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<<   作成日時 : 2009/09/21 04:00   >>

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Anata Wa Sukkari Tsukarete Shimai: Horror Punks EP
Rack & Ruin Records RRR141

画像 ヒア・カムズ・ザ・ホラー・パンクス。ほら、パンクスがやってくる。向こう側から、やってくる。パンクスは、死なない。パンクス・ノット・デッド。ほら、生きたパンクスの死体が、やってくる。息絶えた死者として扱われたパンクスの、生きた亡骸。通常、ゾンビ化した者は、全てを奪い取られて、世界と社会の外側に追いやられてしまう。そして、目に見えない存在として、あらゆる関係性から徹底して除外される。しかし、そんな死なないパンクスが、突然、こちら側に舞い戻ってきたのだ。ザ・リターン・オブ・ザ・リヴィングデッド・パンクス。なぜ、どうして、何のために。得体の知れない恐怖が、隅々にいたるまで充満する。ホラー・パンクスが、やってきた。もう、誰もここから逃れることはできない。境界の門を通り抜けられるのは、アンタッチャブルな存在、ゾンビだけなのである。
 これは、オランダのネットレーベル、Rack & Ruin Recordsよりリリースされた、アナタ・ワ・スッカリ・ツカレテ・シマイ(Anata Wa Sukkari Tsukarete Shimai)の通算2作目のEPである。リリース日は、09年9月5日。ちなみに、アナタ・ワ・スッカリ・ツカレテ・シマイ(以下、AWSTS)のデビュー作は、UKのレーベル、Bearsuit Recordsよりリリースされた“Sweetness & Light EP”であった。リリース日は、09年7月25日。
 この非常にユニークで長い名前をもつ奇妙なグループ(バンド?)は、個々に日本やUKを拠点に活動をしている、三人のアーティストによるコラボレーション・プロジェクトである。AWSTS、またの名をユー・アー・コンプリートリー・タイアード!。このプロジェクトに参加しているメンバーは、日本の_(アンダースコア)、そしてUKのノームフォーム(Gnomefoam)ことスティーヴ・ブロムリー(Steve Bromley)と謎のバニー(Bunny)という、微妙に分かるようで分からない面白い面々。まあ、ある意味では、ちょっとしたスーパー・トリオである。アンダースコアとノームフォームの両名には、このAWSTS結成以前にも、複数のRack & Ruin Recordsからのリリース作品が存在している。そしてまた、この両名には、実は、なかなかのコラボレーション・マニアという部分でも、共通項があるようだ。よって、アンダースコアとノームフォームがコラボレーション・プロジェクトを立ち上げ、共同制作を行うということは、一部では、かねてより時間の問題だと捉えられていたのではなかろうか。そうした微妙な追い風を受けて結成されたAWSTSは、09年の夏、周囲の大きな期待に違わぬ、よく分からぬ大暴走を繰り広げてくれている。いや、この破竹の快進撃は、誰の目にも期待以上のものであるに違いない。そう、この夏、AWSTSは、かなり大胆に突き抜けてしまっている。
 “Horror Punks EP”は、そのものズバリな、恐怖のパンクス譚を、エクスペリメンタンルなエレクトロ/パンク/ニュー・ウェイヴ・スタイルのサウンドで大胆に展開した、かなりすさまじい作品となっている。テーマは、まさに、ホラー・パンクス。痺れるほどにホラーな、コンセプチュアル・ミニ・アルバムである。おそらく、大抵の人であれば、いきなりホラー・パンクスだなんていう妙な言葉を聞かされても、頭の中はクエスチョン・マークだらけであろう。たぶん、それこそが、普通の正しい反応であるに違いない。ただ、ホラー・パンクスのホラーでパンクスという、微妙に分かるような分からないような感じ。それこそが、実は、この作品のホラー・パンクスというテーマやコンセプトの、肝でありエッセンスなのではないかと思われる。ホラー・パンクスとは、その得体の知れなさこそが、肝要なのだ。得体の知れない奴らは、基本的に、ある種の別世界から、やってくる。
 AWSTSは、そのプロジェクトの音楽性の一端を、人間の内面の奥の奥に存在する最もどす黒い部分を音像化することだと、本作に関連したステイトメントにおいて表明している。そうした側面から考察すると、ここでいうパンクスとは、一般的な意味でのパンクスであるだけでなく、そこに繋がるイメージ群を集合させた、一種のメタファーであるようにも思われてくる。人類誕生以来の、全てのパンクな者たちの存在が、このホラー・パンクスのイメージには含まれている。いや、全てのパンクな者どもの、死なない肉体と霊魂(さまよえる亡霊=生きた死体=ゾンビ)が、このホラー・パンクスのイメージを形成している、といったほうがよいだろうか。体制への反抗を懲りずに続けて処罰された者、奇妙な服装で楽器を振り回していた若者、独裁者、大量殺人者、破戒僧などなど、過去から現在にまでいたる長大な時間軸の上で徘徊を繰り返している、あらゆるパンクな精神性をもつ者たちのゾンビ。それが、ホラー・パンクスだ。恐怖と戦慄のパンクス。この作品には、そんなゾンビたちのイメージが、たっぷりと詰め込まれている。もののけパンクス、お化けパンクス、妖怪パンクス。まさに、ホラー・パンクスの大行進である。死なないパンクスと死ねないパンクスが、暗い精神の闇の奥底の街角で、偶然にも鉢合わせをする。何度も何度も、繰り返し繰り返し。つまり、ホラー・パンクスとは、無数の過去と未来の生きた亡霊たちのメタファーとして闇の奥底から現れるのだ。
 “Horror Punks EP”は、全7曲を収録した、明確なテーマの下に繰り広げられる、コンセプチュアルな作品である。そこには、書き出しから結末まで、きちんと一貫した流れが存在している。そして、その全体的な流れを生み出しているのが、途絶えることなく押し寄せてくるゾンビたちの群れ、ホラー・パンクスの集団なのだ。ホラー・パンクスは、闇の奥底に埋没し沈殿していた、死ぬに死ねないものたちを呼び起こし、こちら側に連れてくる。それは、時代の移り変わりから取り残され、忘れ去られかけていた、亡霊と化した音楽であり、亡霊と化したサウンド。そこには、外側に追いやられてしまった者/物たちの、深くどす黒い怨念が、イヤというほどこびりついている。薄汚く、惨めったらしい、まさにパンクな音/音楽である。それらは、どんなに現実世界から除外され、積み重ねられた歴史の表層から追い払われ、(形式的に)死滅させられても、何度でも蘇って戻ってくる。ゾンビは、死なない、それは、生きたまま死んでいる存在。パンクス・ノット・デッド。得体の知れない恐怖を携えて、パンクスが街をさまよい歩く。ホラー・パンクスは、腐りかけた内蔵の奥底からこみ上げてくる、煮えたつ怨念を吐きかける獲物を探して、そこら中を徘徊するのだ。
 ヒア・カムズ・ザ・ホラー・パンクス。“Horror Punks EP”の幕開けを飾るのは、いきなり驚くほどに名曲な歌モノの“Evergreen No Niwa Ni Kirisame”である。常緑の庭に霧雨。外側へ追いやられ、ひとりぼっちで暗い孤独の淵に陥没する者の目の前に、どこまでも穏やかに広がる、静かに霧雨に濡れそぼる緑の庭園。雨に晒される緑鮮やかな木々の葉は、その死んだように虚ろな目には、もはや哀しみと諦めの象徴としか映らない。霧雨の降る庭に佇む孤独者が、過去から未来にまで連なる深き深き生の業を、ただただあるがままに受け入れる。視界に飛び込んできてしまう、目の前の濡れた景色が、細かな霧雨の水滴の流れに洗われ、色を落としてゆくのを、なす術もなく眺めながら。そして、突然に、そこにジットリと漂っていた悲哀のトーンは、巨大な諦念を通り越して、疾走をしはじめる。ひとりぼっちの庭園においても、行き場を失ってしまった孤独者。その生きたまま死せる魂は、渦巻き逆巻く劫火となって、小さな箱庭のごとき疑似世界、庭園の内側でのたうちまわる。破れかぶれ、だが、最初から八方塞がり。歪んだギターがガシャガシャと掻き鳴らされる、悲しく寂しく惨めったらしいパンキッシュな展開。この救いようのなさ、これぞ、パンクだ。まさに、ノー・フューチャーである。
 2曲目は、さらに本格的にノイジーなハードコア・パンクの領域に踏み込んでゆく“I Wish They All Could Be Horror Punks”。みんな、ホラー・パンクスになってしまえばいいのに。性急なカウントを合図に、堰を切ったようにあふれ出してくる歪んだギターと、激情のおもむくままにまくしたてるヴォーカル。まるで、全盛期のコンフリクト(Conflict)のようである。しかし、出だしこそ勢いがあってよかったのだが、なぜか途中から微妙に旗色が変わってくる。やんわりと迂回をする、悲観的な雰囲気の、マイナーな展開。やはり、ホラー・パンクスは、徹底してハードコアな現存在には、なりきれないのだろうか。生ける屍、ゾンビたちは、どうしても、全速力で疾走しているようで、恐らく無意識のうちに、躓いてしまうし、間も抜けてしまう。ホラー・パンクスによるハードコア・パンクは、やはり駆け抜けてゆくことができずに、完全なる未遂のままで、霧散していってしまうのである。中途半端の出来損ない。だからこそ、誰だってホラー・パンクスになれる。周囲を見渡せば、右も左も、中途半端の出来損ないばかりではないか。
 3曲目は、いきなり南の方角へと向かいだす“Persitent Damp Problems Haunt My Keyboard”。私のキーボードによく現れる、継続的な湿り気の問題。先ほどまで霧雨となって降りしきっていた水滴は、蒸し暑い南国の湿度の高い空気に移り変わる。カリブ海のラテン・スタイルのリズムが刻まれる。湿気を含んだ風が、白いビーチ・サイドの浮ついたノリを、やんわりと撫でてゆく。雰囲気としては、まるで南の島へ降り立ったミック・ジョーンズ(Mick Jones)のビッグ・オーディオ・ダイナマイト(Big Audio Dynamite)である。へらへらの似非カリビアン的要素を取り入れた、エレクトロニック・ダンス・ロック風な楽曲。終盤では、軽快なトラックにのせて、のっぺりとした語り調のラップも飛び出す。基本的に、これは今からもう約20年も前の、ジャンル折衷型のロック/ニュー・ウェイヴが、大真面目に取り組んでいたようなサウンドである。それを、現在に蘇らせると、どこか、たちの悪い冗談か趣味の悪いパロディのようにしか聴こえない。なぜか、墓場から蘇ってきた、生きたまま忘れ去られ、トドメを刺されずに死んだことにされていた音楽。そう、これは、中途半端に死んでいたゾンビ音楽である。ラテンのリズムで軽やかなステップを踏むホラー・パンクスが、ジットリとしたイヤな湿り気を運んでくる。
 4曲目は、黄昏れたビーチ・サイドの目と鼻の先で静かに沈み込む鬱気味なバラッド“Moisture Container And The Pain In My Arm”。湿度コンテナと我が腕の痛み。前曲から変わらずに、ムードはカリブ海。引き続きの第二幕となると、こちらは、ビッグ・オーディオ・ダイナマイト・II(Big Audio Dynamite II)ということであろうか。死にかけたBADの蘇り。まさに、ホラー・パンクスだ。この延長線上では、もはや軽快なラテンのリズムは一切登場しない。前曲のエンディングのメロトロン風のノイズを持続音として引きずる形で、人気のなくなったビーチの寂寞感が、重く湿った空気感を交えながらドンヨリと描き出されてゆく。腕の痛みは、ただの夏の日の記憶の一部。赤い薔薇投げ捨て、それで終わりにしようぜ。はしゃぎ過ぎた後、白けちまう。火遊びみたいに抱き合って、死ねるならいいね。その日だけの恋ならば、優しさも無い方がマシさ。黄昏れたビーチで抱き合う、ぼんやりとしたホラー・パンクス。腕の痛みは、ひと夏の恋の証である。
 5曲目は、南の島から一気に英国北部のリーズ近郊へとテレポーテーションする“Kirkstall! We Will Strap Them To Trains!”。カークストール!列車に縛りつけてやるぞ。高らかに打ち鳴らされる、誇らしげなピアノの和音。響き渡る鍵盤の音に鼓舞されて、ドリーミーなアンビエント・ハウス的なサウンドが繰り広げられる。ビートのスタイルは、プログレッシヴ風のグラウンドビート。これは、完全なる90年代初頭のダンス・ミュージックのリヴァイヴァルである。雰囲気としては、WAU! Mr. Modoあたりのアンビエント・ハウス〜ブレイクビート・ハウスや、The KLFの“Chill Out”と双璧をなすアンビエント・アルバムの名盤“The Ambient Collection”を発表した頃の後期アート・オブ・ノイズ(Art Of Noise)のサウンドを、モロに継承した楽曲だといえる。この系統もまた、ホラー・パンクスが、おぼつかない足取りでフラフラとダンスするには、もってこいのビートであるのかも知れない。たちの悪い冗談か趣味の悪いパロディのようなサウンドが、生きたまま死んでいるゾンビたちには、よく似合う。90年代初頭という時代にシッカリと封印されていたはずのアンビエント・ハウスやグラウンドビートが、ジットリと湿気を含んだ風に吹かれて、息を吹き返してしまった。疾走する列車に括り付けられたホラー・パンクスの、遥かなる旅路。
 6曲目は、さらに北上する列車とともに続く、ミステリアスなツアーの行く先を示す“Lost In The Forest Of Blank Sportswear”。林立する虚ろなスポーツウェアの奥地で迷子。前曲のピアノを引き継くサウンドが、一気に急降下してゆき、侘しげでメランコリックな歌が、力なく呟かれる。北へ向けてひた走る列車は、郊外の街並を抜けて、どこまでも生い茂る広大な牧草地をゆく。川や湖のほとりの草地のわきを走り抜けて、湿地帯を縫うように突き進む。そして、その草原の先に、大きく黒い森が見えてくる。林立する樹々によって昼間でも薄暗い森が、不気味なたたずまいで列車の到着を待ち受けている。ゆらゆらと吐き出される、物陰を這い回るような悲しげな歌声に、歪んでひしゃげたエレクトリック・ギターのネットリしたフレーズが、のしかかる。全てが崩壊してしまう寸前に立ち現れる、儚い瞬間的な美が、凍りついたように凝結した空間を、隅々まで包み込む。雰囲気は、もはや完全にダーク・ウェイヴ。忌まわしきゴス、つまり、ゴシック・ロック・スタイルだ。このギターの奇怪なよじれ具合は、西海岸ゴシック・パンクの雄、クリスチャン・デス(Christian Death)から受け継いだものであろうか。また、一面にのっぺりと漂う異様なおどろおどろしさという点では、アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)に強く傾倒していた頃のカレント93(Current 93)や、初期サイキック・TV(Psychic TV)の“Themes”あたりのサウンドと、相通ずるものがあるようにも感じられる。ホラー・パンクスは、再び恐怖と戦慄に満ちたホラーの世界に戻ってきた。森の奥の暗闇に、行き場を失ったゾンビたちがうごめいている。
 ラストを締めくくる7曲目は、実にラストを飾るにふさわしい小曲、その名も“Goodbye Until We Meet Again”。さようなら、再び会う日まで。列車に括り付けられ、不気味な黒い森の奥に迷い込んだ、孤独な魂は、いつの間にか、また、あの霧雨の庭に戻ってきてしまっている。ラフでローファイな、ノイズ混じりの、アコースティック・ギターによる弾き語り曲。シンプルで素朴な歌に、目に見えない者たちのコーラスが重なってゆく怪しい雰囲気には、どこか“Swastikas For Noddy”の頃のカレント93のオカルティックなフォーク曲を思い起こさせるものがあったりもする。何度も繰り返して別れを告げるホラー・パンクス。ゾンビたちが、また、向こう側の世界に静かに戻ってゆく。そして、また、何ものからも触れられぬ存在に立ち返った孤独者は、佇む静寂の庭でひとりぼっちになる。常緑の葉は、ただなす術もなく霧雨に濡れそぼっている。やまない雨が悲しみの象徴であるのなら、再会の日まで、ずっとずっと降り続くがいい。
 ホラー・パンクスが放出する湿り気は、堆積した時の重さに押し出され、生きたまま死んだことにされていたゾンビ音楽を、冷たい墓場の地の底から蘇らせた。忘れ去れていたゾンビ音楽は、声なき声によって呼び起こされ、こちら側の時の流れの中に、突如として超常現象的なミステリアスな力で引き戻されたのだ。ハードコア・パンク、ダンス・ロック、ミクスチャー、アンビエント・ハウス、グラウンドビート、ゴシック・ロック、ノイズ・オルタナティヴ、ネオ・フォーク、アポカリプティック・フォーク。時代の徒花として咲いた、変に突出してしまっていたがために、うまく時代の移り変わりとの折り合いがつけらなかった音楽たち。蘇ったゾンビ音楽は、そのまま生きた亡霊であるホラー・パンクスに憑依して、独特の湿り気とともに、ここに現出する。冥界をさまよう時代の徒花サウンドを呼び寄せるホラー・パンクスとは、口寄せパンクス、いや、いたこパンクスである。この“Horror Punks EP”では、そうしたゾンビたちが、こちら側に持ち帰ってきた、口寄せの音楽のあれこれを聴くことができる。おそらく、聴く人によっては、こうした時代を錯誤したサウンドは、たちの悪い冗談か趣味の悪いパロディのようにしか聴こえないであろう。きっと、全ては、そのいたこの口寄せ的な背景が色濃く関係しているせいに違いない。
 ヒア・カムズ・ザ・ホラー・パンクス。リヴィングデッドなゾンビたちが、大挙してやってくる。恐怖の約19分間に、全7曲がパンキッシュに吐き出される。そして、こちら側の世界を恐怖と戦慄のどん底に陥れたホラー・パンクスは、もとの目に見えない不可触な存在へと戻ってゆくのである。また会う日まで、さようなら。かのヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)は、ユダヤ教の聖典タルムードが伝える天使について、このように書き記している。「タルムードの伝えるところによれば、天使は―毎瞬に新しく無数のむれをなして―創出され、神のまえで讃歌をうたいおえると、存在をやめて、無のなかへ溶けこんでゆく。」と。この天使の姿は、どこかホラー・パンクスのイメージと重なる。ということは、この約19分間とは、全7曲に及ぶ、ある種の天使の讃歌であるのかも知れない。言わば、ゾンビ音楽への讃歌といったところか。もののけパンクスは、あちらとこちらを繋ぐ狭間に立つ聖なる存在。境界を越えれば、全ては裏返る。ポジがネガに、ネガがポジに。そして、天使の歌は、歪んでひしゃげたハードコア・パンクに、劇的な変容を遂げたりもするのである。
 いつかは、誰もが、ホラー・パンクスとなる。その可能性は、決して少なくはない。過ぎ去ってしまった時代への強い思いを抱いたまま、中途半端に、生きたまま死んだゾンビとなって、いつまでもさまよい続けるのだ。与えられた生を完全に全うして死出の旅路へ旅立つ旅人など、ほんの一握りであるに違いない。ゆえに、誰にでもゾンビ化する可能性は大いにある。そして、その心中の念や、生存時の業が、強ければ強いほど、ホラー・パンクスとして蘇りやすくもなる。生霊は、独特の湿り気を帯びて、霧雨に誘われるように、こちら側の世界に天使のように舞い戻ってくる。常緑の庭は、流れ落ちる雨粒の水滴とともに、色を失う。その瞬間に、忘れ去られていた時代の徒花が、ほんのひとときだけ咲き誇るのだ。パンクス・ノット・デッド。パンクスは、死なない。ただ、存在をやめて、無に還っただけ。ホラー・パンクスは、何度でも何度でも、こちら側に帰ってきて、徒花を咲かせ続けるであろう。でも、今は、その日がまたやって来るまで、しばしのお別れ。さようなら、ホラー・パンクス。さようなら、ゾンビ音楽。ただ墓場のあるところのみ、復活はある。(09年)

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