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<<   作成日時 : 2008/07/01 02:56   >>

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溝!だより

 こんにちは。もう6月も終わりで、となるとイッツ・オートマティックに、早くも7月に突入となるわけですよ。遂に、夏本番です。部屋の冷房を、どのタイミングでスウィッチ・オンしようか、少し悩んでおります。昨年は8月を迎えるまで、懸命に粘りに粘ってみたのですが。さて、今年も汗だくになりながら冷房を我慢し続けるべきでしょうか。これは本当に悩ましい問題です。
 悩ましいといえば、ウナコーワのCMです。一日に何度も何度も繰り返しもろこしヘッドやプチウナのCMを頭に刷り込まれては、たまったものではありません。何とか脳内を完全に浸食されてしまわないように必死で防御しているのですが、そうすると今度は逆にポケムヒのCMのほうがやたらと目や耳につくようになってきたりして。恐怖の悪循環です。まさにヴィシャス・サークル。そういえば、プロパガンダ(Propaganda)が90年に発表したアルバム『1234』の冒頭に“Vicious Circle”という楽曲が収録されていましたっけ。とても懐かしいです。個人的には、この新生プロパガンダに参加していたヴォーカリスト、ベッツィ・ミラー(Betsi Miller)の清廉で清々しい歌声は、決して嫌いではありませんでした。いや、むしろ、かなり好きなタイプの歌声だったといってもよいでしょう。しかし、なんだかんだでヨーロッパの退廃の匂いがプンプンな強烈に個性的な歌声の持ち主であった前任ヴォーカリストのクラウディア・ブリュッケン(Claudia Brucken)と常に比較されてしまって、ちょっと可哀想な部分もありましたね。たった一枚のプロパガンダのアルバムにメインのヴォーカリストとしてフィーチュアされ、素晴らしく美しい歌声を披露した後のミラーの消息が全く不明なのは、実に寂しい限りです。声質にも恵まれ、歌い手としての資質にも恵まれた、なかなかの逸材であったと思うのですけど。2ラウムヴォーヌンク(2raumwohnung)って、フンペ・フンペ(Humpe Humpe)の片割れなんだよ!みたいな、驚きの再会を期待したいところなのですが、どうなのでしょうか。ちなみに、例のウナコーワのCMに出演している、第32回ホリプロタレントスカウトキャラヴァンのグランプリ受賞者である足立梨花さんは、やはりさすがにとてもかわいらしいオーラがキラキラと輝いていてすごいですね。もろこしヘッドのCMでヘンテコなダンスをしている時に垣間みれる、ちょっと異様なほどの手足の長さなどには、ただならぬものを感じずにはいられません。これからグングンと身長が伸びて、ものすごく大きく成長してゆきそうな雰囲気があります。大いに期待したいところです。きっと、そのうちに暫しの蛹の季節を経て驚くほど美しい蝶へと、ものすごい勢いで大人の階段を駆け上がってゆくのでしょう。だがしかし、もろこしヘッドのCMでのヘンテコなダンスといえば、前任者の北乃きいちゃんの踊りのほうがヘンテコ度は格段に上だったかも知れません。そういえば、ないけどオッケーもインパクトは大でした。そうです。そうなのです。こうやって、人間という非常に我がままな生き物は、往々にして、どうしても、なんだかんだで前任者と今の人を比較してしまうものなのです。多かれ少なかれ、確実にそうしたくらべっこを(無意識のうちに?)してしまう傾向があるものなのですね。かつて、多くの人々がプロパガンダのブリュッケンとミラーを比較して、前のほうがよかった!とか、こんなのプロパガンダとは認めない!とかいった、非常に身勝手な意見を好き勝手に口々に口走ったように。これは、ある種の人間の性であり業でもあるわけですから、いたしかたがないないといえばいたしかたがないのかも知れません。でも、どうして比べずにはいられないのでしょう。全くもって不可思議です。しかし、やっぱり、あの『1234』というアルバムは、かなり素晴らしい出来映えの作品だったと確信しております。今聴いても全然かっこいいですし。収録されている楽曲自体もシッカリと練られた佳曲ばかりです。それほど大きな遜色のある作品とは思えません。まあ、90年のプロパガンダを高く評価するなんて、とんでもない少数意見であることぐらいは重々承知しているつもりですよ。思わずぼやいてしまいました。誠にすみません。
 CMといえば、チキンラーメンのCMで仲間由紀恵が妙に高いテンションでエクセレン!と叫ぶところも好きです。最近また頻繁に流れ始めた、阿部サダヲのコイケヤうすしおも異常にバカバカしくてイイです。アイドリングの外岡えりかさんがとってもキュートな安愚楽牧場のCMは、シュールなほのぼの感にすごく和まされます。でも、圧倒的なまでにダントツに最高なのは、キンチョールのCMで長持ちするのにするか遠くまで飛ぶのにするかをひとりで悶々と悩む豊川悦司が「やらしいやろ」と言うアレでしょうか。変にギラギラしてるベタつき感が、さらにいやらしさを倍増させていますね。傑作です。
