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zoom RSS 2011, Back To Black II

<<   作成日時 : 2011/06/20 04:00   >>

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2011, Back To Black

II

これまで、何となく順調に巡ってきた観もある、音楽にまつわる約20年のサイクル。ただし、あの3月11日を境に、どうも通例よりも5年ばかり遡らざるを得ない状況となってしまったように、何となくだが感じる。これは、20年周期では少しばかり具合が悪いので、そのサイクルを、ちょっぴり遅らせておこうといった、差し当たりの回避策といったようなものではない。なかなか言葉では表しづらいが、何やら皮膚感覚的に、こうした大きな危機に直面した特異な状況にあっては、3月11日の前の世界と地続きというイメージのある90年代ではなく、遥か遠くに隔たった80年代に、もう一度立ち返ってみる必要性があるように感じられるのである。そして、その時代の継ぎ目を飛び越えるのに、約5年という時間的な幅を目安とするのが、最も適当であるように直感したのだ。

90年代の初頭と、その5年前との差は、今思うとかなり大きい。様々な意味で、全世界的な視座においても、身の回りの小さな世界も、大きく変化した5年間だった。とても陳腐な表現になるが、いわゆる激動の時代であったように思われる。簡単にいえば、90年代の初頭と、その5年前の80年代の半ばでは、ある意味全く異なる世界に生きていたようにも感じられるのだ。
この違いには、非常に大きいものがあるように感じられる。だが、これは、当時から20年以上が経ち、遠い未来の視点から振り返って眺められるからこそ実感できるものであったりするのかも知れない。実際には、そうした違いを殆ど気に留めることもなく、毎日をノホホンと全てが当たり前のことであるかのように思って生きていただけであったのだから。
80年代の終盤から90年代へと足を踏み入れる時期にかけての、中国や東欧を中心とする激動し激変する世界情勢に関しても、どこか前向きなものを感じ取ってはいた。激動と混迷の時代の先には、必ずや輝くばかりに明るい未来が待っていると、純粋に信じきっていたのである。
そして、その時代の大きなうねりの中で起きた、89年のベルリンの壁の崩壊と、91年のソビエト連邦の解体は、当時の、そうした時代の気分を象徴するような歴史的大事件であった。すっぽりと80年代を覆い尽くしていた暗い不安の火種は、間違いなく米ソ間の極度に緊張を孕んだ東西冷戦構造にこそあったのだから。
あの昭和から平成へと移り変わる激動の時代に、何となく楽しく毎日を生きながら、確たる理由もなく前向きに未来は眩い光に満ちていると感じられた。実に単純に、そう確信することができた時代であったのである。

画像3月11日から約一ヶ月半が経ち、TVやラジオや携帯電話から緊急地震速報が発せられる回数も減り始め、頻繁に起きる大きな余震に怯えることも少なくなって、ようやく気分的に落ち着きを取り戻せてきた頃から、どういう訳か、ものすごい勢いで80年代の音楽を貪るように聴き返すようになった。特に、シェフィールドの実験的なエレクトロニック・ミュージックや、日本のノイズとハードコア・パンク、初期のRough Tradeあたりを中心に、まずは洋の東西を問わずにノイズ〜オルタナティヴ・ミュージックの類いを手当り次第に聴き漁っていった。
そこに、今現在のどうしても陰鬱さの抜けない沈んだ気分にマッチするような音が、必ずあるように感じられたのである。いや、逆にこちらがそういった音楽に呼びかけられ、いつの間にかそこに引き込まれていたといったほうが、雰囲気的には近いかも知れない。ただ、どういう訳か、その辺りの音楽から何かが感じ取れるような確信は、最初から何となくあったのだ。あまりハッキリとした根拠のない確信ではあったが、キャブスやギズム(G.I.S.M.)のサウンドを聴いていると、決してスカッと晴れることのない内面にジャスト・フィットするようなものが不思議とあったことも確かなのである。
そうした、今の気持ちにハッキリとした理由も見当たらないままに、無条件にフィットしてしまう部分が、やはり90年代初頭の音楽には、やや乏しいように思われるのだ。
言いようのない不安に覆われていたひとつの時代が、雪崩の如く立て続けに起きた象徴的な出来事とともに不思議な程あっさりと終わりを迎えた。そして、燦然たる輝きに包まれるように90年代が幕を開けたのである。そこに足を踏み入れたあたりから、何かがガラリと変わっていった。見るもの、聴くもの、感じるもの、全てが。おそらくは、時代の空気や気分といった部分で。

