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zoom RSS 曾檐: 愛夢遊

<<   作成日時 : 2010/10/20 23:00   >>

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曾檐: 愛夢遊

画像 四川省の省都、成都市出身の曾檐(Zeng Yan/ツォン・イェン)のファースト・アルバム。リリースは、10年9月1日(おそらく)。
 これが初のアルバムとなる女性シンガー・ソングラーターのツォン・イェンだが、その音楽的才能は、すでに中国語圏ではよく知られたものであるという。どうやら彼女は、自らのリーダー作を発表する以前から、作曲家として確かな実績を残しているようなのだ。
 作曲家ツォン・イェンの代表作には、映画『米香』の主題歌として書き下ろした、“遇見”という楽曲がある。ヴェテラン女優の陶紅(Tao Hong/タオ・ホン)と、人気女性シンガーの譚維維(Tan Weiwei/タン・ウェイウェイ)によって歌われた、この楽曲は、09年の台湾版アカデミー賞である第46回台湾金馬奨において、見事に最優秀オリジナル歌曲賞を受賞している。
 このようにソングライターとして大きな成功を収めていることでもハッキリと証明されているが、ツォン・イェンは、非常に才能豊かなアーティストなのである。現在の中国語圏の音楽界・歌謡界において、最も注目すべき若いタレントのひとりといっても、決して言い過ぎではないであろう。そんな彼女は、作曲家としてだけでなく、実はシンガーとしても、とても得難い才能と魅力をもっていることを、自らの作品をもって人々の耳に示している。ちょっと、これまでの中国出身の女性シンガー/女性アーティストにあったような定型には、全くおさまらない雰囲気が、ツォン・イェンの歌には確実にある。
 元々、大陸の人の歌には、とてもスケールが大きい雰囲気が備わっている。常に泰然と構えているような大らかさがあるのだ。だが、ツォン・イェンの場合は、そうした大陸の大らかさを踏まえながらも、さらに広大な大空にまで駆け上がる。そんな、どこかあらゆるものを超越してしまっているような、摩訶不思議な感覚とパワーが、彼女の歌には込められているのである。そこには、13億の人々が暮らす巨大な中国の国土ですら、どこかちっぽけに感じられてしまうような、とてつもない大らかさが存在しているようにも感じられる。まるで、歌声がそのまま千の風になって、大陸を吹き渡っているようなのだ。
 ツォン・イェンは、マルチリンガルな歌手である。つまり、その作品は、北京語だけで歌われるものではないということ。ツォン・イェンは、チベット族の言語であるチベット語(藏語)でも歌う。四川省のすぐ西の隣りがチベット自治区であり、四川に居住するチベット民族も少なくはない。おそらく、彼女がチベット語で歌うのも、こうした近さからきているものなのであろう。ちなみに、日本でも活躍しているチベット族のシンガー、阿蘭(alan)の出身地である美人谷は、四川省におけるチベット族の自治州のひとつ、カンゼ・チベット族自治州にある。
 また、四川省には、チベット系の少数民族であるチャン族(羌族)とイ族(彝族)の自治州も存在している。そして、やはりツォン・イェンは、これらの少数民族の言語である、羌語や彝語の歌も書いて歌うのである。まるで、四川という天空の秘境へと連なるチベット世界との境界の地に生まれた、歌手としての運命を、その地に息づく様々な民族の多様な言語で歌うことにより、色彩豊かに表現しているようでもある。
