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<<   作成日時 : 2010/08/20 04:00   >>

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M.I.A.: /\/\ /\ Y /\

画像 10年7月13日にリリースされた、M.I.A.ことマヤ・アルルピラガーサム(Maya Arulpragasam)の三枚目のアルバム。そのタイトルは、自らの名前を冠したものであるのだが、アルファベット表記ではなくGoogleでの検索が不可能となるような記号による絵文字的な表記が採用されている。これは、新帝国主義的なグローバル資本主義のイデオロギー装置として機能する、巨大隠密モンスターである検索エンジンに対する、マヤなりの強硬なる抵抗の姿勢の表れであるらしい。個々人による検索のデータ(ピュアで剥き出しの欲望のデータ)を吸い上げて集積することにより、ひと握りの支配者層によるグローバルな統治体制が強化されてゆく。テクノロジーの利便性というオブラートに包まれて馴致されてゆくことの危険性のようなものが、このタイトルの表記方法で、とても強く訴えられていることがわかる。しかし、今や検索エンジンに引っ掛からず、網の目から零れ落ちていってしまうような情報は、もはや最初から無きものに等しい扱いが自動的になされてしまうはずである。検索しても浮かび上がってこないような情報は、全く目に見えないものとなってしまうのだ。均質的な盲目化の傾向とノイズの不可視化傾向もまたシステムの装置の一部であることは間違いない。ただ、そこからマヤが(これ見よがしに)逸脱してゆくような身振りを示すということは、どうしてもプロモーション用の話題作りとしての面が、大きいのではなかろうかと、やや訝しく思えてきたりもする(人気アーティストによる話題作りによって、広い認識の共有が可能になるという利点もあるが)。もはや、エンターテイメント界の超有名人であるマヤに関する情報は、そこらの検索エンジンに頼らずとも、ネット上で勝手に一人歩きして流布してゆくであろうから。ゆえに、この記号による表記のタイトルは、もしかすると、マヤの活動にとってのイデオロギーの装置として(ひいては、巨大なエンターテインメント産業のシステムの一部として)機能するものでしかないのかも知れない。
 ただし、発売前から様々な物議を醸す騒動を連発し、その音源が公のものとなってからも猛烈な賛否両論を巻き起こしていたにも拘らず、あれほどに吹き荒れた風が止んでしまうのも、疾風怒濤の如くに早かった。リリースからまだ約一ヶ月程度しか経っていないのだが、もはや遠く過ぎ去ってしまったことのように思えたりもする。瞬間的な熱量には、とても強烈なものがあったが、それが膨大で過剰でありすぎたために、思いのほか長続きすることはなかったということか。事前の熱の高さと実際の実態が釣り合わずに、そこにギャップが生じてしまったのだとも考えられる。この文字通りにクールな反応は、そこに最も強く求められていたはずのポップな娯楽性が、決定的に欠けていたことを如実に示しているのかも知れない。マヤの新作に期待されていたのは、もっとハチャメチャで破壊的なバカ騒ぎであったのだろうか。上流を気取ったスノッブな連中に野良犬のように吠えかかり、容赦なく噛み付きまくるマヤの姿だったのだろうか。いずれにせよ、もっとエンターテインメント性があり気軽に楽しめる、いわゆる見せ物的な何かが期待され求められていたことは確かであろう。そうした意味においては、こんなにも微妙に期待にそぐわぬ内容のアルバムというのもなかったのではなかろうか。どこかガタガタで、誰の耳にも聴きやすい音作りのための仕上げの処理が殆どなされていない、見るからに欠陥商品であるかのような、火の通されていない生身の部分が剥き出しになったまま曝け出されているサウンドのオン・パレード。それは、一流の娯楽と呼ぶには、少しばかりドロドロとしたおぞましさに満ちすぎていたようだ。呑気に楽しい見せ物を期待していたところに、そんなものを浴びせかけられてしまったら、誰でも、ちょっとはウンザリさせられることであろう。
