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zoom RSS Entertainment For The Braindead: Roadkill

<<   作成日時 : 2010/03/10 22:00   >>

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Entertainment For The Braindead: Roadkill
Aaahh Records aaahh 009

画像 ここ数年に渡り、事あるごとに各方面から絶賛され、極めて高い評価を獲得している、ローファイ・フォーク界のブライテスト・スター、エンターテインメント・フォア・ザ・ブレインデッド(Entertainment For The Braindead)の新作。今回の作品も、ベルリンのネットレーベル、Aaahh Recordsからのリリースである。08年8月にエンターテインメント・フォア・ザ・ブレインデッド(以下、EFTB)の確固たる出世作となった、アルバム“Hydrophobia”を世に送り出した(往時は、バイエルン/オーベルノイヒングを拠点としていたネットレーベル、Aerotoneとの共同リリース作品という形式で発表されていた)のが、このレーベルであり、そこで築かれた両者の間の非常に良好な関係は、今もそのまま保たれているようである。リリース日は、10年2月26日。
 EFTBは、ケルン在住のシンガー・ソングライター、ユリア・コトヴスキー(Julia Kotowski)によるソロ・プロジェクトである。08年春にセルフ・リリースという形で、ひっそりと発表されたデビュー作“Hypersomnia”から数えて、本作が、通算5作目の作品となる。だが、純粋な意味での新作としては、途中のノベルティ的な要素の強い2作品を飛び越して、約一年半ぶりといっしまってもよいかも知れない。EFTBの名を広くネットレーベル・シーンに知らしめることとなった“Hydrophobia”が、じわじわと高い評価を獲得してゆくにつれて、様々な変化がコトヴスキーの周囲にも静かな嵐のように巻き起こっていたことは、容易に想像がつく。そうした様々な(やや騒々しくもある)動きの中で、意に反してか、意図したものかはわからないが、コトヴスキーは、純然たる新作の制作作業から、次第に少しずつ距離を置くようになっていってしまったようだ。そして、“Hydrophobia”の発表から一年以上が経過した、09年の晩秋から初冬にかけて、ようやく作品の制作作業に、本腰を入れて着手することができるようになったという。今、こうして、待望の新作が完成し、無事にリリースされているということは、突如として降り掛かってきた急激な変化にも徐々に対応・順応することができ、精神的にも落ち着いた状態を取り戻し、快復しているということの、まぎれもない表れであるのだろう。
 この約一年半の、大きく揺れ動いていたと思われる期間(09年)にリリースされた作品は、“Seven”と“Raw Timber”の2枚。
 まず、09年の3月に発表された“Seven”は、09年2月に行われたEFTBの初のミニ・ライヴ・ツアーの日程にあわせて、特別に制作されたツアーEPであった。この全7曲を収録したEPは、各ライヴ会場において、終演後に抽選で選ばれた、非常に幸運な観客、一名にプレゼントされたものである。実際に作成されたCDの枚数は、ツアーでの公演回数と同じ、たった7枚のみ。まさに、超限定制作の一枚であった。しかも、販売用に制作された作品(商品)ですらなかったのだ。だが、そのことが、逆に幸いもした。このクリエイティブ・コモンズ・ライセンスされた作品の音源を、Aaahh Recordsが、ツアーの翌月に正式に再リリースしたのである。それが、“Seven (+1)”であった。なお、この再発版には、そのタイトルにプラス1と示されている通り、ハノーファーでライヴ・レコーディングされた“Mi Corazon”が追加収録されている。