 今回の溝!だよりは、最近リリースされた作品のリポートを中心にお送りいたします。近ごろは、なかなかに良質なリリースが多く、ちょっとリポートを作成するペースが追いついていない気もしております。まあ、間に合わなかったものは、順次後回しということで。いろいろと誠に申し訳ありませんが、なにとぞお許しを。

溝!リポート

Seetyca and Thom Yeesland: Wallis EP
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 ミスティファイド(Mystified)ことトーマス・パーク(Thomas Park)によって運営されるセントルイスのネットレーベル、Treetrunkより08年6月9日に発表された作品。この“Wallis EP”は、ドイツのテューリンゲンを拠点に活動するアンビエント・ミュージシャンのシーティカ(Seetyca)と、ギタリストのトム・イースラント(Thom Yeesland)の2人によるコラボレーション作業から生み落とされた、4曲入りのEPである。
 Seetycaは、自ら主宰するCDRレーベルのMbiraからおびただしい量の作品を発表するとともに、TreetrunkやミネソタのDark Winterなどといった複数のネットレーベルからアルバムをリリースしている、積極的にインターナショナルなアンビエント・シーンで動き回っているアーティスト(アンダーグラウンドの世界で巨大な草の根ネットワークを形成している不定形のアーティスト集団、オリガミ・リパブリカ(Origami Republika)の構成員でもある)。近しいところでは、07年にブレーメンの老舗インディ・レーベル、Drone Recordsより7インチ・シングル“The Lake”を発表していたりもする。一方、ギター奏者のYeeslandに関しては、その詳細なプロフィールは不明である。だが、辛うじてひとつだけ判明しているのは、過去にSeetycaのMbiraより、ドイツとデンマークでのソロ・パフォーマンスの模様を収録したライヴ盤『Silver Screen』を発表しているらしいということ。このことから推し量るに、Yeeslandは、おそらく古くからSeetycaと親交をもつ人物であり、そう遠くは離れていないドイツ周辺のアンダーグラウンド・シーンで活躍しているミュージシャンなのではないかと思われる。こうして、Seetycaの作品にゲスト演奏家として参加するのではなく、ともに名を連ねてコラボレーション作品を制作するくらいなのだから、相当に高度な技術と力量を認められているギタリストでもあるのだろう。まあ、その力量のほどについては、実際にこの作品を聴けば、おのずと誰にだって確認することができるはず。結論から先にいってしまえば、Yeeslandも、Seetycaも、かなり高度なレヴェルでのアンビエント・サウンドをクリエイトすることができる確かなポテンシャルをもったアーティストだ。そんな両者ががっぷり四つに組んだ“Wallis EP”は、素晴らしく出色な出来の美しく澄んだサウンドスケープを満載した作品に仕上がっている。
 とにかく、“Wallis EP”は驚くほどに美しい作品である。そこには、どこまでも澄みきった透明感のある音の世界がひろがっている。全4曲収録で、約24分。ほんの一瞬で通り過ぎていってしまう、至福のサウンド・ジャーニー。深い海の底から響いてくるような壮麗なるフィードバックによるギター・ドローン、シンフォニックな広がりをみせ柔らかに包み込むように舞い上がるエレクトリック・サウンドのアンビエンス。それはそれは、とてつもなく深く、豊かな奥行きと幅の広さを感じさせてくれるサウンドなのである。アコースティック・ギターのミニマルなアルペジオ奏法から絹のように繊細な音響のギター・ドローンにいたるまで、実に多彩なギタリストとしての技量を披露してくれるYeeslandが、やはりかなり素晴らしい。また、Seetycaによる、極めてヨーロッパ的なクラシック・ミュージックの要素が根底に色濃く垣間みれる、一種の荘厳さをたたえたサウンドワークも、やはりなかなかのものだ。そして、この両者が奏でる音の個性のすさまじいまでの相性のよさにも、本当に特筆すべきものがある。連名でのコラボレーション作業をチマチマと行うよりも、いっそのことこのコンビで新たなユニットでも結成してしまえばいいのに、なんてことをふと思ってしまったりもするくらいだ。そのサウンドは、決して音数の多いものでもないし、華美な派手さをもつものでもない。音数も手数も、極限まで厳選され、絞りに絞り込まれている。それは、音響の空間的広がりを重視した、必要最小限の音数で挑まれる真剣勝負の世界。繰り出される手数は驚くほどに少ないのだが、その全てがじんわりとディープに染み入り情感に訴えかけてくる。いわば、口数は驚くほど少ないくせに、ぼそっと呟いた一言で圧倒的なまでの説得力を発揮するタイプ、といったところだろうか。“Wallis EP”とは、一切無駄な音響が含有されていない、実にピュアなアンビエント作品である。ゆるやかに表情を変えながら霧のように漂い折り重なるドローン。その浮世離れした美しい音響の世界に、機会があれば、ためらうことなく、是非とも足を踏み入れてもらいたい。必ずや、軽く意識が遠くへと運ばれていってしまうような思いきり奥深いリスニング体験を、そこでは味わうことができるはずである。(08年)