90年代の初頭の段階で、すでに、少し前まで痛いほどの現実感を伴って感じられていた世界的な危機に対する感覚は、すっぽりと胸中から殆ど抜けきってしまっていたように思われる。あんなにも胸の中でモヤモヤとしていた不安や、すぐそばにまで迫ってきていた世界の終わりに対する恐怖、危機を前にした張り詰めた意識が、まるで全て幻であったかのように、すっかり薄らいできてしまっていたのである。
91年に起きた湾岸戦争は、それまで考えていたものとは全く異なるタイプの戦争だった。圧倒的な戦力を誇る多国籍軍は、まさに冷戦後のグローバリズムの時代の幕開けを飾る一大ページェントの如く中東の砂漠に展開していた。

画像個人的には、その当時は、シカゴやニューヨークのハウス・ミュージックばかりを聴き込んでいた流れで、ラリー・レヴァン(Larry Levan)がDJを務めていたParadise Garageのガラージ・サウンドに、かなりどっぷりと浸った日々を過ごしていた。そして、そこで高らかに歌い上げられる解放や団結の歌に込められた愛と平和のメッセージを、大真面目に真正面から受け止めていたのである。ストロボ・ライトが瞬く薄暗い地下のダンスフロアで、眩い朝日が力強く昇る、明るい未来が訪れることをボンヤリと夢想していたのだ。
ゴッドファーザー・オブ・ハウス・ミュージック、フランキー・ナックルズ(Frankie Knuckles)のシングル“It's Hard Sometime”がリリースされたのは、ちょうど91年のこと。そこで熱っぽく歌われている通り、辛いことがあっても、それを乗り越えた先には、必ず輝かしい未来がまっていると、本当にどこまでも純粋に心から信じることができるような時代であった。90年代の初頭とは。

そんな90年代の前半の世界においては、未来への前向きな希望とともに忘れ去られてしまったものが、やはり80年代半ばの音楽作品には、とても色濃く漂っている。今聴き返してみても、その両者の異質なまでの隔たりは、まざまざと感じ取ることができる。いや、3月11日以降の今だからこそ(改めて)感じ取れるようになったものも、そこには、もしかするとあるのかも知れない。では、80年代半ばと25年を隔てた現在とでは、何が共通していて、何が決定的に90年代初頭とは異なっているのであろうか。

たった5年という時間的な隔たりを挟んで、80年代半ばと90年代初頭とでは、グローバルにもローカルにも、大きく時代の様相は変化した。今から眺め返してみると、そのふたつの時節の距離は、通常の5年以上に遠く離れているように思える。そして、その隔たりと違いが意味するものは、途轍もなく大きい。
それは、9月11日や3月11日を境に大きく世界が変化したのと、非常によく似た部分をもっているといえる。たった1日の衝撃的な出来事による劇的な変化ではなく、ある期間に緩やかに時間をかけて移り変わっていった変化という、それぞれの変化の形式的な違いはあるが。それでも、まさに、それがひとつの大きな歴史的切断線をなしていることに違いはない。
しかし、80年代半ばから90年代にかけての変化と、今回の3月11日を境にした変化が、全く逆向きな変化となっているという点は、決定的な違いとして捉えておかなくてはならない部分であろう。前者が、暗い不安の時代から目映い未来を感じさせる時代への変化であったのに対し、後者は、底なしに暗い不安に満ちた時代への突然の転落というタイプの変化と位置づけることができる。

