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<<   作成日時 : 2010/02/15 03:03   >>

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James McDougall: Mountain Upon A Phosphorescent Sky
Impulsive Habitat IHab005

画像 Impulsive Habitatとは、ポルトガルのネットレーベル、Test Tubeが、09年に新たにその傘下に設立した、フィールド・レコーディング系のエクスペリメンタル・サウンドを専門に取り扱うサブ・レーベルである。そして、これは、その新レーベルより発表された、五作目の作品。かねてより、間もなくリリース予定であると、密かに喧伝されていた、ジェイムズ・マクドゥーガル(James McDougall)の新作だ。リリース日は、10年2月1日。ジッと辛抱強く待ち続けていた人々も、結構いたのではなかろうか。焦らしに焦らして、ようやくImpulsive Habitatが発表してくれた、待望の一作である。
 ジェイムズ・マクドゥーガルは、オーストラリアのクイーンズランド州東南部に位置する、シドニーとメルボルンに次ぐオーストラリア第三の都市にして、州都でもある、ブリスベンを拠点に活動するサウンド・アーティスト。また、ソロ・プロジェクトのエンティア・ノン(Entia Non)での活動でも、広く知られている存在である。エンティア・ノンは、Resting Bell、Test Tube、DataObscuraといった数々のCDrレーベル/ネットレーベルより、質の高いエクスペリメンタルなエレクトロニック・ミュージック作品を、すでに何作もリリースしている。元々、自らフィールド・レコーディングした音素材をディジタル・プロセッシングし、独自のサウンドをクリエイトしてゆくという手法を、エンティア・ノンの作品におけるサウンド・プロダクションの基本形として、頻繁に行っていたマクドゥーガル。だがしかし、ここ最近は、後々の加工工程のための生の音の素材であった(はずの)フィールド・レコーディングのマテリアルを、そのまま(編集し)音響作品として発表するというケースも、徐々に増えてきている。そうしたフィールド・レコーディング系の作品をリリースする際には、これまでのエンティア・ノンという名義ではなく、実名のジェイムズ・マクドゥーガルをアーティスト・ネームとして掲げることが多い(ように思われる)。そして、今回の作品も、そうした、このところ、つとに増えつつある、エンティア・ノンとしてではない、ジェイムズ・マクドゥーガルとしてのリリース作品となっている。
 “Mountain Upon A Phosphorescent Sky”は、やや長めに編集された、じっくりと聴かせるタイプのフィールド・レコーディング作品である。デュレーション・タイムが20分27秒のギュッと旨味が凝縮された、質のよい中編といったところであろうか。制作時期は、09年の12月。作品の素材となる音源の録音は、マクドゥーガルの地元であるブリスベンの近郊、サウス・イースト・クイーンズランドの大自然の真っ只中で行われた。主に、ブリスベンの北西に広がるダギラー山脈の奥地やその周辺など、複数のロケーションが、今回の作品のためのレコーディング・ポイントとして定められたようである。通常のステレオ・マイクに、コンタクト・マイク/ピエゾ・マイク、そして水中マイク(ハイドロフォン・マイク)といった複数のマイクロフォンを携えて、深く山中に分け入り、そこで手つかずのままの大自然のサウンドが採集されていった。クーンズランド州の沿岸部には、広大な熱帯雨林が広がっており、ダギラー山脈の周辺にも、いくつもの州立の森林公園や保護公園が、鬱蒼と緑の木々を茂らせて点在している。マクドゥーガルによる、そうした雨の多い湿ったジャングルとの格闘の記録が、このフィールド・レコーディング音源なのだといっても、あながち間違いではないかも知れない。