 こうしたチベット系少数民族の言葉は、現在の中国の驚異的な高度経済成長の下で、急速に都市化が進行し、全国土的に都市部の社会と文化が情報の氾濫によって均質化してゆく過程(その広大さゆえに、あまり想像し辛いことではあるが…)で、やがて国語の地図から消えていってしまう言語であるのかも知れない。もしくは、アメリカ大陸の先住民であるインディアンが居留地の内部で、古くからの文化と伝統を保持した生活世界を作り出しているように、少数民族の言語も自治州の内部に隔離されるような形で(のみ)代々伝承されてゆくようになってゆくのだろうか。そういった部分を鑑みても、ツォン・イェンのような才能あるアーティストが、出身地である四川において共に生きる人々であるチャン族やイ族の言葉で歌うことは、全く意味のないことだとは思えない。その歌は、近/現代化の大波の狭間で次第に掻き消されそうになってゆく羌語や彝語といった言葉が、そこに確固たる独立した民族の文化として存在しているということを、いつまでも作品という形で証し続けるに違いないから。
 ただし、ツォン・イェンの歌には、そうしたチベット族の言葉やチベット系の少数民族の言葉で歌うということだけにとどまらぬ、さらなる驚くべきユニークさがあったりもする。彼女は、自ら作り出した独自の言葉でも歌うのである。そう、曲と歌詞を書くだけでなく、その歌詞の素となる言葉までも作り出してしまうのだ。その不思議な言語は、夢語と名付けられている。これは、まるで夢の中での(もしくは夢遊病者の)語りのような、あらゆるセンテンスやコンテクストから逸脱しつつも錯綜し、思わぬところで切断され結合する、既成の文法や話法・語法から完全に自由になった言語というところからきているのであろうか。実際に、その歌は、どこまでも自由に解放された言葉で歌われているように聴こえる。ある場面では、英語のように聴こえるが、次の瞬間には、中国の言葉のような響きをもち、さらには宗教的な祈りの如く冴え渡り響き渡ったかと思えば、ただの幼児の言葉遊びのようなオノマトピア的反復になっていたりする。そして、その何の制約もなく自由に発声された歌は、とても心地よく聴く耳に飛び込んでくるのである。夢語に、特定のフォーマットらしきものは見当たらない。しかし、スキャットのような即興のアドリブ唱法とは異なり、しっかりとした歌詞らしき形態はあるようだ。そんな、実に不思議な、つかみ所のない心地よい言葉と歌を、ここで聴くことができる。
 ツォン・イェンの夢語は、いとも簡単に境界を越えてみせる。言語の区分けが、居留地や自治州の内と外を隔てる境界線を生み出してしまっているものであるとするならば、その内と外の境界を無にするものも言語であるに違いない。近代の国民国家が想像の共同体であるとするならば、その幻想の囲い込みから想像的・意識的に溢れ出してゆくのも、幻想の文化や言語や思考であるに違いない。その幻想の言語こそが、夢語なのであろう。中国国内におけるチベット自治区やチベット民族/チベット系民族の置かれている位置や立場を考えるとき、こうしたツォン・イェンの歌う新しく自由な言語は、とても創造的でありながらも、実にラディカルな響きをもつものであるようにも思えてくる。それは、明らかに開放的な解放の響きをもつ、北京語やチベット語の語法や話法の圏内に全く縛りつけられていない歌となっているのだから。
 そして、そうしたツォン・イェンの様々な言語による自由な歌が、大空を舞う鳥のように飛び回る場となる楽曲自体もまた、音楽的に実に幅広いサウンドをもつものとなっている。独創的な言葉である夢語と同様に、ひとつの枠には全く収まりきらない音楽なのだ。ただし、あらゆる境界線が、想像や幻想から形作られるものであるのならば、おそらくツォン・イェンにとって、そこから溢れ出てゆくことは当然のことであるのだろう。世界でただひとりの夢語で歌うシンガー・ソングライターにとって、既成のジャンルやスタイルの分別によって策定される音楽の境界など、最初から意味をなさぬものであったのかも知れない。開放的な言語で歌うということは、きっと音楽的にも狭い枠内にとどまるようなものではないに違いない。それは、どこまでも自由に切断され結合し、境界線を消し去って、遥か彼方にまで吹き渡り横断し縦断してゆく。まるでチベット族の祈りのチャントが、ヒマラヤの高嶺を突き抜けて、大空を駆け巡るように。
