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zoom RSS 湯川潮音: 灰色とわたし

<<   作成日時 : 2008/08/01 21:10   >>

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湯川潮音: 灰色とわたし
EMI Music Japan/Capitol TOCT-26518

画像 06年1月に発表されたメジャー・デビュー作『湯川潮音』から数えて、約2年半ぶりとなるニュー・アルバム(リリース日は、08年7月2日)。このインターバルの間には、「紫陽花の庭」と「雪のワルツ」という、それぞれに初夏と真冬の季節感をどっさりと盛り込んだミニ・アルバムがリリースされている。その2枚のミニ・アルバムをあわせれば、ゆうにフル・アルバムを制作してお釣りがくるくらいの分量の楽曲が、この間に録音され発表されてきたことになる。そうした充実した内容のミニ・アルバムのリリースや、NHKの『みんなのうた』で放送された“ギンガムチェックの小鳥”の発表などを通じて、結構頻繁に新しい作品に触れることができていたせいか、本作の登場にまで要した約2年半という時間は、それほど長いインターバル(幕間)ではなかったような気もしたりする。だがしかし、現実問題として約2年半ぶりの新しいアルバムであるわけだから、これが待望の新作であるということに関しては全くのところ疑いようはない。2年半という歳月は、実は結構長い。だが、そんな長らく待ち望んだ新作アルバムであると感じる反面、もっともっと待つことになっても構わなかったなんて思ってしまう、非常にあまのじゃくな感情が心のどこかに隠れていたりもするから不思議である。約2年半の倍の5年、いや3倍の7年半ぐらい待たされたって全然平気だったのに、といった具合に。湯川潮音のアルバムとは、間違いなく、それぐらい待つだけの価値が確実にある代物なのである。日本のアーティストで、そんな風に感じさせてくれる人は極めて少ない。もはや特別天然記念物なみに貴重なアーティストといってもよいだろうか。いや、アーティスト(芸術家)であるので人間国宝とするのが正解か。24才にして人間国宝級とは、何とも凄まじい。ある意味、ちょっと末恐ろしくもある。
 とにもかくにも、前作から約2年半の年月を経て、遂に待望の新作アルバム『灰色とわたし』が発表された。おそらく新作は、湯川潮音というアーティストの歩む音楽道が大きなターニング・ポイントにさしかかった頃に制作されるのではないかと、勝手に思い込んでしまっていた。「紫陽花の庭」と「雪のワルツ」というミニ・アルバムを通じて、その音楽性が、より普遍的なポップスとしての幅の広さを内包するものへと精製されてゆく過程にあるように見受けられたことも大きい。ここ最近の湯川潮音は、ある種の過渡期にさしかかっているようでもあったのだ。そして、そうした精製と深化の道筋に、ある程度の区切りがついた地点に到達して、ようやく新たなアルバムが一個のマイルストーンとして置かれることになるのではないかと…。だがしかし、この『灰色とわたし』は、そんなこちらの勝手な思い込みの数々を見事なまでにすり抜けて、全く何事もなかったかのように素知らぬ表情で我々の前に現れた。07年12月にフラリと英国へと渡った湯川は、古き良きイングランドの片田舎のあちらこちらに充満しているのどかな空気を胸いっぱいに吸い込み、まるで深呼吸をして静かに息を吐き出すかのように一枚の新しいアルバムを生み出してしまった。そう、一枚のアルバムを作り出すなんてこと、息を吸って吐くという人間にとって極めて自然な行為と何らかわることはないとでも言わんばかりに。とてもとても易々と、どこまでも自然体に。湯川潮音という人は、基本的にそういったよい意味での心地よい肩すかしを容赦なく喰らわしてくるタイプである(と思われる)。いわゆる、憎みきれないスーパー・ナチュラルさんだ。そんな、どうにもこうにも掴みどころがなく、その極めて感覚的な動向を予測するのが困難だからこそ、こちら側にいる者をエンターテインする表現者としては、非常に面白く稀有な魅力のある存在として映えるということなのだろう。また、そのような、ただただ息を吸っては吐くという根源的な自然さは、この『灰色とわたし』という作品全体の背骨の部分にも一貫して感じ取れる。『灰色とわたし』は、とても湯川潮音らしい、どこまでも自然体なアルバムなのである。そこには、やはり心地よい肩すかしの要素も確実に含まれている(はずだ?)。
 『灰色とわたし』というアルバムは、英国の郊外の片田舎に広がる昔ながらののどかな風景の中に今も息づくブリティッシュ・フォークやトラッド・ミュージックを育んだ空気を目一杯に吸い込んだ作品となっている。インナースリーヴに使用されている東野翠れんによる写真を見れば、その風景と空気がいかなるものであるか、瞬時にして感覚することができるであろう。冬の弱々しい日射しが木々の間から差し込む、鬱蒼とした林の中を抜けてゆく細い小径。木立の中はとても静かで、日光と落ち葉と木と土の匂いだけが周辺に漂っている。それは、まるでジ・インクレディブル・ストリング・バンド(The Incredible String Band)あたりの素朴なブリティッシュ・フォーク・サウンドのバックグラウンドに広がっていた英国の片田舎の自然な風景そのものとピタリと重なる。しかしながら、このドップリと英国のフォークやトラッドの空気に浸かったアルバムの方向性を、心地よい肩すかしだと感じる人は、もしかすると決して少なくないのかも知れない。