溝!

アクセスカウンタ

zoom RSS 2011, Back To Black PS I

<<   作成日時 : 2011/08/20 03:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

2011, Back To Black

追記(一)

画像11年3月2日、今や破竹の勢いで、日本を代表する萌え系ハードコア・アブノーマル・ロック・バンドとなりつつある女王蜂(Ziyoou-Vachi)が、全8曲収録のミニ・アルバム“魔女狩り”をリリースした。
これは、ちょうど東日本大震災の直前、9日前のリリースであった。だが、今では、そんな3月11日より前の世界のことは、遥か遠い昔のことのように感じられたりもする。今年の3月の初め頃といえば、クライストチャーチの大地震がもたらした大きな被害に心を痛め、都市を襲った直下型地震の恐怖に戦き、ハンカチ王子がオープン戦で登板すれば大騒ぎをし、ベリーズ工房の新曲“ヒロインになろうか!”のMVに驚き、まだ日々の生活の中で放射線量を気にすることなども全くなかった。やはり、あの日を境に、何もかもが、全て変わってしまったのだと思わざるを得ないものがある。
しかし、この女王蜂を取り巻く状況に関してだけは、ちょっと様子が違うようだ。確かに、何かが決定的に変わったことは変わった。ただ、それがマイナス方向に変わったのではなく、女王蜂の周辺では全てがプラスの方向へと一気に動き出したようにも見えるのである。
この作品を発表した直後から、徐々にバンドの知名度は上がり、そのパワフルでエモーショナルでラウドでキュートで変態な音に対する高い評価が続々と寄せられ(かなりアクの強いバンドであるため、大いに好き嫌いは分かれると思われるが)、メキメキと表舞台に頭角を表してきた。そして、ここにきて、今秋には何とメジャー・デビューを果たすことが発表された。これは、誠に驚くべきニュースであった。
まさに、怒濤の快進撃である。大震災の影響など微塵も感じさせずに、全てを蹴散らしながら我が道を大股で闊歩してゆく、そのお姿は、いかにも女王蜂らしくて、なぜだか妙に納得させられる。恐ろしく猥雑でどぎついGSリヴァイヴァル的なミュータント歌謡ロックが、どういう訳かジワジワと日本中を震撼させ始めているのである。今、この日本で何が起きているのだろうか。
女王蜂というバンドのもつケバケバしさの奥に垣間見れる徹底的にアウトサイダーな佇まいには、どこか大震災後の混乱期の混乱そのものを象徴するような雰囲気がある。こんなにも妖しい香りのするロック・バンドが、地下の世界から這い出てきてメジャーなシーンで活躍することになるなんて、ちょっと平常時の感覚とはかけ離れているようにも思われるのだ。普通であれば、女王蜂のような変態ちっくなバンドには、誰もが一様に眉をひそめるはずなのに。いや、女王蜂のような変態バンドこそ、常に良識ある大人たちから眉をひそめられるような存在でいなくてはならないようにも思われるのである。
やはり、現在の日本は、全員一致の普通の在り処を見定めることができない状態にあるのだろうか。3月11日以前の普通の感覚なんていうものは、もはやどこかに完全に吹き飛んでしまっている。降雨時には雨粒に濡れることに怯え、道路脇や植え込みのホット・スポットに怯え、毎日の放射線量に怯える日常においては、平常のままの感覚でいることなど不可能に近いであろう。
そんな普通が普通でない転倒しきった時代の間隙をすり抜けるように縫って、女王蜂は、見事なまでに驚異的な暗躍を果たしている。完全にグシャグシャになって入り乱れた時流に華麗に乗り、いわゆる良識派の視線をかいくぐりながら、スルスルと上昇してゆく立ち居振る舞いは、ある意味では実に女王蜂らしいではなかろうか。言い方は悪いが、混乱とどさくさに紛れて、まんまとメジャー・デビューにまで一気に漕ぎ着けてしまった感じが、堪らなくスリリングでもあるのだ。

戦後の混乱期にも、戦争中の戦時体制下において規制をされていた反動からか、焼け野原に立った闇市などから一斉に流れ出した歌謡曲が庶民の生活へと物凄い勢いで浸透していった。戦争一色であった戦時歌謡に辟易していた部分も大いにあったのであろう。また、極度に強い衝撃を受けて、当たり前の日常が脆くも崩れ去ってしまったとき、日本人とは、それまでにはなかった新しい感覚をもつものに惹き付けられてゆく傾向があるのかも知れない。それが、多少いかがわしいものであったとしても、まずはインパクトのある新鮮味こそが、そこでは優先される。そうした時代の反動的な役割を担っていたのが、戦後の流行歌であったのだ。
それに、この日本に生きる人々とは、古来より猥雑でいかがわしいものを愛でる種族でもあった。日本各地のキュートでグロテスクな土着信仰の神々やその神話などを見れば、それは一目で明らかであろう。ただし、慎ましさを美徳とする種族でもあるゆえに、平時には、そうした極めてアジア的な日本人の根源にあるオドロオドロしい性質は、ひた隠しに隠されている。しかし、日常に裂け目が生ずる、危機のときや祝祭の日といった、オルタナティヴな時間が流れる場面においては、それらは内側から一気に噴出してくることになる。
おそらく、この日常のすぐ隣りにまで巨大な危機が迫ってきている、不安と恐怖に満ちた時代こそ、眉をひそめる大人たちを蹴散らして闊歩する女王蜂にとっては、お誂え向きのランウェイだといえるのかも知れない。世相が混乱していればいる程に、イキイキとケバケバしい鱗粉をド派手にまき散らす。時代精神があやふやになればなる程に、メジャーやインディといったカテゴリーもまるで意味をさなくなり、あらゆるものが入り乱れたオージーの様相を呈す。妖しく着飾った女王蜂が空高く舞い飛ぶには、これほど適した時代もないだろう。そして、そのどこまでもいかがわしく猥雑な音楽で、時代を煽るだけ煽り立てるのである。
かつて、85年に「ヤバければヤバいほど/オレはみんなの憧れ」(“Dangerous Communication”)と歌ったのは、オート・モッドのジュネであった。このフレーズは、現在の女王蜂にも、そのまま当てはまりそうである(もし、アヴちゃんが歌うとすれば「アタシはみんなの憧れ」であろうが)。そして、どうもこのふたつのバンドは、ある意味、同じ系譜に属しているようにも思えるのである。歌もサウンドも、どうにもアクが強く、そのままでは完全に鼻つまみ者であるのだが、殊更にそうした毒素の部分を強調してゆくようなドギツイ活動姿勢に、似通ったものを感じずにはいられないのだ。女王蜂のベースのやしちゃんやギターのギギちゃんも白塗りだったりするので(あの、ひび割れメイクも継承しているようにも見える?)、どこかで血脈は繋がっているような気は確実にする。
3月11日を境に、これまで社会の周縁や地下の奥底で蠢いていたものたちが、どこからかウヨウヨと這い出してきて、イキイキとメジャーな往来をしたり顔で闊歩しだした。混乱に乗じてでも、どさくさに紛れてでも、とにかく蹴散らしてしまった者が勝ちなのだろう。ここまできたら、もう誰も突っ走る女王蜂を止められない(はず)。

