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<<   作成日時 : 2008/07/21 20:05   >>

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溝!だより

 こんにちは。いよいよ7月も後半に突入いたしました。遂に梅雨が明けて、本格的な夏の開幕です。もう、誰が何と言おうと夏なのです。暑中をお見舞いしなければならない季節なのです。いまのところ、まだ、部屋の冷房のスウィッチはオンされておりません。暑いです。とても暑いです。この猛烈な暑さの中で、たった1台の冷房を使わずにいることが、どれほど地球温暖化の進行に歯止めをかけることに役立っているのか、もうサッパリわかりません。もう、さっぱりです。うだるような暑さに、かなり思考も停止気味になってきています。意味があるのか、意味がないのか。全く考えが及ばない。脳が十二分に機能しない。汗が吹き出て、滝のようにダラダラと流れ落ちてゆく。ああ、地球は本当にこのまま沸騰してしまうのではないでしょうか。沸騰する惑星。沸騰惑星。フットワーク性。不永久癖。何かもう暑さのせいでダジャレまで完全に中途半端です。いや、中途半端というより、完全にダジャレ以前です。もしかすると、もう脳みそはグツグツと沸騰してしまっているのかも知れません。脳みそ沸騰。沸騰するブレイン。吹っ飛ぶ、吹っ飛ぶ。温暖化なんて吹っ飛ばそうぜ。冷房なんかくそくらえ。武士は食わねど高楊枝。クワネド、クワネド、やせ我慢。風呂上がりに、すぐに上半身が汗だくになってしまい、ベトベトな状態に一気に逆戻りしてしまうのは、ちょっと悲しいです。そう、サッド。
 CMの話。生茶のCMで砂浜に置かれたクーラーボックスに綾瀬はるかが勢いよくお座りする際の、ドスンという音が轟きそうなくらいの、ものすごい重量感が最高です。撮影時には実際に数個のクーラーボックスが、もはや使い物にならないほどメチャクチャに破壊されてしまったのではないでしょうか。すっかり干物女系のキャラクターが定着したおはるですが、あの強烈な重量感を極めて自然に出せてしまえるなんて、本当に最高に素晴らしいです。おはるが次々と砂浜でクーラーボックスに腰掛けて容赦なく木っ端みじんに押しつぶしてゆく衝撃映像が目に浮かびます。無惨にも砕けちるクーラーボックスを眺めながらレッツ・リフレッシュ。黒烏龍茶のCMの風間杜夫の紙芝居も、味わい深くていいねぇ!。CLUB KEIBAのCMで大泉洋と一緒に歌っている蒼井優ちゃんの歌声が、ものすごく微妙に揺らいでる音程で最高にいいねぇ!。澄みきった線の細い声による、安定感に乏しい音程の歌唱。なかなかに得難いものがあります。美空ひばりや宇多田ヒカルの歌唱には、独特の周波数の揺らぎがあり、それが聴く者にこの上ない心地よさをもたらすといわれています。でも、個人的には、あまりミソラやウタダの歌声にはグッとこないのです。どちらかというと、蒼井優ちゃんの歌声のような危なっかしい音程の揺らぎの歌唱のほうが聴いていて断然楽しいです。あの絶妙な微妙さは、そう簡単にだせるもんじゃないですから。超グレイト、いいねぇ!。
 冷静になって考えてみると、ポニョって、人間の顔のついた魚じゃないですか。いわば、人面魚ってやつですよ。それって、実際問題かわいいのでしょうか。まあ、正義のヒーロー、アンパンマンだって、顔はアンパン製ですからね。圧倒的に子供たちから支持され、ほぼ無条件に好かれるキャラクターにとって、顔と胴体の整合性なんてものは、あまり重要なポイントではないのかも知れません。いや、顔と胴体の整合感の欠落や欠如こそが、無条件に子供たちから支持されるための条件であるともいえるでしょうか。そういえば、仮面ライダーも顔はバッタでしたっけ。グラスの底に顔があってもいい時代ですから、魚に人間の顔がついていたって特に何の問題もないとえば何の問題もないのですけどね。
 08年の上半期を振り返ってみて、極めて地味にですが、すさまじい快進撃を繰り広げてくれたのが、バスティ・グルブ(Basti Grub)ことセバスチャン・グルブ(Sebastian Grub)でありました。グルブが自ら主宰するレーベル、Hohenreglerからのリリース作品は、どれもこれも面白いものばかりで参りました。乾ききったスカスカのパーカッシヴなミニマル・トラックに、土着的な民俗音楽の声ネタや管楽器による軽くジャジーなフレーズのサンプルをちりばめただけ、ただそれだけなのに、最高に面白いのです。また、ベースラインやリズム・パターンの絶妙なストレンジ具合なども非常に魅力的でした。昨今のドイツのミニマル・テック系はガチャガチャブリブリとうざったい過剰な音作りがなされたものばかりで、正直言って、少々辟易とさせられていたところでした。そこに颯爽と登場してくれたのが、グルブの乾いた軽妙さをもつサウンドだったのです。それはそれはもう、ひときわ輝いて見えましたよ。まさに、ささやかなスカスカ系の地味な大逆襲という感じでした。今のところの最新作は、Hohenreglerの傘下に新たに立ち上げられたレーベルのGeregeltからの第一弾“Geh Floten”でしょうか。いや、もうすでにHohenreglerの007番が出ていましたっけ。いずれにせよ、新レーベルもスタートし、もうしばらくの間は、この快進撃の勢いは衰えることなく続いてゆきそうな気配が濃厚に漂っております。さらなるグルブのスカスカ&パーカッシヴなグルーヴの大暴走に大いに期待したいところであります。
 今回の溝!だよりは、いくつかのリリース作品のリポートを中心にお送りいたします。特別編として、このところのローファイ・フォーク界隈の動きについて、ささやかなテキストを仕上げてみました。残りは、通常の形式の最近のリリース作品の中から面白いものをピック・アップして作成したリポートが数本という感じになっております。極めて地味になのですが、豪華二本立ての様式です。とりあえず、ちょっとだけスペシャルな佇まいを、雰囲気だけでもお楽しみください。いろいろと細々とした部分で誠に申し訳ないところではありますが、なにとぞお許しのほどを。

