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<<   作成日時 : 2010/11/25 22:00   >>

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Pet Slimmers Of The Year: ...And The Sky Fell
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画像 ペット・スリマーズ・オブ・ジ・イヤー(Pet Slimmers Of The Year)による二作目のEP。前作の“Pet Slimmers Of The Year”に引き続いて、今回もポストロック専門のネットレーベル、Lost Childrenからのリリースである。
 06年、バリー・ロジャース(Barry Rogers)によってUKを拠点として設立されたLost Childrenは、これまでに80を越えるポストロック〜エクスペリメンタル・ミュージックの作品をリリースしてきた。しかし、現在では、創設者のロジャースはレーベルの運営から身を引いており、10年の半ばからは、ベルギーのアントワープとカナダのモントリオールに在住するスタッフによって、よりワールドワイドな新しいサウンドや新しいアーティストたちの動きへと目を向けた、新体制での活動をスタートさせている。
 本作のリリース日は、10年6月27日。おそらく、ロジャースが関わっていた第一期のLost Childrenの最末期の音源となるのではなかろうか。
 ペット・スリマーズ・オブ・ジ・イヤー(以下、PSOTY)のデビュー作であったLost Childrenからの前作から数えて、約一年半ぶりの新作となる“...And The Sky Fell”は、全5曲収録のEPである。そのサウンドは、前作と基本路線としては変わりのない、ヘヴィでラウドでキレのあるポスト・メタル・スタイルである。ただし、そこには一聴して、微かな音の変化らしきものを感じ取ることもできる。
 まず、バンドの音そのもの自体が、何ともいえない凄みとズッシリとした存在感に満ちてきている。初期のPSOTYにおいては、線の細い繊細な描写と激情の奔流にまかせて熱くほとばしるアンサンブルが、ハッキリとした好対称をなし、全体の構成にメリハリをつけるべく対置されていた。しかし、本作でのPSOTYは、細部に至るまでタップリと墨をふくませた太筆で、より豪胆かつ大胆に描き込んでゆくような力強い筆致を見せつけてくれる。太い筆で、そのまま繊細な部分までも表現しているのだが、決してそのためにメリハリが失われてしまうということもない。明らかにPSOTYの筆遣いの技量は、格段なまでに上達している。かなり、達人の域にまで近づいてきているといってもよいかも知れない。
 そこには、PSOTYならではの質感をもつ、独特のポスト・メタル的な貫禄が感じられるようにもなってきている。そして、そうした貫禄のなせる業であるのか、これまでのPSOTYのバンド・サウンドには見受けられなかった音の要素である、人間の声までをも、そこに聴くことができるのである。
 前作でのPSOTYには、ギターとベースとドラムスという三つの楽器からなる最もミニマムにしてベーシックな編成の演奏による、極めて密度の濃い楽音のみで全てを表現しようとする、高い志と気概に燃え盛る部分が間違いなくあった。時に雄弁すぎるほどに全てを語ってしまうヴォーカリストの歌唱や、歌詞の言葉による(補足的な)意味の付与などに一切頼らぬ、ロック以降/ポストロックのひとつの表現形態である、インストゥルメンタルの形式で光景や情景などを、あるがままに描き上げてしまおうとする方法論。これに対する、執拗なまでの拘りを貫こうとする姿勢が、当時のPSOTYのサウンドには充満していたのである。
