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zoom RSS Scarm: Several Minutes Of The Man

<<   作成日時 : 2011/02/25 04:00   >>

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Scarm: Several Minutes Of The Man
Happy Puppy Records hpr045

画像 カナダのネットレーベル、Happy Puppy Recordsからの新作。このHappy Puppy Recordsは、アンビエントからポップなエレクトロニカ、そしてローファイ・フォークにいたるまで、実に幅の広いエクスペリメンタル・ミュージック作品を、確固たる信念をもって紹介し続けているネットレーベルである。設立は、03年。今年で創設8年目を迎える、老舗中の老舗である。そしてまた、極めて質の高いエクスペリメンタル系のエレクトロニック・サウンドを手がけるリー・ローズヴェア(Lee Rosevere)の諸作をリリースするレーベルとしても、ネットレーベル・シーンにおいては広く知られている。昨年の11月には、カナダのインディ・バンド、プラムトゥリー(Plumtree)が、94年にカセット・テープで発表したデビュー作“Flutterboard”の再発を行い、一部の好事家たちの間で大きな話題ともなった。この、どんなサウンドでも楽々と飲み込んでしまいそうな、どちらかというと雑食系の性質をもつHappy Puppy Recordsからの新作は、エクスペリメンタル系のインスト・ロック。しかも、これが、ちょっと驚くほどにレヴェルが高いものとなっているのである。
 スカーム(Scarm)は、ロシアのサンクト・ペテルブルクを拠点に活動するロック・バンドである。現時点で、彼らのMyspaceのページは、ちょうど改変の最中ということもあって、そこからグループのプロフィールなどの詳しい情報を得ることはできない。よって、スカームのメンバーの名前やバンドの編成などを確認する手だてが殆どないのだが、彼らのLast.fmのページにおいて、バンドのメンバーを写したものと思われる写真を見ることができる。だが、そこには、二人の青年の姿しか映っていないのだ。スカームとは、この二人組のことなのであろうか。もしくは、たまたま写真のフレームに二人しか収まらなかったということか。それとも、何らかの理由で、現在はこの二人だけで活動しているということなのであろうか。このあたりは、少しばかり謎である。スカームとは、一体何者なのだろう。そこが全くわからないために、逆に変な想像力を喚起されてしまう部分もあったりする。
 このスカームというバンド名は、どうやら汚物や廃棄物という意味をもつ俗語のようである。つまるところ、元々はクズやカスを意味するスカム(Scum)を語源とする若者言葉だったのではなかろうか。自らを汚物と名乗る、このセンス。かなり捻くれて屈折したものがあると言わざるを得ない。社会の周縁に棲息するクズやゴミによって奏でられるロック音楽。まさにそれは、常に中心に居座るメイン・ストリームに対するカウンターとして鳴り響く音である。ある意味では、そうした姿勢とは、若いロック音楽にとって宿命づけられたものでもあったはずだ。しかし、もはやそういったものも遠い過去の遺物となりつつある。スカームは、そんな伝統的なロックの宿命を、その名前からして積極的に背負い込もうとしているかのようだ。社会のクズでありカスであり、純粋にノイズであるところのピュアなロック音楽。おそらくは、そういったものを凝縮したサウンドこそが、スカームの目指している音楽の地平なのであろう。
