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<<   作成日時 : 2011/03/05 04:00   >>

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Buono!: 雑草のうた

画像 Buono!にとって約一年ぶりの新曲となった“雑草のうた”が、何やらとても凄いことになっている。リリース日は、11年2月2日。昨年、レコード会社をzetimaに移籍したBuono!が放つ、移籍後初の復活シングルである。これが、久々の新曲ということもあり、なかなかに気合いの入った強烈な楽曲となっているのだ。少なからず衝撃を受ける内容の歌といってしまってもよいだろう。“雑草のうた”というタイトルで雑草魂を歌うだけであるならば、よくありがちな流れである。まあ、一般的な観点からいうと、アイドル・グループと雑草魂という取り合わせは、やや不釣り合いではあるのだけど。05年に秋葉原の小劇場に登場した、AKB48の基本コンセプトが、いつでも誰でも「会いに行けるアイドル」であったことを踏まえれば、今やアイドル・グループといえども、ただただ偶像として鎮座しているだけでは(基本的には)務まらず、此岸の人として生きることも(姿勢として)求められてもいるのである。ゆえに、ここで、Buono!が雑草魂を歌うことは、そうした21世紀初頭のアイドルを取り巻く時代の流れを、真正面から(多少、自己言及的に)捉えたものだともいえるのかも知れない。
 07年に結成されたBuono!は、ハロー!プロジェクトに所属する三人組のアイドル・グループである。メンバーは、嗣永桃子(Momoko Tsugunaga)、夏焼雅(Miyabi Natsuyaki)、鈴木愛理(Airi Suzuki)。嗣永と夏焼は、ハロー!プロジェクトの七人組グループ、Berryz工房のメンバーであり、片や鈴木は、同じくハロー!プロジェクトの五人組グループ、℃-uteのメンバーでもある。それぞれにBerryz工房と℃-uteというメインに活動を行うグループがあるために、このBuono!の位置づけは、一種のサブ・グループ的なものとならざるを得ない。しかし、そこを少し角度を変えて見ると、両グループからの選抜メンバーによる、ハロー!プロジェクトにおけるドリーム・ティーム的な色合いも見出され、メインではないサブ・グループではあるものの、決して地味な存在とはなっていないのである。そこには、常時三人で活動していないからこそ醸し出されるBuono!ならではなプレミアム感のようなものも、当然加味されてくる。
 それでなくても、この三人のグループは、かなり華やかで特別な雰囲気をもっている。Buono!は、ハッキリ言って相当にタレント性の高いメンバーの集合体なのだ。三人ともに実にシッカリした歌唱力をもち、声質そのものにも豊かな個性と魅力を兼ね備え、素晴らしく歌手としてのポテンシャルが高い。おそらく、現在の日本のアイドル歌謡界でも随一の実力をもつ、かなり本格派のグループだと言ってしまっても決して言い過ぎではないだろう。また、リーダーの嗣永桃子は、Googleが画像検索で真っ先に挙げる「世界一カワイイ女の子(The World’s Cutest Girl)」としても広く知られている。つまり、歌だけでなくルックスの面でもピカイチな個性と魅力をもつグループということだ。実際、三人の整った可愛らしい容姿には、雑草らしさなど微塵もない。
 “雑草のうた”は、まさに雑草魂について熱く小気味よく歌いあげる、勢いがありノリのよいポップなロック・チューンである。雑草の目線から歌われる、雑草世代への叱咤激励を含んだ精一杯の応援歌。そこで歌われている言葉は、踏まれても、踏まれても、地べたに這いつくばって忍耐強く生きてゆく者たちへと向けられたものである。「生きてるだけで奇跡」であり「ゴールなんてまだまだ」遠い先のことで、「死ぬまで」ずっと「未完成です」という歌詞には、生まれつき雑草である世代への慈悲深い慰めのような感覚も見受けられる。その裏側には、微かに諦念めいた匂いもないわけではないのだが。そうかと思えば、「夢見てんじゃねぇ」、「諦めんじゃねぇ」、「甘えてんじゃねぇ」といった、強烈な喝を入れる言葉が、叩き付けるように飛んで来たりもする。