 だが、そうした志や気概をもつことは、決して悪しきことではない。バンドとして前向きに音楽表現に取り組み、より高度な地平へと向かおうとしているという意味では、極めて健全な姿勢だといってよいだろう。すでに表現の形式としては常套句だらけとなってしまった、既成のロックンロールやハード・ロック、ヘヴィ・メタルと決別して、PSOTYならではのサウンドの獲得を目指すのであれば、その積年の手垢まみれの表現の枠の外側に飛び出してしまうしか、もはや打つ手はない。
 そうしたロック音楽の表現に対して意識的なバンドにとって、既成の枠を飛び出していった先が、いわゆるポストロックと呼ばれる新たに開拓された地平であったということなのだ。まあ、それぞれの志や気概を執拗に表現しながらも、偶然にも音の形式や傾向がダブってしまったり、飛び出した枠の外にもさらにまた枠があったということは、ややアイロニックなことの次第であるような気もするのだが。
 とにもかくにも、前作でのPSOTYには、何が何でもポストロックしようとする強い意気込みが満ち満ちており、それが少々パラドキシカルな形ではあるがロック的な熱の放射となって、ヘヴィに疾走している音に表れてしまう部分があったように思われる。ただ、前作のセルフ・タイトルEPは、PSOTYにとっての記念すべきデビュー作であったのだ。これを、全く意気込まずに平然とやってのけろというほうが、かえって難しいのではなかろうか。まだまだ、その当時は、PSOTYも若かったのである。
 そうしたポストロックの方向性や方法論も、瞬く間に新たな枠に囲い込まれ、ロックの常套句の内部に包摂されてしまうのならば、一段高いポストロックの地平へと飛び出そうと志すものは、常に何らかの新しい策を講じてゆかなくてはならなくなる。だが、ギターとベースとドラムスという恐ろしくベーシックにして極めてロック的な編成での演奏は、深い伝統をもつロックンロールの呪縛から完全に逃げ切ることができるのであろうか。執拗にポストロックしようとする姿勢も、もはやそれがそのままで新しい何かを生み出したり、新たな音の地平を開拓するようなことは、ほとんどない。では、そこにあるロックに対して意識的なバンドの燃え盛る高い志や気概は、どこへ向かうべきなのであろうか。
 PSOTYのそれは、どうやら、ひと味違ったメロディ志向という、一種の先祖帰り/意趣返し的な方向性を目指すこととなったようだ。その試行錯誤のひとつの結果が、バンド・アンサンブルのみであった音の世界への人の声の導入であり、そこにシンプルなコーラスを付加することによる、これまでになかった新たなメロディ表現の獲得であった。ただし、人の声とはいっても、明確に歌のメロディがあり、あらかじめ用意された歌のパートでヴォーカルを担当するメンバーが、あれこれ情景や光景を説明するように歌詞を歌い上げてゆくわけでは、決してない。
 PSOTYの音楽においては、人の声もまた、楽音の一部であるかのように取り扱われている。声のパートを担当することは、担当楽器を演奏することと、取り立てて変わりはない。そのコーラスは、バンドのアンサンブルが進行してゆく最中に、別の次元から降ってくるかのようにオフマイク気味に挿入される。それはまるで、PSOTYの演奏に、微かなメロディを奏でる四番目の楽器が加わったかのような響きをもっている。確かに人の声ではあるが、それは歌詞やメロディを歌うヴォーカルではなく、まさに声そのものであり、ただの極めてシンプルなコーラスだ。PSOTYにとって、声によるコーラスとは、楽器演奏の一部だと考えてしまっても、全く差し支えはないであろう。
 この新作でのPSOTYは、穏やかに流れるような演奏を、実に印象的かつ効果的に取り入れている。前作では、次々と激流が襲いかかってくるような、力で押し切らんとするスタイルが強く前面に出ていた。確かに、そこにはキッチリとしたメリハリや緩急があり、ただ単に力技な演奏だけに終始していたわけではないのだが、全てが熱い音の激流に集約されていっているような印象を受けたのである。それが、本作では、激流と激流の間に、極めて滑らかな流れとなって表出されてきているのだ。今回のPSOTYは、静から動へ、柔から剛へ、よりスムーズに移行してゆく。メリハリというよりも、ひとつの音の渦が、まるで生き物であるかのように密度を高めたり緩めたりしている感じだろうか。当然、音の密度の高い部分では、流れは速く激しくなり、密度が緩んでいる箇所では、穏やかに流れることになる。
