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<<   作成日時 : 2008/11/07 20:15   >>

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「イチキュウキュウニイ、ランアウェイ」

【二】

 高校を卒業する頃になると、いつしか小林君は、熱狂的なプリンス(Prince)の信奉者に転向していた。元々、音楽の好みの移り変わりは激しいほうではあったが、この殿下のパープルな音楽への傾倒ぶりにも、相当に急激なものがあった。その後は、プリンスからジョージ・クリントン(George Clinton)への流れで、パーラメント(Parliament)やファンカデリック(Funkadelic)のPファンク(P-Funk)、そしてキング・オブ・ソウルことジェームス・ブラウン(James Brown)と、ものすごい勢いでドープなファンク道にズブズブとのめり込んでいったのである。この頃、ぼくらの周辺では、こんなことを口走る若者が続出していた。「もうPは卒業して、これからはFだ」と。つまり、これはパンクからファンクへの宗旨替えの宣言である。事実、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(Red Hot Chili Peppers)“Fight Like A Brave”の音楽ヴィデオに宿っていた、得体の知れない爆発的なパワーに感化されて、新感覚のファンク・ロックに目覚めた若者は、ぼくの周辺にもかなりいた。退屈な10代の日常に吹き溜まったものを吹き飛ばすには、傍若無人な野性味あふれるファンクの凶悪グルーヴこそが、まさにもってこいのサウンドであったのだろう。もはや、パンク少年たちは、ハードコア・パンクのノイジーなギターやドタドタしたドラムの疾走感だけでは、全然物足りなくなってしまっていたのだ。一時期、小林君たちは、常にチリ・ペッパーズのテープばかり聴いていた印象がある。そして、それとほぼ同じ時期のぼくはといえば、マーク・アーモンド(Marc Almond)やコイル(Coil)などのSome Bizzare系、ジミー・ソマーヴィル(Jimmy Somerville)のブロンスキー・ビート(Bronski Beat)やザ・コミュナーズ(The Communards)、そしてMuteのイレイジャー(Erasure)といった、なぜかゲイな人たちの音楽ばかりを聴きまくる奇妙な期間を経て、スティーヴ“シルク”ハーレイの“Jack Your Body”などのシカゴ・ハウス、マーズ(M/A/R/R/S)“Pump Up The Volume”やボム・ザ・ベース(Bomb The Bass)“Beat Dis”などの初期のロンドン産アシッド・ハウスとの遭遇を足がかりに、ズブズブとハウス・ミュージックの奥深い世界へ足を踏み入れていっている真っ最中であった。まあ、パンク〜ニュー・ウェイヴからハウス・ミュージックへの転向者が辿る道筋の定番として、エレクトロニック・ボディ・ミュージック(EBM)やベルギーのニュー・ビートの方面にも少し顔を突っ込んだりもしたのだけれど。だが、その後ほどなくして、小林君も、ブレイクビート・スタイルの初期のハードコア・テクノへの軽い寄り道を経て、こちら側のハウス〜ガラージ系のフィールドへと無事に降り立つこととなった。どうやら、NYのダンス・サウンドに、洗練されたファンクやソウルの匂いを嗅ぎ取ったらしいのだ。こうして、ぼくたちは、また同じ路線に合流を果たしたのである。すると、小林君は、かつて殿下の音にのめり込んでいったのと同様に、今度はラリー・レヴァン(Larry Levan)のDJスタイルに急激に心酔していった。ぼくらは、ともにあちこちの中古盤屋を巡り歩き、ガラージ・クラシックスと呼ばれるレヴァンが〈Paradise Garage〉で好んでプレイした、ジャズやファンクやディスコの年代物のレコードを血眼になって探しまわった。また、誰も知らないような掘り出し物や珍品を入手した際には、早速ターンテーブルにのせて、「かなりガラージっぽいベースライン」だとか「最初はよかったけど、途中からは少しダレてくる」とか言って、ともに真剣に批評しあったものである。まだまだ、ガラージなどに関する詳しい情報が、極端なまでに流布していなかった時代に、ぼくたちは、ほとんど手探り状態でアンダーグラウンド・ダンス・ミュージックの探究を進めていた。