 これに続いて、09年の秋に発表されたのが、“Raw Timber”であった。この全7曲を収録したEPは、森の中でのギターの弾き語りをライヴ・レコーディングした、ちょっと一風変わったライヴ録音作品。騒々しくも慌ただしい世界に背を向けるように、たったひとりで森へと向かい(現実逃避?)、シンプルにギター一本のみの演奏で歌う。誰に聴かせるためにでもなく、ただ森の中にたたずむ自分自身の歌を記録するためだけに。通常、EFTBは、機材によるループやオーヴァーダブを多用することによって、ワン・マン・プロジェクトとは思えぬほどの豊かなサウンドを構築してゆくのだが、そうした音楽面・サウンド面での装飾的な部分を、ここでは、全てストリップド・ダウンしてみせている。コトヴスキーによれば、この作品は、意図的な原点回帰の一作であったようである。
 おそらく、EFTBの作品に対する評価が高まってゆくにつれて、広い世界との関係性は爆発的に増大し、さらに自らが創作した作品そのものも勝手に一人歩きし始める、という状況にあって、あれもこれも、全部一度リセットしてしまいたい気分になったのではなかろうか。そうした内面的な葛藤を、素直に吐き出し、ひとつの作品として表したものが、この“Raw Timber”だったのだろう。これは、コトヴスキーの静かな心の叫び、そう呼ぶことができそうな一作だ。囁くような小声の叫びではあるが、その奥にある傷口からは、痛々しいほどにドクドクと真っ赤な血が流れ出している。
 この“Raw Timber”も、ツアーEPの“Seven”に続いて、超限定盤としてのリリースとなった。ひとつずつ手作業で制作されたスペシャル・パッケージにナンバリングが施された、CDの作成枚数は、全部で50枚のみ。そして、それらは、EFTBのホームページを通じて、一枚につき10ユーロで販売され、総売上の500ユーロが、ドイツの自然保護団体、Rettet den Regenwald e.V.(環境破壊や津波被害によって浸食が進むスマトラの熱帯雨林沿岸部にマングローブを植林する活動を行っている)に寄付された。
 人類の欲望と横暴の犠牲となって、次々と切り倒されてゆく森の樹々。残酷な破壊行為にさらされている自然環境を前にして、コトヴスキーは、森と痛みを共有することを試みたのだろう。ともに、深く傷ついているものとして。だが、森の中でのシンプルな弾き語りは、ギターという楽器もまた、伐採された森の木から作られているという事実を、そのシンプルな表現行為と、そのシンプルに震える音響ゆえに、強烈なまでに深く思い知らされる経験となる。コトヴスキーは、そのことに愕然とし、さらに思い悩んだ。そうした経験と思いが、グリーン・アクティヴィストへの寄付という行動につながっていったのだろう。
 これらの2作品には、その収録曲に既発作品のニュー・ヴァージョンが含まれているなど、どこか蔵出しの未発表作品をまとめたアウトテイク曲集風な雰囲気をもつという、微かな共通点があった。ライヴ・ツアー用のギヴ・アウェイ盤や、ささやかなファンドレイジング活動を目的とした原点回帰のライヴ録音盤という、ノベルティ作品的な側面が、かなり強かったにせよ、やはり制作に取り組む姿勢として、どこかコトヴスキーの側にも多少のレイド・バックした感覚があったのではなかろうか。バリバリに気合いを入れた、意気込みすぎた音ではない感じが、その時期の気分としては、ちょうど良かったということだろうか。また、気合いを込めて制作をしようにも、なかなかそれを継続してゆける環境が(内的にも外的にも)整わないということも、そこに影響を及ぼしていたのかも知れない。ゆえにか、それぞれの作品からは、あまりEFTBとして、音楽的にも、サウンド・プロダクション的にも、さらなる進化を遂げているという印象は、残念ながら得られなかったのである。
