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<<   作成日時 : 2009/03/22 20:00   >>

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中山双葉: つづく
P-Vine PCD-18556

画像 大阪を中心に活動するギタレレ弾き語りシンガー・ソングライター、中山双葉のセカンド・アルバム。06年秋に老舗インディ・レーベル、アルケミーより発表されたデビュー作『友だちは犬だけ』に続く、約2年半ぶりの待望の新作である。まず最初に断っておきたいのだが、中山双葉は、シンガーとしても、ソングライターとしても、とんでもなく稀有な存在である。だが、そのシンガー・ソングライターとしての立ち位置は、技巧や洗練といったものとは、かなり程遠い。いや、それは、あくまでも一般的な意味での技巧や洗練であって、中山双葉には中山双葉ならではの技巧や洗練が確実にある、というべきであろうか。まさに高純度のオルタナティヴな逸材。ある意味、孤高の存在でもある。歌手としての技巧や、作家としての洗練が、シンガー・ソングライターが問われるべき資質の全てではないだろう。それなのに、中山双葉が歩んでいる道には、どこを見渡しても人影らしきものは、ちっとも見当たらない。しかし、確かに、そこに道はある。それは、かつて、誰かが、もう忘れられてしまった誰かが、歩いた道なのだろうか。もしくは、けもの道か。どんなに狭く険しい道であろうと、日々の歩みは続く。その最新版の冒険レポートが、このアルバム『つづく』である。
 とりあえず、この秀逸なるジャケットのデザインには、ちょっと驚かされた。これは、どうしたことか。とてつもなく前向きで、何とも言いがたいヤル気が力強くみなぎっている。いやいや、後方の二人とは異なり一人だけ真逆の方向を向いているということは、前向きではなく完全なる後ろ向きということなのだろうか。それに、よくよく見てみると、その瞳はそれほど遠い先の先までを見据えてはいないようである。どうも、少しばかり、意味深長な感じだ。関西人ならではの笑いのエッセンスが隅々にまでまぶしてあるような気もするし、大真面目にフォークシンガー=中山双葉の世界のエッセンスを視覚化したものであるような気もする。だが、何度か手にとって眺めているうちに、当初の驚きや妙な違和感のようなものは、スーッと消えてゆき、しっくりと目に馴染んでくるから不思議である。知らないうちに、気づいたら、何となくビンゴな感覚。そこがまた、中山双葉らしいような。そう、まさに、そんなイメージのキャラクターなのである。こちらが特に意識していなくても、知らぬ間にスーッと忍び寄ってきて、いつの間にかしっくりと馴染んでしまっている。その歌を聴いて、最初は「へえ、なるほど、なるほど」程度だったとしても、決して、それだけでは終わらない。喉につかえた魚の小骨のように、一旦それが微かにでも引っかかってしまうと、そう簡単には取れないのである。そして、いつしか、もう四六時中それが気になって気になって仕方がなくなってくる。咳をしても、ご飯を丸呑みしても、取れやしない。こういう時の中山双葉の歌は、とてもとてもしつこい。そんな妙にアクの強い不思議な魅力は、このジャケットにも、何となくだが、よくにじみ出しているように思われる。一度見たら、そう簡単には忘れられないであろう、強烈なインパクトや破壊力も、十二分に備わっているではないか。
