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<<   作成日時 : 2009/04/09 21:00   >>

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James McDougall: An Opening In The Canopy
Compost And Height

画像 ジェイムズ・マクドゥーガル(James McDougall)は、U-Cover、Test Tube、dataObscura、Resting Bellといった名だたるCDRレーベルやネットレーベルから、次々と名作を発表しているエンティア・ノン(Entia Non)としての活動で知られる、オーストラリアはブリスベン在住のアーティストである。おそらく、現在世界で最も美しいサウンドをクリエイトしているエレクトロニック・ミュージック/エクスペリメンタル系アーティストのうちのひとりであろう。過去2年間にエンティア・ノンがリリースしてきた作品は、いずれも傑作ばかりだ。全て、一聴の価値は、十二分すぎるほどにある。そして、本作は、誠に珍しいことに、エンティア・ノンという名義を使用せずに、ジェイムズ・マクドゥーガルとして、UKのエクスぺリメンタル・ミュージック専門レーベル、Compost And Heightより発表された作品である。リリース日は、09年3月28日。なぜ、いつものよく知られたプロジェクト名を名乗らずに、本名を用いてのリリースとなったのだろう。これまでにエンティア・ノンとして発表してきた作品とは、根本的な部分で何かが異なる、特別なものということなのか。マクドゥーガルがアーティストとして活動する際の外面的ペルソナである、エンティア・ノンという(一段高い)領域/段階にまで踏み込まず、よりパーソナルな(平素のままの)プロダクションにより完成させた作品であるがために、個人名をそのまま用いたジェイムズ・マクドゥーガルとしてのリリースとなったということか。もしくは、わざわざエンティア・ノンという名義を用いて発表をするまでもない、エンティア・ノンでの制作活動の合間にリクリエーション的に生み出された小品であるがために、通常のリリースと明確に区別をする意味を込めて、個人名をそのまま用いたリリースとなったのだろうか。とりあえず、まずは手始めに、最も最近のエンティア・ノンのリリース作品にまで遡って見てみたい。前作と今作の具体的な比較によって、何かが掴める可能性は極めて高い。
画像 09年の年明け早々、エンティア・ノンは今年最初の作品を発表している。フランスはパリに拠点を置くミニマル・エレクトロニック・ミュージック専門レーベル、SEM Labelが傘下に展開するネット・リリース・セクション、IODよりEP“Escarments”を、09年1月2日にリリースしているのだ。さしずめ、エンティア・ノンから全世界に向けてのお年玉作品といったところだろうか。“Escarments”は、約10分前後の2作品を収録したミニ・アルバム的EPである。イスカープメンツ(Escarpments)といえば、断崖絶壁や急斜面を意味する名詞の複数形であるのだが、ここでは真ん中の一文字「p」が抜け落ちてしまっている。そこで、この“Escarments”という語を(少々強引にだが)解体してみることにする。すると、これは、エス/イド=無意識の本能的欲求(Es)と傷跡/痕跡付け(scar-ment)といった用語や造語を合成させたものであるように(多少こじつけ的にではあるが)読み解くことができる。痕跡付けの本能的欲求であろうか。とりあえず、この傷跡/痕跡という言葉は、ジャック・デリダ(Jacques Derrida)が論じた〈差延〉と、そこにおける差異や遅延を引き起こす不在なる過去の(先行する)痕跡としての記号や概念という思考、その遅れ/ズレそのものである〈痕跡〉とを、どこか連想させる。また、それは、デリダによる〈差延〉としてのディフェランス(differance)が、遅れ/ズレをもたらす一文字「a」を差異=ディファレンス(difference)に混入させた、空洞化した(構造主義的な)無限の綴り違いの連鎖を引き起こすところのアレであったことを、思い当たらせてくれもする。