 しかし、生のままでも美味しいものはある。独特の生臭さはあるかも知れないが、そこには火を通したものにはない素朴で自然で刺激的な味覚が存在していたりする。しかし、十分に注意して食べないと、食中りしてしまう可能性も大いにあるだろう。生食とは大変に危険なものなのだ。だが、危険を冒してまでも美味しいものを食べたいと欲望してしまうのは、人間という生き物の本能的な性質でもある。マヤの新作アルバムは、そうした部分を十分に承知した上で、あまり火を通さぬままに音を供しているような雰囲気がある。これは、もしかすると現代人の胃袋を試すアルバムであるのかも知れない。口に入れた瞬間に即座に拒否反応を示す者もいるであろうし、ムシャムシャと食いついてケロッとしている者もいるであろう。だがしかし、それらふたつの中間に位置する反応というのは、あまり存在しそうにはない。この半生のテイストは、それだけ好き嫌いがハッキリと分かれそうなものなのである。
 音楽業界が作り出す白々しくも仰々しいハイプにまみれた空騒ぎ。もしや、マヤの音楽とは、それだけのものでしかなかったのだろうか。いや、ただの空騒ぎに堕してしまったのだとすれば、それは、どこかで分水嶺を越えてしまったからであろう。それまでは、そのハイプのエネルギー(それらは元々はマヤの音楽が発散していたものでもあった)を巧みに利用して、次々と立ち上がり荒れ狂うメディアの大波を器用に乗りこなしていたのだから。しかし、どこかの時点から、もうその大波は、簡単に乗りこなせるようなものではなくなってしまった。荒れ狂う波は四方八方から押し寄せてくるし、その巧みな波さばきを妨害・阻止しようとする者も至る所に現れた。そして、現在のマヤの存在もまた、ある面では、もはや突っ込みどころが満載のポップ・スターの群れに属すものでしかないことも確かなのだ。大波を乗りこなしているうちに、いつしかエンターテインメントの世界の中心に駆け上ってしまっていた。野良犬のように吠えかかり噛みついていたマヤは、いつの間にか噛みつかれる側のセレブリティの一員にも名を連ねていたのである。セレブがセレブの世界でセレブに噛みついたところで、そんなものは生温い茶番劇でしかないだろう。もはや安いゴシップ記事にしかならない。
 基本的に、マヤの歌もラップも、それ自体は少々弱い。元々はグラフィック・アーティストであったマヤには、いつまでも歌手としてもラッパーとしても半ば素人の部分が抜けていないところがある。その初期衝動に突き動かされて、奔放に歌いラップするスタイルには、生々しいエッジが宿るという絶対的な強みもあるだろう。しかし、翻って考えると、そのあまり鍛えられていない歌とラップは、衝動の弱まりとともに最大の弱点にもなってしまう危険性を大いに孕んでもいるのだ。また、鋭く尖った部分も全てひっくるめて、極上のエンターテインメントに、気軽に楽しめる娯楽に、分かりやすいポップスに、形式的にでも昇華がなされていないと、そうした根本に存在している弱みや、粗ばかりが目立ってきたりもするであろう。
 破竹の如き勢いとノリのよさ、そして不正に満ちあふれた世界に挑みかかる強気の姿勢で、大きな旋風を周囲に巻き起こし、ある種の異様な熱狂や熱気とともに時代を駆け抜けることに成功した前二作。常に、マヤの行くところ、もしくは行こうとするところ、また行かないところでも、何かしらの騒動が湧き起こり、その音楽すらもが、そうした騒ぎの一部となって、騒然とした動きを醸成し、加速させていった。だがしかし、いつかはそうした数々の騒動も時間の経過とともに常態化してゆき、特に目新しいものではなくなってくる。やがては、もはや無根拠に続発する騒動そのものが空虚さをまとい、虚しく空回りを繰り返すようになる。マヤの周辺の流れそのものは、そのような悪循環と空転の連鎖へと大きく傾きつつあった。それが、この作品のリリースを控えた10年の前半期とビタリと重なっていたのだ。それまでの、ただ何となくワサワサとしていた濁りが急激におさまり、大量の上澄みを通して、実際のマヤの姿が底に見え始めてきていた。それは、無闇に吠えるだけの野良犬の仮面をかぶった豪勢な犬小屋に暮らす飼い犬のように、人々の目には映ったかも知れない。
