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<<   作成日時 : 2010/12/30 23:00   >>

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aym: franshitai
MiMi Records mi160

画像 ポルトガルのネットレーベル、MiMi Recordsからの新作。aymによるアルバム“franshitai”である。リリース日は、10年12月13日。
 aymは、岡山のアユミ・ドイ(Ayumi Doi)によるソロ・プロジェクトである。通常、ドイは、翳という名義で活動を行っているようだ。しかし、今回のリリース作品は、aymによるものと公式には発表されている。これは、もしかすると、ポルトガルのMiMi Recordsが、アーティスト名の漢字表記には対応していないために、次善の策としてaym名義でのリリースになってしまったものであるのかも知れない。基本的に、この“franshitai”という作品は、翳として制作されたものであるようだ。よって、ここでも、リリース元のアーティスト表記とは若干異なってしまうが、翳による作品として、本作を紹介してゆきたいと思う。
 “franshitai”は、全8曲を収録した作品集である。作品全体の長さは、約30分。非常にコンパクトな形にまとめられたアルバムとなっている。ただ、作品の外観としては、ややコンパクトにまとまってはいるものの、その内容は、翳のもつ相当にオルタナティヴなシンガー・ソングラーター的資質が炸裂した、なかなかにヘヴィなものと相成っている。約30分に凝縮された、ただならぬ重さである。そこからは、尋常ではない奥深さや、得体の知れない凄まじさも、フツフツと止めどなく湧き上がってくる。これは、かなりショッキングな作品だとも言えるかも知れない。この風変わりな音楽とサウンドを耳にして、全く衝撃を受けずにいられる人がいるとは、到底思えないのである。
 翳が、自らの世界に深く沈潜して掬い取り、吐き出してくる音楽は、どこか奇妙な形象をもって現実の世界へと浮かび上がってくる。それは、変に歪んでしまっている異形の音楽である。だが、その歪みこそが、翳の音楽世界に本来的に備わっている特性そのものの表れであるのだろう。自らの奥底にあるものを、そのままに表せるというのも、間違いなくアーティストとしての才能である。しかも、既成のスタイルにそれを委ねたり、変に取り繕うことなく、歪みをその歪みのまま形にして表せる透徹したピュアネスは、相当に希有な才能だといってよいに違いない。
 そのサウンドは、ローファイ・フォーク/宅録フォークやフォークトロニカの系列に属する、非常にパーソナルなエクスペリメンタル・ミュージックといえる。しかし、フォークとして括るにしても、エレクトロニカとして括るにしても、かなりオルタナティヴで、その範疇における最も辺境に位置する音となりそうだ。どこに置いても決してど真ん中にはならず、中心からズレ、フラフラと逃れていってしまう。翳の音楽には、ちょっと他には類を見ないような質感が確実にある。様々な伝統的なスタイルから語法や話法として引いてきている部分も少なくはない(素朴な音楽だけに、その骨格や内蔵は透けて見えやすい)のだが、それらは必ず変てこな混ぜ合わせ方をされていて、とんでもない方向へと流れ出し、全く見覚えのないような場所に到達してしまう。そこが、もはや誰にも踏み込めない、深い闇と不思議な静寂に包まれた翳の音楽が掬い取られる場所なのである。
 リリース元であるMiMi Recordsのフェルナンド・フェレイラ(Fernando Ferreira)は、“franshitai”の解説において、そのサウンドをインディートロニカ、またはドリームポップとして紹介している。流石はフェレイラだ。これは、なかなかに鋭く深い指摘だといえる。ドリームポップとは、まさに言い得て妙である。夢と一口に言っても、それは、決して心地のよいものばかりではない。また、フワフワと夢見心地になってしまうのも、大概は実際に夢見ている時ではなく、目覚めている時なのである。夢見る際に見る夢には、どこか居心地の悪い夢もあれば、後味の悪い夢もある。また、夢見ている最中に、どうしても違和感を覚えてしまう夢もある。そして、夢の中では、ほとんど現実感のない、経緯や辻褄などを度外視した、本当におかしなことが必ず起こるのだ。そんな、決して納得のゆく説明のつかない、奇妙な夢を思わせる音楽としての、ドリームポップという意味でなら、これほどそのタームにぴったりな音楽はないような気もする。そこに迷い込んだ瞬間から、何ともいえない違和感を痛いほどに覚えさせられてしまうドリームポップ。翳の音楽は、間違いなく、そんな呼び名に相応しいもののように思える。