しかしながら、一文字の抜け落ちと差し替えでは、実際のところ天地がひっくり返るほどの大違いなのである。“Escarments”では、もはや、文字の面でも音声の面でも、断崖絶壁や急斜面として、ほぼ受け取られることはない。また、脱落では、不在を根源的なものとすることも適わない。問題の一文字「p」は、まさに断崖絶壁から落下し、急斜面を転げ落ちてしまったということなのであろう。そう考えると、何となくだが、この戯れも興味深いものに思えてくる。おそらく、マクドゥーガルが意図したものとは、大きくズレた読みであるに違いないが。“Escarments”からは、断崖絶壁や急斜面を滑落する、脱落という隠された意味を引き出せる。あくまでも、強引でこじつけな戯れとしてではあるけれど。
 “Escarments”の第一部を飾るのは、“Leaving Value Be”。価値を残して存在するということは、逆に読み替えて、価値を失うものをテーマとしているということであろうか。話し声や食器の音、自転車の車輪の回転音、電話のベルなど、都市/都会の香りのする物音/雑音が、微かなざわめきとともに途切れることなく流れている。深く暗い空洞の奥から響いてくるかのようなドローンが、上空を覆いつくすように広がる。チョロチョロと行き交う電子雑音群。中盤からは、深く轟くドローンが、都市/都会の生活音の中央部に降りてくる。焦れるような電子音と、中心から周辺へと拡散してゆく澄んだトーンのアンビエンスによって、物音/雑音のざわめきは、片隅や下方へと追いやられ、ほとんどかき消されてしまう。そして、最終盤になって、ようやくざわめきは、本来の空間を微かにだが回復することができる。終始、くすんだ灰色のトーンが、不安な予感を漂わせながら、作品全体の雰囲気を、やや陰鬱に覆いつくしている。その灰色が、主に都市/都会の内部から自発的に発生しているものなのか、そこに飛来する形で介入してくる巨大なドローンやエレクトロニックなノイズによってもたらされているのかは、明確に掴むことはできない。それぞれが、完全に重なり合うことによって、最も灰色が濃厚になってきているような気もする。全てが巨大なグレイ・ゾーンの内側に、すっぽりと飲み込まれてしまった時、あらゆるものの価値は失われる。色を失ったものに、もはやそれ本来の価値は見いだせない。その地点から、都市/都会の構造に密接に付帯するささやかな人間の生が、文字通りざわめきとして、その居場所を、都市/都会の構造の内側に再び確保するために動き出すまでの流れが、この“Leaving Value Be”では描き出されているようだ。価値を失うのは、ざわめく人間の生そのもの。色を失って、片隅へと追いやられている。これに続く第二部は、“Approaching”。ずばり、接近、そして取り組みである。どうやら前半戦のテーマは、ほぼ地続きでこちらにつながっているようだ。遊びに興じるような子供たちの無邪気な声、その上空に荘厳かつ美しいドローンが低く垂れ込めている。そこには、どこか宗教的な匂いも漂う。子供たちが遊ぶビルの谷間の猫の額ほどのコンクリートの広場、都市/都会の日常的な風景が、すっぽりと教会の内部に組み込まれているかのようだ。日常的な風景の外部から、絶え間なく、暴力的に響く電子雑音の断片が、切りかかり、激しく打ちつけられる。次第に、取り巻くノイズの襲来が、教会的な空気を浸食してゆく。子供たちの声は、もう聞こえない。再び、人間の生は、都市/都会の日常の風景から疎外されつくしてしまったのか。繰り返される鉱石を打ちつけるような音。押し寄せる電子雑音の断片の群れと拮抗するように、荘厳なドローンは、じっとそこに居座り続ける。やがて、鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。微かな水音と、大自然の中の人間の営みの香り。虫の羽音。ドローンは、最後に澄んだ響きを残して消える。この後半部で示されているアプローチとは、最終的には、大自然への回帰ということなのであろうか。やや短絡的であるような気もするが、価値を失い疎外された人間の生が、その本来の姿を回復する取り組みへと向かうのであれば、それは複雑化した都市/都会の構造からの脱却をはかり自然の懐を目指すというのが、常道といえば常道なのであろうか。宗教や教会による救済というアプローチの方法も示されているようにも見えるが、これは外部からの暴力と雑音による圧力には強く作用するものの、それだけでは究極的な問題の解決への接近までには至らない(ように聴こえる)。やはり、最終的に目を向けるべきなのは、自然なのだ。不自然な構造は、極力排されねばならない。断崖絶壁や急斜面から脱落する前に、万難を排し大自然を目指せ。