 明らかにPSOTYのサウンドは、よりメロディアスになってきている。そこには、非常に美しい音の流れを見ることができるのだ。ただ、そうしたメロディ志向も、大袈裟なドラマ性とは、一切縁がないのである。人の声によるコーラスはあるが、何かを説明するような言葉はなく、そして饒舌に語り尽くすようなお節介なまでに暑苦しい楽器の演奏もない。全ては、ただただひたすらに淡々と流れ、穏やかに緩急をつけながら流転してゆく。そして、そのいたるところで、まろやかな叙情性が顔を出してきているのだ。激しい音のほとばしりによって情感を表出させるだけが、PSOTYのポストロック/ポスト・メタルの表現の核ではない。それは、より多面的になってきている。また、前作にあったような、一本調子の冗長で難解な部分も、今ではすっかり影を潜めている。
 PSOTYは、ゴワン(Gowan)、ヴィンテン(Vinten)、マッケンナ(McKenna)とシンプルに名乗る3人のメンバーからなるスリー・ピースのバンドである。前作のリリース時と同様に、現在でも誰がどの楽器の演奏を担当しているのかは、明らかにされていない。そして、当然のように、本作で聴ける微かなコーラスも、誰が担当しているのかは全く定かではないのだ。これは、PSOTYの作品において、誰が何をして、いかなる役割を果たしているかを知ることは、取り立てて大きな意味をもつわけではないことを示している。聴かれるべきものは、全ての作業を終えて提示されたフィニッシュド・プロダクトだけであり、その制作過程における演奏者の働きかたや作品の背景にあるものが、そこで音楽として鳴るわけでは決してない。PSOTYを聴く。それが全てであり、本来は、それだけで十分なはずなのである。もしも、PSOTYが旧来通りのロック・バンドであるならば、より詳しく作品について当人によって語られ、その背景が明らかにされなくてはならないのかも知れないが。
 そこに鳴っている音だけを目の前にして、ジョンがギターでポールがベースだと鵜呑みにして信じ込むことは、もはやある種の共同幻想だといってもよい。また、そこにジョンやポールを聴こうとする時、ギターやベースの音そのものを聴くことと、それはイコールではなくなる。そのギターやベースが、たまたまジョンやポールによる演奏であることが、確かな確信もなく確認されるだけであるべきなのである。常に、ジョンとギター、ポールとベースが、そのマージー・ビートのサウンドにおいて、何の疑いもなく結びつけられてしまうことは、実は極めて危険なことだ。それを確認する手だてなど、何もないのだから。しかし、ロック音楽とは、そうした幻想の部分を実際に鳴る音になすり付けるようにして、どこまでも強化され深化させられてきた。ジョンやポールなどの永遠のロック・スターの存在は、ロック音楽の成り立ちにとって絶対に欠かせないものである。そして、それと同様に、その幻想の音もまた、もはや決して揺らぐことはないのである。
 PSOTYが貫こうとしているポストロック的な姿勢は、そうしたロックの幻想から、明らかに決別せんとするものである。幻想なきポストロックが向かう場所とは、まさに音の荒野でしかない。ロックすることでロックの幻想を強化してしまうことに繋がる、決して突き崩せぬロックの幻想の外側で、ポストロックすること。それが、決して自らの素性を語らず、決して常套句を歌わず、決してバンドの背景や音楽の背景を開示することのない、PSOTYの志と気概に貫かれた音が、飛び出してゆこうとしている地平なのである。それがいかなる荒野であろうとも、PSOTYは剥き出しの音だけで、その茫漠と荒涼に立ち向かうしかない。神話に登場する英雄、オデュッセイアは「誰でもない者」と名乗った。PSOTYは、ただ単に名乗りはするものの、その名前以外は何も明かさない。PSOTYのメンバーは、名前のある「誰でもない者」として演奏し、その音楽の一部となる。ロックの幻想を撥ね除けるために
