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<<   作成日時 : 2008/11/05 21:00   >>

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溝!だより

「イチキュウキュウニイ、ランアウェイ」

【一】

 92年の暮れ。取りたてて何も変わったところのない12月のとある日。昼をすぎ、少しした頃に、友人の小林君(メタリックK.O.)が、ふらりと遊びにやってきた。ぼくらは、いつものように、あれやこれやと特に結論を必要としない、実にユルい音楽談義に花を咲かせていた。そんなダラダラとした極めて非生産的な時間を過ごすことが、ぼくらにとっては非常に有意義で心地のよいものであった。西の空に傾いた弱々しい冬の陽光が差し込む部屋で、ぼくは会話の合間に、次々とハウスやガラージのレコードを取り出して、ターンテーブルにのせていった。新譜のシングルや中古盤屋巡りでの最新の収穫を、小林君に聴かせて反応をうかがうために。そんな普通に音楽のある風景こそが、当時のぼくらにとっては、よくある日常の一コマとなっていたのである。

 小林君と初めて会ったのは、高校に入学した日、入学式の当日であったはずである。同じ1年9組(一学年に、なんとクラスが10組もあった!)に籍を置く、クラスメイトであったからだ。だが、一番最初に話したのが、いつのことだったかは、はっきりとは覚えていない。ぼくたちの通っていた県立の公立高校には、学校のあった市内のみならず、同地区内の隣接する市や町の数多くの中学校から、たくさんの生徒たち集まってきていた。そんな生意気盛りの子供たちが、突然ひとつのクラスにまとめられたわけである。たぶん、いきなり入学式の当日から、気安く打ち解けるといった感じではなかったように思う。誰もが高校という真新しい環境に早く馴染もうと、言いようのない緊張感や緊迫感を抱きながら、そこにいたのではなかろうか。当然、同じ中学校の出身者がクラスにいれば、知った顔同士でかたまってしまう傾向も生じる。ぼくも最初はそうであったはず。そんな顔見知りの輪は、統合したり分割吸収したりを繰り返しながら、次第に大まかなクラス内の勢力図を形成してゆくことになる。
 市外の中学校の出身であった小林君は、クラスの中でも最も遠方から学校に通ってきている生徒のひとりであった。地理的には、すぐ隣町であるのだが、普通に通おうとすると、JR川越線でいったん川越駅まで出て、そこから本川越駅まで徒歩かバスで移動し、西武新宿線に乗り継いで通学しなければならない。しかし、これでは、とんでもない大回りの通学コースになり、時間も電車賃も余計にかかってしまう。そんなのは、あまりにも無駄でバカバカしいと感じたのであろう。小林君はスポーツ・タイプの自転車にまたがり、はるばる隣町から颯爽と長距離の自転車通学をしていた。独特の尖った雰囲気があり、かなり目立つキャラクターの持ち主であった小林君は、いつしかクラスの生徒の輪の中心に座を占める存在となっていた。最初から、何をやっても、何を喋っても、注目を集めやすいタイプの少年であった。今から思うと、相当にロックな感じの、よく切れるナイフのような雰囲気のある高校一年生であったように感じる。
 ぼくと小林君を引き合わせたものは、やはり音楽であった。音楽、つまりロックという共通の話題が、ふたりの間の距離をグンと狭めたのである。ただし、小林君はヘヴィ・メタルやハード・ロックを好むバリバリのギター少年であり、ぼくはといえば、恐ろしく排他的で何に対してもアンチなパンク小僧であった。普通に考えれば、完全なる水と油の間柄である。幼稚な頭で青臭いアナーキズムにかぶれ、高校の3年間に学校の図書館からニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)の著作を片っ端からくすねまくった(巻末の図書カードを見ると、ほぼ誰にも借りられた形跡がなかったので、拝借してしまっても特に問題はないと独断で判断した!)ぼくは、当時、ハードコア・パンクのビートはどこまでも速く、お決まりの様式美を追求しただけのギター・ソロなんて無用の長物であると、本気で信じ込んでいた。