Azoora: Revelations EP
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 北欧スウェーデンのヨーテボリ(Gothenburg)に拠点を置くネットレーベル、23 Secondsより08年6月5日にリリースされた、アズーラ(Azoora)の新作“Revelations EP”。Azooraは、UKのロンドンを中心に活動している、エレクトロニックなプロダクションを導入したダーク・サイケ・リヴァイヴァル/ダークウェイヴ調のバンド・サウンドを展開するユニットである。23 Secondsよりデビュー作の“Tall Tales EP”を発表したのが、08年2月のこと。本作は、その衝撃のデビューから半年も経たぬうちに放たれた、驚愕のセカンド・シングルである。どうやら、Azooraとは、かなり多作な系統の種族に属するユニットのようである。基本的に、彼らはライヴ活動は行ってはいない。いわゆる、スタジオ内のみに存在する変則的な形態のバンドである。ゆえに、その主とした活動である曲作りやプロダクション作業に黙々と打ち込んでいるうちに、次々と作品が生み出され完成にいたってしまうということなのであろうか。そして、これまでに発表された2作のシングルの内容にも、一種独特なものがある。いずれの作品も、3曲のオリジナル楽曲に、それぞれの楽曲のセルフ・リミックスを添えた、全6曲を収録したEPとなっているのだ。つまり、各曲が2ヴァージョンずつ収録されているということ。こうした部分からも、Azooraが、昼夜を問わずにスタジオでの作業に没頭し、あれこれと音をいじくりまわしている様子が、なんとなく目に見えてくるような気がしたりもする。
 Azooraは、ロンドン在住の音楽プロデューサー、ジョン・パーセル(John Purcell)が立ち上げたプロジェクトである。要は、Azooraとは、パーセルのブレインチャイルドなのである。サウンド面での舵取りを全て担っているのは、プロデューサーであるところのパーセルにほかならない。常に楽曲にセルフ・リミックスの別ヴァージョンが存在するというのも、パーセルの脳内に湧き出してくる様々な音のアイディアを形にしてゆくうえで(自然の成り行きで?)編み出された、Azooraならではのプロダクションのスタイルであるということなのだろう。しかしながら、このAzoora、完全なるプロデューサー主導型の一方的に統制されたプロジェクトというわけでは決してない。その音楽性の最も重要な土台を形作る、曲作りのプロセスに関しては、パーセルは、リード・ヴォーカルとギターを担当し、バンドのフロントマンの役割も果たしているポール・ローダー(Paul Loader)との共同作業を行っているのである。23 Secondsのお膝元であるヨーテボリ在住のローダーは、レコーディング・セッションを行う時のみだけロンドンのスタジオに現れ、プロデューサーのパーセルとともに作業を行う。普段の曲作りの地道な作業などは、おそらくファイルをやり取りするなどして、いかにも高速ブロードバンド時代らしいスタイルで、パーセルとローダーの間で執り行われているのであろう。ロンドンとヨーテボリに遠く離れて生活しているプロデューサーとシンガー・ソングライターが、それほど大きな問題も支障もなく一緒にバンド活動ができてしまえるというのは、いかにも21世紀らしい音楽の在り方だといえるのかも知れない。ロンドンでのレコーディング・セッションに参加するAzooraの構成メンバーは、この双頭ユニットの心臓部をつかさどるパーセルとローダー、そしてドラマーのベン・コクラン(Ben Cochrane)と女性ヴォーカリストのトゥルーディ・ローウェンス(Trudi Lawence)という4名である。プロデューサーとヴォーカル兼ギター、それにドラマーと女性コーラスという、バンドと称するには、あまりにも変則的な編成ながら、彼らが目指している路線は、あくまでも歴としたバンド・スタイルの音楽性である。ローダーが弾くアコースティック・ギターとコクランが叩くドラムス以外のインストゥルメンツは、全てプロデューサーのパーセルがスタジオで演奏をする。