80年代半ばの世界に、大きな暗い影を投げかけていた出来事のひとつに、チェルノブイリの原子力発電所の事故があった。86年4月26日に起きた、この大事故は、原子炉の炉心溶融と大爆発によって拡散された大量の放射性物質が、広範囲に及ぶ汚染を引き起こした。放射性物質の漏出の規模としては、史上最悪の原子力発電所事故とされている。
ただし、当時のソビエト連邦は、西側の世界に対して完全に閉ざされていたため、直ちに事故の詳細な情報が伝えられることはなかった。核に関する情報は、いかなるものであれ、当時の米ソ間では最重要の秘密事項であったから。だが、時間の経過とともに原子力発電所を取り巻く深刻な事態が、新聞やニュースなどで報道されるようになり、全世界中に原発事故と放射能(放射性物質)の漏出の恐怖を、まざまざと知らしめることとなった。
このチェルノブイリの事故からちょうど25年後に、同じ放射能の漏出と飛散の恐怖が、再び繰り返されることになる。3月11日の大震災と大津波によって、福島県の福島第一原子力発電所において、国際的な原子力事象の評価尺度で(チェルノブイリと同じ)レヴェル7と評価される、非常に深刻な原発事故が起きてしまったのである。音楽の20年周期説などよりも遥かにシリアスな、決して誰も望んでなどいなかった史上最悪の出来事が、何の因果か25年というサイクルで回帰してしまったのだ。
この福島の原発事故が、これからの時代に投げかけることになるであろう影が、途轍もなく暗く長いものになるであろうことは、想像に難くない。あのチェルノブイリが、事故から25年が経過した現在でさえも、ウクライナを始めとする東ヨーロッパにおいて、途轍もなく暗い獅子身中の虫のような負の遺産となっているのと同じように。

チェルノブイリの事故が起きた当時に感じた薄ら寒さや、漠然と感じた危機の意識は、3月11日以降に感覚しているものと、やはりどこかでシンクロするものがある。ただ、あの当時は、遥か遠くのソ連の西の端辺りで起きた出来事であったがために、あまり強く現実感をもって恐怖を感じることはなかったのだけど。
だが、計り知れない大惨事を巻き起こす可能性をもった原子力発電所の不気味さと、それが暴走し事故を起こしたときの恐ろしさは、頭のどこかで想像できていた気がする。学校の社会科の授業で、原爆や核兵器の恐ろしさは徹底して刷り込まれていたし、胃が捩れそうな程に衝撃的な丸木美術館の「原爆の図」も目に焼き付いていた。そうした日常とはかけ離れた世界のイメージが、チェルノブイリの原発事故を伝えるニュース映像における、防護服姿の作業員が爆発で吹き飛んだ建物で作業を続けるショッキングな光景と、重なって見えた部分も少なからずあったと思われる。
そして、今回は、そうした平和で平穏な日常を脅かす危機が、ほんの目と鼻の先の身近な場所で、現実のものとなってしまったのである。今ここで感じていることの全てが、80年代の半ばに感じていた恐怖や危機意識と同じものであるのかは、ちょっと分からない。何故ならば、そういったものを、あの日のあの瞬間が訪れるまで、完全に忘れてしまっていたから。そして、その間の25年という年月には、それを、すっかり忘れさせ、感覚を麻痺させてしまうような時代があったのである。
ただ、今現在の胸の中に渦巻いている感覚には、妙な懐かしさを覚えるような部分もあるのだ。何か常にモヤモヤとしていて、考えれば考えるほどに、どうしようもなく不安になってくる感覚が、まさにそれである。
あの当時は、そんな感覚を、ひとり自分だけが感じているのではないことを確かめるために、様々な音楽を聴き漁っていたような気がする。主として、商業主義的なメイン・ストリームの音楽とは対極に位置する、ハードコア・パンクや、ノイズや、珍奇なオルタナティヴ・ミュージックを。それらは、ある時はモヤモヤや不安のはけ口であり、またある時は、そこに癒しを求めて耳を傾けられるものでもあった。

80年代とは、どこか子供っぽく無邪気な時代だったというような印象がある。確かに、現在の複雑に入り組むだけ入り組み、乾ききっている社会と比べれば、まだ太い繋がりのある共同体そのもの有り様が見えやすく、濃いコミュニケーションのあるウェットな社会であった。当時は、それが、普通だったのだ。誰もが無邪気なまでに自らの生きる時代をかくあるものと受け入れ、真剣に時代と向き合って生きていた。そう思われる。現在と比較すると、まだまだかなり足場が覚束なく、常態的にシリアスな状況が待ち構えている時代であったということだろうか。まあ、圧倒的に選択肢の少ない時代であったことは確かであり、足許を見つめながら歩く時間もたっぷりとあったのだ。そうしたお気楽さと危うさが入り混じった空気を、時代全体で感じ、共有していたということなのであろう。

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