 また、スカームのLast.fmを仔細に眺めてゆくと、彼らが今からちょうど一年前の10年の2月にインプロヴィゼーション中心のライヴ・レコーディングをまとめたライヴ・デモ作品を発表していたことを確認することができる。この全13曲を収録したセルフ・リリースのアルバムには、ロシア語で“Music From The Void”を意味するタイトルが冠されている。つまり、虚空や空白、空無からの音楽ということ。このタイトルは、スカームが、社会から完全に隔絶された真空地帯のような何もない場所で、まるで虚空に向けて汚物を投げつけるかのようにロック音楽を奏でているということを表しているようにも受け取れる。アンダーグラウンドに吹き溜まるクズやゴミによる、システマティックな社会に対するプロテストとしての、フリーフォームでエクスペリメンタルなロック音楽。その決して既成のロックの枠にすら収まりきろうとしない音は、確実に声なき声で何かを声高に訴えかけている。世界の全ては仮象であり、あらゆる認識はただの誤謬でしかない。一切は空無だ。スカームは、まさしく汚物の視点でヴォイドからの痛切な異議申し立てをしている。
 “Music From The Void”は、ほぼライヴでの即興演奏のみによって構成されている作品である。これを聴く限り、スカームは、オーソドックスなギターとベースとドラムからなる編成の3ピースのロック・バンドであるように思われる。フィードバック・ノイズを効果的に使用し、多彩な雑音を放出させるギターを軸に、細やかに展開してゆく演奏が、どこを目指すでもなくただただドンヨリと進行してゆく。その演奏は、徹底的に心地のよいノリのようなものを、やんわりと回避してゆく、アンチ・グルーヴ的な雰囲気をももっている。また、そこで唸りとも呟きともとれぬ感じで絞り出されるギターのフレーズ群は、どこかブルージーな響きを漂わせてもいるのである。ライヴでのスカームは、まさにつかみ所なく、何もない空白の場所からポロポロと零れ落ちてくるようなサウンドを展開する。だが、そこからは、実に生々しい質感の音が剥き出しになって溢れ出ている。汚物や廃棄物のように、そう簡単には素手では触れられないような独特の質感をもって。
(追記)スカームのBandcampのページに記された簡単なクレジットによって、このバンドのプロフィールが、ようやく少しだけ明らかになった。やはり、スカームはトリオ編成のバンドであったようだ。そのメンバーは、ギターのピュー(Pu_)、ベースのジム(JimM)、ドラムスのクリス(Kris)という三人。ちなみに、ギターのピューは、作品のミキシングやマスタリング等も手がけており、どうやら、このバンドのサウンド面での中心人物となっているようである。また、ベースのジムが、アルバムのカヴァー・アートを手がけていることも、そこでは明らかにされている。
 10年2月に発表されたライヴ・デモ作品から一年が経過し、遂に正式なスカームのレコーディング作品が登場した。おそらく、この“Several Minutes Of The Man”は、彼らにとっての初リリース作品となるのではなかろうか。こうした、これまでにLast.fmで即興ライヴのデモ録音を発表していただけの全く無名な若いバンドが、なぜか、いきなりカナダのネットレーベルから作品を発表してしまうのである。この、これまでの感覚を度外視した、突然で突飛で全く予想もつかない繋がり方こそが、ネットレーベル・シーンならではの醍醐味なのだ。つまり、ロシアで活動するバンドが、当たり前のようにロシアのレーベルだけから作品をリリースしないというところに、大きな意味がある。そこには、もう何の境界も存在していない。もはや、今の時代に垣根や枠組みを設けることなどは、何の意味もないのだから。全てはネットワークによって繋がっており、あらゆる場所が、常態的にここになる。そこに、こことそこやあそこの区別はない。言い換えるならば、それはまさに高速ネットワークによる全体的なヴォイド化が透徹した段階を迎えつつあるということなのかも知れない。既成の流通網を無化して、あらゆる全面的にアクセス可能な場所から音楽が噴き出しうる状況なのだ。まさに、スカームの音楽とは、真空地帯から噴き出す汚物である。ここでは、カナダのHappy Puppy Recordsが、その排出口の役割を引き受けている。