 MiMi Recordsは、ポルトガルのコインブラを拠点にリリース活動を行っているネットレーベルである。そのリリース作品は、エクスペリメンタル系のエレクトロニック・ポップ〜エレクトロニカを中心に展開されている。そして、このMiMi Recordsは、日本のアンダーグラウンドなエクスペリメンタル・ミュージックのアーティストたちの作品を、広く世界に向けて紹介していることでも、とても高い定評を得ている。思えば、カエデ・ミラ(Kaede Mira)、リリー・ヒラカワ(Lili Hirakawa)、オキュロス(oculoss)、アンティパス・グループ(Antipas Group)など、ここで過去に紹介した日本人アーティストの大半は、このMiMi Recordsと縁のある人たちであったような気もする。
 アンダーグラウンドの全く無名のアーティストの作品が、唐突に遠く離れたポルトガルのネットレーベルから次々と登場する。それを見つける度に、いつもいつもハッとさせられてしまう。同じ日本に居ながらも、全く知らずにいたディープな日本の音楽の情報を、海外のネットレーベルからのリリースで知るというのは、なかなかに奇妙な感覚だ。しかし、毎度のことながら、MiMi Recordsは、本当に目敏く知られざる日本の良質な音楽をチェックして取り上げ、リリース作品として紹介してくれる。この翳による不思議な音楽も、MiMi Recordsによってリリースされていなかったら、全く耳にする機会は訪れなかったかも知れない。そういった意味では、MiMi Recordsの功績は、極めて大きいといえる。もしかすると、MiMi Recordsが、日本のアンダーグラウンドなエクスペリメンタル・ミュージックのシーンに及ぼしている影響も、決して少なくはないのではなかろうか。ともするとアンダーグラウンドに埋もれがちであった知られざる才能に、全世界に向けた作品のリリースの場を提供しているのだから。そうした業績によって、局地的にでも活性化した部分は決して皆無ではないだろう。何かが動くことにより、そこに相互作用や交流が生じる。間違いなくMiMi Recordsの存在は、そうしたネットワークとコミュニケーションの重要な軸となっている。われわれは、その網の目の末端で、グローバルなネットレーベル・コミュニティがもたらしてくれる大いなる恩恵に与っているわけだ。
 “franshitai”とは、まさに腐乱死体のことなのであろう。もしくは、内面にある「腐乱したい」という意思を表したものなのであろうか。どちらにしても、あまり気持ちのよいタイトルではない。実際に腐乱する死体を前にしたら、直視できずに思わず目を背けたくなるであろうし、その異様な形状や臭気に吐き気をもよおしてしまうかも知れない。だが、ひとつの生き物が死に至り、死体となって腐乱することは、どの生き物にとっても避けることのできない定められた運命である。そして、ひとつの生き物は腐乱の果てに遂に骨だけになり、その肉体を跡形もなく消してしまう。だが、その消滅によって、次の世代の生き物が生きるため場が、そこに生まれるのだ。腐乱死体とは、ひとつの生の死後の状態ではあるが、ほかの生にとっては生の場そのものを予告する徴でもある。ひとつの生と死が死後の状態にあることは、もはや、ただ死の境地にある状態よりも限りなく生に近い存在だといえるのかも知れない。腐乱した死体が、吐き気をもよおさせるのも、その感覚することのできる形状や匂いが、全く実感することのできない死の境地にとどまって存在しているものよりも、どこか身近に感じ取ることのできる近さゆえなのであろう。
 ここに横たわっている“franshitai”も、死の深淵にとどまっているものとして存在しているのではない。かつての生の痕跡を腐乱してゆく形状や匂いとして発散し、残酷にも死後の場に抉り出されてしまったものとして、ここに在るのだ。つまり、ひとつの生の特殊な形態である腐乱する死体が、翳による全8曲の“franshitai”という形で、ここにさらけ出されているのである。“franshitai”の音楽とは、いかなる形状や臭気よりも身近に感じられるものであるかも知れない。そこでは、もはや目を背けることも、吐き気を抑えることもできない。音とは、容赦なく感覚神経に襲いかかってくるものだから。そんな、目を背けさせ、吐き気をもよおさせる感覚を与えることによって、はじめて、この“franshitai”の全8曲は、ここに(死につつ生き、生きつつ死んでいる)存在として在ることの可能性に与るのであろう。