 ツォン・イェンの音楽の根底には、伝統楽器を使用したトラディショナル・フォーク・ミュージックの要素が、確実に流れている。そうした要素こそは、生まれ故郷である四川の悠久の歴史の中で様々な民族が育み伝承してきた、彼女が生きてきた大地や自然と密接に結びついた音楽文化であり、鋭い感性をもつ彼女が幅広く吸収してきた音楽的なルーツでもあるのだろう。そして、そうした民族の文化そのものの結晶である藏語や羌語や彝語といった言語で正しく歌うためには、それに即したマナーの会得も必要となってくる。そうした部分を崩してしまっては、弱い文化や言語を境界の内側に隔離し封じ込めようとする大きな力と同じことしてしまうことになるであろうから。そこにあるものを無闇に消し去ってしまってはならない。よって、ツォン・イェンは、全てをあるがままに尊重して受け入れ、その上で独自の芳醇なる音楽の世界を作り出してゆくのである。
画像 アルバム“愛夢遊”の本編1曲目は“期盼”。この曲は、一般的に中国の標準語とされている北京語で歌われるナンバーである。時計の秒針が時を刻む微かな音に合わせて、中国琵琶や尺八に似た管楽器(洞簫?)の演奏が、静かにやわらかく展開されてゆく。ツォン・イェンのヴォーカルも、囁きかけるような可憐さをたたえつつ、水面にいくつもの円い波紋を描き出してゆくように軽やかだ。時の流れとともに微かに弾んでゆくメロディは、甘くロマンティックに、優しく吹く風にのってフワリと舞い上がる。とてもとても前向きで、すさまじく純粋なラヴ・ソング。この希望と願いに満ちた歌は、どこまでも真っ直ぐに未来を見つめている。その目は、どのような未来の中国の姿を見ているのだろうか。ここでは、それが全ての民族にとっての愛すべき未来であることが、深く深く願われているようにも感じられる。
 2曲目は“邂逅”。こちらは、ツォン・イェンが編み出した夢語で歌われる楽曲となる。ここでも中国琵琶は大きくフィーチュアされているが、サウンドのスタイルは、喧しくホーンが鳴るジャズ・ファンクである。感覚としては、かつてのアシッド・ジャズの音にとても近いだろうか。ファンクのグルーヴに琵琶や鐘などの伝統的な中国の楽器の音を、果敢にフュージョンさせる手法は、いかにもそれっぽい。ツォン・イェンの澄んだヴォーカルは、偶然の出会いがもたらす鮮烈な驚きを歌っている。英語のようで英語でなく、中国語のようで中国語でもない、とても不思議な歌であるが、ノリのよいフュージョン・サウンドには、全く違和感なくマッチしている。
 3曲目は“願望”。引き続き、夢語のナンバーである。笛やストリングスによる流れるようなアレンジメントを従えた、いにしえの中国的なたおやかさをたっぷり感じさせてくれる楽曲である。ギターのアルペジオと古琴のトレモロが、さざめくように情感をかき立ててゆく。細かなフレーズの反復を基本として組み立てられゆく、その歌は、古代から続く宗教的な祈りのようでもある。英語でも中国語でもない、遠い遥か彼方の時代の先住民族の言葉のようにも聴こえる。微かな希望を掻き集めて、高々と掲げる。ささやかな人々のささやかな願いが叶えられるように。
 4曲目は“樂園”。こちらも、夢語で歌われる楽曲である。サウンド・スタイルは、スウィンギンなジャズにスカをまぶした、楽園の花もほころぶような、何とも楽しげなミクスチャー・サウンドとなっている。そして、やはりどこかアシッド・ジャズ的な雰囲気もある。ツォン・イェンの極めてやわらかな声質に合わせて、そのサウンドは決して熱くなりすぎることはなく、常に適度なポップさを絶やさずにいる。そして、そうした部分が、楽曲の全体的な朗らかさを創出させてもいるのである。あたたかな光に満ちた、とても幸せな場所、それが楽園だ。だが、それは、おとぎ話の中だけに存在するものなのであろうか。いや、違う。きっとどこかにあるはずだ。どうしたら行けるのだろう、教えてほしい。