 全5曲を収録した“...And The Sky Fell”の作品の長さは、約40分である。平均すると一曲の長さは約8分程度ということになる。基本的に、PSOTYの実に素っ気のない大作指向に、それほど大きな変化はない。本作における最長の楽曲は、軽く12分を越える。だが、PSOTYの楽曲は、そうした時間的な長さを、あまり感じさせない。本作より顕著なものとなってきた、PSOTY式の微かなメロディ志向と、それによって流れるような叙情性が芽生えてきていることも、そこに少なからずプラス作用として関与しているに違いない。3人のメンバーが一丸となったバンドのアンサンブルの音の塊が、大きなひとつの緩やかな流れを形成しつつある点は、本作の楽曲の特徴でもある。前作ではまだ、意図的に聴く者をはぐらかそうと、やや屈折した展開へと向かう部分も見受けられた。しかし、ここでは、全てが太筆で流れるように描き上げられてゆく。そこにはもう、小賢しい小細工が入り込むような余地などないようにも思われる。
 1曲目は、“Moravka”。6分17秒、いきなりハイ・ヴォルテージに畳み掛けてくる導入部が、延々と繰り広げられる。重いギターが大地を削り取るように、地を這うリズムとともに、ゆっくりと突き進んでゆく。その闇雲な突撃が、正気を取り戻すように、確かな足取りに近づくとともに、ようやくフレーズの渦の奥底からメロディが湧き上がってくる。静けさに支配された、見渡す限りの荒野に、忘却の彼方からメロディが戻ってくる。微かな歌声、コーラスが聴こえる。そして、ふいに立ち上がった鋭敏なギターの音色が、一気に駆け上がり、天空に突き刺さる。そのままの流れで、ジワジワと音の密度を高めてゆく演奏が、見渡す限りの荒野をゆっくりと満たしてゆくように広がってゆき、最終的には導入部で示されたレヴェルにまで戻ってくる。モラヴカは、英国で古くから醸造されている由緒あるラガー・ビールの名称。その源流を辿ると、チェコ東部の誇り高きモラヴィア人の地にいたる。モラヴィア・シレジア地方には、モラヴカ川が流ている。また、現在でもモラヴカの醸造にはボヘミア北部産のホップと酵母が使用されているという。ただ、この楽曲では、モラヴカというビールの醸造というよりも、欧州東部の歴史の激動に揉まれてきたモラヴィア人の精神性のほうに触れられているような気がする。
 2曲目は、“The Faith Of Our Hate (Heaven’s Gate Part One)”。9分43秒。嫌われ者への信仰、第一の天国の扉。静かなアルペジオがフェイド・インし、転げ跳ねるようなドラムとベースがリズムを作り出し、ギアが入ったところで一気にアクセルが踏み込まれる。グングンと上昇してゆく回転数。ノイジーなギターが、分厚くほとばしる。だが、そのまま低く重くドライヴして、突き抜けてしまいそうになる寸前に、あの扉の目の前で急停止させられる。一瞬の静寂の後に、ゆっくりと再び転げるようにリズムが立ち上がってくる。穏やかな叙情性に満たされたパート。その奥底に忍ばされていた灰色の感情が、次第に頭をもたげ始める。徐々に切迫してゆく空気。回転数を上げながら、逡巡の回旋が繰り返される。煮えたぎる憎悪は、牙を剥いたギターの音色となって、遂に閉ざされた扉に音の大津波となって襲いかかるのだ。憎しみが渦巻く、ヘヴィなリフの反復。正面から対峙せぬままにせめぎあう感情。ふたつの互いに相容れぬ世界。堅い信仰の扉は、そのノイズの嵐の前に決して開かれることはない。やがて、ゆっくりと音の波が遥か彼方へと退いてゆく。