 “Seven”を制作する動機となった初のライヴ・ツアーと、それに続いた散発的なライヴ活動は、そうしたコトヴスキーが思っていた以上の騒がしさと慌ただしさをもたらした環境の変化のうちの、最たるものであっただろう。それまでは、自宅の居間や寝室で、自作曲の録音のために、ひっそりこっそりと歌い演奏するだけだった、人見知りの女の子が、たったひとりで多くの人の前でライヴ演奏し、いきなりツアーを組んで、ドイツ各地のライヴ・スポットを廻ることになってしまったのだから。今までに行ったこともなかった街のライヴ会場に、わざわざ歌と演奏を聴きに足を運んでくれる人々が、数多くいたという事実も、とんでもなく新鮮な驚きと喜びであったに違いない。ただし、そうした様々な喜びや楽しみに満ちた外の世界と対面するということは、それだけ様々な形のプレッシャーと向き合い、それに直面してゆくということでもある。その当時、まだメディア・アートを学ぶ芸大生であったコトヴスキーにとっては、そのようなありのままの世界に触れることも、きっと初めての経験であったのだろう。
 また、コトヴスキーとしても、最初は、自らのホームページやマイスペース、そしてネットレーベルを通じて、歌い/演奏し/音楽を制作するという、表現活動の延長線上として、何の気構えもなしに音源を発表していたはずだ。しかし、それが、当人の当初の予想以上に、大きな反響を巻き起こしはじめていた。ドイツの無名の大学生が、自宅でひとりで制作した音楽に、それほど大きな注目が集まるとは、夢にも思わなかったに違いない。それでも、Aaahh Recordsから発表された“Hydrophobia”は、リリースと同時にひそかな話題作となり、評価の波は、ネットレーベル・シーンにおいてジワジワと幾重にも波紋を描くように広がっていった。そして、08年の年末には、様々な音楽ジャンルの垣根を軽く飛び越えて、多くの評者によって年間のベスト・リリースのリストに選出されてしまうという、驚きの事態が巻き起こったのである。自宅の居間や寝室でコツコツと制作した音源が、世界的な絶賛と高評価を得ることになったのだ。
 ごく普通の宅録ローファイ・フォークのアーティストでしかなかった、コトヴスキーにとってみれば、これは、まさに青天の霹靂。おそらく、相当の戸惑いもあっただろう。ただし、こうした現象は、ネットレーベルのシーンにおいては、本当によい音楽であるならば、アーティストのネーム・ヴァリューや、強力にバックアップしてくれる大手レコード会社のプロモーション力・資金力などに全く頼らなくても、ちゃんと聴くべき人によって聴かれ、評価するべきする人に評価される可能性が十分にあるということの、まぎれもない証左でもあるのである。EFTBの極めて孤独な創作の中から生み出されたローファイ・フォークには、大きな評価に見合うだけのポテンシャルが、十二分にあったということなのだ。それに、コトヴスキー本人が、全く気づいてなかっただけなのである。自らの音楽を中心としたパーソナルな世界の外側のあれこれには、全く意識的でなかったのだろう。突如として降り掛かってきたネットワールドでの世界的な名声。個人的な音楽制作作業の成果で、思いもかけぬ音楽的サクセスを掴んでしまった驚き。完全に閉じた場所であったはずの、自宅の居間や寝室のホーム・スタジオの前に、いきなり、大きく世界に向けて扉が開かれてしまったのだ。有無をいわさずに、外側から。きっと、こうした、様々な突然の環境や境遇の変化に直面してしまったら、全く戸惑いの感情も抱かないでいられるというほうが、おかしいであろう。間違いなく当人には、何の心の準備もできていなかったはずだから。
 そのように突如として訪れた怒濤の変化の日々の中で、極めて繊細で敏感な感覚や神経の持ち主であると思われるコトヴスキーは、様々なものを見失ってしまったのではなかろうか。それまでの、平凡で何の変哲もない、静かな生活のリズムが、次第に狂いだした。そして、自宅の居間や寝室で、ひとりで続けてきた音楽制作の作業にも、なかなか没頭できなくなってゆく。表現のモティーフとなるキラキラ瞬くアイディアに満ちた、自分だけの世界で戯れる、ひとりの時間にも、あまり深くのめり込んでいられなくなる。そうした、この時期のコトヴスキーの内面に渦巻いていた、新たに開けた扉の外側の世界への迷いや戸惑いの感情の、様々な意味での(自然な)表出となったのが、“Seven”と“Raw Timber”の2枚であった。どこか無意識的に立ち止まり、唐突な原点回帰を図っていたのが、09年のEFTBの音楽であったように思われる。