 5曲目は“尋覓”。これは、チベット系の少数民族、イ族の言語である彝語で歌われる楽曲である。北京語と比べると、やや素朴でやわらかな響きが色濃くあるように思われる。ループ状のドラムとエレクトリック・ギターが這うようにビートを刻む、その上空を、空気を切り裂くような笛の音が轟く。ツォン・イェンは、ピアノの鍵盤から静かに零れ落ちる伴奏をバックに、澄んだ歌声で見えない隠れた月に囁きかけている。暗い闇夜。彼女の目は、夜空に高く輝く月を探している。だが、どんなに目を凝らしても、真っ暗なままの夜空から月明かりは差してこない。それでも、その視線は、輝く月を追い求めて、いつまでも夜空をさまよい続けるのだ。
 6曲目は“呼喚”。こちらも、引き続いて彝語で歌われるナンバーである。ゆったりとしたリズムにアコースティックなピアノとギターが絡む、静かな高原を吹き渡るようなサウンド。民族的なパーカッションもフィーチュアされ、どちらかというとロックなアレンジがなされた5曲目よりも、こちらのほうがよりイ族のトラッド・フォークのスタイルに近い音といえるであろうか。山の空気に冷えきった風がまざる頃、高い空から冬が呼びかけてくる声が聞こえる。すると、大地がその呼びかけに答えるように、すぐにまた寒い季節がやってくる。過酷な環境の中で自然のと会話をするように生活を営む、高山に暮らすチベット系の民族の言語世界ならではの歌といえるだろう。
 7曲目は“思念”。こちらは、チベット系の少数民族、チャン族の言語である羌語で歌われる楽曲である。どこか大地との強い結びつきが感じられた彝語と比べても、この羌語には、より解き放たれた浮遊感のある言葉だという感触が、極めて強くある。これは、さらに天空に近い場所に暮らす民族の言葉であることを如実に示すものなのではなかろうか。鉄琴とストリングスの音が、静まり返った空間に響く中、ドリーミーなサウンドスケープが波のように寄せては返し、その狭間でツォン・イェンの歌声が揺らめきながら漂っている。そして、その澄み切ったサウンドには、何ともいえぬスピリチュアリティが満ちているのだ。綿のようにやわらかで甘い思いが、宙を舞い、それを聞き届けるべき人のもとへと降りてくる。四川の高山から、ふんわりとした言葉の風が吹いてくる。
 8曲目は“驅魔”。引き続き、透明な浮遊感のある羌語で歌われる楽曲である。ジリジリと歪みきったエレクトリック・ギターの演奏を大々的にフィーチュアした、ややヘヴィなロック・サウンドが、チャン族の言葉と旋律と、真っ向からぶつかり合う。しかし、なぜかそこに違和感を感じさせるようなものは、全くない。あまりにも羌語がまとっている文化が、下界の俗世間からかけ離れているために、そこにはどんな楽器の音色も受け入れてしまえるような懐の深さが備わっているのかも知れない。楽曲の冒頭では、ツォン・イェンによるハイ・トーンのチベタン・チャントが炸裂する。まるで、悪魔払いの儀式が始まることを予告するかのように。ここでのツォン・イェンのヴォーカルは、いつにも増して民謡的なこぶしが効いており、かなり力強い。四川の高山に生きる人々は、自然を怖れない。過ぎ去ってしまったことは、乗り越えられてゆくべきものでしかない。チャン族は、全ての存在を受け入れ包み込むように生きてゆく。魔除けのチャントを盾にして。
 9曲目は“惑”。今度は、チベット族の言語である藏語で歌われる楽曲である。成都からイ族とチャン族の自治州をめぐり、遂にチベット族の土地にまで登ってきたという感じであろうか。やはり山へと深く分け入るにつれて、言葉の語調や抑揚から生み出される旋律が、強烈に自然への祈りそのものへと近づいているように思える。まずは、ささやかなベルの音に導かれるように微かな囁く歌声で滑り出し、一気に長く高いトーンで響き渡るチベタン・チャント風のヴォーカルが炸裂する。サウンドも一転して、そこでは、歪んだエレクトリック・ギターと宗教的な笛やラッパの音が交錯する、ヘヴィかつエソテリックなオルタナティヴ・ロックが繰り広げられることになる。テーマは、混乱。ザラついたギターの音色に象徴される戸惑いの感情が、黒い雲になって、みるみるうちに空を覆う。善きものと悪しきものが、激しく渦巻く迷妄の世界。悲しみと恨みと疑念と倦怠が、暗い雲の下に充満してゆく。ツォン・イェンの祈りの歌が、大空に突き刺さる。