 中山双葉の邪気のない歌声からは、危ういほど無防備に内面を曝け出しているような印象を強く受ける。そうした歌を、人は、しばしば等身大の歌と呼んだりもする。しかし、どんなに等身大だといっても、大抵の場合は、少しは自己防衛本能が機能して、どこかに薄い殻をつくってみたり、くるりと半透明のオブラートに包んでみたりするものなのだ。だが、この人の歌には、あまりそうした大人な作為性は感じられない。天然ものの等身大シンガー・ソングライターということか。その極めて素朴な、手の届く範囲/目の届く範囲の情景/心情を歌った歌には、よそ行きの衣装で着飾っている風な雰囲気は全くない。そこで歌われる言葉も、決して借り物ではなく、胸の内から飛び出してきた生きた言葉ばかりのように思われる。ゆえにか、それを聴いていると、時折、ハッとさせられたり、ドキッとさせられたり、首筋のあたりがムズムズゾワゾワとなったりする。血の通った活きのよい詩の言語というものは、そう簡単に右の耳から入って左の耳に抜けやしないし、そうそう喉越しよくスンナリと飲み込めるものでもない。巷に氾濫している、ありきたりな常套句をあれこれ粗雑に組み合わせて、薄っぺらで偽善的なメッセージや教訓譚を押しつけてくるだけの歌とは、たいそうな違いである。テレビで音楽番組などを観ていると、首筋のあたりがムズムズゾワゾワと薄ら寒くなってくる妙な歌に、かなりの高確率で遭遇させられる。嘘くさい励ましの言葉や寝言じみたまやかしの愛のささやき、世の中の全てを単純な法則で無謀にも読み解いてしまう実におめでたい了見の狭さ、馴れ馴れしい不特定多数のキミへの呼びかけ、現実とは大きく掛け離れたプラスティックの偽木のような空虚な日常。アルバムの冒頭を飾る1曲目の“つめのカオ”の中で、中山双葉は「白々しいクリスマスの歌ばかり/ながれちゃって/ながれちゃって」と、なかば嘆息まじりに切ない哀感をにじませながら歌う。しかし、その直後のヴァースでは「おんなじや/おんなじや/全部全部おんなじや/わたしもかな」と、おそろしくモヤモヤとした心情の吐露を、そこに続けるのである。いかなる創作であろうとも、何らかの白々しさは、常について回るはず。多かれ、少なかれ。たとえそれが、ダ・ヴィンチやミケランジェロなどの天才の手になる芸術作品であろうともだ。要は、いかに、その白々しさを真正面から受け止め、もともとの情感や情動に離叛することなく表現を成型できるか、なのではなかろうか。そこでは、表現者が、どれだけ原初の動きを的確にとらえられているかが、問題となる。見えているものにしか、表すことはできなから。中山双葉の歌の白々しさとは、人間の体でいうと、ほんの尾てい骨ぐらいに目立たぬものである。それは、パッと見た感じでは、もうほとんど確認することはできないだろう。そこらに横行している、白々しさの塊のような歌とは、そこが決定的に違う。全部おんなじようでありながらも、実は玉と石ほど掛け離れているのだ。石ころだらけの地面に堕してしまったのではなかろうかと、自らの歌を「わたしもかな」と冷静に省みれるところにこそ、中山双葉の非凡さが光るといってもよいかも知れない。平凡な石たちの大半は、己が石であることを少しも自覚しておらず、惨めにも必死に玉を気取るものまでがいたりするのが、常であるのだから。白々しいクリスマスの歌は、そんな石ころだらけの地面から聴こえてくる。どうやら爪に描いた顔は、徹底して知らんぷりを決め込んでいるようだが、はっきりいって、中山双葉の歌は、そこらへんの石ころとは、決しておんなじではないのである。
 現実の日常生活の中から豊かな想像力の産物として生み出された、とても素朴な鼻歌のような歌。とても控えめにかわいらしく鳴る、特徴ある弦の響きが印象的な、ギタレレによる弾き語りスタイルの歌は、優しくのどかでほんわかとした感触をもつ。表面的な手触りとしては。しかし、その徹底した素朴さやほんわかさとは、飛び抜けて過激であることの裏返しであるようにも思われるのだ。アコースティックなギタレレの弦の響きからくる、圧倒的なまでにフォーキーなサウンド。だがしかし、その実際の音楽性を抉り出してみると、それは、驚くほどエッジの立ったロックン・ロールであったり、豊かな奥行きをもつパワー・ポップであったり、狙いを定めたような似非民俗音楽であったりと、かなり雑多なスタイルが取り込まれていて実に幅広い。