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<<   作成日時 : 2009/05/09 21:00   >>

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Klotzsch & Krey: Through All These Years Of Trying To Belong
12rec. 12rec.056

画像 ドイツはドルトムントに拠点を置く、ポスト・ロック/グリッチポップ/エレクトロニカ専門のネットレーベル、12rec.からの新作。レーベルの運営を行っているのは、シム・スレン(Sim Sullen)と、本人もレコーディング・アーティストとして活躍をするスヴェン・スウィフト(Sven Swift)のふたり。08年には、区切りとなる50作目のリリース作品をコンピレーション盤『So Much Achieved. So Much Left To Do.』で華々しく飾り、もはや押しも押されぬ名門ネットレーベルという存在になりつつある。そして、その勢いのままに09年に入ってからも、決して歩みのスピードをゆるめることなく、さらなる高みを目指して、コツコツと質の高いリリースを重ねている。本作は、エミール・クロッチェ(Emil Klotzsch)とリュティガー・クレイ(Ruediger Krey)によるコラボレーション作品である。かつて、ポスト・ロックの輝ける巨星、ミルへイヴン(Milhaven)を発掘した12rec.にしては、これは、かなりエクスペリメンタルなスタイルを打ち出したリリースといえるのではなかろうか。ポスト・ロックと呼ぶには、より偶発的でインプロヴィゼーショナルに逸脱しきった音響であり、エレクトロニカと呼ぶには、圧倒的にアコースティックな手触りの前近代的な香りをまとった意匠のサウンドを醸し出している。早い話が、ここにあるのはロックやエレクトロニックの範疇にはちょっと収まりそうもない、少しばかりその界隈からは隔たった場所に位置している音楽なのである。まさに、エクスペリメンタルと称するしかないような音楽だ。いや、純粋に音楽であると認識できるのは、全体の半分ぐらいだとするのが正解かも知れない。残りの半分は、全て自然音や物音などのコンクレートなサウンドとなっている。
 エミール・クロッチェは、ノルトライン・ヴェストファーレン州のケルンに在住するアーティストである。これまでにクロッチェは、ケンタッキー州ルイヴィルの雑食型エレクトロニカ専門ネットレーベル、Oneより“Sandkorn”(05年)と“Feinquisit”(06年)というIDM〜グリッチポップ系のEPを2作品、そして08年の年末に約7年半に及ぶリリース活動に静かに幕を降ろしたフランクフルトの名門ネットレーベル、Autoplateよりアルバム『Tiefe Berge』(06年)を発表している。これらは、いずれもクロッチェのソロ作品であるのだが、それ以外にもライモンド・ズーデルマン(Raimund Sudermann)とのコラボレーションによるポスト・ロック作品“Holzlaub”(Autoplate、07年)や、リミキサーとして関係したOneやAutoplateのリリース作品、そして07年にイタリアはモデナのエレクトロニック・ミュージック専門レーベル、Zymogenよりリリースされたコンピレーション作品『Symbiosis』への“Kummer”での参加など、かなり精力的な活動歴がある。そんなクロッチェであるのだが、ドルトムントの12rec.より作品を発表するのは、本作が初めてとなる。地元ドイツの名門レーベルからの初リリース作品だけに、相当に気合いが入っているのではなかろうか。そして、そんな入魂の一作において、クロッチェがコラボレーターとして指名し、タッグを組んだのが、バセットホルン/ベース・クラリネット奏者のリュティガー・クレイである。カールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen)が制作した歌劇などに度々登場していたバセットホルンだが、本来は、近世ヨーロッパのチェンバー・ミュージックやコンチェルトに主に用いられていた管楽器である(ちなみに、シュトックハウゼンは、ケルン近郊のメトラート村の出身である)。