 しかし、09年の10月に、何の前触れもなく、転機が訪れた。この時、コトヴスキーは、米国西海岸のカリフォルニアを旅行していた。そこで、思いがけぬ出会いが待っていたのである。世界の西のはずれ、カリフォルニアの地でコトヴスキーが発見したのは、ブルーグラス用のバンジョーであった。初めて手にした、この楽器の音色に、すぐに惚れ込んでしまったようなのだ。まさに、旅先での運命的な出会いである。
 バンジョーは、米国のトラディショナル・ミュージックの文化の中で生まれ、独自の発展をしてきた弦楽器である。元々の楽器としてのルーツは、米国の音楽文化のほとんどがそうであるように、アフリカから連れてこられた奴隷によって新大陸にもたらされた。南部の黒人たちは、リュートに似たアフリカの民族楽器を、心と体に染み付いた記憶をたよりに、奴隷生活の中で入手できる材料で作り出した。この新大陸で生成した、新たな民族楽器が、後のバンジョーへと発展してゆく。そうした楽器の発展を促す重要なフィールドとなったのが、米国のトラディショナル・ミュージックであるカントリーやブルーグラスの世界であった。しかし、その伝統文化の根底には、アフリカ系アメリカ人によってもたらされ、新大陸での厳しい生活の中で鍛え上げられていった、強靭な音楽的骨格が、今もなお奏法や演奏技術などの様々な面で息づいているということを、決して忘れてはならない。カントリーもブルーグラスも、広い意味でのクロスオーヴァー・ミュージックであり、まぎれもないハイブリッドなのだ。
 アメリカン・フォークロア・ミュージックの系譜から生み出された、バンジョーの凛と張った弦の響きが、コトヴスキーの心を強く振動させたのであろうか。この新鮮な出会いは、やや思い悩み、迷路に迷い込んだような状態にあった、コトヴスキーの心境を、少しずつ明るく照らし出し、変えていったようだ。個性の強いバンジョーの音色が、いつしか、カリフォルニアの青い空から照りつける、心の太陽となっていたのかも知れない。ドイツに戻ったコトヴスキーは、新たな心の恋人となった楽器、バンジョーを、来る日も来る日も熱中して弾き続けた。そう、ずっとずっと、自宅の居間や寝室で、ふたりきりの濃密な時間を過ごしたのである。
 この偶然の出会いを境に堰を切ったように流れ出した時間は、心の落ち着きを取り戻すための、よいきっかけをもたらしたようである。瞬間的に恋に落ちたバンジョーという楽器を通じて、再び真正面から音楽と向き合い、その濃密な時間の流れの中で、自分自身のことも、じっくりと見つめ直せたのだろう。やがて、コトヴスキーは、バンジョーをメインに使った曲作りを開始した。
 コトヴスキーは、元々、日々の生活の中で感じたこと、心に留まったことを、まるで日記やジャーナルを書き記すように、楽曲という形にして残してゆくタイプのシンガー・ソングライターであった。かつては、日常生活の中でほぼ習慣と化していた、この曲作りのペースが、刺激的な新しい楽器、バンジョーとの邂逅によって、ようやく長い停滞から抜け出し、復活を果たしたようなのである。そして、コトヴスキーの歌とバンジョーのみによる、ひとつの作品集が出来上がった。それが、この“Roadkill”というEPである。約四ヶ月に及ぶコトヴスキーのバンジョーへの並々ならぬ没頭ぶりが、インスタントに結晶化した一作といってよいだろう。09年の思い悩み、迷い続けた日々が、結果として、EFTBにとっての新たな創作の運動のスパークを生んだのだ。
 では、全10曲を収録した本作の内容を、ザッと眺めていってみよう。