個々の楽器を演奏するサポートのメンバーを何人もスタジオに引き入れて通常のバンド形式のレコーディングをダラダラと手間と時間をかけて行うよりも、プロデューサーのパーセル自身が必要な音をササッと演奏して作り出してしまったほうが、いとも簡単に手っ取り早くAzooraで表現しようとするサウンドを現実のものにしてゆくことができる、ということなのであろう。また、独特の甘みとまろみのある微かに擦れたローダーの素晴らしくサイケデリック・ロックに適した歌声と、完璧に妖精系の澄んだ美しい歌声のローウェンスのバッキング・ヴォーカルが、とんでもなく相性のよいものであるという点も、Azooraのサウンドの大きな魅力のひとつである。このローダーとローウェンスのヴォーカルの掛け合いや絡みには、本当に格別のものがある。相当に得がたいビューティフルな声質をもつ2人のヴォーカリストを擁するAzoora。この部分だけでも、極めて雰囲気重視のダーク・サイケ〜ゴス〜ダークウェイヴ系としては、かなりの高いポイントをものにしているといえるであろう。
 新作の“Revelations EP”を聴いてみて、真っ先に思うのは、極めて短期間のうちに曲作りの面においてもサウンド・プロダクションの面においても、前作“Tall Tales EP”におけるAzooraよりも、著しく進歩をし、各楽曲の出来映えに強烈な濃密さが備わってきているということである。楽曲そのものに一層のパワーが増し、進むべき方向性を確実に見定めたかのような有無をいわさぬ突進力が感じられる。前作“Tall Tales EP”の時点では、楽曲を形成しているメロディの断片のそこここに、どうしても既聴感が色濃く漂い、まだまだAzooraならではの音の世界観は、明確には確立できていないような印象を受けた。まあ、そこで聴けた、音楽面で多大なる影響を受けた数多の対象への愛情や愛着がモロに反映されたサウンドも、それはそれで微笑ましさに満ちあふれていて、決して悪いものではなかったのだけど。とにかく、“Revelations EP”でのAzooraは、格段のステップ・アップを遂げている。説得力が違う。これは非常によい兆候である。次回作は、さらに凄いことになるに違いない。
 “Revelations EP”の1曲目を飾るのは“Restless”。緩急をつけながらグイグイと疾走感を高めてゆく、強力なサイケデリック・ロックだ。エレクトリック・ギターと狂乱のヴァイオリンが組んず解れつする、終盤の厚みのあるノイジーな展開などは、かなりの聴き応えがある。この楽曲の別ヴァージョンが“Restless At The Hacienda”。こちらでは完全にドラムスが、聴く者を強迫的にダンスへと駆り立てるかのようなカッチリとしたビート感の強いものに差し替えられている。終始、冷徹なまでにクールに突き進むサウンドから、奇妙なサイケデリック感覚が漂い出す。まさに、一粒で二度おいしいとは、このことか。そして、3曲目に飛び出してくるのは“You Capture Me”。こちらは、ローダーのアコースティック・ギターを大々的にフィーチュアした、どこかジプシー的な香りもするフォーキーなダーク・サイケ曲。この楽曲の別ヴァージョンが“You Capture Me In Slow Motion”。深いリヴァーブの海底から響いてくる朽ち果てそうなピアノの調べが降りそそぐ、どんよりと凝固したような空気感。そのスロー・モーションな世界を、性急なドラムン・ベース・スタイルのブレイクビーツが掻き乱してゆく。この原曲とは異なるタイプの動きのある展開は、実に面白い。まさに、一粒で二度おいしいとは、このことか。これらに続いて5曲目に飛び出してくるのは“Be Here”。メランコリックなムードが充満するサイケデリック・チューン。バラッド調の前半から一気に転換し疾風のごとく駆け出して異様な熱を帯びるが、再び重く引きずるような足取りに戻ってゆく。かなりのドラマティックな展開で迫りくる佳曲である。この楽曲の別ヴァージョンが“Be Here Goes Into The Deep”。原曲のムードをよりディープに潜行させた、ダークでサイケデリックなダブ・リミックスが施されている。暗くしっとりと湿ったダブとねっとりとした曲調の相性が、すこぶるよい。まさに、一粒で二度おいしいとは、このことか。
 現在、Azooraはファースト・アルバムとなる『Long Time Standing』の制作に取り組んでいるという。極端なまでに意欲的にスタジオ作業に打ち込むタイプのプロデューサーであるパーセルは、なんとか今年中にアルバムを完成させることを目論んでいるようである。それも、Azooraらしく、オリジナルの楽曲のみを収録したオリジナル盤と、それらの楽曲の別ヴァージョンとなるセルフ・リミックスを収録したリミックス盤を抱き合わせた、豪華なダブル・アルバムでリリースする予定であるという。この2ヴァージョンのスタイルに徹底的にこだわり続けようとする姿勢も、実に興味深い。既発のシングルからの楽曲がアルバムに収録されるとしても、早くとも完成は秋頃になるだろうか。侘しく陰鬱なダーク・サイケには、ぴったりの季節だ。ひんやりとした秋の風の訪れとともに『Long Time Standing』が我々の目の前に登場する日が、今からとても待ち遠しくて仕方がない。(08年)