 タイトルには、微妙に意味深な感じが漂っている。そのまま訳すと、「燐光を発する空の山」となる。燐光とは、主として黄リンが空気に触れることで酸化し、自然発火という形で発する青白い光のことである。生物の骨や歯に、非常に多く含まれているリン酸カルシウム。自然界においては、土の上に横たわる腐敗してゆく動物の死骸を、バクテリアが分解してゆくことにより、そのリン酸カルシウムから黄リン/白リンが発生することがある。これが、薄暗い場所で空気に触れると、青白い炎をあげて光って見えるのだ。特に、湿った大気中では、この自然発火する燐光が見られることがあるようだ。また、西欧では、古く石器時代から埋葬の文化が浸透し、その後に広く普及したキリスト教の教義によって火葬が禁止された背景もあって、墓地では死者が土葬されるのが常であった。そのため、薄暗い空気の湿った墓地において、様々な条件が一致した際に、死者の亡骸から発生したリンが自然発火して、青白い炎をあげるという現象が、ごく稀に起こる。これが、墓地での多くの目撃情報がある、人魂(火の玉)の正体であるらしい。古い伝承では、真夜中の墓地でユラユラと燃え上がる青白い炎は、死者の身体から抜け出した霊魂が、(行き場を失い)空中を漂い飛んでいるものとされる。そのためか、火の玉は、現在でもお化け屋敷の定番の出し物のひとつだ。ふわふわと火の玉になって飛び回る死者の魂。生の世界の外側に、通常のヒトの理解の範疇を越えてあるものは、やはりとても怖く、恐ろしいものである。
 フォスフォロス(Phosphorus)という語は、光を運ぶもの/光を担うものという意味をもつ、ギリシャ語である。このフォスフォロスにラテン語で対応しているのが、ルシフェルであり、こちらも、光をもたらすもの/光を帯びたものという意味がある。こちらは、ローマ神話のルシファーであり、後にキリスト教の聖書の記述では、天界に背いたサタンや冥界に落ちた堕天使となる。また、フォスフォロスとルシファーのどちらも、明けの明星/暁の明星という意味ももつ。一日の始まりの、まだ薄暗い空に、一番最初に輝く星。腐敗しつつある死した肉体に形成される物質、黄リン/白リンが、自然発火し、暗闇で青白い炎となって光る現象が、浮遊する魂の光と結びつけられたのも、こうした明け方の空に浮かぶ明けの明星/暁の明星の輝きになぞらえられたからであったのかも知れない。そして、その青白い炎が立ち上ってくる場所が、死者が埋葬された墓所の土の下からであるということは、どこか天界から追放されたルシファー/サタンのいる冥界/冥府との微妙な関連性があるようにも思われる。興味深い。燐光を発する黄リンが、猛毒物質であることも含めて、この青白い炎は、死者の魂や死者の世界(冥府)などと関連づけられ、太古の時代から、恐ろしいもの、触れてはならぬものとして、認識されてきたのであろうことは、大いに考えられる。フォスフォロスの光とは、生きた人間の手の及ばぬところにある、ほとんど人知の枠を越え出た存在だといえる。そうした意味においても、自然発火する青白い炎とは、完全に自然の世界に属する(自然)現象に違いない。
 この作品において、そのフォスフォロスにまつわる自然現象は、大変に重要なファクターとなっているように思われる。本物の自然現象は、本物の自然のただ中でしか生じない。まがい物の現象が、自然の中に回帰してゆくことなどは、決してないだろう。そして、一度、完全に失われてしまった自然は、厳密には、もう二度と取り戻せないのである。ヒトは、人間の生きる世界の向こう岸の自然界を、此岸の生存界とは決して交わることのなかった、境界の外側の場所と見る。そこでは、生を終えた腐敗してゆく人間の遺体から、黄リンが生み出され、湿り気の多い空気に触れて自然発火する。そして、青白い炎となった燐光が、ゆらゆらと漂いながら、こちら側の世界へと舞い戻ってくるのである。彼岸と此岸は、実は地続きなのだ。だがしかし、本来は、人間の生は、向こう側へと到達することは絶対にない。なぜならば、彼岸にあるのは、自然のままの、生者ではないもの=死者の世界でしかないから。それゆえに、生存する人間という存在には、本物の自然を侵すというようなことは、不可能事であったはずなのだ。本物の自然とは、向こう側にある徹底的に畏怖すべきものであり、絶対に触れてはならぬものであったはずだから。ちょうど、猛毒であり、魂の光である、フォスフォロスを、世界の外側に越え出たものとして、太古からヒトが恐れてきたように。