 ひとつの生と死の彼方から発せられ此岸に響いてくるような“franshitai”の楽曲は、それを聴く者を、とても不安にさせるようなものばかりである。あちこちから聴こえてくる、雑然とコラージュ的にまぶされた日常のノイズ群を、それとして認識することで、ようやくハッと我に帰る。そうした生の場と直接的に結びつく雑音によって引き止められることがなかったならば、そのままおかしなところ(生と死の狭間)に迷い込んだままになってしまいそうな音楽なのである。
 そのサウンドは、ウニョウニョグニャグニャしていて、どこまでも深く沈み込んでゆくようで、いつまでも煮え切らずに、浮くでもなく沈むでもなく、ただウダウダとその辺を漂っている。その如何とも判別しがたい佇まいが、聴く者を不安にさせてやまないのだ。そして、内蔵に溜まった消化不良の痼りのようになって、いつまでも頭や心の片隅に引っ掛かり続ける。腐乱する死体がもたらす不安は、そうやって決して取り除かれることがないままに、ズルズルと沈殿してゆくのである。
 翳の音楽は、かなり独特でオルタナティヴなものである。その完全にひとりきりでひっそりと紡ぎ出されている雰囲気をもつサウンドは、ローファイ・フォークや宅録の実験エレクトロニカとして基本的にはカテゴライズできるものであろう。そして、そのベースとなる土台の上には、ジャンクやノイズ/アヴァン・ギャルド、サイケデリック・ロック、プログレッシッヴ・ロックなどからの幅広い影響を感じさせる、細切れにされた音要素の断片を微かに聴き取ることができる。
 3曲目の非常に実験的なインディトロニカ組曲“a_dieu”において、翳は「嘘を歌うのはやめにしよう」と、ひどくまともなことを歌う。この楽曲は、今にも消え入りそうなアコースティック・ギターの弾き語りの形式でスタートする。しかし、それはほんの冒頭部分のみで、途中からは、いつになく力強く内面の奥底から感情が湧き出てくるような弾き語りスタイルの曲調に切り替わるのだ。ただし、それも楽曲の中盤までであり、ひとしきりギターがかき鳴らされ、心情を吐露するような言葉が滔々と吐き出された後は、一瞬の静寂を挟んで、染み入るようなピアノの音を軸とした後半部が、ヨレヨレとメランコリックに揺らめいて全体を覆いつくしてしまう。あの一瞬の力強さが、まるで何もかも儚い嘘か幻であったかのように。
 この楽曲においてハッキリと聴き取ることのできる「嘘を歌うのはやめにしよう」という歌詞には、とても強く引っ掛かるものがある。このやや強めに歌われる歌詞には、実際の恋愛の経験や体験を、携帯メールで友人と会話する際に使用するような平易な言葉で綴って歌うという、人気女子大生シンガー、西野カナの発言を、どこか連想させるものがあるような気がする。そんな西野の歌は、その真に迫ったリアリティのある内容からか、同世代の女性たちから絶大なる支持を得ているという。きっと、西野も「嘘を歌うのはやめにしよう」という翳が歌っている歌詞と同様の思いから、自らの人生の中で本当にあったことだけを歌うという、徹底してリアリズムを追求する作詞作曲の方法にいたったのであろう。
 だが、実体験をそのまま歌詞にするとしても、そこに全く嘘が無くなるということはないはずである。現実を直視して、それを嘘なく言葉にできる者がいるだろうか。尤もらしく語る者の言葉ほど、嘘にまみれているということを、われわれはすでに経験からよく知っている。どこかに何らかの嘘がなくては決して歌にはならないし、突き詰めてゆけば、歌われるものとは全て本当らしい嘘でしかないのである。おそらく、本当に嘘を歌うのをやめてしまったら、歌うことが無くなるだろう。歌にならない歌や、歌として歌えない歌は、歌ではない。そして、それを歌おうとしても、ただの個人的な体験や経験の報告にしかならないであろう。ただし、完全にオフマイク気味な翳による殆ど聴き取れないヴォーカルは、嘘を歌わないようにしようとすること/嘘を歌うのはやめにしている歌に対する、ひとつのパラドクスであるようにも思えてくる。そこには、何ともいえぬ醒めきった視線が感じられる。