そうした音の志向性とは、ロックやポップスなどの既に手垢まみれになってしまっている音楽スタイルを一度解体し、ギタレレという特異なツールを用いて新たな逐語訳を試みているという感じに近いだろうか。中山双葉の歌は、アコースティックな響きを懐かしめのスタイルの音楽性の中で最大限に活かしたサウンドに、よく映える。だがしかし、その素朴極まりない響きとは裏腹の、凄まじいまでの過激さや斬新さを、その内部にたんまりと隠しもっていたりもするのである。3曲目の“みずたまりのむ黒猫”は、ほんのりダークなイカした双葉流のハード・ロックだ。5曲目の“はなのいろ”は、儚くも物悲しいコミカルな双葉流トラッド(民謡)で、7曲目の“ペンギンとねこと女の子”は、不思議な希望の光がチラチラ瞬く60年代ポップスのメルヘンチックな焼き直しといったところであろうか。深い静寂のただ中で、ひっそりと小さな歌声でロックしポップスする、スカスカになるまで虚飾や贅肉を削ぎ落とした、その音楽性は、80年代初頭のポスト・パンク期にRough Tradeより登場したヤング・マーブル・ジャイアンツ(Young Marble Giants)による、情け容赦なく徹底的にミニマルな書き換えを遂行したロックン・ロールやジャズ/ボサノヴァやポップスを思い起こさせる。形骸化した音楽ジャンル/音楽スタイルを解体し、どこまでも様式のシンプルさを突き詰めてゆくと、時として、その奥底に流れる脱構築への強い意志などの凶暴性が、あからさまに剥き出しになってしまう場合がある。ヤング・マーブル・ジャイアンツの音楽とは、まさにそういうものであった。ヴォーカリストのアリソン・スタットン(Alison Statton)による、どこにでもいそうな普通の女の子が気負いなく歌ったという風な、大いなる天然のアマチュアリズムを前面に押し出した素朴でピュアな歌唱は、そうしたポスト・パンク期の過激な音楽性に、なお一層の拍車をかけていた。技巧や洗練には見向きもせずに、無敵の聖なる少女性を盾に、どこまでも我が道を疾駆していたのだ。かわいいは、絶対的な正義である。中山双葉とアリソン・スタットンは、シンガーとして、とても似通ったキャラクターであるようにも思われる。歌いすぎない美学とでもいおうか。その歌唱には、意識的にか無意識的にか、常に余白が残されている。肩の力が完全に抜けた、極端にいえば、まるで自分にしか歌いかけていないかのような、強烈にインティメイトな歌唱なのだ。しかし、それでも、決定的に異なっている部分はある。それは、アリソン・スタットンが、一種の厭世観にも通じそうな虚無性すらたたえた、どこまでも冷淡かつクールな歌唱に徹していたのに対し、中山双葉は、そこかしこで抑制を解き、感情の昂るままに任せて、やんわりソフトにほのぼのと叫び喚きちらすことがある。あまり包み隠したりしない中山双葉の歌は、アリソン・スタットンのそれよりも、さらに過激といえば過激であるのかも知れない。いや、もしかすると、これは単に、ウェールズ人と関西人の気質の違いによるものなのであろうか。別に、アリソン・スタットンが慎ましやかで、中山双葉は全体的に上方芸人ノリだなどと述べたい訳ではない。しかし、優れた芸人ほど過激な親密性を発する存在もいないと考えれば、この気質の部分での対比も、あながち大ハズレではなさそうである。朗らかにボケをかまし、ノリ突っ込みしながら、鮮やかな手さばきでスパッと核心を抉り出す。ヘナヘナな魂の叫びを交えつつ、自由奔放にほんわかと弾けまくる、中山双葉の絶妙に緊張と弛緩を盛り込んだ歌唱には、非常に稀有な魅力が満ちあふれている。