雑草に対する慰めの言葉などは、やはりただの気休めでしかないのか。夢見ることもできず、諦めることもできない。果たして、どうしろというのであろう。人の生き様とは、人それぞれに「みんな違う」ものだ。だから、その違いを受け入れ、それにキッチリと対応して、「かんかん照り」や「土砂降り雨」や「吹雪」に見舞われる過酷な環境でも、雑草は雑草らしく、その「ボロボロ」な生き様を貫いてゆけということか。もはや「言い訳してる暇はない」し、ちょっとしたことで「落ち込んでる」場合でもない。「悩んで悩んで」「涙流して」しまっても、押し寄せる「不安」に叫びたくなっても、常に顔を上げて(「Keep your head up」)、「もっと強くなる」ために「求め続けて」ゆくしかないのである。「踏まれて」も、「蹴られて」も、そう簡単に枯れたりはしない、しぶとい生命力だけが、雑草の手の中にはある。確かに、これは凄まじくハードな世界である。やや熱っぽく飛ばしすぎて支離滅裂な部分もあるけれど、何とか雑草たちへの応援歌として成り立つレヴェルは保持されている。ただ、どちらかというと、Buono!の三人の歌声の魅力と歌唱の勢いで、一気に聴かせてしまうタイプの楽曲だという側面は強いかも知れない。表面的には。
 しかし、この“雑草のうた”の本当の凄さは、実際には、そうした定型の応援歌的な部分以外のところにあるといってもよい。この楽曲における最も衝撃的な瞬間は、全体の中盤あたりで、突然なんの前触れもなく顔を出す。それは、二番の冒頭の歌詞だ。具体的には、以下のように歌われる。「名前を持たない道端の草みたいに/誰にも知られていない気分はどうだい?」と。終始、雑草の目線から歌われる歌詞の流れの中で、いきなり、ここで完全なる異者の視点からの言葉が挿入されるのである。明らかに、このパートだけは、雑草たちを見下ろす位置から言葉が投げかけられている。そのあまりにも唐突で荒っぽい流れの変化と話者の切り替わりからは、どこか地に這いつくばる雑草を見下し蔑むような目の存在すら感じられるようである。この妙に異質なパートを初めて意識的に耳にしたとき、ちょっとドキッとさせられるものがあった。全体の流れを寸断して切り込んでくる言葉の質と、そこで歌われる言葉の内容の、その両方に。
 この問題の部分は、楽曲全体からすると、最初のサビと曲中に繰り返し登場するコール&レスポンス式の導入部の直後の、二番のド頭において、実にサラリと歌われる。その歌われ方そのものには、基本的に何ら特別さや異質なものはない。では、その部分の何に、そんなにドキリとさせられてしまったのだろう。おそらく、そうした衝撃をもたらした最も大きな要因は、やはりこの一節が、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の歌を、明らかに思わせるものであるというところにある。そこにある両者の歌の空恐ろしいまでの近さに、思わずハッと息を飲んでしまったのである。
 この“雑草のうた”のパートに引用が含まれていることは、もはや疑い様がないであろう。つまり、ここには、かつて「How does it feel?」と歌った、独特の辛辣さをもったディランの視線と、極めてよく似た雰囲気がある。この「気分はどうだい?」という歌詞は、65年に発表された大ヒット曲“Like A Rolling Stone”の有名な一節である。“Like A Rolling Stone”という楽曲は、単なる当時のヒット・ソングではなく、60年代のロック音楽にとっての大きなエポック・メイキングとなった歴史的な意味をもつ名曲でもある。
 このあたりの、この楽曲がもつ意味や背景の大きさに関しては、マーティン・スコセッシ監督(Martin Scorsese)によるドキュメンタリー映画『No Direction Home』(05年)を観れば、きっと誰の目にも明らかになるに違いない。この映画で“Like A Rolling Stone”という楽曲は、ひとつのもう後戻りできない大きな変化の象徴として取り上げられている。そして、それを様々な軋轢に直面しながらも、ひたすら愚直なまでに傍目には窺い知れぬ信念のもとに歌いあげ続ける若き日のディランの姿には、まさに鬼気迫るものすら漂っているのである。“Like A Rolling Stone”は、そんな激震に近い大きな変革や時代の変化の到来を見事に直感し表現していた楽曲であった。ディランは、そこで転がる石ころに執拗なまでに食い下がり、その物言わぬ相手から何か答えを聞き出そうとしている。路傍に転がる石ころに成り果ててしまった「気分はどうだい?」と。その辛辣な問いかけの言葉は、徹底して石ころの立場の対角から歌いかけられる。この部分こそが、複数の視線が混在している“雑草のうた”との決定的な違いだといえるであろう。