 足を踏み入れたダギラー山脈周辺の大自然、鬱蒼と茂り薄暗い湿り気の多い雨林の奥地で、マクドゥーガルは、そうした畏怖すべき向こう側の世界について、何かを肌で感じながら、思いを巡らしたに違いない。深い緑の山を、遥か昔から繰り返されてきた生と死のサイクルを、腐敗を、バクテリアを、大気中の多量の湿気を、ほのかな青白い炎を、本物の自然の中心部から溢れ出してくる、豊潤なる音の奔流のただ中で夢想する。もしかすると、マクドゥーガルは、その湿った空気の中で、実際に、自然発火し、ゆらめくように漂う燐光を見たのかも知れない。いやいや、それはただ、冥府に潜むサタンによって巧妙に仕組まれた、燐光らしき幻覚を見せられただけであったのか。いずれにせよ、いくつものマイクと機材を携えて山脈の奥地に分け入ってゆく、大自然との格闘の連続は、向こう側の世界へと大きく接近するような、とても貴重な経験となったはずだ。
 さて、燐光を発する空とは、いかなるものなのだろう。山脈を形成する山々の尾根から立ち上る、無数の青白い炎が、大空をほのかな燐光の光で埋め尽くしてゆく光景であろうか。ゆっくりと腐敗を進行させている、おびただしい数の遺骸に発生する黄リン/白リン。それは、そのまま、ゆっくりと死につつあるクーンズランド州の本物の大自然が、静かに失われてゆく様を、譬喩的にとらえたイメージであるのかもしれない。多くの降水量に恵まれ、多様な種の動植物がひしめき合う、広大なる熱帯雨林。その本物の大自然が、今ゆっくりと静かに死につつある。そのじわじわと朽ち果ててゆく亡骸から、湿った空気に触れて自然発火したフォスフォロスの光が、無数にゆらゆらと立ち上ってゆく。そして、ダギラー山脈の上空を、おびただしい数の燐光の群れが、ほのかな青白い光で照らし出すのだ。
 マクドゥーガルが、このところ実名でフィールド・レコーディング系の作品を次々と発表しているのは、なぜか。その真意は、推し量るしかない。だが、おそらく、地球環境の問題への関心を急速に深めていることが、そこに大きく関係しているのは間違いないことのように思われる。かねてよりエンティア・ノンでの作品の制作のための音素材を採取する目的で、地元クーンズランド州の大自然の中でのフィールド・レコーディングを繰り返していたマクドゥーガルであったが、その録音の現場で、静かに起こりつつある異変に気づいたのであろう。そこでは、永遠に絶えることはないと思われていた、豊かな本物の大自然が、無惨にも破壊され、呆気なく失われ、着実に死に向かっていた。クーンズランド州の広大な熱帯雨林も、その内部に足を踏み入れて、つぶさに眺めれば、地球温暖化の影響で、その姿は、ほんの数十年前と比較しても、激変してしまっているに違いない。こうした状況では、手つかずのままの本物の大自然ほど、環境のちょっとした変化に、あまりにも無防備にさらされ、思いがけぬほどに多大な影響をこうむってしまうものなのである。太古から延々と変わることなく繰り返されてきた自然の営みは、ちょっとした変化にも弱く、とても脆い。年間の平均気温が約一度上昇するだけで、完全に崩壊して、跡形もなく消え去ってしまうのである。