 10曲目は“祈禱”。こちらも、チベット族の藏語で歌われる楽曲となる。最後の瞬間にまで残されていた祈りは、とても穏やかで澄み切っている。ツォン・イェンの歌声が、とても美しい。バックにギターやエレクトロニクスをフィーチュアし、しっかりとビートも効いており、サウンドの特性としては非常にロック的なのであるが、そこにのる歌そのものは、かなり色濃く民謡的な要素を、その旋律の内に蔵している。大自然の懐に抱かれながら発せられるチベット族の祈りは、大空を越えて、聞き届けられるのであろうか。これは、素晴らしく完成度の高い、美しい楽曲である。間違いなく、アルバム中のハイライトとなる一曲だといえるだろう。
 11曲目は“朝聖”。引き続き、藏語でのナンバーである。サウンドは、ツォン・イェンが得意とするスタイルでもある、トラディショナルな言語や旋律と、ジャズ・ファンクのグルーヴのミクスチャーとなっている。極めて俗な言い方をすれば、チベット風アシッド・ジャズだろうか。聖地巡礼を宿命づけられた放浪の旅人の歌。そのさすらいの旅路において、ことごとく悪しき夢は霧散し、遂に目覚めの朝が訪れる。そして、その目の前に、真の聖なる地が見えてくる。ただし、そこからまた、新たな巡礼の旅路が始まるのだが。シックで落ち着いたトーンのツォン・イェンの囁きヴォーカルが、実にまろやかで耳に心地よく染み込んでくる。
 本編のラストとなる12曲目は“飛”。締めくくりとなるのは、やはり独創的な言語である夢語で歌われる楽曲である。甘く優しい囁き声や澄んだよく伸びる高いトーンの声など、ツォン・イェンのヴォーカルの魅力を全面的に展開させたような一曲となっている。サウンドは、弦楽のオーケストレーションを従えたミッドテンポのニュー・エイジ・ロックといった趣き。ただし、常に豊かでリッチな音の傍らには、極めて素朴な音が同居してもいる。これは、ツォン・イェンの音楽の、ひとつの特徴でもあるだろうか。それは、どこか異質な要素を内部に宿し、決して画一的な音楽として鳴ることがないのである。夢語がそうであるように、切断と結合の音楽となっている。足早に駆け抜けてゆく時間が、現実の悪夢をここに連れてくる。悪夢は時間の経過とともに何度でもここに戻ってくるだろう。どんなに祈っても、すぐに駆け足で時間は後から後から追いついてくるのだ。この現実の悪夢の連鎖から抜け出すには、時間の流れの外側に飛び出すしかない。大きく羽ばたいて、いま空高く飛び立つ。
 また、このアルバムには、ボーナス曲とアウトロ曲として、7曲目に収録されていた“思念”の北京語ヴァージョンと、1曲目の“期盼”の夢語ヴァージョンが追加で収録されている。どうやら、ツォン・イェンは、かなり自在に楽曲の言語を入れ替えて歌えるようである。もしくは、全ての北京語やチベット語、羌語、彝語で歌われている楽曲は、夢語に翻訳が可能だということであろうか。このあたり、なかなかに興味深いものがある。