 “Like A Rolling Stone”とは、落ちぶれてしまった者たちへの挽歌である。かつては華美に着飾り、羽振りよくやっていた人物(ここでは、その象徴として「Miss Lonely」という女性が登場する)が、大きな時代のうねりに飲み込まれ、見るも無惨な転落人生を歩む。その成れの果てが、転がる石ころなのである。この楽曲は、落ちぶれた者たちを励ます応援歌などでは、決してない。どちらかというと、それは、転がる石を静観する新たな時代に属する視点からの、ひとつの問題提起の歌であった。時代は、変わる。それも、容赦なく完膚なきまでに変わる。何人たりとも、その動きを食い止めることはできない。全ては、そんな時代の動きに翻弄され、ただただそこに飲み込まれてゆくしかないのだ。そして、そこから転がり落ち、取り残されてしまった者は、帰るべき家もなく、知り合いもなく、誰に知られることもなく、名前を持たない道端の石ころのように、そこらに転がっているだけの存在となってしまうのである。
 大きな時代の変わり目に際して、古い時代のものは、いつまでも古めかしいもののままでいては、ただ落ちぶれてゆくばかりである。根本的に、古い時代のものは、新しい時代の土壌に対応する根をもっていない。そう、古めかしいものとは、そのままでいては、そこにおいて、もはや雑草ですらないのである。雑草にすらなれない存在。つまり、それは、ただの土塊、ないしは転がる石ころでしかない。
 ただ、雑草たちとしても、根っこすら生やすことのできなくなるような過酷な時代の訪れを、どこかで予感をしている。それが現実のものとなる可能性は、とてつもなく大きい。それゆえに、曰く言い難いほどに巨大な不安に押しつぶされそうになる。そうした、まさに目に見えるような不安の存在によって、雑草たちへの応援歌も求められ成立することになるのである。
 雑草すら生えない時代とは、要するに土塊と石ころだけが転がる時代である。時代の変遷は、いつも恐ろしく急激である。それは、峠を越えた瞬間に一気に駆け下る。答えは風に吹かれていると歌っていたディランが、転がる石ころに今の気分を問いかけるようになる期間よりも、実際は数段早い。その時がくれば、全てはアッという間だ。だから、雑草たちが自らの根っこを失ったことに気づかないまま、取り残されてしまう可能性は、極めて高い。かつての「Miss Lonely」がそうであったように。そうした事態に陥り、手遅れになってしまう前に、一足早く土塊や石ころに問いかけるように「気分はどうだい?」と、辛辣かつクールに言葉のパンチが投げかけられたのが、あのちょっと異様な印象を残す“雑草のうた”のパートであったのかも知れない。
 現実の問題として、今の社会は、生まれつきの雑草世代で溢れかえっている。線路脇や道ばたでしか根を生やすことのできない、惨めな境遇を余儀なくされる雑草たち。踏まれても、笑われても、ただ強く生きてゆくことしか雑草には求められないのだろうか。この“雑草のうた”の歌詞は、そうした雑草の世代にとって少なからずリアリティをもつものであるに違いない。そして、その境遇に甘んじざるを得ない者にとって、見下すように「気分はどうだい?」と問いかけられることほど屈辱的なことはないはず。だからこそ、変わることのない辛辣さをもつディランの言葉は、それを聴く者の胸に痛いほど突き刺さるのであろう。そして、そんな問いかけの直後のヴァースでは、「そうさ時代は変わるよ」とディランの“The Times They Are a-Changin'”(64年)を思わせる歌詞が、またしても歌われていたりする。いずれもディランの名曲からの引用であるだけに、互いに作用しあいながら妙な説得力をもって響いてくる。しかし、今の若い雑草世代の大半は、齢七十に達しようかというディランの大昔の歌など聴いたことはなく、いやディランその人の存在すら知らないのかも知れないのだけれど。