 まず、オープニングを飾るのは、“Sirens #1”。ほの暗い部屋の片隅から立ち上ってくるような、どこか怪しげなムードをたたえた楽曲である。頭の中に渦巻いている、いろいろな悔恨や焦燥などの雑念が、いくつもの黒い影になって、こちらに迫ってくる。ぎこちない弦のループと、たどたどしいバンジョーのアルペジオ。微かに聞こえてくる笑い声は、妄想世界での誰かの嘲笑か、それとも暗い気分を紛らわすための、ただの空元気だろうか。どこか現実離れしているコトヴスキーのコーラスが、ゆらりゆらりと宙を舞う。雰囲気たっぷりのエセリアル・フォークである。
 これに続く2曲目が、いきなりタイトル曲の“Roadkill”。フィドルを模したような弦の反復フレーズに、しっかりと寄り添いながら、バンジョーが、熱く焼けつくようなアスファルトの上を、淡々と駆け続ける。澄み切ったコトヴスキーの歌声は、白く埃っぽい砂漠化した荒野の空気に紛れて、ひっそりと響く。厳しい表情を見せる驚異的な自然を前に、その美しい繊細な声は、とてもつもなく非力だ。車のウィンドウから吹き込んでくる熱い乾いた風が、漂いだそうとする歌声に絡み付き、その場に捥ぎりとってゆく。しかし、今回は、それでよい。これは、内面にたまったものを吐き出し、発散するための歌だから。全ての雑念を振り払うかのように、コトヴスキーは、バンジョーとともに猛スピードで走り去る。陰鬱に付きまとっていた黒い影たちを置き去りにして。
 3曲目は、“Dry Wood”。乾いた熱い風が、静かに吹いてくる。荒野を吹き渡り、カラカラの土埃とともに木々の幹を撫でてゆく。これは、かなり純粋にトラッド・フォーク・スタイルに挑んでいる楽曲である。バンジョーのアルペジオと細やかなトレモロにのせて、淡々と落ち着き払った歌が歌われてゆく。かつてのサンディ・デニー(Sandy Denny)を思わせる、遥か遠くの、微かな希望の光に望みを託すような歌である。表面的には線が細く、とても穏やかな歌であるが、実は、その根底には、とても強い芯がある。どこか見果てぬものへの憧憬の念というか、聖歌にも似た雰囲気ももつ佳作である。
 4曲目は、“Wastelands”。メランコリックなムードのフォーク・バラード。おそらく、コトヴスキーは、バンジョーの弦を様々な方法で弾く(弓で弾いたり、爪弾くなど)ことにより、フィドルや鍵盤を模した音色を作り出しているのではなかろうか。完全にひとつの楽器しか目に入っていない状態というか、極端にゾッコン型の入れ込みようである。ただ、かなり執念深いタイプの突き詰め方ではあるのだが、それが、立派なDIY精神の発露となって表現活動に結びついている点は、賞賛に値する。バンジョー一本だけで、どこまでゆけるかが、制作者にとっては、大変に重要なファクターのひとつとなっていたのだと思われる。これは、こだわりのローファイなのではなく、こだわるがゆえのローファイなのだ。もしくは、宅録ブリコラージュだろうか。何の動きも音もなく、そこにあり続ける砂漠化した荒野を前に、心を虚しくする。乾いた大地と抜けるような青い空。全てが、空っぽになってゆく。
 5曲目は、“Relapse”。ぽろぽろと物憂げな感情がこぼれ落ちるフォーキー・ワルツ。また悪い病気が再発したようだ。人間というものは、そう簡単にスパッと変われるものではない。古い傷は、いつまで経っても疼くし、仮面の奥の素顔は、決して取り替えられはしない。吹っ切れたと思っていても、ちょっとしたきっかけで元の状態に逆戻り。ゆっくりと沈んでゆく気持ちが、ワルツのステップを踏みながら、くるりくるりと回り続ける。内面に鬱積する感情を歌にして吐き出すことが、一種の精神的なセラピーとなる。終盤での、しっかりした足取りでワルツィングするコトヴスキーの多重録音されたコーラスを聴いていると、この状態以上に危険なところまで落ち込むことは、もうなさそうな感じもする。今は、傍らのバンジョーが、支えになっている。