 そうした周辺の風向きの変化のようなものが、何らかの影響を及ぼしているのだろうか、ここでのマヤは内在する大いなる怒りや昂る感情を、うまくヒネリやスパイスの利いた楽曲に昇華できていないようにも感じられる。ざわつき続ける周囲の動きに気をとられすぎて、キッチリと捕らえて乗りこなすべき大波が見えなくなってしまっているのだろうか。いや、決してそうではない。いまだ、その目には、誰よりもクリアに見通せている部分はあるはずだ。だからこそ、それを救いようのない現実の世界とは程遠いポップ・ソングに仕立て上げてしまうことに対して、何かしらの葛藤やディレンマのようなものを感じてしまったとしても、決しておかしくはなかろう。そうした微かな気の迷いによって、全てが土台から揺れ動き、アグレッシヴな身振りがバラバラになってゆく。そして、確固たるものであったはずのアイデンティティやパーソナリティにも微妙なブレが忍び寄ってくる。そんな小さな亀裂を元凶とする見事なまでの瓦解ぶりは、享楽的なパーティ・ライフから切羽詰まったギリギリのテロリズムにまで大きく振り切れつつ、アルバムの楽曲中に全てを凝縮することが試みられ、半ば意図的に完成されずに中途で投げ出されたような形に見える、深刻なバラバラさ加減にも、よく表れているといえる。
 そのサウンドの基本ラインは、これまでと同様に、ある種の猥雑さをたたえたファンキーでゲットーテック的なエレクトロである。注意深く耳を傾ければ、そこには、細切れのサンプルや奇怪な電子音が飛び交うダーティな音色のベースを引きずりながら進んでゆくダブステップや、クドゥロのようなべシャベシャしたリズム形態も聴くことができるだろう。そして、ささくれ立ったハードコア・パンクやノイズ〜インダストリアル・ミュージックのフレイヴァーが、そのエレクトロニック・ダンス・ビートにトッピングされる。モノクロでくすんだ色調の上にダークな色彩を重ねたとしても、決してカラフルなサウンドとなることはない。ただし、その方向性に、あまり迷いらしきものは感じられないのも確かなのだ。創作へと向かう意志が、極めて自然にそこへ向かい、こうしたテイストのサウンドを選びとっている。それは、まさに闘争を意志するサウンドであり、相対するもの全ての殲滅を目論む情け容赦のない音のようでもある。これを聴く限り、音の面においては、いまだに恐ろしく先鋭的な闘士としての凛々しい姿(やや汚れや綻びも目立ってきているとはいえ)が垣間見えたりもするのだが。
 この作品では、迷いと葛藤と本能が、抑制するものも何もないままに、全て剥き出しで拮抗してしまっている。その結果として、アルバムで何らかの表現へと向かったものは、無惨にもふたつの異なる世界に完全に引き裂かれてしまっている。その目が見据えている現実は、ひとつであるはずなのに(ただし、ヒトは常にふたつの眼球でモノを別々に見据えている)。そんな、まとまりに欠け、焦点が定まりきらないところに、今現在のマヤのありのままの姿が明かされているともいえよう。そこには、取り繕いのためのオーヴァー・プロデュースも、偽りのポップさを装う付け足しもない。どこまでもストレートに、収拾のつかぬ現実世界の有り様を反映させたかのような、ガタガタの音楽だけが、ズラリと並んでいる。
 だがしかし、様々な事柄をひっくるめて鑑みてみるに、このCDアルバムを購入する必要があるのか?という部分には、実際のところ、やはり大きな疑問が残ってしまう。ここにある音楽は、果たして誰に向けて放たれているものなのであろうか。一体、この音は、誰の手に届けられるべきものなのであろう。このアルバムの音楽を自らに対する強烈なメッセージとして受け取る必要があるのは、この世界のどこの誰なのであろう。その具体像らしきものは、あまりハッキリと見えてこない。もしも、オバマ大統領が買って聴いていたとしたら、それはそれで大変に面白いのだが。しかし、今やインターネットのネットワーク上のデータをストリーミングすることで、アルバム収録曲の全曲を聴くことができる(これはプロモーションの一環として正規になされている。もはや全ての内容を確認してからでないとCDは購入されないのだろうか。その内容を全て知った上で購入されるCDとは、実際のところ何なのであろう。