 ただし、“Like A Rolling Stone”という楽曲の全編に漂う、ひなびたやるせないブルース感が、この“雑草のうた”に皆無であることは、まだまだ今の時代には前向きに生きる希望がもてるということの表れなのではなかろうか。そして、そのビートは、徹底的にアップテンポでもある。まるで根無し草のような生き様を強いられてはいるけれど、雑草は、決して根無し草などではない。そんな雑草の根の如きものなど、今やほんの気休め程度のものでしかないことも事実かも知れないが。ただ、確かなことは、あの60年代をも凌駕しそうなほどの激動の時代が訪れつつある、その気配や予兆めいたものを“雑草のうた”におけるディランを引用した歌詞の象徴的な一節から、かなりの現実感をもって感じ取ることができるということである。
 あの頃と同じように「How does it feel?」と問いかけられ、踏まれて蹴られて強くなった雑草たちは、その大きな時代の変化を乗り越えて、逞しく生き抜いてゆけるのだろうか。そしてまた、そんな見下ろすように「気分はどうだい?」と問いかけてくる絶対的な異者の存在があってこそ、雑草たちは強く逞しくなってゆけるという見方もできるだろう。“雑草のうた”が、社会の片隅の「石ころ道」や「線路の脇」や「歩道の端」に向けてガシャガシャと鳴り響く。おそらく、そこに、アイドル歌謡のオブラートをまとった最下層への応援歌の要素を聴きつける者も決して少なくはないはず。やはり、石ころであろうが、雑草であろうが、何らかの問いかけに対する(敏感な)聞く耳をもっていなければ、そこで終わりなのである。そこの、みすぼらしい雑草諸君、「名前を持たない道端の草みたいに/誰にも知られていない気分はどうだい?」。
 また、この“雑草のうた”は、Buono!のファースト・アルバム“Cafe Buono!”(08年)に収録されていた“泣き虫少年”への三年越しの返歌という聴き方もできそうである。その“泣き虫少年”では、道ばたの雑草のように強くなりたいという切実な願望が歌われていた。ある意味、これは絶対的な強さを求める雑草世代の悲痛な心の叫びでもあるのだろう。そして、それから三年の活動期間を経て、とても逞しく成長したBuono!の勇姿が、この“雑草のうた”における堂々たる歌唱で、まざまざと示される。あの日の泣き虫だった雑草たちにとって、本当の「ゴールなんてまだまだ」先のことではあるのだろうが。
 この理不尽すぎる世の中で、雑草としてでも根を張って生きて行けるのであれば、それはもう奇跡に近いことなのか。ならば、いかにそのかけがえのない奇跡の生を、怨恨と疚しい良心を超越し善(Buono)悪(Cattivo)の彼岸で、光り輝かせることができるかであろう。奇しくも、この凄まじい楽曲の締めの歌詞は、「上がってこうぜ/Peace!」である。上昇の果てに平穏なる場所があるのならば、やはり、そこに向かって前向きに「Keep your head up」で突き進んでゆくしかない。そして、それだからこそ、ハンマーで歴史を「ぶち壊」して新たに「始めよう」というところから、“雑草のうた”が歌い出されることにもなるのである。

 シングル“雑草のうた”には、タイトル曲以外にも2曲のカップリング曲が収録されている。“ラナウェイトレイン”、“JUICY HE@RT”ともに、抑え切れぬ恋心の昂りを爽快に歌った実にロッキンな良曲である。全3曲ともにポップなギター・ロック調で統一されており、サウンド的にもどこまでも前向きに駆け抜けてゆくような印象を残す。それこそ、まさに「笑いたいやつらがいたら笑えばいい」というぐらいの勢いである。個人的には、恋する乙女の早鐘を打つような胸の鼓動を思わせるビートにのせて、一気呵成に溢れる思いが吐露される“JUICY HE@RT”が、とても気に入っている。ここで聴くことのできるような、ちょっと不器用なまでに真っ直ぐな歌は、Buono!というグループがもつ純真さという魅力を、非常によく表しているようにも感じられる。勝敗確率など全然予測しないロックな三人組。そのひた向きな姿勢は、倒れても倒れても起き上がってくる雑草並みに、ドッシリと胆が据わっている。(11年)

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