 11年2月6日にリリースされた“Several Minutes Of The Man”は、全7曲を収録したアルバムである。タイトルは、そのままある男の数分間を意味しており、スカームは、そこで、ある男が過ごす奇妙な一日の出来事を、断片的に音楽によって描き出してゆく。それはまるで、名もない男の乾いた日常を追った、(架空の超低予算な)独立系ドキュメンタリー映画のサウンドトラックのようでもある。ストーリーは、ある一日の昼過ぎから始まり、そのまま真夜中近くまで淡々と続いてゆく。どこか淀んでいるような流れが、時系列的に配置された七つのエピソードによって構成される。そのサウンドは、どこまでもカサカサで、乾燥しきった感触をもつ。そして、とてもザラついていて、どこか刺々しい。ふさぎ込み、沈み込むように孤独に漂う様相を表面的には見せているが、その内面には、暗く渦巻く巨大な内世界を抱え込んでいるようにも見える。そんな男の姿は、ドストエフスキー(Fyodor Dostoyevsky)の作品の登場人物と、少しばかり重なる部分があるようにも思われる。これは、ただ単に、スカームがロシアのロック・バンドだからなのであろうか。
 ある男の名もなきストーリーは、1曲目の“Mezzogiorno Tardivo”とともにスタートする。タイトルは、イタリア語で昼過ぎ、要するに午後を意味している。3分28秒。オープニングから、あまりにも気怠く立ち上がってくるギターの調べに、いきなり妙な重苦しさが漂う。そんな暗い重々しさとは対照的に、昼下がりの街中には眩いばかりの陽光が明るく降り注いでいる。男は、よろめくような辿々しい足取りで、午後の街並をかすめるように、ただただ身体を移動させてゆくだけ。行くあても目的も見当たらぬ空疎な歩行は、何度もぼんやりと停止を繰り返しながら、街路をさまよい続ける。時折、陽光に導かれるままに意味もなく小走りにもなる。次々と多彩な演奏を繰り出してくるギターが、やはり強烈である。しかし、野太い唸りから流れるようなフレーズまでを自在に行き来するベースの力量も、なかなかに物凄いものがある。実に渋いバンドだ。
 2曲目は、“Kis Nap”。ナップとは、うたた寝や昼寝のこと。キシュは、ハンガリー語で小さいという意味。タイトルは、おそらくちょっとした昼寝や小休止ということだろう。4分48秒。午後の日射しの中をふらふらと歩き回った男は、ようやく小休止のための場所を見つけて、気怠く心地のよい疲れの中で静かにうたた寝をし始める。しかし、眠りに落ちるとともに、すぐに灰色の不安が夢の中に立ちこめてくる。男は、何度も悪夢を振り払おうとするが、振り払おうとすればするほどに、暗い悪夢の淵へと落ち込んでいってしまう。刺々しく歪んだギターが男の眠りを苛み、午後のうたた寝は、瞬時にして苦々しいものへと変質する。どうやら、昼下がりの街では、男の身も心も休まることは決してないようである。
 3曲目は、“Desierto Floreciente”。タイトルは、スペイン語。おそらくは、そのままブルーミング・デザートという意味なのであろう。直訳すれば、花咲く砂漠である。しかし、これが、ブラッディ・デザートという含意をもつものであるならば、それは完全なる不毛の大地といった意味のタイトルとして読むこともできる。4分33秒。パーカッションのざわめきとフィードバック・ノイズが駆け抜けてゆく中を、どこかアラビアン調のイントロ部がにじみ出してくる。ジクジクと渦巻き立つように湧き上がる音の波。その危うい均衡を保っていた上昇は、大きく揺らぎ、弾け、倒壊する。中盤からは、その残骸たちが、半ば脱輪しかけながら疾走を開始する。欠陥気味の奇妙なグルーヴ感。ヨロヨロとふらつきながら、荒れた砂地の乾いた道を走り続ける。しかし、結局、最後はその道もろとも何もかもが砂山と砂埃の下に埋もれてしまうのである。午後の悪夢は、どこまでも続いている。
 4曲目は、“Der Nachauseweg”。このタイトルは、ドイツ語のデア・ナーハハウゼヴィークであるならば、家路を意味するものである。6分20秒。午後のうたた寝の夢から覚めた男は、静かにまた、とぼとぼと歩き出す。それは、いつも歩き慣れているはずの、家への帰り道。しかし、すでにしっかりと目は覚めているはずなのに、その街路は悪夢の中の砂漠の道の続きのように感じられる。全く関係のない別世界から流れ込んでくるような雑踏の声。淡々としたリズムに、即興的なギターのブルージーなフレーズが絡みつく。終盤にかけて、一気にスカームのアンサンブルは熱を帯びてゆく。歪んだ音色の混沌が勢いよく噴き出し、目の前の景色がザラついたノイズで掻き消される。夢と現実がごちゃ混ぜになり、内面に渦巻いていた暗黒が一気に男の頭上から降り掛かってくる。夕闇が迫る静かな街路。無事に家に辿り着けた瞬間に、男は、ようやく我に返る。夢と現実の狭間に、つかの間の穏やかさが戻ってくる。