 3曲目は、“Weir”。8分34秒。堰。穏やかに流れる導入部が、延々と続く。繊細なアルペジオと、淡々としたリズム。次第に、理性による抑制が解かれ、激情の轟音が、静けさの中に染みだしてくる。歪んだ音色の引っ掻き回すようなギターのリフが暴れ回り、幾段か階段を上ったところで、再び抑制の理性が優位に立つ。せき止められる奔放な流れ。しかし、限界を越え出た流れは、もはや以前と同じ流れではない。より穏やかに静けさに沈み込みながらも、微かに繊細なメロディを煌めかせる。そして、再びそれは抑制の壁を突破してゆくのだ。超克に次ぐ超克。サウンドは、さらに高められ、鋭さを増してゆく。大らかにして重い歪んだギターが、理性を粉々に打ち崩し、その破片は渦巻くノイズのうちに掻き消されてゆく。我が物顔で突き進む轟音のアンサンブル。全ては、決して止まることなく流転し続け、生成を繰り返す。何ものも、それをせき止めることはできない。
 4曲目は、“...And The Sky Fell”。2分32秒。そして、空が堕ちる。じっくりと音を描き込んでゆく、大作指向のPSOTYには珍しい、3分にも満たない短い楽曲である。ただ、時間的には短いが、そこで描き出そうとしているものの全容量は通常の楽曲と大差はないようなので、その音の凝縮度は生半可なものではない。まず、引きつけられるだけ引きつけておいて、最初の重い一発が放たれる。そして、巨大な怪物が練り歩くように、重々しい轟音がゆっくりと前進をしてゆくのだ。ひしゃげるようなギターのノイズは、音塊の怪物の軋むような歩みに、絶叫のように絡み付いて響き渡る。そして、長いフィードバックは、そのまま最後の一曲を誘いだす呼び水となる。
 5曲目は、“I Am The Ocean”。12分19秒。私は大海。緩やかにせり上がってくる淡々としたリズム。長いギターのトーンが、折り重なり雲のように流れてゆく。重々しくうねるフレーズが、局所的に湧き上がり、再び穏やかな流れへと立ち戻る。そこに、高いトーンのコーラスが、吹き渡る風のように舞い込み、より激しくうねるフレーズを呼ぶのだ。煌めくコーラスとヘヴィなギターが、嵐の如く吹きすさぶ。せめぎあい引きずるようなアンサンブルから、有機的に絡み合うアンサンブルへの転調。そして、瞬間的に全てが止む。静かに寄せては返す、淡々としたリズムの波。大海に凪が訪れる。そしてまた、穏やかな風が吹き、微かにさざめき立つ水面。再び、天からの声が降り注ぐ。ゆっくりと波は沖へと走りはじめ、うねりを高めて突き進む。波が波を呼び、ハードなギターのリフが反復される。水も光も風も、そして遂には天をも飲み込んでしまう大いなる海。その深い深い歓喜が、情感豊かに12分を越える大作という形で表現される。
 PSOTYによるMyspaceのブログの記事によれば、本作は、10年1月の末にスタジオ入りしたバンドにより極めて短期間のうちに集中的に録音されたようである。だが、その詳細なスケジュールや録音場所などについての詳しい情報は、やはり一切明らかにされてはいない。また、PSOTYがツアーなどのライヴ活動を行っているという情報も全くないので、彼らの普段の音楽活動がいかなるものであるのかも見えてこないのである。そのように、バンドの実態そのものが謎めいたものであるため、どのようにして本作に収められている楽曲が作られているのかも、ちょっと見当がつかない。定期的なスタジオ(もしくはガレージやベースメント)でのリハーサルにおいて、地道にコツコツと作り出されているのであろうか。それぞれのメンバーが自宅で制作したデモ曲を持ち寄る形で作業が進むのか、3人によるラフなジャム・セッションを通じて一から曲作りがなされているのか。もしくは、PSOTYが活動の拠点としているピーターバラのアンダーグラウンドなライヴ・シーンにおいて、タイトなインプロヴィゼーションを繰り返す中で楽曲が形作られてゆくのであろうか。ただ、いくら想像してみても、どこにも答えはないので、実に厄介だ。