溝!リポートEX

「nicole.、またの名をnicolenicole!。ボサ・ノヴァ?」

 ローファイ・フォークといえば、コロンビアのルクレシア(Lucrecia)とジョージアのアンクル・オーウェン・アント・ベルー(Uncle Owen Aunt Beru)が、おそらく絶対的な双璧であろうと常日頃から思っていた。この両者こそが、かなり飛び抜けた存在の、とんでもなく高い双璧であると。
 Lucreciaは、コロンビアのメデリンを拠点に活動するルクレシア・ペレス(Lucrecia Perez)によるソロ・プロジェクト。その小柄な体には不釣り合いなほど大きく感じられるギターを抱えてラップトップPCを操作し、素朴な日常の感情を綴った歌を淡々と弾き語る。Lucreciaの音楽性とは、そんな極めてマイクロスコピックでパーソナルな世界観を表現した、和み系のフォークトロニカである。そして、その実にチープでインティメイトでハート・ウォーミングな、密室性の高いモッサリこもったサウンドの質感には、すさまじいほどのローファイ感が漂っている。特に、メデリンのSeriesより07年5月に発表された傑作“Like Being Home EP”で聴くことができる、手作り感やホームメイド感覚にあふれる音質の楽曲からは、独特の人懐っこさがじんわりと滲み出している。また、Lucreciaのローファイ・フォークには、全くといってよいほど邪気がない。吹きさらしの場所に置きっ放しにしておいたら、たちまち萎れて枯れてしまいそうである。そんな、いまにも折れてしまいそうな可憐さこそが、Lucreciaのほっこりとあたたかみのある歌の最大の魅力でもある。
 一方、Uncle Owen Aunt Beruは、ジョージア州のファイエットヴィルを拠点に活動するジェシカ・キャレイロ(Jessica Calleiro)によるソロ・プロジェクト。たぶん、このプロジェクトの名前には直感的にピンとくる人も多いであろう。そう、Calleiroは相当なスター・ウォーズ狂であるようだ(オーウェン・ラーズとベルー・ホワイトスンの夫妻は、ジェダイの騎士であったオビ=ワン・ケノービから幼いルーク・スカイウォーカーを託され惑星タトゥイーンで大切に育てた。ルークにとって、オーウェンとベルーは血縁関係のない義理の叔父と叔母にあたる)。しかしながら、その音楽性の細部にいたるまで、全てスター・ウォーズ絡みとなっているわけでは決してない。Calleiroは、何気ない日常生活の中での思いつきやふとした瞬間の様々な感情を、メモ用紙に書き留め日記に書き込むように歌にしてゆく。古いMTRを使用し、次々と宅録されてゆく、短く簡潔な膨大な量のCalleiroの歌。その粗く剥き出しでいびつなギターの弦の響きとCalleiroの素朴で淡々とした少女性すら感じさせる無垢な歌声には、無謀なまでに過剰なエコーやリヴァーブがきかされている。この妙に現実感の薄い、別の惑星から届いた異形の音楽のような濃密なローファイ感を漂わせるサウンドは、もしかするとCalleiroがマニアックに執着しているスター・ウォーズの世界観と一部でリンクしているものであるのかも知れない。しかしながら、この過剰なエコーやリヴァーブによる音響効果が、Uncle Owen Aunt Beruのサウンドを、いい意味であらゆるものを超越したものにしてしまっていることは間違いない。その異形の音響によって、制作された年代も厳密な音のジャンルも不詳な、ちょっとばかり謎めいた音楽とならしめられてしまっているのである。イスラエルのネットレーベル、Birdsongより発表されている『Spaces In Time』と『Earth is The Right Place for Love』という2枚のアルバムを通じて、その衝撃的な別世界のローファイ・フォークに触れることができる。また、才能にあふれるCalleiroというアーティストには、マリー・バード・ランド(Marie Byrd Land)なる名義でソロ活動をしている妹のキャンディス(Candace Calleiro)との姉妹デュオでのアルバム『Fall & Summer 2003』や、ベン・コリンズ(Ben Collins)とのユニット、キャット・ピープル(Cat People)でのアルバム『Long Distance』など、Uncle Owen Aunt Beru以外の多岐に及ぶ課外活動においても秀作は数多い。そうした課外活動においては、ソロ活動での極端に私的な歌の世界を展開するローファイ・フォークのスタイルは封印し、ハーシュ・ノイズやグシャグシャのフリー・インプロヴィゼーションのひしゃげた轟音の中に身をやつすことも珍しいことではない。実はCalleiro嬢は、かなり幅広いサウンド・スタイルに対応できる実力派のアーティストなのである。間違いなく、現在のUSアンダーグラウンド・ミュージック・シーンを代表する才媛のひとりといえるであろう。