購入して聴いたとしても、音の面では、ほとんど目新しさはないはず。すでに試聴している音であるのだから、それを聴いて受ける刺激も半減してしまうかも知れない。CDの内容にではなく、プラスティックの盤そのものやパッケージ、もしくはオマケの特典などに対して、主に代金は支払われているということなのだろうか?)し、それ以上の何かを望むのであれば、数あるMP3サイトやMP3ブログにアップされているアルバムのデータ・ファイルを入手して聴くこともできる。そこら中に蔓延っている著作権を無視した違法のアップロードやダウンロードに対して、マヤはアーティストの立場から“Piracy Funds Terrorism”といって食って掛かかるのかも知れない。だが、著作権侵害とテロリズムの関係について、そこで述べられている方向は、全くの真逆のものでもあるということを、すでに私たちは現実の経験の中で薄らと感づいてしまっている。海賊行為とは、まさにテロリズム以外の何ものでもない。この民衆によるささやかなテロ行為が、一種の対抗テロリズムとしての表意行動となっているということを認識せずには、もはや何も始まらないだろう。世界中の多くの民人を卑賤なる海賊とならしめてしまっているものとは、一体何なのか。そこが大きな問題なのである。そしてまた、多くの本職のテロリストたちの主要な資金源となり、その活動資金を調達する場となっているのが、表向きのグローバルな世界経済の動きであることは、今や明白すぎるほどに明白なことである。闇の世界で動かせるものなどは、高が知れているのだ。
 心の底からウンザリさせられ、もうそれについて一切歌いたくなくなるような、うなるほどの大金を、すでにマヤが手にしており、何不自由のない生活ができているのであれば、このCDアルバムに幾ばくかの代金を支払って購入する必要というのは、それほどないような気もしてくる。世界でも有数の過激な活動を行っている音楽テロリストに対する資金の提供という意味で、作品が購入され聴かれるものであるとするならば、だが。しかし、経済的に満たされているセレブなテロリストに対する金銭的な支援などは、果たして必要なものなのであろうか。そして、何よりもまず、このCDアルバムの売り上げで同時に潤うことになるのは、巨大な音楽/娯楽産業を構成するグローバル企業であったりもするのである。どんなに凶暴にYouTubeやGoogleに噛み付いたとしても、マヤのひと刺しぐらいでは、おそらく大勢に何ら変わりはないであろう。それが現実なのである。どんなに対抗文化的なものに共感し同調していたとしても、全てをモノ化して統治するシステムは、安泰なままのさばり続け、そのうえささやかな行動を起こすことで、グローバルな資本主義経済の維持と拡大にも加担してしまうことになるとは、何ともアイロニカルな話ではないだろうか。
 買うべきか、買わぬべきか。聴くべきか、聴かぬべきか。それとも、買わずに聴くべきか。そのささやかな判断が、このどうしようもない世界、YouTube、Google、エンターテインメント産業、音楽文化、そして何よりも闘争するアーティストであるマヤに対する何らかの意思表示となる。さて、あなたならば、このCDアルバムに対して、どのような態度を行動で示すのであろうか。
 ただ、こんなにも刺々しくラディカルなアルバムが、普通にポップ文化の一部として認識され、どさくさに紛れてでも流通されてしまう、この世界とは、まだまだ捨てたものでもないと思えてきたりもする。スッポリと底が抜けきってしまっていることで、逆に妙な可能性が開けていたりもするのではなかろうか。徹底的にガタガタなままであることで、積極的に万人向けのエンターテインメント/ポップ・ミュージックとしての均質化を、思い切り放棄しているにも拘らず、一度システムの内部で商品として成立してしまったものは、大きなアクシデントでもない限り地球上に隈無く張り巡らされたディストリビューション網にのり続ける。マヤは、外であり、内でもある。これは何とも痛快な脱中心の実践だといえよう。