つまり、このことから察してみるに、クレイという人は、どうやら完全にクラシック畑の音楽家であるようなのだ。それにしても、グリッチポップやIDMスタイルのメロディックなエレクトロニカを専門に手がけていたクロッチェが、いかなる経緯で、全くの畑違いのアーティストである、バセットホルン奏者のクレイとのコラボレーションを行うことになったのかは、実に謎である。しかしながら、この取り合わせは、非常に興味深い。現代のテクノロジーによる電子音楽と、近世の古典学派の(かなり地味めな)管楽器の、ふたつの音が、全く予期していなかった場所で出会い、時代を飛び越えて真正面から激突をするのだから。まさしく、異種格闘技戦の趣きである。そんな、(ちょっぴり)とんでもない意欲作に、あえて取り組んでしまうところに、並々ならぬクロッチェの気合いの入り具合のほどが、ほんのりとうかがえたりもしないだろうか。せっかくの12rec.からの初リリース作品なのだから、これまでに誰も聴いたことがないような猛烈にエクスペリメンタルなやつを思いきりぶちかましてやろう、というクロッチェの心の声が今にも聞こえてきそうである。
 “Through All These Years Of Trying To Belong”は、全5曲を収録した約27分ほどのミニ・アルバムとも呼べそうなEP作品である。このタイトルが意味しようとしているところは、馴染もうと試みた全ての年月ずっと、といったようなことであろうか。何らかの共同体/コミュニティを構成する一員として、そこの内部に属することを、長い時間をかけて試み続けてみたが、全ては予期したほどの効果をあげられぬまま、空しい徒労に終わってしまった。このタイトルのフレーズには、そう簡単には取り返せぬ大きな失敗によってもたらされた重々しい疲弊の相が、じんわりとにじみ出している。何ともいえぬ切なさと、どんよりとしたうら寂しさに満ちあふれているのである。所属への強い意思をもった主体による共同体を対象とした自己同一性の無惨なまでの破綻、ということか。何年にも渡り繰り返し試みられた合一/合致への努力/労苦は、何一つ報われることなく水泡と帰した。そして、その後に残されたのは、本来あるべき場所からの孤立の感情と冷徹なまでの疎外感である。どんなに強く願っても、どんなに繰り返し試みても、混ざり合うことはかなわなかった。深く打ちひしがれた胸に去来する鈍痛は、その奥底に幾層にも折り重なって沈殿している。だが、今はもう、あの辛く切ない年月を振り返ることはない。その瞳は、もはや俯いたまま、どちらの方向にも向けられることはないだろう。とても薄暗く、その周囲だけ、とても静かで穏やかなのだ。かつての悪戦苦闘をし、もがき苦しんでいた日々のように、荒々しく波風は立っていない。深く暗い孤独感に陥没しきった者は、その周辺の他者や場所と合一/合致するための回路を、すでに完全に遮断しきってしまっている。
 クロッチェは、この“Through All These Years Of Trying To Belong”の制作に際し、まず初めに、かなりエクスペリメンタルなコンセプトを発案し、それに対しての周到な準備を整え、細心の注意を払ってコンセプトにそった手順を、段階を踏みながら実践していった。そこで、計画されたところの実験的音響を現実のものとするために、クロッチェの手許に用意されたのが、ミニチュア・ピアノとバセットホルン奏者と携帯型のハードディスク・レコーダーであった。これらの素材を揃えた後に、手始めにクロッチェが、ひとりでミニチュア・ピアノを演奏し、いくつかの微細なフレーズの断片をまとめた基本となる音源を録音した。これが第一の段階となる、ミニチュア・ピアノによる緻密に織りあげられた即興演奏の音素材の作成である。ここまでは、料理でいえば、まだ下ごしらえにあたる工程だ。実際の調理は、これからが本番である。そして、第二の段階として、クロッチェは、バセットホルン奏者のクレイを伴って、ケルンの西部に広がるエイフェル山地の深い森に赴いた(エイフェル地方には、F1や24時間耐久レースなどのモータースポーツのメッカであるニュルブルクリンク・サーキットがある)。