Disvega: Idrosfera
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 イタリア半島西海岸の北部に位置するリボルノを拠点に活動している実験音楽集団、ディスヴェガ(Disvega)が、米国のネットレーベル、This Plague Of Dreamingより08年6月5日にリリースした作品。“Idrosfera”は、水をテーマにした作品である。大気中の水蒸気が凝結して雨粒となって地表に降りそそぎ、その雨水が集まり川となって大地を潤しながら流れ、やがて大河の流れは海へと注ぎ込み、まぶしい陽光に照らされた大海原から蒸発した水分は大気中を立ち昇って雲となり、そこからまた雨粒が地表へと落ちてくる。ここでは、そんな終わることなく循環を繰り返す壮大なる地球上の水の旅路について、エクスペリメンタルなサウンドを用いた非常に繊細で丁寧な表現が繰り広げられている。この“Idrosfera”という作品は、元々は05年にリボルノ市内のBottega del caffeで行われたリカルド・ルベルティ(Riccardo Ruberti)の写真のエキシビション用に制作/提供されたサウンドワークであるらしい。おそらく、そこでルベルティの写真作品のテーマとなっていたのが、無限の水のサイクルであったのだろう。Disvegaは、ルベルティの写真から強いインスパイアを受けながら、極めてディープで美しい水にまつわる音楽作品を生み出すことに成功した。こうして、This Plague Of Dreamingの22番目の作品としてリリースされた、完全に独立した単体の音楽作品として聴いたとしても、その根底に流れる無限の水のサイクルという大きなテーマは、ひしひしと明確にとても力強く伝わってくる。“Idrosfera”で描き出されているのは、まさに頭から終わりまで、地球上で循環を繰り返している水の旅路のドラマなのである。そこには、いかなる情感を差し挟む余地もない。水は、ただただ大自然の法則にしたがって、様々に姿形/形態を変え地球上を動き続けているだけなのだから。
 Disvegaとは、基本的にはポスト・ロック系のサウンドを主として展開しているバンド・スタイルのユニットのようである。そこで中心的な役割を果たしているのが、ギーター担当のダヴィデ・マルシリ(Davide Marsili)、ドラム担当のパオロ・スパジオーシ(Paolo Spaziosi)、ベース担当のマッシモ・ルベルティ(Massimo Ruberti)、そしてピアノ担当のロベルト・マンゴーニ(Roberto Mangoni)の4名。今回の“Idrosfera”という作品においては、Disvegaが最も得意とするところであろうポスト・ロック的な脱構築サウンドのアンサンブルに、写真のエキシビション用に制作された作品らしいズブズブに深みのあるアンビエント風のアプローチや、インプロヴィゼーション風の混沌とした演奏の渦の中から立ち現れるハーシュなノイズなどを織り交ぜて、非常に意欲的な音作りがなされている。そうした音の制作上の必要性によるものであるのかは定かではないが、本作のレコーディング・セッションには、セシリア・トーライ(Cecilia Torlai)とファビオ・レオナルディ(Fabio Leonardi)という2名のアディショナル・メンバーが参加しているようだ。しかし、残念ながら、この両者が本作において何を担当していたかについては不明である(おそらく、唯一の女性メンバーであるCecilia Torlaiはヴォーカル/コーラスを担当した可能性が高いのではないかと思われる)。そんな6人編成でのDisvegaによる“Idrosfera”は、かなりゴージャスで美しいサウンドの作品に仕上がっている。
 “Idrosfera”は、轟く雷鳴とともに幕を開ける。そして、それに続くのは、バケツを引っくり返したかのような本降りの雨音。本作では、ほぼ全編に渡って、滴る水音や川のせせらぎ、海の波音など、何らかの水にまつわる音が一番の前面で鳴り響いている。ここでは、完全に水がサウンドの主役なのだ。そして、その水音の合間や奥底で、脇役にして引き立て役のDisvegaが、無限に循環する水の世界観をさらに押し広げ、そこに美しく瑞々しい彩りを添える、フリースタイルな演奏を展開してゆく。鍵盤やギターがゆらゆらと漂いつつむせび泣き、ヴィブラフォンが清廉なる響きとともに舞い、サックスが朗々と猛々しく吠えかかる(おそらく、ここでサックスを担当しているのがゲスト・ミュージシャンのFabio Leonardiではなかろうか?)。その演奏は、オルタナティヴなプログレッシヴ・ロックやアヴァンギャルドなジャズ・ロックの流れを受け継ぎつつも、それらが内包するロック的なイディオムからの分離をスッパリと志す、独特のこってりとした味付けがなされたイタリアン・ポスト・ロック・サウンドとなっている。