 そして、さらに痛快なことには、今や世界中の多くの人々が、このアルバムを全くの期待外れな駄作だと思い込んでもいるのである。高度に発展した消費社会では、メディアへの信仰(それに対する批判もまたメディアとなり、全てが巨大なメディアのシステムの中に取り込まれる図式)は、一面的にはより強固で絶対なものとなる。音楽の良し悪しを判断するのは、どこの誰なのか(目を瞑らされ、そのうえ耳まで塞がれてしまうのか?)。そういえば、かつて「ドント・ビリーヴ・ザ・ハイプ」というフレーズが、画一化や均質化に対する抵抗のスローガンとして声高に叫ばれた時代があった。たったひとつの正解よりも、気が遠くなるほど膨大な量の間違いにこそ価値がある。波に乗って、失敗を繰り返す。それでいいのだ。(10年)

Suboi: Walk
SoulFaces Records

画像 10年8月1日、ヴェトナムの最大の都市であるホーチミン市を拠点に活動する女性ラッパー、スボイ(Suboi)のデビュー・アルバムがリリースされた。スボイは、現在20才。10代前半でラッピングに興味を持ちはじめ、17才の頃からホーチミンのヒップホップ・シーンでライヴ活動を行ってきたという。その10代〜20代の女の子の心情や若い世代の日常の風景をストレートに綴ったラップは、同性や同世代からの厚い支持を得ており、今やシーンを代表する女性ラッパーのひとりに数えられるほどの人気者となっている。そんなスボイが、大きな期待の中で放つ、待望のファースト・アルバムが、この“Walk”である。
 ジャケットには、黒のタイトなパンツに黒のタンクトップというシンプルかつスマートなカジュアル・スケーター・スタイルの眼鏡っ子なスボイが、黒く長い髪を風になびかせて、旧サイゴン市街の細い裏道を颯爽とスケートボードに乗って滑ってゆく瞬間をとらえた写真が使用されている。この滑らかに滑ってゆくフィーリングは、スボイのラップのもつ魅力を的確に表すものであるような気もする。狭く雑然とした迷路のように入り組む路地、古い東南アジアの街並を、使い込んだスケートボードとともに駆け抜ける。そこでは、古来から積み重ねられてきた文化と新しいファッションや若者文化が、転がるウィールを通じて、限りなく摩擦を生じさせずに、触れ合い、行き違い、対峙し続ける。この人間的なスピード感を失わぬ新旧の交感こそがポイントだ。それらは、決して相対するものを撥ね付けずに、常に動き続ける滑りの中で、それがそこにあることを寛大に容認しているのである。そして、ひとたびボードを降りれば、互いは密に接触し、一体化して混じり合いもする。どちらも何も切り捨てはしない。そして、独善的に退け、侵すこともない。その両者の間には、ただ転がるウィールだけがある。決してイチかゼロかだけではない動きのあるコンタクト。スボイは、ヴェトナム語と英語のふたつの言語を巧みに操り、細くくねったアジアの裏道をスルスルとすり抜けてゆくように、独特の味わいのあるラップを繰り広げる。
 スボイのヒップホップ・サウンドには、とても色濃くホーチミン市の街の空気感が染み込んでいる。スケートボードに乗って通り抜けた裏道の風の匂いが、その確かなスキルを誇るラップとともに溢れ出てくるようだ。そして、あまり華美になりすぎない落ち着いたトーンで貫かれたエレクトロニックなバックトラックにも、アジア的な旋律やリズムを取り入れている部分があり、いかにもそれらしいサウンドで確かなビートを刻んでゆく。また、スボイが歌うヴォーカル・ラインには、明らかに東南アジアのヴェトナムの歌謡曲などに通ずるものであろう、ネットリと絡み付いてくる実に人懐っこい感覚が介在してもいるのである。アルバムの冒頭を飾る“Ticki Ticki Toc”では、竹製のマリンバを思わせる大らかでパーカッシヴな音が、どこか長閑なファンキー・エレクトロのミニマル・ビートと合体し、ユーモラスかつコミカルなヴェトナム風パーティ・ラップを展開してゆく。アジアの農村が似合いそうな民謡風のフレーズを超軽量級のダブステップのトラックと融合させた、スボイ流のカラフルでピースフルなステッパー・チューンとなっている“Rainbow”。こうした楽曲に、濃厚にアジアの息吹を感じ取ることができるだろう。ホーチミン市の裏道にベットリと染みついたアジアの文化圏の音やメロディやリズム感を、エレクトロやヒップホップのサウンドやビート感覚と、あるがままに交感させ、混ぜ合わせて、極めて独特な風合いをもつヴェトナミーズ・ヒップホップが生み出される。