まあ、細かな枝葉の部分での好みは完全に食い違っていたかも知れないが、音楽好きでロック好きという共通項は、高校に入学したての見ず知らずのふたりの少年が友人関係を構築してゆくのに、充分すぎるものでもあったのだ。たぶん、最も初期の段階で、お互いにそのよさを認めることができたのは、おそらくギズム(GISM)であったように記憶している。確か、休み時間に廊下でダラダラしている時に、小林君が、ランディ内田のギター・テクニックについて熱く話していたような気がする。いや、もしかすると、あれはギズムではなくランディ内田グループを聴いた感想だったかも知れない。このあたり、実に曖昧な記憶である。だがしかし、学校の廊下で「ランディ内田は、日本のランディ・ローズ(Randy Rhoads)だ」と、小林君が少々興奮気味に熱弁をふるっていたことだけは、今でもハッキリと思い出すことができる。
 高校入学から約1ヶ月が過ぎた頃、ぼくと小林君は、休日に一緒に遊びに行く約束をした。たぶん、スーパー・ロック・マガジン『DOLL』に広告が載っていた原宿のロックな洋服や小物の専門店、シカゴなどの古着屋、西新宿あたりの輸入盤やインディーズのレコード(自主制作盤)を取り扱っている店などに買い物に行ったのだと思う。当日、どこに行って、何をしたのかは、全くおぼえていない。ただ、強烈に印象に残っているのは、小林君が、少しグレーがかったピンク色の丈の長いスプリング・コートらしきものを着てきたことだ。それまで学校での制服姿しか見たことがなかったせいか、ピンクのコートというのは、とてつもないインパクトとともに、ぼくの目に飛び込んできた。しかしまあ、ぼくはぼくで、汚いジーンズにTシャツ、そこに穴だらけのズタボロに加工したタンクトップを重ね着し、どこかから拾ってきた細めの鎖を肩から襷掛けにして、その上から皺クチャの長袖の綿シャツを羽織るという、何ともみすぼらしいパンク小僧然とした服装であったと思う。もしかすると、モトリー・クルー(Motley Crue)かラット(Ratt)かという雰囲気の色鮮やかなコート姿の小林君には、ぼくの小汚いズタボロなパンク・ファッションは、逆の意味でインパクト大であったかも知れない。夕刻を過ぎ、とっぷりと日が暮れた頃に、電車で川越まで戻ってきたぼくらは、新富町通りのパン屋の2階の喫茶スペースで、いつものようにダラダラと時間を過ごしていた。あちこち見て回り、少し歩き疲れていたのかも知れない。一杯のアイス・コーヒーだけで何時間でも粘れる、特に店員も常駐していない明るく広々とした、そのパン屋の2階の喫茶スペースは、ぼくらのような悪ガキにとっての恰好の溜まり場であった。中央の大きなテーブルの上に置かれたテレビでは、マドンナ(Madonna)のライヴ・ヴィデオやデュラン・デュラン(Duran Duran)の“Girls On Film”(これが流れると条件反射的に会話を中断し、皆で奇声や歓声を発しながら画面に釘付けになった!)などの音楽ヴィデオが、常にエンドレスでダラダラと流されていた。そして、その行きつけの喫茶スペースの窓側、人通りもまばらな夜の休日の商店街を見下ろす座席に並んで腰掛けてボンヤリしている時に、小林君が、おもむろに何気ない口ぶりでぼくに聞いてきた。「そんな服、どこで売ってんの?」と。実際の話、それはどんな店にも売っていない服だった。自分で裁ちバサミを使い、もう着なくなったシャツやタンクトップを切り刻み、穴だらけにしたズタボロを、ただ重ね着しただけのものであったからだ。むしろ、小林君がぼくに投げかけてきた質問は、こちらから小林君に聞いてみたいものでもあった。あんなピンク色のコート、いったいどこで買ったのだろうか。