この黒い森と呼ばれるドイツ南西部の鬱蒼と茂る森の奥で、クレイは、ヘッドフォンで事前にクロッチェによって録音されたミニチュア・ピアノの演奏を聴きながら、バセットホルン/ベース・クラリネットの即興演奏を行った。クロッチェは、その間近に携帯型ハードディスク・レコーダーとマイクロフォンをセッティングし、クレイの演奏を逐一レコーディングしていったのである。エイフェルの森が止めどなく放出/放射するマイナス・イオンや自然音もろとも。その後の第三の段階では、森での録音物をデータとして持ち帰ったクロッチェが、そこにまた新たなピアノの演奏やドローンなどの電子音を追加し、エレクトロニクスによるトリートメントを行い、ハードディスク上において音源にソフトウェアによる緻密な編集を施していった。そして、完成したのが、ここに収録された5曲のエクスペリメンタルな音響作品である。まず最初に実験的な作品を創出させるためのコンセプトの発案と、それにそった準備があり、大まかな大枠のみが策定/確定された。しかし、この段階/時点では、そのザックリとした枠組みだけしか、当のクロッチェにも把握できていなかったであろうことは、注目しておいてよいだろう。実際の制作の作業が滑り出してからは、そのほとんどの過程は、全くどこに向かうのか判らない即興演奏によって、音の構築がなされていったのだから。始まりの地点も終わりの場所もなく、ただただ瞬間的な感覚の動きによって紡ぎ出されてゆく音/フレーズ/旋律。第一に、基礎となる、クロッチェによるミニチュア・ピアノの即興演奏がある。その次に、クロッチェのミニチュア・ピアノの即興演奏を聴きながら、直感的にその音の動きに反応する形でなされた、クレイによるバセットホルン/ベース・クラリネットの即興演奏が、この流れを継承/拡張している。そして、最後に、携帯型ハードディスク・レコーダーで録音されたクレイの即興演奏のデジタル・データに対して、直感で反応し、新たなインストゥルメンツの楽音をそこに付加し、エレクトロニクスを駆使して、これを加工〜編集するという作業が、それまでの流れに続いていった。全ての流れの速度と方向性は、クロッチェとクレイによる直感的な即興演奏によって、ほぼ決定されているのである。そして、もう一点、忘れてはならないことがある。エイフェルの森でのクレイの即興演奏の録音に際しては、クロッチェの携帯型ハードディスク・レコーダーが、マイクロフォンを通じて、膨大な量の偶発的な自然音の音データを、楽音とともに拾ってしまっているということである。人間が演奏することが可能な、楽器が相手であれば、いくらでも音楽家/演奏者として、(たとえ即興であろうとも)音を構成し、音楽を織りなしてゆくことができる。だが、大自然が相手では、そういうわけにはいかない。いつ鳥たちが鳴き、いつ風が森の中を吹き抜けてゆくのか、そんなことは、いかなる場面であろうとも、人間の手で構成してゆくことなどはできやしないのだ。また、このエイフェルの森でのインプロヴィゼーショナルなセッションの模様を、携帯型ハードディスク・レコーダーをもつクロッチェの視点でとらえると、次々とマイクロフォンに押し寄せてくる自然音とともに、バセットホルン/ベース・クラリネットを演奏するクレイの即興もまた、偶発的な音の連なりからなる完全に予測のつかないものであったはずである。ヘッドフォンを装着したクレイの即興演奏は、クロッチェが意図して構成できるものでは到底なかった。ただ、そこに事態を傍観する者として立ち会い、携帯型ハードディスク・レコーダーと同化して、マイクロフォンを通じ、音データを録音することしかできない。この時点で、オリジナルのコンセプトを発案したクロッチェの手の中から、全ての音の流れは、コラボレーターであるクレイの直感へと完全に託されてしまっている。唯一の相互の疎通がはかれる地点は、あらかじめ録音されたミニチュア・ピアノの即興演奏を再生するヘッドフォンのみである(疎通とはいっても、限りなく一方通行に近いが)。直感だけを頼りに即興の応酬を行う関係性にある、クロッチェとクレイ。このどちらにも、全体の流れを完全に掌握し統制することはできない。