 この作品全体的にいえることであるが、翳のヴォーカルは、かなり聴き取りづらい。元々がローファイな宅録フォークのスタイルのプロダクションである上に、間違いなくヴォーカルは意図的にオフマイク的に録音されていて、それを補正するためのミキシングもエンジニアリングもなされてはいない。逆にいえば、より聴き取りにくくするような音の処理がなされているようにも思えてくるのだ。だが、ノイズや雑音のヴェールの向こうに隠された、微かに聴き取れるヴォーカルは、実は、かなり美しい歌声であったりする。その澄んだ優しい声には、隠してしまうのが惜しいほどの魅力が感じられる。やや古い喩えになるが、D-dayの川喜多美子の歌声を彷彿とさせるような可憐さがあり、そこには聴く者の耳を惹きつける雰囲気が十分にある。そして、この両者は、ともにシンガーとしてのタイプも似通っている。つまり、歌手としては決して驚くほどに上手いほうではないが、その絶妙な味わいのある歌唱スタイルや魅力のある歌声だけで聴かせることのできるタイプなのである。そうした独特のスタイルや声質をもつことも、ひとつの立派な才能であるに違いない。
 また、その音楽のベースの部分を仔細に覗き込んでゆくと、翳は、素朴なとてもよいメロディを紡ぎ出す、かなり優れたシンガー・ソングライター的な資質をもつアーティストであることもわかってくる。ある意味では、至極真っ当なフォーク・シンガー・タイプの人であり、伝統的なスタイルを踏襲した日本ならではのフォーク・ソングを書ける人なのである。だが、それが当たり前に普通の弾き語りスタイルで歌われないところに、現在の孤独なフォーク・シンガー・タイプのアーティストが抱えるディレンマや懊悩の深さがにじみ出してようにも思える。もはや連帯やプロテストのためのフォーク・ソングなど遠い過去の思い出でしかなく、奥の奥まで孤独の淵を覗き込むような曲作りの作業、そして楽器やPCなどの機材との格闘は、結果的にあらゆるものからの断絶を自らに刻印する密室の儀式と化してゆく。そのサウンドを覆っている、ゴチャゴチャのザワザワとしたノイズのヴェールの向こう側には、果てしなく深い暗黒がどこまでも広がっているのが、微かに透けて見えている。
 そして、そこにもう一点付け加えておきたいことがある。翳のサウンドを観察してゆくと、微かに聴こえるギター以外の各楽器のアレンジなどにも、なかなかに素晴らしいものがあったりすることに気づかされるのだ。特に鍵盤楽器のバッキングのつけ方に、かなり渋いものがある。ローファイ系のやや荒んだ手触りのサウンドの中に、しっかりと古典的なポップスのマナーを踏まえた正統派の音の様式がひそんでいる。注意していないと殆ど聴き取れず、確認できないような、様々な音のうごめきの奥底に。ただ、そんな全く目立たない部分だからこそ、何かの拍子に急に耳に飛び込んでくると、びっくりするほどハッとさせられてしまったりもするのである。おそらく、翳は、相当に色々な音楽作品を真摯に聴き込んでいるのではなかろうか。才能ある者というのは、参照するものを選ぶ趣味もよいものだ。きっと、翳も、その例外ではない。
 しかし、確かな資質や才能をもちながらも、それらの大半は、コラージュされた具体音やエレクトロニックなノイズの陰に隠されてしまう。オフマイク気味なヴォーカルをはじめ、淡々と奏でられる楽音も、少し遠く離れた場所から距離を置いて響いてくるように聴こえる。全ては、ノイズや雑音の底で、ユラユラと闇夜の蜻蛉のように揺らめいているのである。それは、決して、大っぴらに外側へ向けて鳴り響かされることのない音楽なのだ。そのヴェールによる覆いは、ある種の照れ隠しなのであろうか、もしくは、絶対的な自信の無さや自らの音楽的才能への不信からくるものなのであろうか。翳は、その音楽(または、音楽性)の全体像を、あまりハッキリと見せることはない。そんな、妙に引っ込み思案な部分も、翳の音楽やサウンドがもつ大きな特徴といえば特徴であるのかも知れないが。これは、ある程度意識的にヴェールの向こう側に隠されている翳という深淵を覗き込むようにしないと、何も響いてこないし聴こえてもこないような音楽である。
 そうした“franshitai”における白眉となる楽曲を挙げるとするならば、やはり7曲目の“zsk_zen”となるであろうか。これは、かなり強烈な一曲である。まずは、どこかあの“Tomorrow Never Knows”を思わせる雰囲気の、エキゾティックなサイケ風味をムンムンと漂わせながら、少々厳かに滑り出す。しかし、この冒頭の段階から、明らかに崩れかけて破綻し解れているムードは濃厚に感じられる。そこで鳴っている全ての音は、端々から絶妙にズレて、まるでズルズルと横滑りしてゆくようである。そんな不安定な音の浮き沈みの中を、線の細い頼りなさげな翳のヴォーカルが、フラフラとよろめきながら歩みを進めてゆく。