 ぼくらが在籍していた1年9組には、もうひとり忘れてはならない音楽好きの少年がいた。それが、A.R.B.の熱烈なファンであったドラマーの松本君である。最初に松本君と話したのは、ぼくが学校に持っていっていたオート・モッド(Auto-Mod)の「時の葬列」のチラシがキッカケであったと記憶している。目ざとくそれを発見した松本君が、「こういうの、よく観に行くの?」と聞いてきたのだ。その場ですぐ、ぼくらは今までに行ったコンサートやライヴの話などで軽く盛り上がった。たぶん、それはちょうど、ぼくが高校入学直後の85年4月28日に新宿アルタ前でのラフィン・ノーズ(Laughin' Nose)の無料ソノシート配布イヴェントに行ってきた、ほんの数日後であったような気がする。松本君は、あの日のアルタ前に行かなかったことを後悔しつつ、ぼくにA.R.B.のドラマー、キースのクールなかっこよさについて熱心に語ってくれた。そして、隣のクラス、1年10組には、ジョニー・サンダース(Johnny Thunders)を神のように崇め、ハノイ・ロックス(Hanoi Rocks)を心より愛する、大将の愛称で知られる東沢君がいた。最初にぼくらが東沢君の大将ぶりを目撃したのは、9組と10組の男子生徒が合同で受ける時間割が組まれていた体育の授業においてであった。その記念すべき初回の授業で、10組の担任でもある体育教師のオトジに名指しされ、なぜかいきなり東沢君は、ぼくらが整列している前に出て鉄棒をやらされる羽目になったのだ。すると、見るからに大将らしき人物が、何喰わぬ顔で颯爽と前へ歩み出た。そして、次の瞬間には、おもむろに鉄棒をしっかりと掴んでいたのである。あの時の東沢君の鮮烈なイメージは、どこからどう見ても大将そのものな雰囲気だったと記憶している。大将は、真冬でも学生服を腕まくりして廊下を大股で闊歩する、遅れてきたバンカラ気質をプンプンと漂わせている実に硬派な高校生であった。後に、ともにバンド活動をしてゆくことになる主要なメンバーたちは、このように1年9組と1年10組に最初からズラリと顔を揃えていたのだ。これは、ある意味、かなり奇跡的な巡り合わせでもあった。ぼくらは、ことあるごとに、誰かしらと常に行動をともにしていた。この音楽仲間の結びつきは、どこかサッパリした雰囲気をもちつつも、とても強力なものでもあった。休み時間や昼休みには学校を抜け出して、校門の目の前の駄菓子屋の隅の薄暗いゲーム・コーナーに入り浸って授業をサボったり、学校帰りには新富町通りの貸しレコード屋、G7に直行して新入荷の輸入盤を漁り、翌日の学校では借りたレコードの感想を報告したり、『Fool's Mate』の最新号が出れば面白かった記事の話題で盛り上がり、チェックした輸入盤の新譜の情報を共有しあった。ぼくらの学生生活は、ほぼ音楽を軸にまわっていた。
 そうした当時の忘れられない数多くの思い出のひとつに、『PURE ROCK』に関するものがある。『PURE ROCK』とは、TBSで深夜に放送されていた音楽ヴィデオ専門番組であった。伊藤政則や和田誠がぶつくさと喋りながら、ハードなロック系のヴィデオばかりを流しまくるのだ(当時のTBSの深夜番組では、ロックパラスト(Rockpalast)のライヴ映像が放送されていたり、かなり侮れぬものがあった)。そんな、いまいちユルそうな、この『PURE ROCK』の放送で、いきなり大事件が巻き起こった。おそらく、この番組で、ガンズ・アンド・ローゼズ(Guns N' Roses)の“Welcome To The Jungle”が、日本で初めてテレビ放送されたのである。その放送の翌日、朝の学校の廊下は、ちょっとした騒ぎになっていた。「昨日のあれ、観た?」。「なんか、凄かったよな」。「一瞬、マイケル・モンロー(Michael Monroe)かと思った」。「あの動き、面白かった」。朝っぱらから興奮気味に騒いでいたのは、ぼくらの仲間内の数人だけであったが、ガンズ・アンド・ローゼズの出現が、明らかに衝撃的な大事件であったことだけは、うっすらと感じ取れていた。ぼくらは、大袈裟な身ぶり手ぶりで「シャナナナナナナ」や「ソッ!ダウン」のパートのアクセル・ローズ(W. Axl Rose)の印象的なアクションを、何度も繰り返し物真似して、早くも楽しんでしまっていた。こんなにも、新人バンドのたった一本の音楽ヴィデオで盛り上がれてしまえたなんてことは、たぶん、これが最初で最後であったかも知れない。名作“Welcome To The Jungle”の影響力は、それほどに甚大なものであったのだ。そして、ガンズ・アンド・ローゼズは、いきなり登場とともに音楽好きの一部の高校生の間で、超ウケる存在となってしまっていたのである。

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