 6曲目は、“Patience”。黄昏時が似合いそうな、ムーディで懐の深いバラード曲。人生とは、同じような日々、代わり映えのしない日常の繰り返し。落ち込むことばかりでも、後悔ばかりの一日でも、日は暮れて夜になり、また次の新しい一日を迎えて、生きてゆかなくてはならない。だから、人生とは、辛抱強く耐えることでもある。雨の降る日もあれば、晴れる日もある。俯きながら朝を迎える全ての人々に、天上から救いの手を差し伸べるかのような、美しくヘヴンリーな歌声のコーラスのリフレインが、とても印象的だ。
 7曲目は、“Vertigo”。目眩。眩暈。曲調は、のどかな感じのするカントリー・ワルツ。静けさに包まれた夕べに、暖炉の火を囲みながら歌われる、優しいナーサリー・ライムのような歌である。日々のあれこれが、ワルツの踊り手となって、優雅なフィドル風の弦の音色にあわせて、くるくると舞い踊っている。心地よいまどろみの中で、いつしかステップは、夢と現実の狭間をゆらゆらと行ったり来たり。目くるめく夢見心地のダンスとともに、ゆっくりと静かな眠りの淵へと滑り落ちる。囁くようなコトヴスキーの歌声は、まるで往年のヴィクトリア・ウィリアムス(Victoria Williams)のような可愛らしい雰囲気があり、深く包み込むような優しさに満ちあふれている。
 8曲目は、“Pirates”。本作のハイライトのひとつとなるであろう、過酷な人生という海路の荒波を乗り越えて、ひたすらに冒険の旅に明け暮れる海賊の歌。バンジョーの多重録音による、うねり揺さぶりかけてくるような骨太のトラッド・フォーク的なバッキングに、無理も無駄もないスマートなメロディがのる。勇壮さと隣り合わせのメランコリー。ここでのコトヴスキーの歌は、かつての孤高のフォーク・シンガーたちがそうであったように、非常に凛とした無頼派の語り口と響きをもつものとなっている。忘れ去られ、置き去りにされてしまったものたちの、心の叫びを、奈落の底から救い出して、歌で代弁する。荒野のハイウェイを疾駆するEFTBが、大海のアドヴェンチャーの夢を見る。その歌は、着実に進化していっている。
 9曲目は、“When You Were Young”。遠く過ぎ去ってしまった、若かりし日々。煌めき瞬くような楽しい思い出と、もう決して取り返しのつかない後悔の念。ちらちらと走馬灯のように記憶の断片が駆け巡る、切なさいっぱいのフォーキー・バラードである。挑戦して、失敗して、転んで、躓いて、また立ち上がって走り出す。若い頃は、いつだって、その繰り返し。だから、記憶の蓋を開けて、封印していた思い出を取り出そうとすると、異様なほどの甘酸っぱさが目一杯に広がる。ただし、甘みなんて、ほんの少しで、大半は、酸味だが。きっと、ずっと、あの頃の汗や涙に、どっぷりと浸かっていたせいだろう。忘れかけていた、葛藤や苦悩や焦燥が、ありありと蘇ってくる。人間は、大人になると、忘れてはいけないことまで、積極的に忘れてしまおうとするようになる。老いさらばえば、自然に、忘れたくないことまで、簡単に、忘れてしまえるようになるというのに。若き日に思い描いていた、未来の自分が、寂しげな瞳で、今の自分を、遠くから眺めている。
 10曲目のクロージング・ナンバーは、“Sirens #2”。冒頭を飾った“Sirens #1”と対になっている楽曲である。シンプルなバンジョーのアルペジオと、澄み切ったコトヴスキーのコーラスの多重録音。微かにフォークトロニカ的なエレクトロニクスのスパイスも効いている。強引に名付けるならば、ローファイ・バンジョートロニカといったところであろうか。緻密さの中にも、絶妙なのどかさが穏やかに漂う、独特のEFTBらしい間のあるサウンドのムードとともに、乾いた荒野を行く全10曲の旅路は、ゆっくりと幕をおろす。
 バンジョーとの運命的な出会いから誕生した、EFTBの新作“Roadkill”。これは、新たな楽器を手にしたコトヴスキーによる、新たな音楽の旅路へと踏み出してゆこうとする、強い思いが込められた作品である。砂漠の荒野の真ん中を、どこまでも真っ直ぐにのびている西部のハイウェイは、その新たな音楽の旅路と、ぴたりと重なる。米国のトラディショナル・ミュージックの文化の中で育まれてきたバンジョーの弦の音色が、そうした目くるめく刺激に満ちた旅路へのインスピレーションを運んできたのだろう。そして、それが、コトヴスキーの中でモヤモヤと渦巻き燻っていた、迷いの念を振り切りたいという思いとも、ぴたりと重なったのだ。