 アルバム『つづく』には、いくつもの素晴らしい楽曲が収録されている。それはもう、粒ぞろいというよりも、駄作なしといったほうがよさそうなくらいに。ここでは、そのうちのいくつかを紹介しておきたい。まずは、アルバムの中盤で、ひと際光り輝く3曲を。8曲目の“夏”は、幼少時代のとても暑い夏の日の炎天下を思い起こさせてくれる。目がくらむような眩しい光に満ちたノスタルジー。汗ばんだ首筋や腕にまとわりつく、夏の昼間のムッとするような重い熱気。青みがかった緑の葉の雑草が、こんもりと生い茂る空き地やあぜ道の草むら。強烈な陽光が照りつける、土ぼこりが舞う砂利道。切れたトカゲの尻尾を見つけた少女は、その真っ青なにょろにょろを掴んで「たったったった」と走り出す。鼻から血を流しているカエルを捕まえた時に、とっさに居ても立ってもいられなくなり、それをもったまま走り出したことを思い出した。いきなりの流血に驚いて動転したせいもあるが、どこか安全な場所にそっと逃がしてやろうと、子供ながらに考えたのだ。しかし、そのへんのドブや田んぼに放したのでは、すぐにまた誰かに捕まえられてしまうに違いない。カエルをもったまま、あちこち駆け回ったが、完璧に安全そうな場所なんて、そう簡単には見つけられなかった。そのうちに、困り果てて頭がはたらかなくなり、自分でも自分が何をやっているのか、わからなくなってくる。結局、ぐるりとそのへんを一周走ってきただけで、最初にカエルを捕まえた場所から百メートルと離れていない、同じ用水路の草むらに、そっと戻してやった。付近でカエル取りをしている子供たちに気づかれないように、誰も見ていないことを、一応確認してから。真夏の炎天下は、そこで遊ぶ子供の頭の中に、決して消えることのない強烈な記憶を焼き付ける。血相を変えて少年少女が駆けてゆく時、きっとその手には必ずや虫やトカゲの尻尾やカエルが、大事そうに握られていることだろう。真っ白に輝く強烈な光の中から浮き上がってくる追憶の夏の日。少女は、宝物を保管するビンに真っ青なにょろにょろを入れて、公園の片隅の秘密の隠し場所に埋める。かつては誰もが子供時代に通る道であったはずだが、今ではもうそんなの、遠い昭和の夏の風景でしかないのかも知れない。この“夏”を、まるで遠くの架空の街の物語のように聴く世代は、もはやかなりの割合を占めつつあるのではなかろうか。そう考えると、ちょっと寂しくも虚しい。また、この楽曲の曲調や雰囲気は、RCサクセションの名盤『シングル・マン』のB面の物悲しく突き抜ける感じを、いやがおうにも思い起こさせてくれる。生気にあふれる夏の日射しと千切れてもなお動くトカゲの尻尾の鮮やかな対比と、どこまでも淡々としたトーンで情景を描写してゆく中山双葉の歌唱が、実に味わい深くてよいのだ。9曲目の“まっくらひとり出口なし”は、孤独と暗闇に正面から対峙し、それを平然と乗り越えてみせる、何とも不思議な勇ましさが充満した楽曲である。ここでの中山双葉の歌は、おそらく全盛期の吉田拓郎でも真っ青になりそうなほどの、凄まじい無頼派ぶりを垣間見せてくれる。手に負えないものまで無理して抱え込もうとはせずに、「ああ/諦めた」と、すぐに突き放して知らんぷりする姿勢は、まさしくロックン・ロールだ。サビで繰り返される「まっくらひとり出口なし/自分に訊いても返事なし」というフレーズも、非常に印象的である。この、あっけらかんとしたニヒリズムには、芯まで痺れさせられる。これは、非の打ち所のない名曲である。10曲目の“舟乗り”は、月が輝く大海原を「せんちょうがいない/舟がすすむ」という、フェリーニ監督の映画『そして船は行く』にも似たシュールな感触を醸し出す、妙にドラマティックな楽曲である。旅路の途中で商人や海賊や海の怪物などの外部からの訪問者/よそ者が、次々と登場するが、舟の上では特に何ごとも起こらない。ただただ、どこまでも「しづかな海を/舟がすすむ」だけなのである。このささやかな航海の物語の語り手に関しては、あえてここでは明かさないことにする。そこは、聴いての、お楽しみだ。中山双葉は、なかなかに稀有な語りの才能をもつストーリーテラーでもある。以上の3曲を頂とする中盤の大きな山場の後には、11曲目の“雲の光”と12曲目の“雪と月”という、おそろしくへヴィに沈み込む2曲が続く。