 そんなLucrecia PerezとJessica Calleiroという才能豊かで高度な音楽性を誇る女性アーティストたちが双璧をなすローファイ・フォークの牙城を、まるで根底から覆してしまうような驚愕の事態が、突如として湧きあがってきた。それが、まさに降って湧いたかのようなニコール(nicole.)の出現であった。ニコールは、08年6月にインディアナ州コロンバスに拠点を置くネットレーベル、Walking Madnessより立て続けに2つのささやかなEP作品“Shame on You Shamu”と“Brandi's Pond”をリリースし、ひっそりと鮮烈なるデビューを果たした。そう、これらの、たった2つの作品でローファイ・フォークの双璧も牙城も木っ端みじんに突き崩しかねぬほどの強大な衝撃をもたらしたのである。そして、さらに驚くべきことに、ニコールは、インディアナ州コロンバス在住のまだ15才かそこらの少女であるというのだ。まさしく驚愕の事態である。もうこうなると、ちょっとわけがわからなくなってきたりもする。松田優作のように、大声でなんじゃこりゃと喚きたい気分である。“Shame on You Shamu”と“Brandi's Pond”という作品で聴けるのは、密室内にこもった雑音や騒音の奥から微かに聴こえてくる15才の少女による極めて拙く幼いギターの弾き語りの歌声である。音質、録音状態ともに、すさまじく粗悪であるというしかない。どうやら、ニコールは、自らの歌声を吹き込んで記録するのに、玩具のテープ・レコーダーや携帯電話(!)を録音機材として使用しているらしいのだ。15才の少女が手近なものをツールとして利用し、自室でギターの弾き語りをレコーディングした、思いきりピュアなローファイ・フォーク作品といったところだろうか。別に当人の意識の中には、わざとローファイな路線を狙ってやってみましたなどという部分は微塵もなかったに違いない。ゆえに、すさまじいまでに容赦なく純粋なローファイ感覚を盛り込んだ怪作が、15才の少女の手によって生み出されてしまったのだ。“Shame on You Shamu”と“Brandi's Pond”における、思いきりスーパーナチュラルなローファイ感は、もはや狙って作り出せるようなレヴェルのものではない。だが、こんな偶然の産物のような作品(失礼!)によって、双璧や牙城が、そう簡単に突き崩されてしまってもよいのであろうか。ニコールの完璧にヘタウマ系の歌声を聴いていると、そんなような素朴な疑問が頭の中をよぎりはじめたりもしてくる。豊かな才能と高度な音楽性。ニコールという少女が突っ立っているのは、それらとは対極にあたる位置なのではないかと…。
 おそらく、耳聡い人であれば、“Shame on You Shamu”と“Brandi's Pond”の収録曲が、ほとんど全てカヴァー曲ばかりであることにすぐに気がつくであろう。だが、個人的には、そこに気がつくまでに少し時間がかかってしまった。というのも、そもそもニコールがカヴァーをしてるアーティストの楽曲に、あまり馴染みがなかったからなのである。最初は、ほぼ全てが15才の少女の自作曲なのかと大きな勘違いをし、身震いするほどの空恐ろしさを感じたものであった。だが、どれもこれもカヴァー曲であることが判明してからは、少しばかりほっと胸を撫で下ろすことができたのも確かである。好きなアーティストの楽曲を自室で弾き語りで歌い、それを玩具のテープ・レコーダーにせっせと録音している。何とも15才の少女らしい姿が、そこに垣間みえて、実に微笑ましく思えてくるではないか。鮮烈なデビューを果たしたニコールの奇跡の衝撃作は、実はなかなかに子供っぽい(まだ15才なんだから当然といえば当然だろう!)感覚に基づく所業の産物であるということが、次第にわかってきたのである。