 また、バンジョーの弦の響きによって振り切られているのは、精神面における迷いだけではないような気もする。広く音楽的な側面から捉えれば、それは、EFTBも無意識のうちに体現してしまっていたはずの、欧州のトラッド/フォーク・ミュージックに特有の湿った質感という部分にも、かなりの影響を及ぼしたのではなかろうか。コトヴスキーの内面を占拠していた陰鬱さを断ち切るのに、バンジョーのもつ強い弦の響きと深い音楽的・文化的な伝統が果たした役割は、非常に大きかったはず。それはまた、黒いドイツの森から抜け出して、カラッと乾いた空気に触れてみたいという切なる願望にも、形を変えて響いた。バンジョーとの新たな出会いは、内に対しても、外に対しても、この上なくピタッとはまったようだ。
 本作における、ワルツ、ポルカ、ブルーグラスなど、アパラチアンな匂いのするアメリカン・カントリー・ミュージックの要素を、随所に取り入れた楽曲の数々には、明らかに、これまでのEFTBの楽曲にはなかったような、カラッとドライに吹っ切れている感覚がある。その歌には、どこか、いつまでも堂々巡りをしているような印象があったのだが、この作品においては、そうした、とても低い位置にとどまり続けている雰囲気は、ほとんどない。たとえ、今は暗く沈み込んでしまっていたとしても、出口の明かりを探し求め、新たな旅路へと踏み出してゆきたい願う、強い思いそのものは、決して見失っていないのだ。その旅路が、荒野の真ん中を行く過酷なものだとわかっていても、もうコトヴスキーは、決して怯むことはない。心強い旅の道連れがいるから。
 そして、深い葛藤と苦悩の中で堂々巡りを繰り返していた歌は、乾いた荒野を行く旅路において、見る見るうちに深みのあるものへと育まれていった。この“Roadkill”では、シンガー・ソングライターとして、大きく成長を遂げたコトヴスキーの歌を聴くことができる。その新たな地平を目指して突っ走っている歌には、希望と生命力に満ちた確信が、その根底に力強く息づいている。今回の積極的な突破と逃走は、EFTBの音楽にとって、進化と成熟へと向かう大きな契機となったようだ。
 “Roadkill”という作品が描き出しているのは、迷いと苦悩と、そこからの再生と成長という、大きなストーリーである。その核心にあるのは、刺激的な新たな出会いと、それを通じた自分自身の再発見だ。そして、その全面には、砂漠と荒野の真ん中を、真っ直ぐに突っ切るハイウェイを、どこまでも走り抜けてゆこうとする、熱く固い決意が込められている。
 端的に言って、これは、今後のEFTBの突っ走りっぷりにも、大いに期待したくなってくるような一作である。さて、次は、どのような成長ぶりを聴かせてくれるのだろうか。また、何か新たな出会いが、コトヴスキーを待ち構えているのかも知れない。このEFTBの旅路が、荒野を抜けて、どこへ向かって行くのか。全く興味は尽きない。(10年)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
この人のCDってどこで買えるんでしょうか
hydrophobiaのfree download聴いたらすっかりファンになっちゃいました
capo
2010/12/20 00:57
entertainmentforthebraindead.com
確かEFTBのホームページで直接購入できたと思うのですが…
どうも、突然、EFTBでの活動を休止してしまったようで、
今後どうなるのか今はまだ全くわからない状況みたいです。
溝!
2010/12/20 04:30

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