出してしまいかねないほどの勢いに満ちている。10年代は、おそらく新たな大衆音楽の時代となるであろう。そのような視点で見てゆくと、この3月11日以降の世界における歌謡曲の動きは、非常に重要な意味をもっているように思えてならない。そこに、何を見て、何を聴くことができるか。歌謡曲というものの音楽と言葉の様式には、まだまだ無限の可能性が秘められている。商業音楽としての歌謡曲というよりも、新しい大衆音楽としての歌謡曲に。
そこにある情報をきっちりと聴き取る研ぎすまされた耳によって、現実世界の個々の事象を形成するコードへと接続されてゆく歌/言葉。徹底的に文脈から切り離されることで、10年代の音楽は再び大衆の手に取り戻され、そう簡単には時代の空気や雰囲気に流されてしまわぬものとなる。音楽の情報化と音楽文化の大衆化。この流れは、この10年代に急速に加速してゆくに違いない。(11年7月)

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