 透明感のあるツォン・イェンのヴォーカルを聴いていると、オーストラリアのメルボルンを拠点に活動するシンガー・ソングライター、ルイーザ・ジョン=クロル(Louisa John-Krol)の歌を思い起こしてしまう場面が数多くある。童話や神話、そして幻想文学などをモティーフとするロマンティックな歌で、独特の世界観を構築しているジョン=クロルの音楽は、エセリアル・ポップやフェアリー・ミュージックと呼ばれている。ただ、その根底に、スピリチュアリティをたたえたフォーク・ミュージックが、確実に存在しているという点において、この両者には共通するものがあるように感じられるのだ。中国やチベットの民謡と、ヨーロッパからオーストラリアへと伝えられたフォーク・ミュージック。それぞれの音楽的なルーツに明確な違いはあるが、そこには、長い時間をかけて世代から世代へと伝承されてゆく中で緩やかに精製されてきた素朴なメロディが、同じように息づいている。ツォン・イェンとジョン=クロルは、そうした繊細な旋律や歌い回しを丁寧にすくいあげ、見事に自らの歌を紡ぎ上げている。そして、それを澄み切った歌声で、優しくいたわるように歌い上げるのだ。それらは、とても深い愛に満ちた歌であり、深い伝統の理解から生じた新しい世代による新しい解釈の音楽である。
 そして、ツォン・イェンの音楽は、そのサウンドの面においても実に多様で雑多な顔をもっている。そこでも伝統の文化をそのまま保持してゆくだけではない、斬新な感覚による解釈を介在させた果敢な音楽の実験が、とても自然な形でなされているのである。それは、時にはジャズ・ファンクのグルーヴを前面に押し出したフュージョン・サウンドであり、時にはエレクトロニックなアンビエンスが静かに立ちこめるニュー・エイジ風のミスティックな音空間であったりもする。そして、トラディショナルな民族的旋律をベーシックな部分にもった、スピリチュアル・フォークやプログレッシヴ・ロック、ヘヴィなオルタナティヴ・サウンドなども、その多様な音楽性のヴァリエーションに加わってくる。この幅の広さを、彼女のソングライターとしての視野の広さや技量の高さに由来するものであると、簡単に一言で片付けてしまうことも、おそらくは可能であろう。実際に、ここでは中国やチベットの民族的な音楽を、純粋にそのままの形で表現している楽曲はひとつもない。そこには、必ず、斬新なアレンジメントと、新しい音楽的解釈が存在しているのだ。しかしながら、夢語という言葉の面だけでなく音楽の面でも、これほどまでに切断と結合を繰り広げなくてはならない理由は、どこにあるのだろうか。ツォン・イェンは、そんなにも伝統というものから自由にならなくてはならないのか。その越境感覚には、何かオブセッシヴなものすら感じられてきたりもする。
 民謡とポップとロックとジャズの狭間を行き来するサウンドと、中国やチベットの様々な言語、そして完全にオリジナルな夢語で歌われる歌。古今東西の音と言葉を絡み合わせ、文化の伝統に深く根ざしながらも創造性豊かに高く飛翔する。それは、まさしく自由と解放の響きをもつ歌であり音楽である。いや、厳密には、切実に自由と解放を願い希求する祈りの歌と音楽とでもいうべきであろうか。ツォン・イェンが夢の言葉で歌うのは、既成の文化や伝統の枠の中にとどまって歌うだけでは、決して歌いきることのできない希望や未来が、そこにあるからなのであろう。悠久の流れを一旦切断し、そこに新たな結合の夢が描き出されることで、ようやく見えてくるかも知れない未来がある。ツォン・イェンの音楽は、その夢を斬新な言葉に託し、純粋で澄み切った祈りの旋律にのせることで、いまだ明確には見えぬ想像の枠組みや境界線が取り払われた、輝ける未来に向かって、静かにだが力強く溢れ出てゆこうとする。夢語の歌とは、まさに未来の歌なのである。四川省出身のシンガー・ソングライター、ツォン・イェンは、中国の、いやアジアの未来を感じさせてくれる期待の新人アーティストだ。とてつもなく新しい感性と感覚が、ここにはある。その祈りの歌声が届いた場所では、必ずや何かが新しく未来に向けて動き出すに違いない。(10年)

(※)チベットの山々から吹き下ろす祈りの風は、自由と解放の歌をはこんでゆく。その先にある全ての民族にとっての楽園となる未来を、夢見ながら。

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