 エンティア・ノンのサウンドは、基本的に、とても美しい。印象としては、常にどこか澄んだ流れを感じさせてくれる。その流れは、決して濁ることはない。しかし、この“Escarments”には、かなりの暴力性を内在させる電子雑音が、いつもより多少多めに盛り込まれているような気もする。これは、作品のテーマによるところのものでもあるのだろう。これまで、こうした殺伐としたノイズ群が断続的に響き渡るような作品は、ほとんどなかった。大抵、エンティア・ノンの作品では、美しいドローンや細やかな電子音が、ゆるやかに流れる、とても牧歌的でデリケートなサウンドが、その大半を占めていたのだ。そこに都市/都会の日常や現実の濃密な匂いが紛れ込むことは、ほぼ皆無であったといってよい。そうした意味では、この“Escarments”は、09年の年頭にエンティア・ノンが新たな方向性を打ち出した、エポック・メイキングな一作として捉えることもできそうだ。この新たな音楽的アプローチが、今後どのような展開をみせるのか、注目してゆきたいところである。しかしながら、サウンド面での実際のアプローチの方法としては、この作品でも、ほぼ一貫してエンティア・ノンらしい流儀は、頑に固持されている。それは、緻密なエレクトロニック・サウンドと、フィールド・レコーディングなどによる物音や自然音といったコンクリートなサウンドを、完全に等価なものとして取り込み、音を構成させてゆく手法である。この手法により、エンティア・ノンのサウンドは、渦巻く電子音の洪水に転ぶことも、具体音によってもたらされるありとあらゆるノイズの波に晒され続けることもなく、絶妙なバランスを保ったまま牧歌性と繊細さをたたえた独自色を獲得することに成功する。そこでは、電子音(揺らめくトーンと澄んだドローン)と具体音(壮大なネイチャー・サウンドからプチプチなレコードのノイズまで)は、いかなる障壁もなく溶け合い、境い目が消え去るほどに混ざり合っている。これこそが、エンティア・ノンが、最も際立った特徴としている部分であり、他の追随を許さぬ唯一無二性を生み出す大きな要因ともなっている。人工の音と自然の音の理想的な共存空間。エンティア・ノンの音楽の美とは、そうした極めて突出したサウンド面での特色に大きく由来している。ちょっと他では絶対に聴けない、何か特別な感覚が、ここには存在しているのだ。それは、きっと誰にでも簡単に聴き取ることができるだろう。エンティア・ノンは、ある意味、かなり特殊な存在だ。エンティア・ノンのエンティア・ノン的な音は、ほぼエンティア・ノンの音の中にしか見いだすことはできない。いわゆる、孤高の音なのである。
画像 新年早々の“Escarments”から約3ヶ月、3月の末にCompost And Heightよりポロッと発表されたのが、この“An Opening In The Canopy”である。通常の作品のようにエンティア・ノンとしてではなく、珍しく本人名義のジェイムズ・マクドゥーガルとしてリリースされたのは、なぜなのか。ふたつの名義の間には、何か明確な区切りのようなものがあるのだろうか。であるならば、その違いとは、一体どこにあるのだろう。だが、そうした疑問に切り込む前に、まずは、この作品の内容について、少し詳しく見ていってみたい。いや、この検証作業を行うことによって、自ずと前述の疑問群に対する解答らしきものも、ぼんやりと浮かび上がってきてしまうように思われる。たぶん、そうした方向へ進むであろう。全ては時間の問題だ。“An Opening In The Canopy”とは、天蓋の穴のことである。頭上の覆いにポッカリと開いた大きな穴。天の穴。天上の穴。オーストラリアに住むマクドゥーガルにとって、天の穴というと、南極上空の巨大なオゾン・ホールのことであるのかも知れない。