しかも、彼らの直感と即興をぐるりと取り囲むように鳴り響く、完膚なきまでに偶発的なエイフェルの森が放出/放射する膨大な量の自然音は、音の流れそのものを自らの懐の内に収奪してしまうことを虎視眈々と狙っている。音の流れは、ふたりの演奏者によるそれぞれの思惑からくる恣意性を、ほぼ完全に免れ、押し寄せる自然音の偶発性に、ただただ幾重にも晒され続ける。ここで聴くことができるのは、直感と偶然の積み重ねによって構成され織りなされた、音の流れのモワレをすくいとった音楽である。こうした非常にエクスペリメンタルなコンセプトの発案と、その制作段階での実践が、“Through All These Years Of Trying To Belong”のサウンドを、きわめて実験的な音響に醸成させたといってもよい。まさしく、これは唯一無二の実験音響である。しかし、そこでの主体であるはずの音楽家/演奏者(人間)が、音を構成する意図を(心ならずも)手放さざるを得なくなってしまった瞬間に、そこから先の流れの中で、いかなる芸術的な表現が(たとえそれが実験であろうとも)可能になるのかという点については、はなはだ疑問の残るところではあるのだが(しかも、クロッチェによるファイナル・タッチが、直感を離れ大きく思惑に引き寄せられたものであったとしたら、その時点/段階で、その実験的な音響の実験性は脆くも基礎から崩れ去らざるを得ないに違いない)。
 ここに収録された五つの楽曲は、エイフェルの森でのクレイの即興演奏の録音データを、それぞれ約5分程度の五つのパートに分割し、そこにクロッチェがピアノの演奏やドローン状の電子音などのポスト・プロダクションや編集を加えたものである。深い森の奥で淡々と黙々と即興演奏を繰り広げる、バセットホルン/ベース・クラリネットが積み重ね続けた、膨大なるフレーズとメロディ。そこから切り取られた断片/断章が、本作を構成する五つのパート(楽曲)へと、流れるように昇華されていった。全体的な音の調べは、一貫して大きな変化を見せることはなく、延々と同じ感触とトーンをキープしたまま、静かに穏やかに流れ続ける。そのような意味においては、五つのパート(楽章)を並列に並べ、約27分半の全体で“Through All These Years Of Trying To Belong”という一曲と目するような聴き方も、おそらく可能となるであろう。それぞれのパートの音の基調となる部分を見ていっても、ほかのパートと格段に趣きを異にした際立った特徴をもつような箇所は、ほぼ皆無なのである。これは、全体を一貫したテーマで貫く、非常にコンセプチュアルな作品だといえる。その音的な面でのテーマとなっている部分とは、本来あるべき場所に属することがかなわなかった者の孤立や疎外の感情が静かに移ろい行く様の描出といったところであろうか。それは、どこまでも静かに穏やかに流れ続ける。社会の周縁の陥没しきった暗く冷たい場所で。誰の手も、誰の声も、誰の思いも、もはやそこに届くことはない。深いエイフェルの森の奥という場所は、そうした孤立と疎外に苛まれる者の立ち位置の、ある種のメタファーとしてとらえることもできるだろう。そこでは、クラシカルな管楽器が、いくつものフレーズやメロディの断片を繰り返しなぞりながら、振り絞るように辿々しく歌っている。そして、時には、まるで喘ぐかのように、フレーズやメロディにもなっていない孤独なため息を漏らす。さらには、瞬間的に襲ってくる失語症にでも陥ったのか、静かで穏やかな流れの中で、突然黙りこくるのだ。森の中では、鴉が鳴き喚き、強い風や弱い風が吹いて、鬱蒼と茂った木々の葉を撫で揺らしてゆく。そこに侵入してくるピアノの演奏は、管楽器の音の断片の合間に、独り言のような音の断片を、さらに置き去りにしてゆくのだ。細やかなエレクトロニクスによるクリック音らしきものによる小さな呟きは、風の通り道にためらうように旋回する足跡をつける。そして、奇妙な透明感をたたえた懐の深いドローンが、森の中を渡ってゆく低く地を這う靄のようにゆったりと響き渡る。しかしながら、そうした流れの最終楽章となる5曲目の“I See My Own”にだけは、少しばかりそれまでとは趣きを異にしている部分が、はっきりと見受けられる。