ホーチミン市のヒップホップ・シーンでは、このサウンド・スタイルを、ヴェト・ソウルと呼んでいるようだ。確かに、これは、いまだに強烈にアジア的な匂いを残した都市だからこそ創出させることが可能となった、新しいソウル・ミュージックのスタイルであるのかも知れない。明らかにスボイたちは、ヴェトナムにおけるニュー・ウェイヴである。もしくは、HCMロッカーズであろうか。ホーチミン市のダウンタウンから、サイゴンの裏道から、アジアのソウルをスボイは颯爽とラップしてみせる。そのライミングは、風を切るスケートボードの滑りのように、とてもシャープである。
 若く瑞々しいエイジアンな感覚でとらえた、街角のざわめき、クラブでのヒップホップ・パーティ、日常における個人的な感情や問題や葛藤や経験、20才の女性らしい愛や恋や夢などを、そのままの等身大の言葉で綴り、ストレートでスマートなラップへとコンポーズし、歩くように滑るように歌い上げてゆくスボイ。その歌からは、しなやかな強さを備えたイキイキとした言葉のパワーを、ヒシヒシと感じ取ることができる。そんなスボイのラップには、新しい時代のアジアの女性像のようなものも垣間見えてくるのだ。細い裏道から、21世紀のアジアが、黒く長い髪をなびかせて、颯爽と滑り出そうとしている。
 スボイの“Walk”は、デビュー・アルバムということもあり、とてもフレッシュな印象を残す一枚となっている。だが、少しばかり考えてみると、これは、かつてのM.I.A.が切れ味鋭い音と言葉を振りかざして繰り広げていた音楽に、とても近いものであるということに思い当たったりもする。ある日、スリランカの歴史を記憶したメロディと、ヒップホップやエレクトロなどのダンス・ミュージックが、猥雑なロンドンの移民街の裏道で出会った。そして、ふたつの異なる文化が衝突し、摩擦を起こし、融合されることで、強烈にして刺激的な新しいサウンドが生み出されていったのだ。長く黒い髪を振り乱すM.I.A.の音楽は、紛れもなくアジアのニュー・ウェイヴであった。そしてまた、新しい時代の幕開けを宣言する、革新的なエレクトロニック・ソウル・サウンドでもあったのである。
 しかし、何故かもう、スボイのヴェトナミーズ・ヒップホップに聴けるようなフレッシュな響きは、そこには感じ取れなくなってしまっている。M.I.A.の音楽は、どこかで、そのソウルの在り処を見失ってしまったのだろうか。強かに攻撃を続けるのであれば、照準はピタリと合わせ続けなくてはならない。いついかなる時でもスキを突くことができるように。よって、そこでは常にミリ単位のズレもブレも許されないのだ(意図的にズレてブレる戦略であるのならば、話は別であるが)。また、少しでも気を緩めてスキを見せた瞬間に、四方八方から押し寄せてくる大波に飲み込まれてしまうこともあるだろう。それに飲み込まれてしまったら最後だ。見失ってしまったものを再び大海の無数に立つ波の中に見つけ出すことは、きっと至難の業となるであろうから。
 スボイの場合、東と西の文化や新旧の世界の狭間に起きる摩擦は、回転するウィールが、限りなく軽減してくれる。その滑走は、いかなる境界も、スルリスルリと滑るようにすり抜けてゆく。また、そうした現実世界と向かい合う姿勢は、より滑らかでスムーズなタイプの闘争と抵抗の実践にも繋がってゆくであろう。スボイは、自らの言葉でラップし、若きアジアの女性として誇り高く生きる権利を、極めてシンプルに、そしてカジュアルなファンションで歌うように主張する。
 現在、アジアは、激しくうねり、新たな枠組みの再編成に向けて動き続けている。まさに激動の場だ。そんな分散と結合からなる局地的な運動の中から、ニュー・ウェイヴや新たなソウルが生み出される。そして、それらは、ほどよいスピード感を保ちながら、颯爽と民衆の時代を駆け抜けてゆくことであろう。ふたつの文化と世界の境界で、もう一度、何かが起きようとしている。これは、モンスーンによって届けられた、サイゴンからの風である。やがて風が集まり、大きな波が起こってゆくに違いない。(10年)

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