オゾン層の破壊による地球温暖化やオゾン・ホールの拡大による紫外線の増大など、大空に開いた穴は、言いようのない不安をもたらす。これは、天蓋に開いた穴から何かが落ちてきて、頭を直撃するのではないかという不安の感覚と、よく似ている。頭上を覆うものが何もないということは、それだけで、人間をとても不安にさせるのだ。本来であれば、常に頭上を覆っているべきものが、突然消失してしまったとしたら、その変異/変容は、言いようのない不安を、さらにもっと強く大きなものにするに違いない。“An Opening In The Canopy”は、マクドゥーガルによって採集された、ブリスベンにほど近いグロリアス山においてフィールド・レコーディングされた音源をもとに構成されている。クイーンズランド州の州都であるブリスベンの周辺地域の国立公園や森林公園(グロリアス山は、ブリスベン森林公園(Brisbane Forest Park)に隣接している)では、オーストラリア第三の都市といわれる大都会から車で小一時間ほどの距離にも拘らず、ほぼ手つかずのままの亜熱帯雨林(レイン・フォレスト)が保護された、豊かな自然環境に触れることができるという。マクドゥーガルは、そんなグロリアス山の早朝の様々な自然音を録音している。夜明けを迎えたばかりという時間帯だけに、一日のうちで最も静まり返っているであろう亜熱帯雨林は、しっとりと雨露や靄で湿った密集する木立から漏れる微かなざわめきに満ちあふれている。録音機材を抱えたマクドゥーガルは、亜熱帯雨林を移動しながら、次々と大自然の自然な息吹をマイクで採集してゆく。そして、その音源を使用して、20分47秒の音響作品を作り上げた。そこで聴くことができるのは、ほとんど混じり気のないストレートなフィールド・レコーディングの音源そのものである。手つかずのままの亜熱帯雨林の20分47秒間の早朝の自然音だ。生々しい臨場感をもたらしてくれるノイズとともに、鬱蒼と茂る森の中の風景が音像として立ち現れる。湿った地面の上を這いつくばった状態でうごめいている気分。ドローン化しているホワイトノイズの持続音。マイクに衝突する細かな小石や砂粒。いつしか、森の中を流れる小さなせせらぎに突入してしまっていたようだ。そびえる木立の上方から、野鳥たちの美しい色とりどりの鳴き声が森にこだましている。カエルの声。虫の羽音。ゴロゴロと転がるように地表を這い回る。人工的なノイズ、人の声。大自然の近くに何か異質な気配が迫っている。地響きのように轟く、深く巨大なドローン。水音。森の奥の澄んだ泉の湧き水だろうか。冷たい水の中で小石たちが湧水に吹き上げられて踊っている。レイン・フォレストを濡らした雨が、豊かな小川の流れとなって森の中を流れてゆく。水音に水音が重なり猛烈な響きを発生させる。弾けるように躍動する液体。水滴の音。野鳥の歌。犬の鳴き声。微かに聞こえてくるのは、人の話し声と車のエンジン音。どうやら、森のはずれまで来たようだ。それでも、まだまだ、あの森に響き渡る野鳥の声だけは、遠くからハッキリと耳に届いている。その声は、まるで、森を訪れた者に、何か大切なメッセージを授けようとしているかのようである。
画像 “An Opening In The Canopy”は、早朝に亜熱帯雨林の湿った地面を這い回り、せせらぎに突っ込み、湧水に洗われ、轟々たる流れに流され、森のはずれからブリスベンの都会的生活へと戻ってゆく、というような流れの作品になっている。都市/都会から大自然へと向かった“Escarments”とは、全く真逆のベクトルを辿る流れだといえる。だが、真逆であるということは、そこに可逆的パターンも想定できるということであり、両作品の根底に流れるテーマは、相互に絶妙に共鳴/共振しあっているようにも感じられる。“Escarments”と“An Opening In The Canopy”を続けて聴くことで、そこに何かが見えてくるかも知れない。もしくは、そこにあるのは、終わることなき循環であるようにも考えられる(文化は差延する/差延される自然として現れる)。大自然と都市/都会の挟間を際限なく行き来するだけの存在(能動的忘却へ?)。おそらく、明確な解答らしきものを、この音の中に見つけ出すことはできないだろう。結論は、きっと大自然と都市/都会を結ぶ線の外側にあるはずだ。