それは、この楽曲に参加しているゲスト・ヴォーカリスト、ヴェルナー・キッツミューラー(Werner Kitzmueller)の存在である。スポークン・ワードのような独白調の語りを交えながら、ここでも肉声によるインプロヴィゼーショナルなフレーズやメロディの断片の積み重ねがなされている。キッツミューラーの声もまた、クロッチェとクレイによる直感と偶然の応酬であるところの、コンセプチュアルな音の渦に、いやおうなく飲み込まれてしまっているのである。そして、静かに穏やかに声帯を震わせながら、ぽつりぽつりと言葉は絞り出される。音となった瞬間に、一瞬にして渦に飲み込まれてゆく言葉。そこでは、もはや人間の感性は立ちすくみ、ただ黙りこくるしかなくなる。キッツミューラーは、12rec.の記念碑的コンピレーション盤『So Much Achieved. So Much Left To Do.』にも“Saliva”という楽曲で参加していたアーティストである。これからも12rec.に関係するアーティストとキッツミューラーのコラボレーションは度々あるかも知れないし、キッツミューラーの単独のリリース作品にクロッチェやクレイが参加をするようなこともあるかも知れない。このあたりの動きに、さらなる展開が見られると、今後もますます12rec.の周辺は面白いことになってゆくのではないかと思われる。大いに期待をしたいところだ。
 クロッチェとクレイによる直感と偶然からなる実験音響作品“Through All These Years Of Trying To Belong”は、内容的にも、サウンド的にも、とても興味深いものを感覚できる一作となっている。それぞれの音は、ほかの音から意識的に分離をし、一定の距離をおいて隔絶しているように聴こえる。流れの中で互いに孤立して、大いなる外界から、それぞれに疎外された状態を選択しているのである。クロッチェによるピアノの演奏やドローンなどの電子音と、クレイによるバセットホルン/ベース・クラリネットの演奏は、決して混ざり合おうという素振りを見せず、互いに互いを即興演奏のための直感的反応を示す契機(刺激)としか捉えていない。そこに深い相互理解といったものは介在せず、その関係性は、どこまでも表層的でしかない。そこに、全くの偶発性をもって鳴り響くエイフェイルの森の自然音が、クロッチェとクレイによる即興演奏の文脈とは完全に無関係に、延々と横たわり続けるのだ。具体音の流れは、決して楽音を顧みることはない。混じり合いもしなければ、離反することもない。全ての音は、それぞれに分離し、偏在し、点在している。そして、そのまま、ひとつの作品の大きなテーマの中で、約27分半に渡り、独り言やため息のように鳴り響き続けることになる。そこからは、言いようのない孤独感や孤立感がにじみ出す。隔絶して点在する全ての音は、全体の流れの中で常に一定の距離を保ちつつ散らばっている。中心から離れ、散り散りに散らばることで、孤立という、とりあえずの仮の居場所を確保しているかのように。すると、本来は核となるはずの中心部には、ぽっかりと大きな穴があいてしまうことになる。音の流れは、空洞化する。この実験的音響作品のサウンドには、見事なまでに中心がない。つまり、ここには、もはや周縁の世界しか存在していないのである。これは、ポスト近代主義(市民)社会の、そのさらに先の状景とも、見事に重なるようだ。色は褪せ、全ては曖昧で、絶え間のない忘却が、ありとあらゆるものを支配している。本来あるべき/いるべき場所が、すでに空洞化しているのでは、そこに属する意思を維持し続けることは、非常に難しくなって行かざるを得ないであろう。その世界においては、迫真の直感と大いなる偶然を、いくら分厚く積み重ねてみたところで、どこにも到達することはないのである。薄暗い、その周縁は、とても静かで穏やかだ。全ては点在し隔絶したまま、ただ惰眠を貪るかのように相対性に埋没したまま横たわる。そして、どうしようもなく虚ろな不定形の塊の亡霊だけが、薄ら寒いすきま風のように、空洞化した中心を素知らぬ顔で吹き抜けてゆくのである。