特に“雪と月”のラストでの「やだ/やだ/やだ」と切なく繰り返される、ひそやかな心の奥底からの叫びには、痛いほどに胸を締めつけられる。また、14曲目の“はなれて”では、実に淡々と全てを達観したかのような旋律にのせて「ながしたなみだはいつか/アフリカのどうぶつの/かわいたせなかに/おちるだろう」と歌われる。これには、ちょっと参った。深い深い救いようのないほどの悲しみを、ここまで内省的かつ詩的な深みのある表現へと昇華させてしまうとは。天才じゃなかろうか。確か、あぶらだこに“象の背”という名曲があったが、流した涙がいつかはアフリカ大陸の象の乾いた背中に落ちるのであれば、未来は全然暗くはないと本気で信じられるような気もする。アルバム『つづく』の終盤は、非常に重々しい楽曲が連なる、実に強烈な展開をみせる。だが、いずれも、とんでもなく質の高い名曲ばかりであるため、聴き応えそのものは十二分すぎるほどにある。あまりにも内容が濃すぎて、そうそう気軽に繰り返し聴いて楽しもうという気になれそうにないのが、逆に難点といえば難点であるかも知れない。身につまされたり、胸が張り裂けそうになったりと、ちょっと大変なことになるのは、聴く前からすでに目に見えているから。それでも、すぐそこにある名曲からの誘惑には、結局のところ逆らうことができずに、ついつい何度も再生してしまうのである。「アフリカのどうぶつ」や「からすが3羽」が、ほらこっちへおいでよと、手招きして呼んでいる。
 アルバム『つづく』のラスト、15曲目に収録されている“まなざし”は、遠いところに旅立ってしまった愛犬のカブに捧げられた一曲である。デビュー作のタイトルを『友だちは犬だけ』とするほどの愛犬家であった中山双葉にとって、この永遠の別れが、どれほどに大きな胸の痛みや喪失感となったかは、想像に難くない。それを想像することは難くはないが、その重みや痛みまでを正確に推し量るというのは、相当に難しいことであるだろう。きっと、それは、当事者にしか感覚できない、極めて私的な悲しみや苦しみであろうから。そんな深く心に刻み込まれた感覚を、中山双葉は“まなざし”という楽曲に全て託して丹念に歌い込む。これは、ちょっと涙なくしては聴けない曲である。あらかじめハンカチのご用意を忘れずに。“まなざし”とは、愛犬のつぶらな瞳に映る「ほんとの/空のいろ…」を覗き込む中山双葉のまなざしであり、「ぼくのなまえよんでる/きみのかお…」を見つめる愛犬のまなざしでもある。そして、交差する互いのまなざしに「ぜんぶをわかる/ときが…」訪れる。もう、どんなに名前を呼んでも、二度と返事は返ってこない。まなざしは、一方通行になったきりだ。それでも、「わからないけど、/わからないけど、/ほんとのことは、ことばがなくても/わかるんだ。」と、中山双葉は歌う。全部わかっているから、わからないけど、わかるのだと。名前を呼ばなくても、わかっている。まなざしで語りかけなくても、わかっている。言葉がなくても、わかっている。わかっているから、もう大丈夫。わかっているから、平気なのだ。“まなざし”は、アルバム『つづく』のラストに、プックリとできてしまった、大きなカサブタのような楽曲である。この心の傷跡にできた生々しいカサブタは、どんなに優しく触れても、擦り剥けてペラリとはがれてしまう。カサブタがはがれると、そこからは、真っ赤な血の涙が、じくじくとあふれ出す。心のカサブタというのは、あまりの生々しさによっては、周囲に伝染することもあるのだ。“まなざし”のカサブタは、それを聴く者の心にも大きなカサブタをこしらえる。そして、それは、アルバム『つづく』の15曲目を耳にするたびに、ペラリとはがれて真っ赤な血の涙をにじませる。これは、とても痛く苦しい経験である。そして、その伝染した心の傷跡からは、常に新鮮な赤い血の涙があふれ続けるのだ。そうした胸を締めつけられるような痛みや苦しみの感覚とは、中山双葉が歌に託した情動の生々しさの証であるともいえよう。“まなざし”は、とても感動的な伝染する名曲である。じっくりと耳を傾ければ、実に生々しい感情の動きを、そこにはっきりと聴き取ることができるであろう。