 ちなみに、ぼくが初めてテクニクス(Technics)のターンテーブル、SL-1200に触れたのは、小林君の家に遊びにいった時だった。あのピッチ・アジャスターのスムーズな操作性と非常に高度なターンテーブルの回転の安定性は、まさしく衝撃的で、脳みそを金槌でしこたま殴られたような革命的体験となった。テクニクスに触れたことで、それまで分厚い謎のヴェールに包まれていたDJミックスの何たるかを、瞬時にして直感的に理解できた気さえしたものである。当時、ぼくが自宅で使っていた安っぽいちゃちなターンテーブルでは、必死にBPMを同期させようとしても回転速度が安定していないせいか、ぴたりとピッチを合わせてミックスすることは、とんでもない至難の技であった。従って、ほぼ手動でレコードの回転を早めたり遅めたりしながら、先行曲のビートが途切れるパートを狙って次の曲をミックスしていったり、各曲のBPMの微妙な違いを利用して先行曲よりも早いBPMの次の曲を少しタイミングを遅らせて送り出し、ちょうど先行曲を次の曲が追い抜かしてゆく際の、しばらく両者が並走しているように感じる瞬間を狙って徐々にミックスを試みたりと、かなり原初的でプリミティヴなスタイルのDJミックスらしきものを行って、ほとんど綱渡り状態で曲を繋いでゆくしかなかった。基本的に2枚のレコードのピッチは、全く合ってはいないので、手動の操作を誤ったり、少しでもタイミングを逸したりすれば、すぐさまガタガタでグチャグチャなミックスになってしまう。あの頃、ぼくの家に遊びにきて、ダラダラとした取り留めのないお喋りに興じながら、そんな粗暴で野蛮なミキシングをBGM代わりに聴かされていた友人たちは、ガタガタのグシャグシャな状態になると決まって、「あー、またカオスだぁ」と苦悶の表情を浮かべながら両手で頭を抱え込んだものであった。だが、考えようによっては、そうした原初的な手動方式のスタイルというのは、70年代初頭のNYのアンダーグラウンド・シーンで活躍した、〈Sanctuary〉のフランシス・グロッソ(Francis Grosso)や〈The Gallery〉のニッキー・シアノ(Nicky Siano)などの勇敢なDJ文化の先駆者たちが、薄暗いブースで機材と格闘しながら行っていたミキシングと、もしかすると、かなり近い雰囲気をもつものであったのではなかろうか。ただし、ミックスの達人であったグロッソやシアノが、ガタガタのカオスな状態を熱気に満ちたダンスフロアにもたらすことは、とても稀なことであっただろうが。ただ、最初に安っぽいちゃちなターンテーブルを使用してしまったことで、ある程度ではあるが、ミキシングに関する初歩的かつ原初的な部分での基礎的技術を、みっちりと鍛錬できたことは確かである。いきなり入門時から70年代初頭のDJたちが悪戦苦闘しながら歩んだ道筋を、疑似追体験的にでも辿ってゆくことができたのだから。その後、ようやく念願のテクニクスを手に入れたぼくは、憧れのロング・ミックスに明け暮れた。手についたレコードを片っ端からターンテーブルにのせ、ただひたすらにミックスしまくったのである。それまで掠るような繋ぎしかできなかったせいもあり、ふたつの異なるレコードが、ほぼ同じテンポで混ざりあって鳴り続けるという現象自体が、もう楽しくて楽しくて仕方がなかったのだ。反動とは、本当に怖いものである。まさにDJミキシングの魔力に、取り憑かれてしまっていた。そうとしか言いようがない。そして、間違いなくそれは、いまだに取り憑いたままなのである。テクニクスに触れ、レコードをミックスする楽しさは、実際、あの頃と何ら変わってはいない。アダムスキー(Adamski)に“Bass Line Changed My Life”というタイトルの曲があったが、ぼくの場合は、さしずめテクニクス・チェンジド・マイ・ライフといったところであろうか。

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