カヴァーの対象となっているのは、レジーナ・スペクター(Regina Spektor)の“Samson”、ア・ファイン・フレンジー(A Fine Frenzy)の“Almost Lover”、ケルティック・ウーマン(Celtic Woman)の“You Raise Me Up”、イングリッド・マイケルソン(Ingrid Michaelson)の“The Way I Am”、グレゴリー&ザ・ホーク(Gregory and the Hawk)の“Boats & Birds”と“A Wish”、ザ・ポスタル・サーヴィス(The Postal Service)の“Recycled Air”といった楽曲たち(ただ“Shame on You Shamu”の冒頭に収録されている“Hey”の原曲を歌っているアーティストについてだけは、ちょっと調べがつかなかった。これは、いったい誰の曲なのであろう?)。この選曲のセンスは、実際のところどうなのだろうか。そこそこ15才の少女らしい可愛げのある趣味のような気もするし、かなり熱心にアコースティックなフォーク系の音楽を大量に聴き込んでいる雰囲気が漂う、15才にしては相当に渋めのセンスが感じ取れたりするものでもあるのである。特に、NYを拠点に非常にインディペンデントな活動を繰り広げているメレディス・ゴッドロー(Meredith Godreau)のソロ・プロジェクトであるグレゴリー&ザ・ホークの楽曲が、全3曲収録の“Brandi's Pond”で2曲も取り上げられているのは、注目に値する。この様子から察すると、ニコールにとってゴッドローとは俗にいうアイドル的な存在なのではなかろうか。このセンスは、間違いなく渋い。なかなかにいい趣味をしている。これは別に、メジャー・レーベルのメインストリームに属するアーティストの音楽を聴くよりも、アンダーグラウンドの知る人ぞ知るマイナーなアーティストの音楽を聴くほうが、渋く趣味がいいというような短絡なことでは決してない。ただ単に、限られた狭い領域の音楽だけを聴いてそこで探求をやめてしまうよりも、より幅広く広大な音楽の大海に勇気をもって漕ぎ出していったほうが断然によいというだけのことである。音楽とは、メインストリームとアンダーグラウンドの二極を軸に分け隔てられるものではない。もしも、音楽を大雑把に二種類に分別するとするならば、それはおそらく聴く価値のあるものと聴く価値のないもののふたつとなるであろう。そして、そうした価値判断を下すのは、それを聴く者の単なる主観でしかない。だが、外的な影響を多分に受けた判断の場合、それは真の意味での価値判断にはなりえない。その判断を決定する意識の流れには、聴く者の主体性が大きく欠如している可能性が大であるからだ。しかしながら、ニコールという子は、非常に意識的に幅広く音楽に触れ、それをしっかりと聴き込んでいる少女のようだ。また、かなり明確な意思をもって自らの聴くべき音楽を選択できているようでもある。その結果として、年相応の無邪気で可愛らしいポップな少女趣味と、その年齢には不釣り合いなくらいの渋めなフォーク系のアコースティック・ミュージックへの強い指向という、やや極端な二面性が、ニコールの音楽センスを形成する潜在意識の奥底に生み出されることになってしまった。そうしたありのままの等身大のニコールを全く包み隠さずにさらけ出したものが、“Shame on You Shamu”と“Brandi's Pond”という2つの作品なのであろう。ニコールという少女の内部にあるやや極端な二面性は、そこでは決して矛盾をはらむこともなければ、混乱をもたらすようなこともない。極めてごく自然に、当たり前のようにそこに存在できているのである。そんな妙にいろいろと入り混じった部分からも、型破りなニコールの音楽の不可思議な魅力の一端がジンワリと感じ取れる。
 “Shame on You Shamu”と“Brandi's Pond”を聴いていると、その異常に粗悪な録音による思いきり粗い音質が、スミソニアン博物館のフォークウェイズ・レコーディングス(Smithsonian Folkways Recordings)から発表されている20世紀初頭に録音されたヴィンテージ物のカントリーやフォーク・ミュージックを連想させるような瞬間が時折訪れたりする。おかしなバランスで録音された、もっさりとこもった空気の奥底から震えるように響いてくるニコールの歌声。そこには軽く100年ぐらいの時間を飛び越えて遡ってしまえるだけの、とてつもなくピュアなローファイ感がある。21世紀に生きる少女の表現衝動をダイレクトに形にしたものが、どういうわけか20世紀初頭の録音物であるかのように聴こえてしまうというのは、何とも興味深い事実である。どうしようもないほどに拙いニコールによるギターの演奏技術とまだまだ駆け出しの歌唱力の歌声を玩具のテープ・レコーダーや携帯電話で録音すると、妙に辿々しく明らかに録音作業に慣れていない空気が充満している戦前フォークの歌と演奏と、驚くほど酷似し似通ってしまう部分が生じてしまうのだ。