この濃厚な味わい、ちょっとクドいくらいに上書きや上塗りを重ねてゆくアンサンブルに、イタリアンならではの良い意味での暑苦しさが感じ取れる。Disvegaのポスト・ロックは、事前の想像をはるかに上回るほどに、濃密でこってり味なのである。この“Idrosfera”を聴き進んでゆけば、そこで展開されているサウンドが、内容的に重々しく密度の濃いものに深まっていっていることに気がつくだろう。だが、その入口付近には、どこにもヘヴィな空気感は漂っていない。とても平易でミニマルなサウンドが飛び交わされており、誰でもフラリと足を踏み入れてしまいそうな取っ付きやすさすら感じられる。しかし、その実に親しみやすい語り口につられて足を踏み入れてしまったら最後、もはやDisvegaの思う壷なのだ。こってりとしたインプロヴィゼーションの魔の手にとらえられ、濃厚なポスト・ロックのアンサンブルを次から次へと様々な味付けで思いきり浴びせかけられることになる。そして、しまいには、その暑苦しいほどのクドさすらも積極的に楽しめるようになってしまうのだ。Disvegaのポスト・ロックのサウンドには、そんな摩訶不思議な魅力がある。これは、循環し流れ続ける水の音とDisvegaのサウンドの相性が、極めてよかったということなのであろうか。流れ落ち寄せては返す規則的な運動を繰り返すだけの水音に寄り添うサウンドということであれば、自然とミニマルな反復を中心とした大きな展開とは無縁のものとなるはずだ。こうした絞られたテーマによって要求されるサウンドの方向性が、こってりと上塗りを繰り返し塗りたくり塗りつぶしてゆくDisvegaの得意とする基本的なアンサンブルのスタイルと見事に合致した。もしそうであるならば、これは素晴らしく奇跡的な運命の巡り合わせである。
 “Idrosfera”は、荒れ狂う大海原の波音にかき消されそうになりながらも健気に歌い続けるメランコリックなピアノのソロが印象的な“Il mare”で終幕を迎える。水の惑星といわれる地球。そしていま、水は限りある資源であるとして、多くの人々によって節水が訴えかけられている。地球温暖化による海水面の上昇によって、南太平洋の小さな島は波間に消えようとしている。その一方で、中央アジアでは渇水によって急速に砂漠化が進行し、巨大な湖が過去50年の間に半分以下の大きさにまで干上がってしまった。水の惑星であったはずの地球に、現在深刻な気候変動が起きている。そして、いたる所で様々な水の危機が勃発している。爛熟した文明が水を使い果たすのが早いか、制御不能となった水に人類が滅ぼされるのが早いか、だ。“Idrosfera”を聴いていると、いやがおうにも地球上の水について考えさせられることになる。20世紀的な水の神話は、もはや完全に崩れ去っている。Disvegaが、ここで奏でている音楽は、そんな神話の世界の物語であるのだろうか。それとも、未来の深刻な水の危機を見据えた、いつまでも水の神話を過信している人類に対する警鐘であるのか。目覚めよ。そして、“Idrosfera”の水音に、注意深く聴き入るべし。(08年)

Falter Bramnk: 2 Field Recording Compositions
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 マレーシアのクアラ・ルンプールを拠点に活動するエクスペリメンタル系の電子音楽アーティスト、ゴー・リー・クワン(Goh Lee Kwang)が運営しているレーベル、Herbal International。このレーベルは、つい最近、フランツ・デヴァールト(Frans de Waard)とフリーク・キンケラール(Freek Kinkelaar)のBeequeenが94年に発表したアルバム『Time Waits For No One』を再発し、一部で話題となっていたので、その名を見知っている人も多いであろう。そんなHerbal Internationalが、新たにその傘下に設立したネット・リリース専門のサブ・レーベルが、New Directionsだ。08年5月にスタートしたばかりの、出来たてホヤホヤの新レーベルより、いきなりポコポコと立て続けに発表された5作品のうち、0004番としてリリースされたのが、このファルター・ブラームン(Falter Bramnk)による本作となる。