 先に少し触れた通り、この『つづく』には、あの『シングル・マン』と、どこか似通った印象をもたらしてくれる側面がある。そこでは、8曲目の“夏”に限定する形で、儚くも眩しい追憶の夏の炎天下で、象徴的な光と影/生と死が、隣り合わせに奇妙に同居している感じから、名作『シングル・マン』のB面を引き合いに出してみた。物悲しく澱み沈んでいる“ヒッピーに捧ぐ”や“甲州街道はもう秋なのさ”と、鼻息も荒く突き抜けた“冷たくした訳は”や、冷たい夜の闇の向こう側に明日へと続く希望の轍が朧げに見える“スローバラード”が、絶妙な躍動と陰影の均衡を保ちながら並ぶ、あの素晴らしくドラマティックなB面だ。しかし、ここでは、より大きな視点で眺めて、限定的/局所的にではなくアルバム全体について考えてみたい。指の爪に描いた顔との対話を通じて何もアテにはならない現実世界を目の当たりにする1曲目の“つめのカオ”から、大切なものを失う深い悲しみと向かい合って決して忘れないことで永遠に続くものを実感する15曲目の“まなざし”まで。軽快に笑顔で楽しく弾けるポップスや、実に重々しいテーマを扱った哀歌、深く思い悩んでいるバラッドと、とてもとても生々しく現実感のある生と死/明と暗が、どこまでも淡々と平然とない交ぜになっている感じが、このアルバム『つづく』にはある。これは、まさに名作『シングル・マン』と共通する感覚でもあるだろう。各収録曲ごとに、聴く側は、やや極端なまでに、明るい場所と暗い場所を(無意識のうちに)大きく行き来させられることになる。その振り幅は、とてつもなく大きい。明るい光の中でこそ陰なるものの印象は際立つし、逆に闇の中では光は目が眩むほどにまばゆく輝くものである。そうした明と暗の相対的な相乗効果によって、どの楽曲も、非常に強烈に脳裏に焼き付けられてゆく。そして、ラストでは、決定的な名曲が、聴く者の到着を虎視眈々と待ち構えているのだ。『つづく』と『シングル・マン』に共通する、とても生々しい嘘偽りのない生と死の匂い。中山双葉の歌にはカラスやペンギンやねこが続々と登場するが、そういえば『シングル・マン』のジャケットは、かわいらしい2匹のリスとクマのぬいぐるみのイラストであった。これも共通項といえば共通項だろうか。奇妙なメルヘンつながりだ。アルバム『つづく』は、名作『シングル・マン』に匹敵する、素晴らしい内容の作品である。おそらく、このアルバムの紹介の際に、そう引き合いに出したとしても、特に何の問題もないだろう。“ヒッピーに捧ぐ”や“甲州街道はもう秋なのさ”にジッと耳を傾けるのと、全く同じ感覚で、“夏”や“雲の光”や“雪と月”や“はなれて”や“まなざし”をじっくりと噛みしめて味わいながら聴き込んでもらいたい。すると、そこに『シングル・マン』から『つづく』へと、永遠に変わらない確かなものが、くっきりと連なり続いているのが目に見えてくるであろう。76年の『シングル・マン』の明と暗は、09年の『つづく』の明と暗へと、根底の部分で途切れることなく続いている。生々しい感情の動きは、いつの時代にも常に、真摯な歌を生むのである。かつて、忌野清志郎は「悪い予感のかけらもないさ」と歌った。ここで、中山双葉は「ほんとのことは、ことばがなくても/わかるんだ。」と歌う。そして、どこまでもどこまでも舟は進むのだ。いつか流した涙がアフリカの動物の乾いた背中に落ちるまで。いいや、きっと、もっとずっとずっと、その先の先まで。ほんとの歌は、決して絶えることなく永遠につづくのである。(09年)

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