まあ、これは実におかしな巡り合わせによる重なりかたではあるのだが。また、“Brandi's Pond”に収録されているザ・ポスタル・サーヴィス“Recycled Air”のカヴァーを注意深く聴いてみると、ここでのニコールは、自室でただ玩具のテープ・レコーダーを前に置いて、一発録音で歌と演奏を吹き込んでいるだけではないようだ。この楽曲では、おそらく、キーボードによる伴奏とコーラス部分だけを先に録音し、その簡素なオケのテープを流しながらメインの歌入れ作業が行われている。MTRやミキサー卓など専門の機材を一切使わぬ、録音用と再生用の2台のテープ・デッキのみを使用した、非常に原初的なスタイルの多重録音である。少女は、自らの周囲にあるものを最大限に活用し、知恵を振り絞って、この素晴らしく革新的な録音の技術を編み出したのであろう。ニコールが何の気なしに生み出した作品の中で、戦前のフォーク・ソングの実況録音から50年代のテープ・レコーダーによるオーヴァーダブ技術の発展までにいたる、20世紀の音楽のレコーディング・テクニックの歩みを辿れるというのも、何ともおかしな話ではある。そう考えると、独自の創造性を働かせて前進しているニコールのサウンド・プロダクションの進化のスピードは、すさまじく速い。今後の数作先の作品では、もはやローファイ感など微塵も感じさせない、最先端をゆくハイ・クオリティな音を鳴らしているかも知れない。驚異のDIY少女ニコールが、どれほど大きく成長をしていってくれるのか、今から実に楽しみではある。
 最後に、“Shame on You Shamu”に収録されている唯一のインスト曲“Heather Is Gay”について。この、おそらくニコールによる自作曲と思われる楽曲は、プリセットのファンキーなリズム・パターンをそのまま使ったキーボードの演奏による軽快なブギーのジャズ・ファンク曲である。まあ、厳密にいえばジャズやファンクの要素というのは、かなり薄めではあるのだが。しかし、聴き様によっては、どこかブッカー・T&ザ・MGズ(Booker T & The MG's)っぽかったり、妙に初期のニュー・オーダー(New Order)っぽかったりと、意味不明な面白さが確実にそこからは感じ取ることができる。こうした変にキレのある音楽センスを目の当たりにさせられると、ニコールという少女は、ちょっとタダモノではないのではないかという感慨もふつふつと沸いてきたりする。この唯一のインスト曲、全くもって侮りがたい。弾き語りのカヴァー曲ばかりの中で、おそらく唯一のオリジナル曲であるという点も、ちょっと意味深な感じがしないわけでもないし。その真意は、ニコールのみぞ知るというところなのであろうが、何とも気になるところではある。
 とりあえず、一応の最終的な結論としては、ローファイ・フォークの世界では、これまでのLucrecia PerezとJessica Calleiroという二大巨頭が双璧となって牙城を築き上げていたツイン・ピークス時代は終わりを迎えて、新進気鋭の超天然系アーティストであるニコールをそこにくわえた孤高の三連星時代が幕を開けた、ということなのではないかと思われる。カヴァー曲が中心である、非常にささやかなEP作品を2点リリースしたのみであるニコールが、まだまだ海のものとも山のものともつかないという見方は決して少なくはないであろう。その音楽的な才能のレヴェルのほどは、まだまだ未知数であるし、またカヴァー曲ばかりでは、ニコール本人が創造しようとしている音楽性の根本的な部分すらもなかなかハッキリとは見えてこない。だが、まだ海のものとも山のものともつかぬ未知数の逸材であるからこそ、その先に広がっているやも知れぬ大いなる可能性に賭けてみたい気分にもなってくるのである。もしも、完全に期待はずれな結果に終わったとしても、それはそれ、実際にそうなった時に考え直せばいいだけの話である。とりあえず、現時点ではすでに、ニコールの“Shame on You Shamu”と“Brandi's Pond”は、全くもって得体の知れない存在感を強烈に放ちながらローファイ・フォークの孤高の高みに君臨してしまっている。これらは、いくつかの偶然の積み重ねによって生み出された奇跡的な名作(いや、迷作か?)なのであろうか。極端な二面性の狭間で揺れるニコールが、次の3作目をいかなる作品に仕上げてくるのか、とても興味深い。まだ10代半ばの少女であるのだから、とことん怖いもの知らずに後先など考えず思いきり暴れ回ってもらいたいところである。若き才気が炸裂したような作品を期待したい。(08年)