 5曲目は、“La Fabrique du Silence”。タイトルは、フランス語で沈黙の製造を意味する。そこには深い静寂が存在する。6分28秒。家に戻った男を待っていたのは、冷たく静まり返った、沈黙に覆いつくされた空間。男の周りで空気が、妖しく渦巻き始める。蜷局を巻くように奏でられるギターの滴るようなフレーズに、何かが応答する。見えないはずのものが見えてくる。不気味なノイズが、そこここで弾ける。ぐにゃりとひしゃげてゆくギターの音色。捩じれながら歪んでゆく世界。フリーキーな雑音が交錯し、空間を突き破らんばかりに溢れかえる。男の意識は、とち狂った幻覚の底へとゆっくりと沈む。しかし、ふとした瞬間に、男は、再び我に返らされる。そこにあるのは、いつものこびりつくような静けさに覆いつくされた空間。逆流する時間。作られた沈黙が、空間を支配している。
 6曲目は、“Creperum”。このタイトルは、ラテン語で夕闇や暗闇を意味するもの。8分17秒。孤独な男の部屋にも、静かに夕闇が迫ってくる。沈黙は、次第に暗がりに飲み込まれて、黒く染まってゆく。ここでは、本来のスカームの姿であるところのインプロヴィゼーショナルな演奏が展開される。ひたひたと迫る闇のように、細やかな楽音の押し引きが、緩やかに流れを探り合う。そこに一つの方向性が生み出され、徐々に密度を濃くしてゆく。ひとつ目の山を越えて、さらに新たなパートが立ち上がる。囁きかけてゆくギターに、そっとビートが寄り添う。そして、波打つような深い暗闇が、突如牙を剥いて、孤独の淵に沈む男に襲いかかってくる。極限まで高まる緊張。刺すように突き抜けてゆくギター。意識は遠のいてゆき、幻覚の世界と現実の闇が反転する。どこまでもどこまでも深く沈んでゆく男。そこにあるのは、底無しの闇だけだ。静かな部屋に迫りくる夕闇。スカームのアンサンブルは、ひんやりと穏やかに、夜の帳へと消え入ってゆく。
 ラストの7曲目は、“Night Shift”。タイトルは、ご覧の通り、英語である。夜勤、もしくは夜勤労働者ということだろうか。7分33秒。夜の闇が、男も街も静寂も幻影も、何もかもを包み込む。その暗闇の底で、虚ろな現実と直面する男。容赦なく刻々と刻まれる時間が、波のように押し寄せてくる。朦朧とした意識と虚ろな瞳で、夜勤の仕事場へと赴く男。抜け殻のような足取り。ひたすらに単調な労働へと駆り立てられる夜勤労働者。男は、闇と幻覚の狭間で戸惑い、辿々しくふらつきながらも、いつものドロリとした機械的な動作の反復へと押し流されてゆく。粉々に砕け散る男の世界。夜勤の時空間に、もはや意識や幻覚が這い入り込む隙間はない。終盤、ゆっくりと液状に溶解しゆくスカームのアンサンブル。具体音の雑音が深くこだまする。男の生は完全に摩滅したが、刻々と刻まれる時間の中で、夜の闇は、いつものようにやがて白々しいほどに白んでゆくのである。
 以上が、“Several Minutes Of The Man”の全7曲によって描き出されるストーリーの簡単なあらましとなる。夜勤明けの男が過ごす、おそろしくストレンジな午後の時間。荒みきった日常が、スカームの徹底してドライなサウンドによって綴られている。巨大な闇を内側に抱え込み、不安と苦悩が黒々と渦巻き、その意識と無意識は完全に悪夢と幻覚に支配されている。孤独の淵に沈む男は、網の目の上を横滑りし、常にそこからすり抜けていってしまうのだ。時間の経過とともに深くなってゆく負の循環。そこから抜け出すことは、もはや容易なことではない。夜勤労働者として決して人目に触れることなく機械的な作業に従事する乾涸びた時間だけが、この男を、社会の最下層に寄生するだけのヒトとして生きることを容認してくれる。
 男が生きる日常において、ここに描かれた部分の裏側の、一日のもう半分は、ただ労働と睡眠とによって完全に黒く塗りつぶされている。そして、この夜勤労働者が労働と睡眠から解放された午後の日常もまた、次々と襲いくる悪夢と幻覚と静寂とによって、漆黒の闇や灰色の混沌に覆われ、苛まれ続けることになるのだ。ただ、これが共産主義の旧ソ連ではなく、国家的な資本主義経済体制へと移行した現在のロシアのバンドによって描き出されている日常の景色であることは、とても興味深い。掲げられる大看板が変わっても最下層の労働者の生にとっては、それほど大きな変化はないということか。いや、むしろ自由主義的な経済へと傾いたことで、逆に日陰は暗さを増し、悪化へと転じていった部分も少なくはないのだろう。社会の周縁や奥底に沈殿した者たちを取り巻く環境や状況は、より深刻なものになりつつある。そうした日常は、今や全世界的にどこにでも見られる当たり前の風景だ。終わりの見えない、暗く灰色の循環と反復を繰り返すだけの日常。そんな男の乾いた生が、実は、われわれの生きる日常の風景と、そう大差ないものであることに、おそらくきっと誰もがすぐに気づくことであろう。