 バンドの背景や音の成り立ちの部分に関して、PSOTYには、非常にミステリアスな部分がある。だがしかし、実際に作品から飛び出してくる音は、そうした部分とは真逆に、恐ろしいまでにラウドでヘヴィな質感の轟音で鳴り響き、決してブレることなく真っ直ぐに斬り込んでくるのだ。まさに、そこには、音だけで勝負するという気迫と自信が満ちあふれている。そのような意味においても、このPSOTYとは、志と気概のバンドだといえるだろう。とりあえず、その音で、落とし前はつけているのである。
 今回の作品では、コーラス形式の歌声を初めてフィーチュアした楽曲を聴くことができる。その穏やかな叙情感のあるパートのアンサンブルにのる、やや上ずった感じのハイ・トーンなヴォーカルを聴いていると、個人的には、思わずYBO2(ワイビーオーツー、イボイボ)を思い出してしまったりする。オフマイク気味に微かに揺らぎながら漂っている、その歌声は、どこか在りし日の北村昌士のコーラスを彷彿とさせるのだ。いや、その天から降り注いでくるような声の感じは、まるで北村昌士が地上に蘇ったかのようにも聴こえる。
 PSOTYの唸りをあげるノイジーなベースと伸びやかなフレーズを奏で歪んだ轟音でのたうち回るギターの絡みは、まさに最盛期のイボイボの狂騒のサウンドそのものであるように思えてくる。ともにスリー・ピースという最小のバンド編成で、既成のロック・バンドの枠を越え出ようとする音楽的な姿勢を、傑出した音にして表現しているという部分も、どこか共通している。また、イボイボが、トランス・レコードより86年に発表したシングルのタイトルは、“空が堕ちる”であった。このタイトルの重複も、全くの偶然の産物なのであろうか。ただ、これが全くの偶然の一致でなかったとしたら、PSOTYのメンバーが、どのようにして日本のイボイボの存在を知ることになったのかという部分も、妙に気になってきたりもするのだが。
 今ではYouTubeなどの動画サイトを利用して、極めて手軽に、過去の恐ろしくアンダーグラウンドな音楽アーカイヴに触れることも可能になってきている。いや、そうした時代であるからこそ、これまでに(その情報の絶対的な少なさゆえに)あまり顧みられることのなかった、イボイボのような貴重な音楽遺産が、多くの人の目と耳に触れられるべきであるのかも知れない。遂に、本当に質の高いものが、正当に評価される時代がやって来たのである。
 おそらく、世界中のどんな人が聴いたとしてもイボイボの音楽は、相当に衝撃的なものであろう。例えば、86年のファースト・アルバム“Alienation”に収録されていた“猟奇歌”では、変則的な13拍子の演奏に合わせて、延々とあちらとこちらを行き来する和歌が歌われている。これはもう、どう聴いても普通ではない。また、その深い音楽性の面においても、洋の東西を問わぬ様々なアンシエント・ミュージック/トラッド・ミュージックが蒸し返される中に、突如としてアニメ『太陽の王子 ホルスの大冒険』の主題歌が挿入されたりするのだ。突拍子がないようで、どこかお茶目だったりするとともに、もはや、そこに冗談と本気の境い目があるのかさえ、定かではない。それは、正気を失っているものが正気な音の世界。
 今から20年以上も前の東京のアンダーグラウンドに異様な地響きとともに鳴り響いていた、ハイパー・スキゾなオルタナティヴ・ミュージックが、時空を飛び越えて、21世紀のポストロックのサウンドの中に息づいているのを耳にするのは、ことのほか楽しい。おそらく、ピーターバラの3人がイボイボを聴いたとしても、それは全く訳のわからない衝撃的な音楽だったであろう。そこには、欧州の音楽文化の中で生きる人間にとっては、全く馴染みのない音階の旋律やリズムが、たっぷりと含有されているであろうから。しかしながら、そこから受けた得体の知れない大きなインパクトは、高い志と気概をもつ3人が音楽へと向かう際に、既成の枠を突き破ったポストロックの地平へと突き抜けてゆくための契機や火種となったのではなかろうか。