溝!リポート

Part Rocket: In Limine
Lost Children LostChildren052

 ロンドンを拠点に活動するエクスペリメンタル・ロック集団、パート・ロケット(Part Rocket)の新作“In Limine”。リリース元は、前作の“Kneel Before the Throne and Drink the Blood of Your Own”に続いて、UKのポスト・ロック系専門のネットレーベル、Lost Childrenとなっている(リリース日は、08年7月10日)。パート・ロケットは、ウェールズ南部のカーディフにおいてドラマーのガレス(Gareth)とベーシストのクリス(Kris)を中心に結成され、後にロンドンへ進出し、04年にオンラインでセルフ・リリースした“Good Bye Morning Satellite”でデビュ−を果たしたグループである。いわゆるポスト・ロック系のバンドというよりも、グループの中心人物であるガレスとクリスを軸とする音楽集団、もしくはユニット的な色合いが強い。そんな先天的な性質があるためか、この2名のメンバー以外の入れ替わりは、実に頻繁で激しい。このへんは、どうやら、ロンドンのアンダーグラウンド・シーンで活動している、メイヤーズ・オブ・ミヤザキ(Mayors of Miyazaki)、ザ・ドッグハウス・ライリー・バンド(The Doghouse Riley Band)、ルーテナント・ロキ(Lieutenant Loki)といった様々な音楽スタイルのバンド間での親密な交流から生じる、やや近親相姦的に入り組んだメンバーの交代劇でもあるようだ。つい最近まで、こちらのバンドでギターを弾いていた人が、気がついたらあちらのバンドでベースを弾いている、とか。かと思えば、こっちのバンドは急にベーシストがいなくなって、後任が見つかるまでライヴ活動は休止、とか。本作“In Limine”のレコーディング作業を開始した約1年前のパート・ロケットは5人組の音楽集団であったが、しかしその作品がようやく日の目を見た現時点でのメンバーは4人に減少してしまっている。紅一点であったギター兼ベースのクレア(Claire)とギタリストのポール(Paul)という2人のメンバーが抜け、新メンバーのギタリストであるネイザン(Nathan)が加入しているようだ(ただ、この人物は、“In Limine”にもシンバルを叩くゲスト奏者として一部に参加している形跡がある)。ちなみに、残りの3名、今のところ“In Limine”以降のパート・ロケットの不動のメンバーとなっているのは、ドラマーでプロデュースも手がけているガレス、ベース兼ギターのクリス、そしてギター兼ベースのマット(Mat)という顔ぶれである。
 パート・ロケットにとって通算3作目となる“In Limine”で展開されているのは、タイトにきまるリズミカルで躍動感のある複雑なアンサンブルを軸とした、緩急と強弱の両端を自在に行き来する動的なダイナミズムを満載したマス・ロックである。全5曲が収録されているが、いずれの楽曲もよく練られている。変拍子のグルーヴの組み立てや絶えず動き続け交錯するフレーズの構成や組み合わせなどが、マス・ロックの世界では、聴く者の耳をピッタリと離さずに惹きつけておくための大きな鍵となる。それらの重要なキー・ポイントをパート・ロケットは、実に巧みに全体の流れを一瞬たりとも滞らせることなくクリアしてみせる。実は、本作用の楽曲制作が開始されたのは、今から約2年半も以前のことであるという。それだけの長い時間をかけただけのことは確実にある、細部にいたるまでキッチリと手の行き届いた、素晴らしい楽曲の数々が仕上げられている。しかしながら、これらの複雑で難解な構成と展開の楽曲を、実際のライヴでひとつのミスもなく披露するには、相当に過酷な練習を積み重ねる必要があるだろう。新たに4人体制となるメンバー・チェンジを終えたばかりのパート・ロケットがライヴを行う予定は、現時点では全くないらしい。この“In Limine”の楽曲をライヴで演奏しようにも、録音時に在籍していたメンバーが2人も抜けてしまっているのだから、そう簡単には事は運ばないということなのであろう。しばらくは、単調で地道なリハーサルを重ねる日々が続くのかも知れない。
 パート・ロケットの楽曲は、基本的に全てインストゥルメンタル曲である。そこには、ドラマティックな展開はあちこちに点在しているが、メロドラマ的な湿っぽさや情感過多な重苦しさといったものは一切ない。カラカラに乾ききった実にドライなポスト・ロックのサウンドが主体なのである。土ぼこりが立ちのぼるような荒涼として殺伐とした風景に、マス・ロックのアンサンブルによって描き出される複雑に入り組み動き続けるフラクタルな幾何学模様が重なってゆく。奇妙な取り合わせだが、そのサウンドに耳が馴染んでくると、パート・ロケットの音に触発されて脳内に次々と出現してくるヴィジュアルのイメージは無限に広がってゆくような感覚にすらとらわれる。それは、まるで淀んでいた意識の流れを、一気にワサワサと活性化させられるような驚異のリスニング体験でもある。だが、そこには、つぶさに楽曲の構成や展開を細部にいたるまで追いながら聴き込んでしまうと、おそろしいほどにグッタリとくる疲労感を味わわされることになる、という隠れた罠がある。間違いなく。よって、まず最初は、ある程度の細かな部分は受け流して、個々のパートごとのアンサンブルの妙を楽しみ、ザックリと大まかに味わうことをおすすめしたい。その後、ゆっくりとディテールを噛み砕いてゆくことで、“In Limine”を聴く楽しみはどんどんと深まってゆくはずである。
 今後、新生パート・ロケットが、どのような音楽的な成果を表明してくれるのかという点も、気になるところではある。この“In Limine”の制作に約2年半もの歳月を費やしたということは、次の作品が完成するのは早くとも再来年以降ということになるのであろうか。しかし、これだけガッチリと作り込まれた粒ぞろいの楽曲ばかりで固めた質の高い作品をものにしてしまった後では、新たな楽曲の制作作業は相当な苦難の道のりとなるかも知れない。パート・ロケットが、この“In Limine”という高いハードルを乗り越えて、さらなる怪物級のエクスペリメンタル・ロック集団へと進化してゆくことを大いに期待したい。より危険度の高い驚異的なマス・ロックの領域に、怯むことなく歩を進めていってもらいたいところである。(08年)