“魔女狩り”という作品には、“80年代”と“90年代”という楽曲が収録されている。この二曲が、これらふたつの年代がもっていた色合いを、実に絶妙なタッチで捉えた音となっているので、ここで軽く取り上げておきたい。
まず、“80年代”は、全体的にアングラ・ロック調でジトッとした感触。これに対して、“90年代”は、ギラギラとバブリーでハイ・エナジーでハイ・パワーでハイ・カロリーな暴発サウンド。各々の時代性に則した音の対比を、あくまでも女王蜂の独特なアブノ歌謡ロックのスタイルの範疇の中で、しっかりと描き出しているのである。80年代と90年代の微妙だが決定的な勢いの違い、それぞれの時代の明るさの違い、総消費エネルギー量の違いなどのコントラストを、それぞれの楽曲において見事に(直感的に)表現している。
しかし、誠に驚くべきことに、まだ全員10代だという女王蜂であるから、実際には、80年代なんて、全く知らない世界であるはずの世代なのである。まあ、それを言うならば、ギトギトにハイエナな90年代初頭のバブル末期でさえも、実際にそれを体感して生きていたかどうかは、かなり怪しいところである。おそらく、彼らが誕生した頃には、きっとバブルは完全に弾けきってしまっていたはずだ。つまり、女王蜂とは、この失われた20年を、そのまま自らの生として生きてきた、まさに日本のブランク・ジェネレーションそのものな世代から現れたバンドなのである。
そういう意味では、この両曲において、彼らは全く未知の時代のサウンドを演じきっているといってよい。それぞれの年代の文化的遺産からエッセンスを抽出し、吸収できるものを片っ端から吸収し再構築していったからこそ、こうした至極大胆にディフォルメした解釈による表現が可能となったのかも知れない。女王蜂の“80年代”と“90年代”は、それぞれの年代が有していた特徴を、実にアニメーテッドに際立たせた楽曲となっている。
また、この両曲のコントラストは、これまでにあれこれと記してきた80年代半ばと90年代初頭の近くて遠い時代的な断裂の様相と、ある種リンクするものがあるようにも思われる。特に、“90年代”の五月蝿いくらいの過剰さと、それと比較した際の、“80年代”の地下に陥没しているような薄暗さの落差に、注目して聴いてみてもらいたい。

この女王蜂には、前述のオート・モッドだけでなく、どこか初期のリザードあたりにも通ずるような雰囲気があったりする。80年代初頭の、とてもアクが強く、若く奔放で、独自のサウンドの構築に極めて意識的であった日本のロックを思わせる感触が、その音の端々に色濃く滲んでいるのである。昭和のキャバレー歌謡やアシッディなGSを、思いきりラウド&ヘヴィにリアレンジしたような懐かしくも新しいサウンドは、ここ20年以上に渡り悪しき伝統となっていたカッチリとスタイリングされた味気のない日本の商業ロックの作品にはついぞなかったような、実にユニークで突拍子もない個性を感じさせてくれる。
また、この女王蜂だけでなく、このところ東京ロッカーズや関西ノー・ウェイヴの雰囲気を漂わせるアクの強い個性豊かな若手バンドが、ちらほらと登場している動きも気になるところではある。日本マドンナやタッジオ(Tadzio)の放つインパクトは、かなり強烈だ。彼らは、ほぼ日常の他愛もない会話と同じ次元で、ロックしパンクする。まさに恐るべき子供たちである。もしかすると、この失われた20年の空白を一気に埋めて、先へと進むための海図は、30年前の地下に埋まったままになっていたのかも知れない。これまでの一抹の空しさをたたえていた日本のロック(J-Rock)を乗り越える新たな世代が、今ここで奇声とも嬌声ともつかぬ産声を挙げはじめている。

女王蜂は、そんな眩いばかりの日本のロック新時代への期待を抱かせてくれる、一味も二味も違う雰囲気のあるバンドなのである。いざ来れ、瞼に宿りし幻の栄光の日々よ。(11年6月)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
2011, Back To Black PS I 溝!/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる