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<<   作成日時 : 2009/06/06 21:00   >>

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Sylvie Walder & Entia Non: Bewilderment
Resting Bell rb059

画像 エンティア・ノン(Entia Non)の新作。リリース日は、09年5月21日。フランスのSEM Labelより発表された、前作“Escarments”より約半年。また、実名のジェイムズ・マクドゥーガル(James McDougall)として、UKのCompost And Heightより発表した、“An Opening In The Canopy”からは約二ヶ月。全くインターヴァルらしきものを感じさせる暇もなく、早くももう次が出た、という印象である。この作品で、またしてもマクドゥーガルは、これまでにはなかった新たな試みに果敢に挑戦してくれている。
 ドイツはベルリンに拠点を置く、幅広く良質なエクスペリメンタル系の作品を紹介しているネットレーベル、Resting Bell。エンティア・ノンが、このレーベルから作品を発表するのは、08年1月の“Sub Routine”以来、約一年半ぶりの2作目となる。そして、本作は、これまで一貫して単独で作品の制作を行ってきた、エンティア・ノン(マクドゥーガル)にしては非常に珍しく、他のアーティストとのコラボレーション作業を通じて制作された一作となっているのである。
 オーストラリアのブリスベンで、オセアニアの大自然の懐に抱かれながらフィールド・レコーディングに勤しみ、ひとり黙々と音の世界に没頭して制作作業を行っている印象のあったマクドゥーガル。その緻密かつ繊細に作り込まれた、美しいサウンドスケープには、何人も寄せつけぬ気高さめいたものすら充満している。そうした硝子細工のコワレモノのごとき音の世界に、クリエイターであるところのマクドゥーガル以外の誰かが足を踏み入れるというのは、とても困難極まることのように思われたりもしたのだが。
 コラボレーションを行うということは、ひとつの作品の中に、自分以外の誰か=他者の音や思考や感情や感性を招き入れ、それを自らの音の世界と真正面から突き合わせて、ある種のせめぎ合いを経ながら、意思統一のもとで綿密に作業を進めてゆかなくてはならない、ということである。マクドゥーガルにとって、そのような作業の進め方というのは、おそらく初めての経験であったに違いない。コラボレーターを招き入れるためのスペースを意識した、一歩引いた音作り。マクドゥーガルを、この全くの新たな試みに駆り立てたものとは、一体何だったのであろうか。ひとりぼっちの孤独な作業に限界を感じるようになったのだろうか。フィールド・レコーディングした具体音とエレクトロニック・サウンドの融合という、ひとつの定型が出来上がりつつあったエンティア・ノンの作品のプロダクションに、閉塞感や息苦しさを感じるようになってきていたのだろうか(非常に珍しい実名での作品のリリースも、もしかするとそうした部分からの逃走願望に依拠したものであったのかも知れない)。もしくは、純粋に極めて自然な流れで、より豊かで豊潤なサウンドの表出のために、他のアーティストとのコラボレーションという方法論に突き当たっただけなのか。いずれにせよ、エンティア・ノンは、この驚きの新機軸によって、これまでにはなかった新鮮な新局面を世界に向けて提示しようとしている。とにもかくにも、マクドゥーガルは、エンティア・ノンの美しいサウンドスケープを、さらに大きく音響的に発展させた、新たなフェイズへと突入させることを模索しているようだ。そうした果敢なる試みの成果が、この“Bewilderment”である。
 今回の作品において、マクドゥーガルによって、初めてのコラボレーションの相手に指名されたのは、シルヴィ・ワルダー(Sylvie Walder)であった。ワルダーは、フランス北東部のアルザス地方、ドイツとの国境にほど近い交通の要衝、ストラスブールを拠点に活動するアーティストである。これまでに、ワルダーは、ロシアのClinical ArchivesやアメリカのEarth Mantraという、エクスペリメンタル/エレクトロニック・ミュージック系のネットレーベルより、いくつかの作品をリリースしている。Clinical Archivesからは、08年5月のジークマル・フリッケ(Siegmar Fricke)とのコラボレーション作品“Nahtod”(傑作)と、08年11月の_(Underscore)との奇跡的なコラボレーション作品“For _”。そして、Earth Mantraからは、08年10月にフィリップ・ウィルカーソン(Phillip Wilkerson)とのコラボレーション作品“Transience”。ご覧の通り、ワルダーとは、他のアーティストとのコラボレーションによる作品制作を、常にメインの活動形態として繰り広げている人物なのである。いわゆる、名だたる実力者たちとの対外試合を通じて、自らの力量を存分に発揮させてゆくタイプの人なのだ。孤独に我が道を追求し続けるマクドゥーガルとは、正反対だといえる。そんな唯我独尊タイプのマクドゥーガルが、ワルダーの次の対戦相手として、白羽の矢をたてられた。どうも、この共演の企画は、マクドゥーガルの側から誘ったというよりも、かなり口説き上手そうなワルダーからの巧みな誘いに、コラボレーションには奥手だったはずの唯我独尊クンが、まんまと押し切られる形で話がまとまりスタートしたものであるような感じがしなくもない。また、極めて高い完成度と構築美を誇るエンティア・ノンのサウンドと渡り合うというのも、ワルダーの側から見れば、またとないハイ・レヴェルな腕試しをするチャレンジの場として捉えられたことであろう。オーストラリアの片隅で孤独に築き上げられた、他者の介入を一切拒むような孤高の音世界に挑むのであるから、ワルダーも、この稀有な対戦には燃えに燃えたのではなかろうか。コラボレーション童貞であったマクドゥーガルと、経験豊富なワルダーによる、無差別級のエクスペリメンタル交流戦。両者のサウンドの微妙な押し引きなどに注目して聴いてみるというのも、また楽しいのではなかろうか。
 “Bewilderment”は、全4曲を収録した作品となっている。全て6分から8分程度の長めの楽曲で構成された、非常にゆったりとした語り口の一編である。タイトルの“Bewilderment”とは、当惑や困惑、うろたえという内的状態を意味する。これは、マクドゥーガルとワルダーのコラボレーションにおいて、常に“Bewilderment”なるものが、両者の内面につきまとっていたということに由来するタイトルなのであろうか。また、〈Be+wilder〉では、迷わせる/途方に暮れさせるという意にもなる。ますます、本作の制作作業に、様々な迷いや葛藤が介在していたことが裏付けられてゆくようである。妙に意味深な感じがしないでもない。しかし、このタイトルを〈Be+wilder+ment〉と三つに分割してみると、これは野性化主義、もしくは、敢えて混乱に飛び込む批判的合理主義とでもいうような、全く別の読みが可能になったりもする。コラボレーション作業を開始した当初に、両者の間に立ち込めていた、当惑や迷いの感情をバッサリと切り捨て、振り払うことで、自然のまま/野生のままに音と音をぶつけ合い、“Bewilderment”というひとつの作品へと昇華させることができた。勝手な読み込みを総括して、いいように解釈をすれば、こういう流れになるであろうか。とりあえずは、当惑やうろたえ、そして迷いといった感情を、ワイルドに乗り越えてゆくという部分に、本作のサウンドを紐解く鍵が隠されているような感じはする。マクドゥーガルとワルダーのコラボレーションから生み出されたサウンドを前にして、うろたえていたり、まごついてばかりでは、何も始まらない。こちらから挑みかかるぐらいのワイルドな姿勢で、真剣勝負に臨もう。どこまでも無軌道に突拍子もなく、迷いを捨てて、フラットかつ自然体に。
 当惑とうろたえの幕開けを飾る、1曲目は、“Des Espaces Sans Nom”。名もなき空間。まず、どちらのホーム・グラウンドでもない、名もなき平滑なる空間において、マクドゥーガルとワルダーによる音と音が出会う。ゆったりと湧き出してくる深いドローンが、幾重にも折り重なってゆく。細やかな物音やよじれた電子雑音が、行き交う。断片的に鳴り響く、ピアノや弦楽器の楽音。水音。誰かが作業に勤しむ物音。ここでは、全てがまだ、とても控えめである。かなり大まかに処理され配置された楽音も電子音も、フィールド・レコーディングによる具体音も、マクドゥーガルとワルダーの手によって、何とも無造作にガランとした空間に転がされている。両者ともに、いくつか手持ちの駒を小手調べに、まっさらな盤上に並べて、相手の出方を探ってみたという感じであろうか。出会いの場面としては、とてもおとなしめである。マクドゥーガルとワルダーは、最初から火花を散らすような大人げないことはしない。だが、どこか嵐の前の静けさともいえそうな、胸騒ぎにも似た妙な予感に満ちたムードは、空間に、実に色濃く漂っている。
 2曲目は、“Un Soir D'Octobre”。10月のとある夜。盛秋の夕べに、ひんやりとしたミニマルな電子音響が、淡々と反復を繰り返している。タイプライターを打つような、カタカタという細やかなノイズ。低音のドローンが、うねりを上げて、夕闇に轟く。中盤あたりから、重々しく足を引き摺りながらも華麗に舞い踊るワルダーによるピアノのインプロヴィゼーションが、舞台中央に登場する。これに対して、マクドゥーガルは、重いドローンとディープな電子雑音の反響で応えてみせる。そして、両者のサウンドの拮抗の果てに、全てが消え入りそうになってゆく中で、再びカタカタという細やかなノイズが表層に戻ってくる。静かな深い秋の宵に、マクドゥーガルとワルダーによる音と音が、剥き出しのまま向き合い、ぶつかり合っている。ピアノとドローンが、どこまでも無軌道に、そしてそれぞれにとって突拍子もなく、ただただ鳴り響く。そこには、もはや当惑の感情は微塵もないようにも思える。いや、そこにまだ間違いなく当惑の感情が存在しているからこそ、両者の音は、すさまじくワイルドに鳴り響いているのだろうか。ワルダーの繊細なピアノとマクドゥーガルの轟音ドローンは、同じ10月の夜に同じ名もなき空間に響いてはいるのだが、どこか目と目は決して合わせていないような雰囲気も漂わせている。
 3曲目は、“Une Feuille Et Une Douce Tristesse”。木の葉とやわらかな悲しみ。細やかな電子雑音と、フィールド・レコーディングされた風が吹き抜ける森の中や街路の喧噪の具体音、そしてループ状になっている深いゴングの音響。尖った金属音と低く轟くエレクトロニック・ノイズ。秋の落ち葉のように幾層にも折り重なって積もっているのは、細切れにされた雑音のコラージュである。教会の鐘のような荘厳な響きから、足許を駆け抜けてゆく微かなグリッチ・ノイズの隊列に、澄んだ水音まで。また、瞬間的に、街角で自転車に乗って遊ぶ子供たちの嬌声なども飛び込んできたりする。ここで聴けるのは、極めてエンティア・ノン的な独特の美的感覚に則して、電子音と具体音を融合させた音の世界である。マクドゥーガルのサウンドスケープに、ワルダーが迷いを捨てて、自然体のまま飛び込んだという感じであろうか。そういう意味では、これは極めてエンティア・ノン的でありながら、これまでのエンティア・ノンが表出させてきたものとは、全く異なる音世界であるともいえるのではなかろうか。街中で採集されたと思われる行き交う人の声が、フランス語の会話らしきものであるという点は、マクドゥーガルだけのエンティア・ノンでは、おそらく、あまり考えられなかったものであろうから。これは、やはりストラスブール在住のワルダーとのコラボレーションでなくては聴けなかった、ひと味違うエンティア・ノン形式のサウンドスケープだといえる。
 4曲目は、“Le Petit Lac”。小さな湖。秋の森の奥に、ひっそりと澄んだ水をたたえて佇む湖。周囲の木々の葉は落ち、色を失い影絵のようになった風景に、鏡面を思わせる穏やかな湖面が広がる。深く澄みきったドローンと微かな水音。静まり返った湖の水面を滑るように、美しいピアノの音色が優雅に響き渡る。時折おとずれる、低く轟く電子雑音と絶妙に同期しながら、気品にあふれた流麗なるピアノによるメロディが、大きな弧を描いて湖の上空を円環する。そして、いつしか森の影は色濃くなり、夕闇が迫ってくる。すると、今度は虫たちの鳴き声が、静かな湖の周囲を取り囲む。とっぷりと陽は暮れて、あたりを闇が包み込む。盛秋の宵、群青の夕闇の底に、ひっそりと湖の水面の影が沈んでゆく。ここで聴けるのは、今度は逆にワルダーによるピアノの(即興)演奏を中心に据えた音の世界である。ここでは、マクドゥーガルの澄んだ美しいドローンや細やかなサウンド・プロセッシングが、一切の迷いを捨てて、自然体のままにワルダーの華麗なる演奏の引き立て役に徹している。しかも、ピアノの演奏に絡む重低音の電子雑音は、ほぼベースの役割を果たしていたりもする。マクドゥーガルが、ここまで明瞭に、それらしく聴き取れるほど音楽的なプロダクションを手がけたことは、これまでに一度もなかったのではなかろうか。そういう意味では、これはひとつの事件であり、マクドゥーガルにとってみれば、相当に果敢なチャレンジであったといってもよいだろう。そこには、当然、当惑やうろたえの感情や情動が、多分にあったことであろう。しかし、ここでのエンティア・ノンは、ワルダーとのコラボレーション作業を通じて、音楽するエンティア・ノンという全く新しい姿を臆することなく披露してくれている。うろたえ、まごつくマクドゥーガルを、経験豊富なワルダーが、優しく導いてくれたのだろうか。これは、マクドゥーガルが、コラボレーション童貞を完全に喪失した、ひとつの記念碑的楽曲である。そう考えると、小さな湖というタイトルも、妙に暗示的であるようにも思えてくる。
 なるほど、この“Bewilderment”という作品には、あちこちに、当惑とうろたえの感情や情動が、こびりつくように内在し、それがサウンドスケープの端々からにじみ出してきているようにも感じられる。マクドゥーガルとワルダーによる音と音は、ひとつの景色や空間の中に同居し、ほとんど距離もなく隣り合って、鳴り響いているかのようにも思える。だが、それらが実際に深く混ざりあって、ひとつの音世界を描き出していっている風には、どうにも思えない瞬間が、度々訪れたりするのだ。マクドゥーガルの音とワルダーの音は、それぞれの音の世界における響きを保持したまま、それを真正面から、ただ突き合わせるだけだ。それらは、ひとつの景色や空間の中で、それぞれが分担する持ち場を丁寧に塗りつぶしてゆくだけなのである。そういう意味では、これは、かなり分業制的な色合いの濃い、不思議な感じのするコラボレーション作品となっているといえる。
 ブリスベンのマクドゥーガルとストラスブールのワルダーは、作品のための素材となるサウンド・データを持ち寄る形で、今回のコラボレーション作業を進めていったようだ。断片的な電子音や楽音や具体音を組み合わせ、貼り付け、重ね合わせ、縫合・接着・加工し、楽曲が生み出されていった。そして、ここに収録された全4曲が完成したのである。オーストラリアとフランスのふたりのアーティストによる、超遠距離コラボレーション。しかも、片方はコラボレーション童貞という事情まで付随する。これは、どう考えても、その長い距離をデータが行き来する間に、そこに当惑やうろたえの情が、不意に流れ込んできてしまったとしても、決しておかしくはない。だが、それを無理に取り繕って覆い隠したりせず、当惑やうろたえの感情や情動が、色濃くにじみ出してしまっているままの音を、作品化してしまうところに、このふたりの個性的なアーティストがもつ格別な面白味がある。そうした音が聴けるのが,前半の2曲である。ふたりが互いに、どこかぎこちなさげで、なかなか一体化できていない感じが、端々に見てとれる。ひとつの景色や空間を共有しているのにも拘らず、それぞれの音と音の間には、オーストラリアとフランスほどに隔絶した距離感が感じ取れるのである。
 それが、後半の2曲になると、雰囲気が少しずつ変化してくる。前半に漂っていた変なよそよそしさは影をひそめ、持ち寄った断片的素材によって互いの音世界を突き合わせるだけの景色や空間の共有が、ゆっくりと融解してゆく様を、そこに聴き取ることができるのである。“Une Feuille Et Une Douce Tristesse”では、エンティア・ノン(マクドゥーガル)のサウンド・スタイルを、そのまま踏襲する形で。“Le Petit Lac”では、端正にして華麗なピアノの演奏を軸に据えたワルダー主導型で。どちらかが完全にイニシアティヴを握る体勢をとることで、一歩前に出るものと後ろへ引くものの明確な役割分担の差異が生起し、前景と背景を描き分けるコラボレーション作業が成立することになる。そこでは、当惑やうろたえの感情や情動の殻は、全て綺麗さっぱり脱ぎ捨てられている。
 しかしながら、それでもブリスベンとストラスブールの間には、決して縮まることのない距離がある。時差もあれば、季節すらも異なる。マクドゥーガルとワルダーは、決して取り除くことのできない、この距離から生じるタイムラグや温度差を、強引に無化するのではなく、それを敢えて利用しながら音世界を構築してゆく、マクドゥーガルとワルダーならではのコラボレーション作業を進めていった。ある時は、エンティア・ノンが、その独特の美しくディープなサウンドスケープを大々的に展開し、またある時は、前面に個性を押し出すことなく、裏方のプロデューサーやサウンド・エンジニア的な役割に徹する。また、ワルダーは、ある時はマクドゥーガルの引き立て役となり、またある時はマクドゥーガルの手をとり先頭に立って導いてゆく。そこには、この両者の距離や差異を基盤とした関係性が成り立つ。そして、マクドゥーガルとワルダーの音と音を重ね合わせたコラボレーションでしか生み出されえない、サウンドスケープのパターンが響くことになるのである。間違いなく、マクドゥーガルとワルダーの共演は、成功であったといえる。つまり、ブリスベンの地で頑なに守り通されてきたマクドゥーガルの童貞は、コラボレーション上手なワルダーによって、見事なまでに奪われてしまったのである。
 さて、そうなると、余計に気がかりになってくるのが、これからのエンティア・ノンが、どのような方向性に進んでゆくのかである。この“Bewilderment”で、一皮も二皮も剥けたわけであるのだから。このところの(これまでには考えられなかったような)非常にアクティヴで果敢なチャレンジの連続は、マクドゥーガルの音作りの方法や音響との距離のとり方に、どのような影響を与えたのであろう。おそらくきっと、様々な経験は、マクドゥーガルの中で、何らかの新しい音の芽を芽吹かせる、静かだが劇的な変化を生じさせているものと思われる。エンティア・ノンの名義を使わぬ実名での作品の発表。そして、シルヴィ・ワルダーとの、当惑とうろたえを克服し、遠距離を乗り越えた、初のコラボレーション作品のリリース。次は、どのような作品を携えて、我々の前に現れるのであろう。さらに、これまでにはなかったような果敢な挑戦に挑んでゆくのか。それとも、何事もなかったかのように、いつも通りのエンティア・ノンとして姿を現すのか。しかし、いかなる形態での作品になろうとも、マクドゥーガルは、ブリスベンの地から、よりワイルダーネスな地平へと向かった、圧倒的なサウンドスケープを提示してくれるに違いない。当惑と迷いを脱ぎ去った、自然体のエンティア・ノンが描き出す音世界。本作“Bewilderment”においては、その第一歩となるまばゆい曙光を確認することができた。今後、その新たな芽が、どのように消化され発展させられてゆくのだろうか。ますます面白くなってゆきそうな、エンティア・ノン。とても楽しみである。(09年)

追記。09年6月5日、ドイツのネットレーベル、Q-Toneより、マクドゥーガルの新作となる、フィールド・レコーディング作品“Kin Kin”がリリースされた。この作品は、エンティア・ノンとしてではなく、またしてもジェイムズ・マクドゥーガルと実名を使用してのリリースとなっている。ここでは、マクドゥーガルが、実際に09年4月に、地元クイーンズランド州の南東部に広がる赤土の農村地帯を歩き回り、採集した具体音を編集・加工した、生々しい実験音響を聴くことができる。全体的に、素朴なオーストラリアの農村風景と、その営みを切り取った、ラフ・スケッチのような仕上がりとなっている。“Kin Kin”とは地名であり、先住民アボリジニの言葉で赤い土を意味する。

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