 Falter Bramnkは、フランス北部のリールを拠点に活動する、筋金入りのアヴァンギャルド系アーティスト。元々は劇場での創作舞踏や短編映画のための音楽制作を行っていたらしい。そんなFalter Bramnkが展開する音楽性は、フリーフォームなジャズ、オルタナティヴなネオ・クラシカル、ヘンテコなエレクトロニカ、イカレたサウンド・コラージュ、そしてノイズと、実に多岐に渡る幅の広いものである。これは、アーティストとしての実験性を表現するためであれば、いかなるスタイルに対しても物怖じせずに足を踏み入れてゆくという基本姿勢によるところのものでもあるのだろう。とにかく、手当り次第にその辺に転がっているネタや思いつきを全て拾い上げて、独自のアートの世界を紡ぎ出していっているという感じである。しかしながら、Falter Bramnkの表現者としての感覚は、異常なまでに研ぎ澄まされていて鋭いのが最大の特徴。よって、どんなスタイルのサウンドを用いて表現を行ったとしても、常にそれは一定のレヴェル以上のクオリティに到達した、実に興味深いアヴァンギャルドなアート作品として成立してしまっているのだ。早い話が、Falter Bramnkには、何をやらしても全くトチることなく妙ちきりんでオモローなものを仕立て上げてしまえるだけの、十二分な音楽的素養と想像力/創造力がバッチリと備わっているということなのである。
 本作は、Falter Bramnkがアヴァンギャルド系の音楽制作と並行して取り組んでいる、フィールド・レコーディングの音素材をモティーフとした非音楽的コンポジションの連作シリーズから2作品をピック・アップしたものである。ゆえにタイトルは、“2 Field Recording Compositions”。その連作シリーズにおいて、Falter Bramnkが手がけているフィールド・レコーディング・コンポジションとは、いわゆるサウンド・ポートレートとよばれる表現と非常に近しいものである。それは、旅行などで訪れた世界各地の都市や場所でフィールド・レコーディングを行い、そこで採取された音素材のみを使用して、それぞれの都市や場所の克明なポートレートをコンポーズしてゆくというもの。これまでに、この連作シリーズで制作されてきた音のポートレート作品には、サハラ砂漠、ヴェニス、シシリー島、アウシュヴィッツなどの都市や場所におけるフィールド・レコーディングを作品化させたものがあったという。そして、今回マレーシアのNew Directionsより“2 Field Recording Compositions”として発表されることとなったのは、インドネシアのバリ島とアメリカ北西部のシアトルの音をモティーフに制作された2作品である。まず最初の1曲目に収録されているのは、“Bali 2000”。ここで音素材として使われているのは、そのタイトルにある通り、00年にバリ島でフィールド・レコーディングされたサウンドであろう。つまり、01年のアメリカ同時多発テロよりも以前の、あの9.11の惨劇が起きる前の世界の音を、ここでは聴くことができる。あの日を境にして、ガラリと世界は一変してしまった。バリ島の繁華街でもイスラム過激派によるものとみられる大きな爆弾テロが幾度も起きている。この“Bali 2000”という作品で描き出されているバリ島の風景は、まだテロルの暗い影に覆いつくされる以前の時代のものということになる。そう考えると、まだたったの8年前のことであるにも関わらず、隔世の感を抱かずにはいられない。ちょっと複雑な心境にさせられる。聞こえてくるのは、車やバイクが行き交う街中の喧噪、モスクのスピーカーから流れているのはコーランだろうか、そして子供たちの合唱の歌声や広場でボール遊びに興じる歓声、とてもラフなガムランや舞踏のための民族音楽の演奏が続き、ひとりの少女による朗々たる独唱がひと段落つくと今度は本格的なガムランが始まる。これが唐突に途切れて再び繁華街の雑踏へ戻ってくると、そこにラジオから流れる音声や歌謡曲、道端で子供たちの騒ぐ声、ガムランや民族音楽が次々と登場して折り重なってゆく。古い伝統文化を保持しつつも新旧の様々な文化や物質がゴチャゴチャと入り乱れる混沌としたディープなバリ島の情景が音によって描き出される。終盤には、街の喧噪を離れて、郊外の農村に辿り着いたのか、鳥の鳴き声や水音が聞こえる。そこには、非常にのどかな空気がゆったりと流れている。人々の話し声や歌声が微かに聞こえてくると、祭礼のための儀式を思わせる竹の楽器を激しく叩く猛烈にプリミティヴな音楽が、いきなりスタートする。この乾いたバンブー・ビートが、一種のトランシーな絶頂状態へと突入したあたりで、この“Bali 2000”はサクッと終わってしまう。約20分程度のささやかな作品であるのだが、聴いていると、実際にバリ島のあちこちを一日がかりで歩き回ったような気分になってくる。実に生々しいフィールド・レコーディングがなされたサウンドは、聴く者の目の前にありありとその音が記録された瞬間の光景を浮かび上がらせる。“Bali 2000”を聴けば、いつでも00年のバリ島を疑似旅行できるというわけだ。全くもって素晴らしいサウンド・ポートレート作品である。もうひとつの収録曲は、“Seattle 2006”。つまり、ここで疑似体験できるのは、06年のある日のシアトルの街である。