Thuoom: [cycles of sleep]
Textural Healing thump301

 フィンランドのアーティスト、Thuoomのデビュー作。本作は、おそらくThuoomが自ら運営していると思われるネットレーベル、Textural Healingの第一弾リリース作品でもある(リリース日は、08年7月7日)。
 “[cycles of sleep]”は、そのタイトル通りに睡眠のサイクルにおけるいくつかのパートをアトランダムに切り出して音像化させたかのような、やや実験的な匂いのするエレクトリック・ミュージック作品である。低く唸る電子雑音のドローンやヒンヤリとした肌触りの流動的なアンビエント、ミニマルな弦のアルペジオや澄んだボトルの打撃音を編集した緻密なエレクトロニカなど、ここでは8つのパターンの睡眠の音楽を聴くことができる。Thuoomは、自らの音楽性を称して音によるポエトリーのカット・アップであると説明している。つまり、その音楽制作の基本部分を担っているのは、音による詩作ということらしい。そして、そこでの詩作とは、どうやら俳句のような非常に簡素で簡潔なものであるようだ。それは、その後に待ち受けているカット・アップという手法を通過させたとしても、決してゴテゴテと混濁したものとなることはない。つまり、元々の音数や手数や文字数が、極めて少なく限定的に絞り込まれたものであるからこそ、そうした結果がおのずと導き出されるということなのだろう。五七五の17文字で深淵なる世界観を表現する俳人のような感覚で、Thuoomも音による詩作を試みているのではなかろうか。きっと。いわばワビサビのエレクトロニカだ。また、Thuoomは、自らの創造する音楽を、新たに考案したフォレストエレクトロ(Forestelektro)というジャンルに区分けしてもいる。この新ジャンルが指向している音楽性とは、おそらく感覚的には、21世紀の電子楽器やテクノロジーを駆使した素朴なフォーク・ミュージック、といったようなもののことなのではなかろうか。“[cycles of sleep]”の冒頭を飾る、壊れかけた古いオルゴールが無軌道に回転速度や回転方向を変えながら勝手に鳴り続けているような“Dreamest”を聴いていると、そうした感覚は、なんとなく奥深い部分で理解できるような気もしてくる。それは、どこか強烈な懐かしさを喚起させてくるかのような電子音楽である。人間の本能的な皮膚感覚を決して置き去りにすることのない粒子状の電子音の集合体という感じでもあるだろうか。おそらく、そのあたりにThuoomは、彼なりの21世紀のフォーク・ミュージックという音の在り方を見いだしているのであろう。自ら考案した音楽ジャンルに属する音楽作品を制作し、それを自ら運営するネットレーベルから発表したThuoom。これは、なかなかに興味深い動きである。何から何まで全て自らの手で展開する、究極にドゥ・イット・ユアセルフなスタイルのネットレベーリズム(ネットレーベル主義)のひとつの典型がここにある。言い換えれば、これは、ミー・アゲインスト・ザ・(ネット)ワールドという図式の、極めて孤独な闘争でもある。いまThuoomは、ささやかな“[cycles of sleep]”という作品を携えて、力なき小さきものを容赦なく押しつぶしてゆく巨大な世界と真っ向から対峙している。
 今後、Thuoomが、Textural Healingからいかなるフォレストエレクトロ作品を送り出してくれるのか、とても気になるところではある。睡眠の次は、どのようなテーマで制作に挑むのであろうか。変態エレクトロニカ・デュオなる異名をもつマトモス(Matmos)からの多大なる影響を公言しているThuoomだけに、何かしら興味深いテーマやコンセプトに基づいた珍奇な作品を提示してくれるのではないかと、密かに期待を抱いたりもしてしまうのだ。長髪にヒゲ面にメガネという怪しげなThuoomの風貌からは、どことなく変態な香りがプンプンと漂い出しているような感じもするし。人間を見た目で判断してはいけないことは重々承知しているつもりでいる。だがしかし、見るからにアリアリと漂い出してしまっているのだから仕方がない。音楽の世界での高い変態性とは、立派な褒め言葉であり間違いなく評価の対象となるものであると、個人的には理解している。天才と変態がピッタリと背中合わせなのが、音楽の世界の常識なのである。変態万歳。(08年)