 それでは、地球温暖化の猛威にさらされ続けている、山中の奥深くで繰り広げられた、マクドゥーガルによる悪戦苦闘の記録に、じっくりと耳を傾けてみよう。まず聞こえてくるのは、次々と押し寄せてくる、迫力のある大自然が生み出すノイズである。熱帯雨林の奥地の湿り気のある地表近くで発生する微細な物音が、コンタクト・マイクで拾い上げられ、全方位型の唸るようなナチュラルなドローン音響へと増幅されてゆく。頭上の鬱蒼と茂る木の枝々からは、鳥や動物たちの鳴き声が、次々と降り注いでくる。森の中に生きるものたちの声は、まるで木々の間を縫うように、驚くほど豊かに響き渡る。虫たちの鳴き声は、ざわざわと、湿った茂みの奥から高々とこだましてくる。勢いよく流れるせせらぎからは、瑞々しい水音が弾ける。突如として襲いかかってくる、耳を劈くほどの蝉のわめき声。これはもう、超一流の高周波ノイズだ。凄まじい。やがて、ポツポツと雨音がしてくる。かなりの大粒の雨が、ボタボタと上空から落ちてくる。遠くの空では雷鳴が轟く。マイクの周りを飛び回る虫の羽音。地球の引力に吸い寄せられ、地面に叩き付けられる雨粒は、鋭い金属的な打撃音を立てる。嵐のような本降り。雨の音。風の音。雷の音。本物の大自然を、強烈な雷雨が、すっぽりと覆い尽くす。ある種、驚異的な光景である。激しい雨脚の中で、自然界の事物は、その境界を簡単に失ってしまう。全ては水浸しとなって、ひとつの時間の裂け目の中に飲み込まれてゆく。これが、この山脈の周辺で、飽くことなく繰り返されてきた日常の営みなのである。次第に、ゆっくりと雨雲が、山の上空を去ってゆく。雨は小降りとなり、本物の大自然は、再びその景色を取り戻す。微細な物音もまた、活発に蠢きだす。大量の降雨が、小川になり、滝となって、森の中を流れてゆく。遠ざかる雷鳴。豊かな美しい水音が、森の木々の根元を走り回る。水中マイクが、森のせせらぎに潜り込む。冷たく澄み切った水の粒子が、軽やかに飛び跳ね、流れ行く。深い液状のエコーが響く。静かで薄暗い水の底を、水中マイクが探索する。どこまでも透明で動じない深い森の水の内部の世界。ここでは、まるで時間の流れが、ずっと止まってしまっているかのようである。水面から顔を出すと、再び威勢のよい虫たちのざわめきが聞こえてくる。いくつもの清々しく歌う鳴き声が、雨で湿った空気と濡れた梢の合間に響き渡る。すると、突然、完全に大自然とは不釣り合いな、唸るように持続する電子的な雑音が飛び込んでくる。そして、プッツリと、マクドゥーガルによる音の記録は途切れてしまうのだ。雨上がりの熱帯雨林の、生気に満ちた情景を捉えようとしていた、その最中に。どうしたのであろう。機材の故障だろうか。ダギラー山脈におけるマクドゥーガルの悪戦苦闘は、どうやら、思いもかけぬアクシデントとともに幕が引かれることとなってしまったようである。
 異様なノイズとともに突如停止した録音機材。レコーダーの内部に、雷雨の雨粒が侵入し、機器がイカレてしまったのだろうか。もしくは、熱帯雨林の強烈な湿度の中での過酷な作業に、遂に機材が音をあげてしまったのか。しかし、やや尻切れとんぼな形になってしまってはいるが、編集された20分27秒の音は、ひとつの記録として、きっちりと残された。これを耳にすれば、この録音の現場が、相当に凄まじい状況にあったであろうことは、まざまざと窺い知ることができるはず。実にドラマティックな迫真のフィールド・レコーディング音源である。ダギラー山脈の雷雨は、ちょっと背筋が寒くなってくるくらいに恐ろしい。強烈だ。本物の大自然には、本物の雷雨が襲いかかるということか。ここでは、全てにおいて、生易しさなんてものは微塵もない。まがい物が入り込む余地など全くない、全て本物だらけの世界なのである。いや、もしかすると、すぐに限界を越えて壊れてしまった録音機材だけは、新しい文明の技術(模倣)によって生み出された、一種のまがい物であったのかも知れない。ゆえに、容赦ない雨粒の襲撃に耐えきれずに、大自然の世界から、いとも簡単に排除されてしまったのだろう。だが、この奇妙な結末、不可抗力的なエンディングの迎え方は、何か別の意味での異様さを伴っているような感じもする。雨粒や湿気のような、非常に些細な要素が原因であろうとも、それが、何らかの事物に思いがけない終止符を打つということは、とても簡単なことなのだ。そういったことを、この音の記録は、どこか暗示しているのではなかろうか。本物の大自然の営みも、決して永遠に存在し続けるものではない。たとえ、ちっぽけなヒトの力による作用であろうとも、そこに終止符を打つのは、本当にいとも簡単なことなのである。先端技術の賜物である電子機器も、太古から変わらぬ手つかずのままの大自然も、壊れるときは、呆気なく壊れるものなのだ。