聞こえてくるのは、タコマ国際空港を離発着する航空機の音、慌ただしく交わされる車のクラクションの応酬、ターミナル内の喧噪とアコースティック・ギターを抱えた女性ストリート・ミュージシャンのタフな歌声、岸壁に打ち寄せる波音、教会のオルガン、気さくに話しかけてくる店のおばちゃん、歪んだギターが暴れ回るグランジーなバンドの演奏、遥か遠くをゆくパトロール・カーのサイレン、古いジャズやポップスのレコード、エルヴィスにビーチ・ボーイズ、昔懐かしい感じのするラジオやテレビ番組の音声、フットボールの試合の実況、ブルージーなゴスペルやヴォーカル・ジャズ、軽快なアコーディオンによるポルカ、バンジョーやハーモニカによるシンプルなフォーク・ソング、酔っぱらいの集団による男臭い歌声、侘しげなフィドルの独奏、ブギーなブルース・ハープ、フォーキーな香りのするジャズのスタンダード“Honeysuckle Rose”などなど。一聴して感じるのは、シアトルという街には、どこもかしこも様々なタイプの音楽であふれかえっているということ。そして、それらの音楽のすぐ傍らには、60年代や70年代の古いアメリカ文化の残骸、人懐っこい下町気質、スポーツなどのエンターテインメントが存在している。何とも豊かで美しい音に満ちあふれた街である。元々、イタリア系の移民が多く、カナダ国境にも近いためフレンチ・カナディアンの文化からも強い影響を受けてきたワシントン州シアトル。この街では、そんな開拓の歴史やアメリカの北西の端という地域性から、一般的なアメリカの諸都市とは一風異なる様式をもつ、独特のハイブリッドな文化や風土が形成されていった。そんな豊潤なる肥えた文化的土壌が、様々な音楽文化が根付き成熟してゆくための重要な下地になっていったであろう可能性は、計り知れぬほどに大きい。約25分程度のささやかな作品であるのだが、聴いていると、実際にシアトルの空港に降り立ち、間違いなく現代アメリカ音楽文化の聖地のひとつであるこの街を隈無く歩き回る巡礼の旅をしているような気分になってくる。ちょうど、NHKの『世界ふれあい街歩き』のような感じで。まるで、ディープなシアトルの音楽文化の奥地へとゴソゴソと潜り込んでゆくかのような感覚が味わえるのである。“Seattle 2006”を聴けば、いつでもシアトルの音楽文化の巡礼の旅を追体験することができる。こちらの作品も、全くもって素晴らしいサウンド・ポートレートである。
 Falter Bramnkが、この“2 Field Recording Compositions”という作品を制作するにあたって主に用いている手法は、フィールド・レコーディングした音素材を編集した無数の断片を切り貼りして再編集〜リミックスしてゆく、いわゆるサウンド・コラージュとよばれるものである。だが、それは間違いなくコラージュ・アートではあるのだが、決して厳密な意味において実験的なカットアップ手法とはイコールではない。カットアップとは、ズタズタに切り刻んだ断片を徹底的に無作為に無意識下で再構成させてゆく手法であるのに対し、ここでFalter Bramnkが行っているのは、どこまでも徹底して意識的なコンポジションなのである。膨大な音素材の断片のコラージュによって構成される全体像でバリ島やシアトルの情景や文化の有り様をコンポーズしてゆく。そこに凝縮されているのは、その場所のある瞬間に実際にそこに存在していた、ありのままの具体音にほかならない。よって、そこに揺るぎのないリアリティが感じられるのは当然であろう。問題は、その音のコンポジションによる説得力である。何も訴えかけてくるのものの感じ取れないコンポジションには、ハッキリ言って意味はない。そこに確固たる説得力があり、その訴求力が強ければ強いほど、その表現は深みとコクを増したものとなってゆく。この“2 Field Recording Compositions”で聴くことのできるサウンド・ポートレートにも、そんな強烈な説得力を感じ取ることができる。気軽にぶらりと音旅行に出かけるつもりでいても、知らず知らずのうちに濃密なリスニング体験をさせられて戻ってくることになるのだ。一般的にコラージュとは、そこに詰め込まれている情報量が膨大であることが多い。ここでは、そんな膨大な音情報を、耳から脳へとダイレクトにそそぎ込まれる。脳は、それらの情報を直接イメージ(情景)へと変換し、呼び覚まされ湧きあがってくる強烈な感覚を付帯させながら猛烈な速度で処理をしてゆく。さて、この“Bali 2000”と“Seattle 2006”を聴いて、あなたは何を感覚することができるであろうか。Falter Bramnkの“2 Field Recording Compositions”という作品に触れて、脳内のイマジネーションの処理能力や処理速度をチェックしてみるというのも悪くはないのではなかろうか。(08年)

溝!後記

 とりあえず、今回の溝!だよりは以上です。ちょっと薄味すぎたでしょうか。もっともっと内容のあるものにしてゆきたいところです。これは、実によくない傾向ですね。こうした悪い流れは、早めに断ち切らねばなりません。はてさて、どうなることやら。それでは、また。ソー・ロング。

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