それを見通すためにあるのが、天蓋にポッカリと開いた穴なのかも知れない。薄暗いジメッと湿った亜熱帯雨林の地表から這いつくばって見上げる、鬱蒼と生い茂る木立の遥か上方の、抜けるように青いオーストラリアの空。色とりどりな野鳥たちの鳴き声が、高い森の天蓋の内側に、輝かしい啓示を含んだ歌のように降り注ぐ。“An Opening In The Canopy”においては、いつものエンティア・ノンのサウンドの特徴である、電子音と具体音が溶け合い混ざり合う奇跡的に美しい瞬間は、ほとんど訪れない。非自然の音と自然の音は、ここでは全く共存していないのである。つまり、ここで聴けるサウンドは、貴重な動植物の宝庫としてのレイン・フォレストの音そのもの、ほぼ手つかずのままの大自然なのである。録音者であるマクドゥーガルは、この作品の制作過程において、プロデューサーとして仕事は、音源に最小限度の加工を施すだけにとどめている。録音した音源を流れにそって編集し、いくつかの細かな音のパーツをドローン化させて密かにもぐり込ませる。しかし、そうした繊細で緻密な加工の数々も、オリジナルの音素材そのものの風合いを、決して侵害することはない。あらゆるノイズは、意図的に排除されることなく残されているし、その音の像は、完全に早朝の亜熱帯雨林のドキュメンタリーとして機能するラインを保持したままなのである。この20分47秒は、エレクトロニック・サウンドの側面から見た場合、エンティア・ノンの作品ほど全編に渡ってハッキリと作り込まれた音とはなっていない。いや、より最小限の、より細密なプロダクションが、全編に渡って目立たぬようになされているというべきであろうか。いずれにせよ、そこに、ある意味、決定的な違いが存在している。“An Opening In The Canopy”が、エンティア・ノンとしてではなく、ジェイムズ・マクドゥーガルの名義で発表されたのは、それゆえのことなのであろう。ここにあるのは、より素のままのマクドゥーガルのサウンドなのだ。それは、エンティア・ノンという仮面を(敢えて)取り去って、ほぼ素顔のままを曝け出しているようでもある。どうやら、天蓋の穴とは、様々な意味での抜け穴でもあるようだ。問題は、どうやって薄暗い湿った地面の上から天上の穴へと飛翔し、それを突き抜けるかということにつきる。地球温暖化によって茹だり干上がるか、紫外線によって焼かれるか、それとも高く飛び上がれるかだ(脱落の真逆)。タイム・リミットは、刻一刻と迫っている。しかし、見る前には跳ぶな。必ず、見定めてから跳べ。天蓋の穴は、それほど大きくはない。
 エンティア・ノンの作品には、フィールド・レコーディングされた自然音や物音/雑音が付き物である。そうした様々な深みのある具体音と、ドローンやトーンなどのエレクトロニック・サウンドを巧みに融合させることで、はじめてエンティア・ノンの音楽は成立する。これは、マクドゥーガルが、常にエンティア・ノンの作品の制作に先立って、かなり膨大な量のフィールド・レコーディング音源の収集を行っているであろうことを想像させる。まず、素材となる具体音の選択と編集があり、その先にエンティア・ノンとしてのコンポジションがあると考えれば、残念ながら使われなかったフィールド・レコーディング音源も含めて、相当な量の音素材がマクドゥーガルの手元に集められているであろうことは間違いない。そうしたものの内のひとつが、この早朝のレイン・フォレストでの録音物なのではなかろうか。まだまだ、貴重なネイチャー・サウンドの音源や日常の中の物音/雑音の記録など、日の目を見る機会に恵まれていないフィールド・レコーディングの成果が、山ほど眠ったままとなっているのであれば、今回の“An Opening In The Canopy”のような形で、これからも発表を行っていってもらいたいところである。エンティア・ノンでの作品とは、はっきりと区別をつけて、フィールド・レコーディング・アーティストのジェイムズ・マクドゥーガルによる作品として。これには、是非とも期待をしたいところである。エンティア・ノンの活動の合間に、忘れた頃にちょこちょことでも全く構わないので。(09年)

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