 今回の作品のリリースに際して、12rec.は、通常の256KbpsのMP3音源だけでなく、ロスレス・オーディオのFLAC音源でのダウンロード、そして5.1chサラウンド音響で作品音源を完全収録したDVDのオンライン販売と、音(音質)にこだわった3種類のアウトプットを用意している。こうした上位の音の質へのこだわりとは、ただの(動物的/本能的直感による)実験音響を、より芸術的に聴取しようという意思を明確に表した方向性にほかならない(ように思われる)。これは、よく考えると、微妙にアイロニカルな在り方で(も)ある。5.1chサラウンド音響によって、周囲をぐるりと取り囲み、全方位から押し潰さんばかりに迫りくるエイフェルの森の自然音を、本来の音響に極めて近いカタチで聴き、体感しようということか。時間によって区切られ、その時間から切り取られた自然は、もはや不自然でしかないのだが。また、事前に綿密に構想が練られ、きっちりと準備をし、そして直感と偶然の積み重ねの前に投げ出されるカタチで表出された実験サウンドは、そもそも芸術の方向へと向かう表現とは全く無縁のものであったはずではなかっただろうか。即興とは、本来、芸術が芸術として構成される以前の世界に野放しの状態であちこちに散らばっていた、最も原初的でヴァナキュラーな工芸や民芸に極めて近い表現形態であった。そして、芸術の歴史とは、原初の野蛮な即興を超越したところから始まったのだ。ここでの、太古からの黒い森と即興演奏という取り合わせは、そうした意味において、あからさまなまでに象徴的なものであったはずである。直感と偶然とは、どこまでも野蛮で/野生であるはずのものなのだ。それを上位の質へと力で引き上げようとすると、そこにはやはり、どうしても不自然が生ずることになる。また、それよりももっと前の段階の、エイフェルの森の自然音が携帯型ハードディスク・レコーダーによって録音された時点で、野放しのサウンドはデジタル・データへと変換され、本来の自然のカタチからは遠く隔離/隔絶されてしまってもいる。ゆえに、それを、どんなにハイ・テクノロジー/ハイ・クオリティの回路で再生しようと、そこに生じてしまった自然音と不自然音の間の差異は、決して埋まることはないのである。つまり、5.1chサラウンド音響という過剰は、音の起源を揺さぶる劇的な効果を示すことはできても、そこに横たわる決定的な差異に対しては、ただ徒にそれを果てしなく延期し続けるのみなのだ。完璧なステレオフォニック・サウンドは、永遠に完成されることはない。人類の歴史によって時間の流れが切り取られる以前から、そこに存在していた黒い森は、そう簡単に芸術の手に内に絡めとられるようなことはないのである。自然は、決して芸術を顧みない。混じり合わず、離反もしない。しかし、常に自然は、芸術の行く手に大きく立ちはだかる。それでも、人間の本能というものは、自然と芸術の挟間で虚しく翻弄されながらも、5.1chサラウンド音響といった方向への狭く長い回廊へと、耳(聴覚)を差し向けずにはいられないようだ。そこに作用しているものとは、やはり権力への意志なのであろうか(もしくは、知への渇望/渇望する知の表れなのか)。だが、すっぽりと空洞化した中心には、いかなるルサンチマンも入り込むことはない。その周縁を、直感と偶然からなる実験音響が、ため息や独白のように静かに穏やかに流れているだけだ。あえて孤立と疎外の道を選択する、迂回の方法論に徹しながら。その音の流れとは、きっと256Kbpsという決定的な野蛮を孕んだ速度で進みながら、悦ばしき曙光に包まれて鳴り響くに違いない。(09年)

追記。先日、12rec.がブログを通じて伝えたところによると、あのミルへイヴンが、遂に新作のレコーディングに向けて動き出すようである。ミルへイヴンの公式ホームページの発表では、バンドは5月4日よりケルン近郊のトロイスドルフのスタジオ〈BlueBox〉に入る予定であるという。順調に作業が進めば、近いうちにミルへイヴンの待望の新作アルバムが聴けるであろう。現時点でのプランでは、これまでと変わらずに、12rec.からのオンラインでのリリースとなるらしい。大いに期待して待ちたいところである。

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