 “Mountain Upon A Phosphorescent Sky”という作品の背景にあるイメージは、熱帯雨林の湿った大気の中で自然発火した燐光が、ゆらゆらと漂い、立ち上ってゆく光景であると思われる。そこで猛毒のリンを発生させているのは、いまゆっくりと死に向かいつつある大自然である。森に棲むバクテリアたちによって分解された大量のリンが、無数の燐光となって、クーンズランド州の大空を、ほのかに青白く照らし出す。そうであるならば、ダギラー山脈の大自然の一部は、もはや遺骸と化してしまっているのだろうか。マクドゥーガルは、マイクと録音機材を携えて大自然の奥地へと分け入り、その姿の現状を克明に記録した。ブリスベンでの日々の生活の中で見上げる、山々や大空から、失われつつある大自然の、悲痛な声なき叫びを耳にしたからだろうか。大空を覆い尽くす真っ黒い雷雲に、冥府からのサタンの到来を見たからだろうか。何かが、間違いなく、マクドゥーガルを行動へと駆り立てたのである。手遅れになってしまう前に、ダギラー山脈の熱帯雨林の声を聞き届けなければならないと。
 マクドゥーガルは、生々しいフィールド・レコーディング音源を作品として残すことで、豊かで満ち足りていた時代の地球の大自然の記録を、とてもささやかにではあるが残してゆこうとしているのではなかろうか。音の記録ほど、活き活きと生々しく、大自然そのものが、自らについてありのままに語っている場面を切り取って、後代にまで残しておける形態はないであろうから。そこでは、写真や映像では捉えきれないような微細な部分にいたるまで、克明に記録ができる。大自然のかすかなざわめきに高性能のマイクロフォンを向ければ、ともすれば見過ごされがちな、大自然の本質を形作る、躍動する微小な生の営みが、せわしなくひしめき合っている様を、確認することもできるだろう。鳥が鳴き、虫が鳴き、水滴が滴る。風が吹き、霧が流れ、木々が天を突く。マクドゥーガルは、この大自然の生の音を編集した作品を通じて、とても物静かなプロテストを行っているのである。いや、フィールド・レコーディング音源を通じて、静かに語りかけてきてくれているのは、燐光のイメージに包まれた熱帯雨林のほうであろうか。マクドゥーガルは、作品の作者であるとともに、大自然とヒトの間を取りもつ仲介者の役割も兼務している。“Mountain Upon A Phosphorescent Sky”は、とても静かに、ごく自然な語り口で訴えかけてくる作品である。深刻な環境破壊が、地球規模で進行している現状を。消滅の危機にさらされている熱帯雨林の窮状を。無数の立ち上る燐光によって、青白く照らし出される大空の、ほのかなイメージとともに語りかけてくる。それは、過激なエコな生活を強制するエゴイスティックな叫びとは、ほど遠い。ただ、ありのままの大自然の現状を、ありのままに音の記録で提示することによって、何らかの判断を促し、新たな見解への道筋を示そうとするだけだ。これは、クイーンズランド州のダギラー山脈の奥地からの、迫真の報告である。その生と死の格闘の最前線をリポートしてくれたのは、ブリスベンの意識的なサウンド・アーティスト、ジェイムズ・マクドゥーガル。現在、地球環境が直面している厳しい現実を、ここに聴く(見る)ことができるはず。作品が、それを(直接的に/間接的に)語っている。不気味なサタンの影が、背後に刻一刻と迫りつつあることを、痛々しいほどに思い知られる音。手遅れになる前に助け出さなくては。すでに、自然発火した燐光は、そこここで、ほのかにゆらめきはじめている。(10年)

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