 追記。08年7月18日、Thuoomは、早くも2作目のアルバムとなる“Aava”をTextural Healingより発表した。この作品では、名義をThuuooomに変更し、Thuoomの“[cycles of sleep]”で展開していた実験的なエレクトロニカとは多少毛色の異なる、よりアンビエント色の濃いディープなエレクトロニック・サウンドを聴かせてくれる。“[cycles of sleep]”に収録されていた楽曲のリミックス・ヴァージョンなども収められてはいるが、基本的に“Aava”での路線はフォレストエレクトロではないようだ。いきなり2球目で変化球を投げてくるとは、なかなかやってくれるではないか。まずは球種が豊富であることを、しっかりと(ネット)世界にアピールしておこうという意図なのであろうか。“Aava”での深いドローンと電子雑音が交錯する音世界も、決して悪くはない。しかし、なぜかThuoomには、もっともっとヘンテコな(変態な)サウンドを期待したくなってしまうのである。豊富な球種というのも強大な相手に対し真剣勝負を挑む投手には必要な武器なのであろう。だがしかし、ここぞという場面でのキメ球には是非とも相当にエグいぶっ飛ぶような魔球をお願いしたいところである。小宮山悟のシェイクみたいなやつを。(08年)

Chimney Fish: Drown, Sailor, Drown!
Rack & Ruin RRR061

 テキサス州デントンを拠点に活動するアニー・カルヴァー(Annie Culver)によるソロ・プロジェクト、チムニー・フィッシュ(Chimney Fish)のファースト・アルバム。リリース元は、オランダのネットレーベル、Rack & Ruinである(リリース日は、08年7月16日)。
 アルバム『Drown, Sailor, Drown!』において展開されているサウンドを、あえて一言で言い切ってしまうとするならば、それは完全なる宅録スタイルによるエクスペリメンタルなエセリアル・ポップとなるだろうか。その音楽スタイルの基本となっているのは、カルヴァーの清涼感のあるウィスパー・ヴォイスを多重録音した、甘くソフトで夢見心地な歌モノである。だが、時として、それはまだ形態的には完全なる歌にまで昇華されていない、ただの鼻歌の集合体のような半熟卵状態のままで提示されてしまったりもする。森の奥に棲む妖精が歌うスピリチュアルなフォークロア・ミュージックのようであったり、夢の中に登場する妖艶なる天使の囁きのようであったり、はたまたテキサスの乾燥した荒野に陽炎のように浮かび上がる幻想的なカントリー・ミュージックのようであったりと、どこか完全に現実離れした響きをもったチムニー・フィッシュのサウンドは、様々な表情を見せながら次から次へとゆらゆらと移ろってゆく。『Drown, Sailor, Drown!』には、全15曲が収録されているが、その全てが約2分程度の極めて短い楽曲なのだ。フワッと浮かび上がってきて、ほんの一瞬だけ現実世界に存在し、すぐにまた別世界へと消え去ってゆくような各楽曲は、聴く者の目の前で展開される15の短く儚い幻想奇譚といったところであるかも知れない。かつてポーが夢現の境地に迷い込むようにして精緻に描写してみせたアメリカン・ゴシックの原風景のようなものを、そこに見いだすことも、もしかすると可能なのではなかろうか。白鳥が優雅に泳ぐ湖で溺死する船員。何とも不可思議で謎めいている。そこには濃密に漂い横たわるオブセッシヴなイメージのようなものすら嗅ぎ取れる。
 アルバム『Drown, Sailor, Drown!』には、実は全15曲中に1曲だけカヴァー曲が収録されている。それが、80年代に活躍したケンタッキー出身の母娘によるカントリー・ミュージック・デュオ、The Judds(ザ・ジャッズ)の“Love Is Alive”のカヴァーである。カルヴァーは、この典型的なスタイルののどかなカントリー・バラッドを、独特な歌声の多重録音のスタイルを用いた素晴らしく幻想的な作品に仕立て上げてみせる。そこで聴けるのは、完璧なまでに築き上げられたチムニー・フィッシュの世界で具現化されたサウンドにほかならない。しかし、そのカルヴァーが作り上げている音世界は、基本的に宅録スタイルでプロデュースされたものであるため、多分に箱庭的ではある。いや、そんな宅録用のチープな機材でひとつひとつ丁寧に真心込めて手作りされていった圧倒的な箱庭感こそが、チムニー・フィッシュの独特な音世界がもつ大いなる魅力でもあるといえるだろうか。箱庭でどれほどの現実離れが可能か、いかにして意識や思考を遥かなる箱庭の彼岸にまで飛躍させることができるかが、重大な鍵であり、そのサウンドが目指すところの全てでもある。チムニー・フィッシュのトリッピーなエセリアル・ポップの世界にドップリとつかって、約32分間の夢幻の境地の旅をゆらゆらふらふらと楽しんでみてはいかがであろうか。(08年)

溝!後記

 というわけで、今回の溝!だよりは以上です。前回、テニスや山本モナなどのタイムリーな話題やキーワードを盛り込んだことで、あちこちの検索で人目に触れる機会が増え、ここへの来訪者も少しは増加するのではないかと密かに期待をしていたりしたのですが、それほど大した変化らしい変化はもたらされませんでしたね。まあ、さもありなん、といったところだとは思いますけど。地味にいこうぜ、地味に。はてさて。それでは、また。アスタ・ルエゴ。

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