 また、ここで各楽曲の曲名が、それぞれにバラバラな言語によって表記されているという点も、実に象徴的だ。イタリア語にフランス語にドイツ語にスペイン語に英語、そしてさらにはラテン語までが、そこでは使用されている。ここまでバラバラなのは、何故なのであろう。こうまでするということは、やはり意図的に統一感を欠いているものにしているということなのであろう。それは、まるで、この男の半日の行動そのものが、支離滅裂でバラバラなものであることを暗示しているかのようだ。明るい日射しの下で街路をうろつき、人目も憚らずに眠りこけ、悪夢にうなされ、家に戻っても静かに孤独の淵に沈んでゆくだけ。そして、いつものように黙々と夜勤に従事し、朝方に眠りにつき、再び午後の陽光の下でもんどりうつ。常に行き当たりばったりで、何の脈絡もないエピソードが現れては消えてゆく。時間に追い立てられ決まったサイクルの中をフラフラと漂うだけの日常は、あまりにもヒトらしさを失った生の様相を呈している。男のバラバラな行動は、まさにズタズタに破綻した現代人の生を映す鏡のようである。そのヒトとしてのまとまりを欠いた生は、どこまでも分裂症的に孤立してゆくだけなのだ。
 この深い闇に包まれた終わりの見えない悪夢から抜け出す道はあるのだろうか。スカームは、そのサウンドで汚物と廃棄物の視点から、にじり寄るように問いかけてくる。クズやカスが吹き溜まる真空地帯は、どこまでも闇に閉ざされたままだ。分裂症気味の男の頭上からも、やはり午後の陽光は燦々と降り注ぎ、その乾涸びた生を容赦なく照らし出す。そして、街路に落ちたその影が、うろうろ徘徊することになる。闇に沈み込み、幻覚の海に浮かび上がり、静寂の空間に宙づりにされる。夢と現の狭間に飲み込まれたままで、機械的に繰り返される日常の殺風景。
 気が遠くなるような没落の果てに、眩い暗転は訪れるのか。真っ黒く塗りつぶされ、闇に覆われた日常が、その底無しな沈み込みを止めるとき、街路に転がるゴミでしかなかった悪夢と幻覚に苛まれる生も全て崩壊してゆくのであろうか。その決定的で徹底的な没落の時に向かって、ただひたすらに男は冷たい静寂の奥底へと落ち続けてゆく。目的も、行くあてもなく、ただ落ち続けてゆくだけ。
 スカームが奏でるインスト・ロック・サウンドには、相当な深みがある。若いバンドとは思えぬほどに落ち着いた渋い音を醸し出したかと思えば、豪快な力技でノイズの大波を立ち上がらせたりもする。非常にシンプルな音の構築に徹しつつ、実に味のある音楽を生み出すことのできるバンドである。汚物や廃棄物の吹き溜まりを攫うような、極限までカサカサに乾ききった音。そのドライな視線は、日常の奥底に隠されているものをグリグリと抉り出してゆく。スカームの音の根底に常にある、凄まじいまでのヒリつくような手触りは、なかなかに得難い個性である。インプロヴィゼーションを軸に組み立てられている自由度の高いアンサンブル、極めてポストロック的である視覚的/映像的で細やかな語り口、そして何よりも自在にノイズを表現として操る力量の豊かさが素晴らしい。この“Several Minutes Of The Man”を聴く限り、スカームは、今後の活躍が本当に楽しみなバンドである。おそらく、これからも恐ろしく完成度の高い作品をものにしていってくれることであろう。そんな、若きロシアの注目株、スカーム。まずは、この作品で、その琴線を棘でギリギリと撫でつけてゆくようなサウンドに触れてもらいたい。とても暗い音世界ではあるが、そのずっと先には、今はまだ見えなくとも必ずや光がある。いかなる最悪の悪夢といえども、瞬間という真空地帯(Minutus)までは、黒く塗りつぶすことはできないはずだから。(11年)

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