ここでは、唱歌のような明快なポップスやビート感のあるフォーク・ロックといったタイプの楽曲は、全く聴くことができない。「紫陽花の庭」や「雪のワルツ」において前面に押し出されていた比較的わかりやすく親しみやすいポップな湯川潮音を期待していると、これは相当に地味なアルバムだと受け取られてしまうであろう。ヴァラエティにとんだ曲調によってもたらされる瑞々しく弾けるような豊かな色彩というものは、ここではほとんど見いだすことができない。英国の冬とは、常に重々しい鉛色の雲が低く垂れ込めていて、雲の切れ目から陽光が射すなんて、とても稀なことであったりする。基本的に、その景色は灰色。そこでは色という色は全て重々しく沈み込み、ほとんど色鮮やかさのカケラもない。まさに“灰色とわたし”な世界というわけだ。こうした地味渋なアコースティック・サウンドで貫かれた方向性は、活動初期の頃から湯川の歌を聴いてきた古参のファンにとっては原点回帰というタームとともに、大いに歓迎されるものであるのかも知れない。だが、ここで決して忘れてはならないのは、そうした捉え方すらも、もしかすると後々になって振り返ってみると一連の心地よい肩すかしの一端であったと痛感させられることになる可能性はなきにしもあらずだと。個人的には、往年のブリティッシュ・フォークやトラッド・ミュージックからの強い影響を丁寧にして繊細な日本的解釈で再生させた、やや湿っぽく陰のある俯き加減な歌心が、常に湯川潮音の音楽性の根底には静かに流れていると考えている。よって、この『灰色とわたし』において展開されている地味渋な方向性は、その音楽性の本質部分をより深く掘り下げているという点において、諸手を挙げて歓迎したいものである。極めてアコースティックな質感で貫かれた徹底的に派手さのないサウンドと湯川潮音の澄んだ美しい歌声。それだけで十分、後はもう何もいらないと心の底から思えるならば、この地味渋な全10曲を無条件に甘受し満喫することは、十二分に可能であろう。ただし、それ以外の人には、ある程度の心の準備をしてから再生ボタンを押すことを強くおすすめしたい。
 そんな地味で渋めの新作アルバム『灰色とわたし』であるが、実はただ一点のみにおいてだけは、これまでの作品よりも一段と際立っている部分がある。それは、何を隠そう湯川潮音の歌唱そのものである。何か胸の奥につかえていたモヤモヤが一気に取れたかのような、素晴らしく活き活きとした伸びやかさが、本作での歌唱からは感じられる。だがしかし、それは、これまでの作品での歌唱がイマイチであったということでは決してない。この『灰色とわたし』では、これまで以上の、その先へ一歩進んだ湯川潮音の歌唱が聴けるということである。せせこましい日本を離れ、のんびりとした英国の片田舎の牧歌的な空気にドップリと浸かったことが、何にも増してよかったのであろうか。前作からのインターバルの間の人間的な成長が、そのまま歌唱の成長に反映されたのであろうか。いずれにせよ、『灰色とわたし』における湯川の歌唱は、一段と際立つものとなっている。その成長ぶりは、まるで、お伽話や寓話の世界に生きていた夢見がちな少女が、自らの足で大地を踏みしめて歩く大人の女性へと華麗にメタモルフォーゼしたかのようですらある。歌唱の質そのものに、ドッシリとした落ち着きやシッカリとした芯のある逞しさが備わりつつあるようにも思えたりするのだ。今後、さらなる熟成が重ねられてゆくことを考えると、20年後や30年後の湯川の歌唱が、今からもう非常に楽しみで仕方がない。また、この『灰色とわたし』においては、ほとんどといってよいほど、局所的な恋愛の感情や手に余るほどのマクロな視点からの情景が歌われることはない。ほぼ半径3メートル以内のすぐに手が届く範囲の現実世界の事象から綿密にイマジネーションを膨らませていったかのような、こじんまりとした表現のスケールが実に心地よい。そして、詩作の面でも、格段に深みは増している。言葉の選択や心情〜心象の描写における独特のやわらかな表現の豊かさには、やはり非凡なものを感じずにはいられない。湯川潮音は、ますます詩人としての力量を高め、着実に進化を遂げている。
 冬の英国において、録音からミックス、そしてマスタリングにいたるまで、ほとんど全ての制作作業が行われた本作。『灰色とわたし』は、そんな英国の冬の寒々しい灰色の雲におおわれた空の色をストレートに反映し、分厚いコートに包まって身を縮こまらせながらひっそりと静やかに内なる感情を呟いたようなアルバムとなった。しかしながら、それを下手に取り繕ったりすることなく、白々しいまでに心浮き立つようなサウンドの豊かな色彩がちりばめられた作品に仕立て上げたりすることがないところに、湯川潮音というアーティストの救いようのない真正直さがよく表れている、ような気がする。そして、そんな愚直なまでに不器用な表現者としてのスーパー・ナチュラルな真っ直ぐさにこそ、全幅の信頼を寄せることができると我々は信じて疑わないのである。穏やかながらも確かなタッチで10篇の多彩なグレイの色合いを表現したアルバム『灰色とわたし』を通じて、現代のロマン派吟遊詩人(?)湯川潮音の唯一無二な独特のぬくもりのある澄みきった美しい歌唱の世界に触れてみてはいかがであろうか。これは、間違いなく名作である。聴けば聴くほどに味わいが増してくる。細やかなアレンジメントの妙など、聴きどころは山ほどある。ただただひたすらに素晴らしい。(08年)

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