そのままユラユラと進行してゆくだけであれば、取り立てて騒ぎ立てることもないのかも知れない。この“franshitai”の楽曲は、ほぼそんな楽曲ばかりであるのだから。しかし、かなりヘロヘロになっていたメロディは、見るからにグズグズと崩れてゆき、遂に楽曲の中盤で、静寂の沼地へと沈み込んでいってしまうのだ。そして、そこからさらに翳の歌は、全く予想のつかぬイリュージョン系の展開をみせてゆくことになる。ガタガタとズレていったグズグズが、淀んだサウンドの奥から再びヌーッと頭をもたげてくるのである。そこから、ちょっと不格好に飛翔しつつ、思いもよらぬ未知なる地平へと不時着し、何ともいえない感動的なヘロヘロのフィナーレを迎える。これは、極めて奇妙なドラマ性をこってりと盛り込んだ、すさまじい名曲(迷曲)である。こんなにも逸脱したプログレッシヴでジャンクなローファイ・フォークが、かつてあったであろうか。悶々とした自家中毒状態から紡ぎ出された天然のアシッド・フォークといったところか。おそらく、世界広しといえども、こんな音楽は、この翳にしか作り出せないだろう。間違いなく。それだけ、ここには凄まじいまでにパーソナルで独特な歌と音の世界がある。
 翳の楽曲を聴いていて、フッと頭をよぎったものがある。それは、インドネシアのバンドンを拠点に精力的に活動するフォークトロニカ〜サイケデリック・ロック系のアーティスト、エツァ・メイシャラ(Etza Meisyara)の存在であった。メイシャラは、10年3月22日にジャカルタのパンク系ネットレーベル、StoneAge Recordsより、エレクトロニック・サウンドとローファイ・フォークを融合させた実験的なドリームポップの快作“Collapse”を発表している。ふたりがクリエイトしている音楽には、どこかしら共通するものがあるように感じられたのだ。完全な宅録スタイルで、ギターをメインにマルチ・インストゥルメンタリスト的な創作を、日々コツコツと繰り返していそうな雰囲気など、この両者には共通している部分が結構あるように思える。ただ、雰囲気が近いというだけで、実際の音楽性までもが酷似しているわけでは決してないのだが。
 そして、メイシャラが作品の表題に掲げていたコラプス(Collapse)というフレーズにも、妙に引っ掛かってくる部分があった。コラプス、つまり崩壊だ。翳の音楽にも、何かが崩壊していることを感覚させるものが確実にある。崩壊しているのは、音楽だろうか、社会だろうか、それとも人間だろうか。いや、より全体的に根源的な部分が崩壊しきっているのかも知れない。時代の精神が崩壊し、歴史が崩壊する。崩壊した瓦礫の上に、ひたすらに瓦礫が積み重ねられる。そして、その瓦礫の山はバランスを失い、再び大きく崩壊することになる。崩壊の上に重なる、さらなる崩壊。ひたすらに、その繰り返し。もはや、われわれの眼前には、崩壊の連続しかない。崩壊したまま投げ出されたものたちが、死体のように、そこに横たわっている。瓦礫のような社会。瓦礫のような人間。高く積み上げては、激しく崩れ落ちる。どこまでも、その繰り返し。未来は、崩壊の中にある。しかし、微かにでも未来への希望を、崩壊の果てに見出せるのならば、全ては瓦礫と化してしまえばよい。「ただ墓場のあるところのみ、復活はあるのだ」。
 翳の音楽は、ちょっと不安な気分にさせられるものであるが、この絶妙な揺らぎ感や居心地の悪さは、何ともいえずクセになる。できれば、今後もMiMi Recordsからコンスタントにリリースを続けていってくれるとよいのだが。日本のアンダーグラウンド・シーンに、こんなにも独特でストレンジな音楽が存在していることを、是非とも全世界の(心ある多くの)人々に知ってもらいたい。
 あらゆる有用なる神話や幻想の機能する場が崩れ去り、行き着くところまで行き着いた観のある現代社会(高度資本主義社会/高度消費社会)のガタガタになった骨組みの、さらにその奥底に鬱屈しているもの。そんな、見ようとしてもなかなか見ることのできない、まさに腐乱死体のように社会の正義や倫理によって隠蔽されてしまっている部分を写し出す鏡のような音楽が、ここにはある。ある意味では、表の世界に、さらけ出され、ぶちまけられることによって、このように徴をつけられた、おぞましきものは、大いなる意義をもち始めるともいえるのだ。翳の“franshitai”とは、まさにそうした目を背けようとする者や、臭気に顔をしかめる者の、鼻先へと突きつけられなくてはならない音楽であるのかも知れない。(10年)

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