 もしも、そこに何ら直接的な結びつきがなかったとしても、かつてイボイボが大いに参照していた欧州のトラッドやプログレッシヴ・ロックから、PSOTYの面々も多大な影響を受けているというケースは、充分に考えられる。ただし、イボイボとPSOTYという世代も活動場所もバックグラウンドも全く異なる、ふたつのスリー・ピース・バンドが、同じようなオルタナティヴな志と気概をもち、同じような音楽のケモノ道をたどって、全く同じ音の荒野の同じ空の下にたどり着いているという事実には、実に興味深いものがある。はたして、この“...And The Sky Fell”と“空が堕ちる”には、どのような繋がりがあるのだろう。もしくは、全くの無関係なのか。いずれにしても、あれこれと、この両者の関連について考えを巡らせることは、とても楽しい。
 PSOTYは、この二作目のEPにおいて、前作よりもさらに充実したPSOTYのサウンドを描き出すことに成功している。そのバンドのアンサンブルは、より密度が濃く完成度の高いものとなってきているのだ。これまでになかったようなメロディ志向や叙情性を導入することにより、いかにもPSOTYらしいスタイルのポストロックの音の流れが生まれ、それを自在に湧出させることのできる地点にまで到達している。この3人の探求者たちは、このまま、さらなる高みへと上り詰めてゆくのであろうか。また、その滑らかで穏やかな叙情性の獲得に、大きな役割を果たした、独自のメロディ志向は、今後いかなる発展を見せてゆくのであろうか。
 ただし、気になる点も、いくつかある。まずは、PSOTYが、かなり寡作なバンドだということである。これまでに、PSOTYは、二作のEPの全8曲と、09年にAbridged Pause Recordingsのコンピレーション・アルバム“Diluvian Temperals”に提供した“Brujas”の、合わせて9曲しか発表していないのである。そして、一作目から二作目のEPの発表までのインターヴァルは、約一年半。つまり、次作の発表は、早くても再来年の12年のことになるかも知れないのだ。また、寡作なトリオであるだけに、もしも本格的なアルバムの制作などに取り組みだしてしまったら、もっと膨大な時間がかかってしまうというような事態にもなりかねない。三作目もまたEPで全然構わないので、できるだけ早急に次のフェイズのPSOTYを聴かせてもらいたいところではある。
 そして、作品のリリース元の、新生Lost Childrenにも、少なからず不安はある。創設者のロジャースがレーベルを離れてからは、今のところ“The Silent Ballet”と題したコンピレーション・アルバムのシリーズしかリリースしていないのだ。要するに、このPSOTYの“...And The Sky Fell”以降に、まだ一作も正式なアーティスト・アルバムのリリースを行ってはいないのである。どうも、新体制におけるレーベルの方向性が、いまだにシッカリと定まっていないような印象を受ける。まずは、コンピレーション・アルバムを発表して、周囲の様子を窺っている段階なのであろうか。ただ、このまま過去にLost Childrenより作品を発表していたアーティストたちの新作が、なかなか新生Lost Childrenから登場しないという状況が続くとなると、PSOTYの次作についても、どのようなことになるのか、かなり見通しは不透明なものになってきそうである。個人的には、この由緒あるポストロック系のネットレーベルであるLost Childrenを、このまま活動拠点にしていってほしいところなのだが。
 とりあえず、PSOTYも、Lost Childrenも、しばらくは長い目で見守ってゆく必要がありそうである。何も焦ることはない。ゆっくりと進んでゆけばよいのである。まだまだ、10年代は始まったばかりなのだ。見極めてから踏み出すのも決して悪くはない。(10年)

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